いつだって、誰に対してだって、横暴で打算的で卑怯。例外なんかなくて、精巧に作り上げられた笑顔と愛想に目を眩まされる人たちも、いっそ潔いくらいに捩じれた思考を見せつけられる人たちも、みんな等しく、彼のある一面を見せられているのだ。横暴で打算的で、卑怯。賢いが故の横暴さにぐうの音も出なくさせられて、自分の利益のための打算にいつも丸めこまれる。不満も苛立ちも、結局は呑み込まされてしまう卑怯な人。――だけど、それでよかった。彼はその横暴で打算的で卑怯な、『嫌な奴』のままでいてくれたらよかったのだ。
くちびるをそうっとなぞる指の感触なんて教えてくれないままで。
「噛むな」
震える顎で噛みしめていた下唇を軽く押さえられた。きつく瞑っていた目を開けるとすぐそばにある真の黒味の強い瞳と視線が混じる。普段は涼しげで退屈そうに細められた目が、いまはまっすぐにわたしのほうを向いている。その眼球の奥には、人への嘲りや誹りではないものが揺らめいていて、それに気付くたびわたしの身体の奥はぎゅうぎゅうと締めあげられるのだ。彼相手に誤魔化せるとは思えないけれど、何度も何度も、見て見ぬふりを繰り返す。
もどかしい手付きで這っていた動きが制止したのを合図に、噛んでいた唇を放した。喉奥へ冷たい空気が入り込んで、身体の力が抜ける。長いこと力を入れていたせいか、ひどい疲労感が身体中に付き纏っていた。もう、やめたい。でもそんなことを彼は許してはくれないだろう。わたしの疲れ切った様子を見て、訝しげに眉を寄せる。
「力入れすぎなんだよ、まだそんな段階じゃねえだろうが」
「……だって、声が」
真の部屋のベッドの下には、揃いの制服が無造作に散らばっている。几帳面で綺麗好きの彼がこんな風に服を脱ぎ散らかすのは、こうやって肌を重ね合わせるときだけだ。学校では品行方正で成績優秀な優等生で、部活内の人間だけが彼のひねくれきった心を知っている。そんな至極面倒くさいこの男と、こうやって『恋人』として時間を過ごすようになったのはどうしてだったか、今でははっきりと思い出せない。いつの間にか気持ちの隙間に潜り込まれていて、最低な人間だと知っていたのに、うまい口車とて慣れた眼隠しに結局は丸めこまれて、気付いたときには真のキスを拒むことが出来なくなっていた。そして恋人同士の当然の進展としてセックスをするようになってしばらくして、気付かされた。真の賢さと狡さを盾にして、自分自身に目隠しをしていた『決して気付きたくはなかった部分』。
わたしを快感にばかり導く指先とくちびるから逃れたくて、固くした身体。知られたくなくて、結んだくちびる。それを解きほぐして、横暴で打算的で卑怯な、花宮真がそうっと、そうっと、言うのだ。
「ばか、声出せばいいだろ」
耳を塞ぎたくなる。汗にまみれて、どうかしそうな衝動に耐えるぐちゃぐちゃな行為の間で、こうも穏やかな声を出されてしまっては。まるで彼が『やさしい人』みたいだ。
今日、彼の家へ向かう途中で通った公園で、散歩をしている犬とその飼い主を見た。かわいいとはしゃぐわたしとその犬を見て、まるで興味がないような様子をした彼をあいかわらず冷たい人だと思った。そのときに見せてほしかったやさしげな視線を、穏やかな声を、こんなときになって見せられても、見て見ぬふりに必死でどうにかなってしまいそうな今のわたしには、どうすることもできないというのに。
あまり饒舌ではない様子も、わたしが恋人だからといって特別甘ったるくもない口調も、普段の彼と大して変化があるわけではない。なのにこの距離で触れ合うわたしにだけ、その感情を向けられるわたしにだけわかるように、指が、声が、空気が、慈しむみたいにやわらかくなるなんて、知りたくなかった。
耳の後ろにキスをされる。ぢゅう、と吸われる濡れた音と感触におもわず肩がびくついた。いつもなら馬鹿にして笑いものにしてきそうなものなのに、かすかに笑って、名前を呼ぶだなんて本当に卑怯だ。内腿を滑る手が柔らかくそこをもみほぐして、喉の奥から震えた声が零れてしまう。「っ、やめたい……」「無理」――無理なのはこっちだ。恥ずかしくて、消えてなくなりたいと思ってるのに。
「もうやだ……」
「なにが」
「じれったい。早くしてよ、ばか」
「なに挑発してんだよ。ひどくされたいわけでもあるまいし」
自分本位に触れて、乱暴に揺さぶられて、一方的に終わらせてくれたら、卑怯な彼のせいにして何もかも隠してみせたのに。
こんな風にやさしく触れられたら、見て見ぬふりも効かなくなる。気がつきたくなかったことに、気付いてしまう。彼みたいな人のそばにいて、感じることなどなかったはずの『しあわせ』を、感じてしまう。わたしの中で花宮真という人は、最低な人間で、卑怯な奴だった。それでよかった。それを盾に成り立っていたはずのわたしたちの関係は、形を変えようとしていて、それがどうしようもなく恥ずかしいのだ。真なんて、
「――そうだよ」
彼の性格そのまんまの、自分勝手でひどいセックスをしてくれればよかったのに。
「ひどくして。まこと、」
言葉尻が震える。目尻から水が流れる。信じられないくらい丁寧で優しい触れ方をされているのに、乱暴にされるよりずっとひどいことをされているような反応だと思った。自分でも驚くほど悲痛な願いは、ゆったりと訪れたキスによって緩やかに飲みこまれてゆく。息が詰まるほどの鼓動が胸を叩いて、苦しくて仕方なかった。そんなことをされたら、絶対に言ってやるもんかと思っていた言葉を口走ってしまいそうで、怖くなる。
「バァカ」
くちびるを離して間近で顔を突き合わせる真は、今になってようやく、横暴で打算的で卑怯な、いつもの花宮真の目をして笑った。
「オレがおまえの言うこと訊くと思ってんのか」
噛みつくように、ふたたび落とされたキスに痛みはない。あるのは熱さと心地良さだけで、力が抜けて溶かされてゆく。うまい口車と慣れた眼隠し。そんなものを理由に見て見るふりをしてきたわたしを、一番良く知るのはこの人なのだと思い知らされる。真の無言のやさしさにわたしがいっとう弱いことを知っていて敢えて、それをやめることはしないのだから、彼の根っこはちっともやさしくなんてないのだろう。気付いてしまったからといって、後戻りも離れることもできない。望んでもいないし、きっと許してももらえない。――それで、よかった。それが、よかった。
わたしは、横暴で打算的で卑怯なこの人のことが悔しいほどに好きなのだ。