カフェテリア・ブルース

 寒がりのくせに、フラペチーノを頼むところが同じだった。テラス席は嫌だと言って、コートの裾を掴む手は『彼女』よりも手入れの行き届いた桜色の爪が五枚付いている。やっぱり『彼女』のような女に出会うことはなかった、今年の冬。それでもいま隣にいるこの女は、間違いなく自分の心臓を揺らしているのだ。

「……今日はフラペやめとけば」
「だってバレンタインのやつ飲みたいし。だいじょうぶ」
「おまえ、ストール忘れたっつってただろ、帰り寒いぞ」
「大丈夫って。賢二くんにくっつきますので」
「……風除けにはなんねーからな」

 一瞬言い淀んだ文句をあっさりスルーして、カウンターの奥でにこやかに笑う店員へ注文を告げる。こちらにとって無言は負けだというのに、なまえは簡単に無言という武器を扱う。自分のたいして本気でもない不満を見透かされているようで、つい悪態ばかりが脳裏を掠めた。くっついてくれるのもやぶさかではないなんて、言えるわけはない。全く相変わらず、素直になれない自分は健在だ。
 バレンタインブラウニーモカフラペチーノ。キャラメルシロップ追加。ドリンク名から滲む甘ったるさに首のあたりが粟立つ。自分の分の注文のあと、ごく自然な様子でなまえのくちびるがさらに続いた。カフェモカのホット。エスプレッソショット追加。口角が緩まないように奥歯を噛み締めた。なまえひとりのくちびるから紡がれるふたり分の注文。オレは黙って財布を出すだけ。銀のトレイの上に滑り込ませた紙幣に、なまえが自分の財布からレジに表示された細かい金額に合うように小銭を乗せてゆく。キリのいい釣り銭を返されて、ひとこと「ありがとう」。自分にとってはただのプライドと見栄を繕うための行為を、こうも自然に受け入れられて、おまけに気持ちの良い気遣いで返される。それがこんなにも甘痒いことだなんて、知らなかった。わざわざ指摘するのが気恥ずかしいくらいの純度の高い『理解』は、またオレの捻くれたくちびるを刺激する。

「相変わらずオコサマ舌」
「甘いの好きだもん、しょーがない」

 オレの中のあまのじゃくを、簡単に、そして完璧に見透かして、笑う。

 なまえは、知っている。
 自分が『言われなくてもわかる』人種だということ。
 『彼女』が『言われなければわからない』人種だということ。
 オレが『彼女』に、恋をしていたこと。

 知っていて、それでも、なにも言わない。そのことを、オレはありがたいとも、釈然としないとも思えずにいた。否、文句を言われたとしても過去のことは動かしようもないし、あれはあれで良かったのだと思う自分もいるのだから、ありがたくもある。けれど、気に留める素振りを少しも見せないなまえには、やけになって拗ねてしまいたいような気持ちも沸くのだ。整頓しきれない感情を上手く説明できる自信もなくて、結局その部分には一切触れられないまま。特別勉強ができるわけではない、ただ人の機微に聡明ななまえは、きっとそんなオレのことも見透かして、こうして隣に並んで笑うのだ。
 柄の長いスプーンを上手に扱って、甘ったるそうなフラペチーノを堪能するなまえは、オレに恋をしている。これは自分の願望に捏造された妄想ではなく、客観的な、そして身を持って実感している事実だ。なまえはオレにしか見せない表情をたくさん持っている。オレにしか聞かせることのない笑い声、オレに触れるときしかあらわれない手付き。“彼女”が、あの男の前でだけ、浮かべる表情があったように。

「……やっぱ、寒いんだろ」

 フラペチーノがプラスチックカップの残り三分の一に差し掛かったあたりから、手をつける時間が減って行くのを見つけて、喉の奥で溜息を呑んだ。人より寒がりななまえは、空調が効いている室内でもすぐに身体を冷やす。会話に気を取られて気付かないとでも思ったのか、席に着いたときに背もたれに預けていたコートをそっと羽織ったのもしっかりと見届けていた。
 大丈夫だと言うように眉をハの字にして水滴の浮いたカップを持つなまえを、特別だと、確かに思う。

「……貸しとく」

 コートと一緒にかけておいた自分のマフラーを、わざと雑に投げつけた。目を丸くしたまま黒いそれを受け取るなまえから目線を反らして、口元が隠れるように頬杖をつく。眉を下げて、やわらかく吐き出された笑みは、視線の先に自分がいるから浮かぶものだ。そうやって無言で示される愛情を、無言で受け取ってやれる自分はきっとなまえの隣にいるのにふさわしいとうぬぼれる。ありがとうの代わりに、フラペチーノのおかげで冷えたなまえの指先が、テーブルに置いた自分の手の甲の部分を二・三度つついた。その指を握ってやりたいと思いながら、できはしない。
 ――ちくしょう。したり顔でにやつくなまえの首元を、見慣れた黒が覆う光景が酷く甘ったるくて、くせになる。

 なまえのような女にこれから先、出会えるかは分からない。
 ただこれから先、オレのような男がなまえの前に現れないでほしいと、強く必死で、思うだけだ。
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