「あ、烏丸くん」
この一言で今日がはじまる。この声を聞くと、所在無さげに浮ついていたこころが、すとんとあるべき場所に落ち着いたような心地がするのだ。そんな曖昧な感情は自分には似合わないという自覚があるから、そっと無表情の下に隠してしまう。好都合なことに、『何を考えているかわからない』ように振る舞うのは自分の得意分野のようで、誰にも知られることのないささやかな片思いは、自分だけの胸の内で静かに進行してゆくのだ。
彼女の顔を見に本部へ赴くことが、日課になっていた。
本部のただっ広い廊下を、目新しいものがあるわけでもなしに、キョロキョロと視線を彷徨わせながら歩いていく。何度も歩いたことのあるこの場所でそんな動作をする自分は、さぞ不審に見えるだろう。実際すれ違った知り合いは、皆が皆、何か探し物かと聞いてきた。それを曖昧な答えでやり過ごして、ようやく目的の人物を見つけ出す。かっちりとした上着と、揃いのタイトスカート。そこから見事な脚線美をした脚が伸びて、締まった足首の下で黒くつやつやのパンプスがしゃきしゃきと交互に動いている。喉の奥がきゅうっとした。自分はなかなか感情が表に出ないタイプの人間で、それを特別どうこう思ったことはないけれど、このときばかりは自分の鉄面皮に感謝をする。じゃないと自分の誤魔化しようのない下心が白日の下に晒されてしまう。
細い腰が上品にしなって、コツコツとヒールが床を叩く音をさせながら凛と歩く姿は、見事なまでに自分の息を苦しくさせる。たぶん迅さんあたりには、もうちょっと色気がほしいとかなんとか、彼女が聞けば頬を膨らませて拗ねるようなことを言われるのだろうけど、俺にとって彼女の持つ雰囲気は、十分な破壊力を持っていたのだ。――「なまえさん」と、声をかけて振り返る彼女の髪が、しゅるりと肩を滑っていく様子なんて、本当に、見とれてしまう。
「どうも。お久しぶりです」
パンプスの爪先を軸にして器用に振り返る。そんな不安定で危なっかしい履物を自分の身体の一部のように使うことのできる人間はきっと女性だけで、それがこんなにも似合うのはなまえさんくらいだろう。そんな考えが思い至ってしまうのは、自分の眼球に彼女を贔屓するレンズが取り付けられているからに違いない。そうでなければ、お久しぶりですなんて見え透いた嘘をつく俺を小さく笑ってみせる彼女が、こんなにかわいらしく見えるはずがないのだ。
「うそばっかり。おとといも会ったでしょ」
「あれ。そうでしたっけ」
眉をハの字にして笑って、肩を竦める彼女に視線を明後日の方向にやるとぼけ顔で返事をする。もう、という形ばかりの呆れ声とやわらかく吐き出される溜め息の間を縫って、彼女が抱える大きくてマチのついた茶封筒をかっさらった。一歩前へ踏み出しながら、「会議室すか」と問うと「うん、第二。ありがとう」と笑みが返る。星が舞う。彼女にちょっかいを掛けるための行為にお礼を言われるのは、少しばかり肩身が狭い。返事もできないまま封筒の中に視線を落とすと、角をホッチキスで止められた紙の束が何十部と入っていて、見かけによらず重たい。唐沢さんの補佐を一手に引き受ける細腕と華奢な肩は、重い資料も膨大な業務も、何食わぬ顔でこなしてしまうのだろう。それを労おうとすると、この人はいつも前線に立つ自分たちの苦労とを比べて謙遜したがるから、あまり言わないことにしている。こうして肩を並べられるなら、そんな野暮な気遣いもきっと今は必要ないのだ。
「こっちの方に用があることなんてあるの?」
「まあ、ランク戦に顔出すついでに、なまえさんに挨拶でもしようかと思って」
「そう? 木虎ちゃんが、最近烏丸くんがランク戦に出てこないってさみしがってたけど」
「……そんなときも、あります」
――撤回。仕事上、立場上、肩を並べて歩くことはきっとできる。けれどこの人のこどもがするみたいに得意げな笑顔にはどうやっても敵わない。曖昧な言葉と逸らした視線で、誤魔化しきれないことをわかっていながら誤魔化して、まっすぐにこちらを見上げる笑みに降伏の苦笑を浮かべることしかできないのだ。
ふたり分の足音が上手に重なり合って行くのをぼんやりと聞きながら横目に彼女を盗み見る。気の抜けた顔。気安い態度。それは自分にとってありがたくもあったし、同時に少し悔しくもあったのだ。どうしたらその安心を、余裕を切り崩せるのか、いつも頭の片隅にあるのはそのことだ。正面切って伝えてしまうには、この思いはまだあまりにも奥底に秘めすぎていて、当分の間口に出すつもりはない。そのかわり何も考えていないような顔をして、いかに彼女に『気付かせるか』について幾度も頭を捻るのである。
「どうすか、本部は」
「そうだねー、やっぱ上が固まってる分、ギスギスして大変なこともあるよ」
「……玉狛に来たらいいじゃないですか」
「ありがたいお誘いだけど、玉狛だと仕事なさすぎて暇になっちゃう」
捻れど、今日もまた空振りだ。あの手この手で彼女を近くへ呼び寄せようとしても、うまい具合に躱されてしまう。もちろん、自分ひとりがどうこう言ったところで、その通りの人事異動が行われるとは思わないけれど、彼女に自分が何かしらの感情を向けていることを勘付かせることはできるだろう。そう思って頻繁に会いに行ってみたり、玉狛支部への異動を勧めてみたり。なのに、決して鈍いわけではないはずの彼女はちっとも俺の期待に気付く気配はない。気付いた上で流されているのか、俺からそんな思いを向けられるはずがないと思われているのか。どちらにせよ、こういう部分では自分の隠し上手も考えものだ。これでは気付いているくせにと彼女を責めることもできやしない。
「バイトも忙しいんでしょ? 仕事熱心なのはいいけど、身体も大事にするんだよ」
ネイビーのハードケースを付けた大きめのノートを抱え直して、健康的なピンク色の口紅を塗ったくちびるがきゅうと上げて微笑んでみせる。星が散る。こちらの思いに勘付くどころか、こちらの心配をする余裕ぶりである。脈のなさに思わずふむ、と考え込んでしまう。どうしたものか。こういった方面の経験が豊富だとはとてもじゃないが言えそうにない自分には、古典的な方法しか思い浮かばない。
昔、駆け引きの達人が言ったらしい。押してダメなら引いてみろ。
「あ、烏丸くん」
その声を聞くのは、たぶん三週間ぶりのことだったと思う。本部の訓練室を出て、帰る前に玉狛に寄って行こうかと考えながら出口へ向かっていた自分を引き止めたのは、いつものネイビーのハードカバーをかけたノートを小脇に抱えたなまえさんであった。本部中を駆け回る彼女に声をかけて、今し方自分がしたように振り向いて見せるのはいつもなら俺の役目だったから、普段とは違う角度で視界に捉える彼女の姿は少し浮いて見える。振り向いた先に見た彼女の表情は、俺と目が合うと力が抜けるように綻んで一層こちらの視覚を刺激する。星が跳ねる。
「久しぶりだね」
「そうすか?あんまそんな感じしないですね」
なまえさんに会いたくて浮き足立っていた人間が言うにはちゃんちゃら可笑しい嘘だけれど、俺は自分の仏頂面を利用してそううそぶく。なまえさんは俺の本心には気付かない。すっとぼける俺に彼女は「えっ」と目をぱちくりさせて、落胆したように肩を落とした。
「気にしてくれてたんすね、俺のこと」
気にして、そして気付けばいい。俺が本部へ足を伸ばさなければ会えないこと。俺が彼女を探さなければ声が聞けないこと。きっとなまえさんは知らないのだ。だからそれに気付いてほしくて、知ってほしくて、あれから本部へ行くのをぱったりとやめた。彼女と顔を合わせなくなって二週間を過ぎてから、数えることをしなくなって、そこから今日までの自分はなんだか浮き足立っていたように思う。レイジさんや小南先輩はちっとも気付いていないようだったけど、迅さんには見透かされているような気もしていた。気付いていたとしたって、あの人は何も言って来ないから何の言い訳もできないのだけれど。
結局一ヶ月を待たず我慢しきれなくなって、こうして本部へ赴いたわけだが、ここでなまえさんを探しては三週間の努力が無駄になると言い聞かせ、訓練室でその鬱憤を晴らすことに努めていたのだ。だからこうやって彼女がわざわざ自分を探しに来てくれるなんて、先人の教えはなかなか侮れないらしい。
「だ・だってほら、いつも烏丸くん週に一度は会ってたから」
うまい具合にオトナをちらつかせる年上の女性で、計算なのか天然なのか、こちらを混乱させるばかりの余裕っぷり。そんな風に見えていた彼女への壁がぱらぱらと剥がれてゆく。視線はうろついて、くちびるを尖らせて、耳は赤い。珍しく慌てた様子の彼女に、自分の心臓は不謹慎にも脈を弾ませてしまっているのだ。星が舞って、散って、跳ねる。
――この人きっと、思ったよりもただの『おんなのこ』だ。
「もしかしてなまえさん、寂しかったんですか」
右往左往する視線を捉えるように覗き込むと耳だけでなくその頬にまで朱が差した。はじめて見る表情に、先程と同じ衝撃が襲う。喉がきゅうと苦しい。それと、なんだか胸が弾むのだ。この人をこんな顔にさせるのが、嬉しくて楽しい。胸に秘めているだけで、ひっそりと育ててきた静かな片思いが、ちらちらと燃えて囁いている。頭の中で星が瞬いているみたいだ。なにもかも敵わない大人の女性じゃない、たくさんの感情をあらわにする『ひとりの女の子』の顔が、もっと見たい。もうすこし近づいて、いつもより力を抜いて笑ってやれば、あなたはその頬をもっと赤くしてくれるのだろうか。