彼の持つスタイリッシュなフォルムのスマートフォンの中には、たくさんの女の子の欲望が息づいている。会いたいと可愛らしく懇願してみたり、待ってると健気さを演出してみたり。そのすべてを見透かして、鼻歌交じりに、彼はそのうちのひとりを選りすぐる。ディスプレイの上で指を滑らせ、スマートに、どこかオートマチックに、それ以外を切り捨ててゆくのだ。
どこを気に入られたのかわからないまま、今日の彼のそばにいることを許されて、決して手放しでは喜ぶことのできない現状を甘んじて受け止めている。彼のスマートフォンのメモリーのうちのひとりから抜け出したい気持ちはあっても、彼の前から消え失せることも彼の唯一になることもできず、それならばと都合のいい女でいることを選んだ。
黄瀬くんは、等しくひとに優しい。そして等しく薄情だ。深いブラウンのペアーソファを背にして、触り心地のいい毛足の長いラグに座りながらテレビを眺めて、肩同士が触れ合うぬくもりはとても優しいのに、テーブルの上で震え続けるスマートフォンに注ぐ視線はひどく冷たい。もしその視線を直接注がれたなら、頭のてっぺんから足の先まで凍りついてしまうだろう。優しい色を灯して見つめていてくれる今のこの空気を壊さないように、全身で彼の放つ気配を感じ取りながらも、振動するスマートフォンが彼を連れて行ってしまわないか気が気ではなかった。猫のように気まぐれな彼の興味は、些細なきっかけですぐにでもわたしから離れてしまうのだ。
「……電話、出ないの?」
「なまえちゃんといるのに? 出るわけないじゃん」
彼の指がさらりと手の甲をひと撫でして、指の又を深く噛み合わせるように握り込む。その感触にズキリとした痛みのような疼きに心臓が唸り、黄瀬くんはすべてを見透かしてしまいそうな瞳で、眉を顰めるわたしを嬉しそうに見つめた。誰とも、幾人かも知れない電話の向こうのひとよりも、わたしを選んでくれるという。それでも、電源を切ってはくれないのだ。彼を呼び寄せようとする耳障りな音が休む暇なく鳴り響いて、わたしの身体の中は黒く濁った感情で満ち満ちてゆく。酷い嘔吐感に苛まれながら、吐き出すことは決してしてはいけない淀みに沈んで抜け出せなくなる。底なしで、息が苦しい。
彼は束縛をひどく嫌う人だった。それでいて嫉妬されることを強く望む。スマートフォンの着信画面に表示される女の子の名前を見つめるわたしに、「なあに、やきもち?」と優しげに微笑んで、うまく笑えないまま「ちがうよ」と強がるわたしを見て、満足そうに肩を抱き寄せるのだ。紛れもない嫉妬心で左胸のあたりがずきずきと熱を持つけれど、きっとこれが正解だ。もしわたしが、電源を切って自分だけを見てほしいだなんて強請ったなら、黄瀬くんは瞬く間にわたしを突き放して冷たい眼差しを注ぐのだから。彼への思いも、彼からの思いも、すべてがわたしを傷付ける。傷だらけのわたしの手は、どうしてこんなにも棘だらけの彼の愛情を手放すことができないのだろう。
「つっても、もう時間やばいし帰んなきゃ」
ペットが主人にするようなご機嫌取りも虚しく、その時間は訪れてしまう。彼のシャープで白い手首に巻き付いたキャラメル色の革ベルトをした腕時計の文字盤は、うちから一番近いバス停の終発時刻まであとわずかな時間を指し示していた。肩を抱いていた手は呆気なく離れ、隣から立ちあがった彼の熱を失ってまるで心臓まで冷え切っていくようだった。引き止めることはしない。束縛を嫌う彼に上手に追い縋る方法なんてわたしは知らない。その代わり、身支度を整える黄瀬くんを黙って見つめていれば、「またね、なまえちゃん」。こうやって柔らかく髪を掬って、キスをしてくれることを知っている。
わたしがこの人を、自分だけのものにしようしない限り、きっとこの人はわたしのものでいてくれるのだ。濁った感情で充満したままの頭では、それ以外の選択肢なんて見つけることもできない。優しいキスにわけもわからなくなって、わたしはもう、もがき方すら忘れてしまった。
次に会えるのは、いつだろう。
メールの履歴を遡って、彼の名前を見つけたのは一ヶ月も前の日付だった。あと一ヶ月、たった一度だけのキスを頼りに、三十回の夜を数える。彼の手が自分以外の誰かに触れて、彼の声が自分以外の誰かを呼ぶことを知っていたって、わたしには彼を待っていることしかできないのだから。
目を閉じて、ふと涙がせり上がりそうな熱がつんと鼻の奥を掠めたとき。部屋のインターフォンが軽快な音を鳴らした。妙な時間の来客に、のろのろと足を動かして鍵を開けると、ドアはその外にいる人物の手でひとりでに開かれた。そしてわたしは、まるでタイムスリップしたような心地に襲われる。三十回分の夜を、いっぺんに飛び越えてしまったような、そんな錯覚。
「――黄瀬くん」
開けたドアの隙間から冷気が流れ込んで、無防備な首筋が晒されているのに、そんなこと気にならなかった。長めの前髪の奥でライトブラウンの瞳が細くなって、あらわになった耳の先が赤い。ぐるぐるに巻いたマフラーに埋めた口元が本当に柔らかくほころんだものだから、さっき堰き止めた涙がふたたび溢れそうになってしまう。不意打ちだ。ひとりで感傷に浸って、勝手に不意を打たれただけだというのに、目の前の黄瀬くんはそんなわたしを見てぜんぶわかりきっているような顔をして、わたしの崩れた前髪を解き梳かすのだ。
やめてよ。なんなの。期待させないで。
「……なにやってんの」
「バス、なくなっちゃった。帰れねーや」
「……電話すごい鳴ってたじゃん」
「捨てた」
「は?」
「捨てたよ。コンビニのゴミ箱に。なまえちゃんとこ行くっつってんのにうるせーんだもん」
バスがなくたって、電車の最寄りまで歩いたらいい。タクシーだってあるし、きっとその圏内に黄瀬くんと夜を過ごしたい女の子なんていっぱいいるに決まってる。そんな女の子たちと黄瀬くんを繋ぐスマートフォンの電子音は聞こえなくなっていた。スマートフォンを捨てたなんて本当かどうかわからないけれど、本当だというのなら、今日だけは、どんな影にも苛まれることなく彼を自分のものにできるのだと信じてもいいのだろうか。
三十回の夜の先で一等輝く、わたしのたったひとつのお星様。こちらが泣いていることにすら向こうは気付けないほどに遠く、触れられない。それに甘んじる自分でいいのだと諦めていたくせに。そんな風に気まぐれにわたしの方へ巡ってきたりするなんて、ひどい、ずるい。
「……ばか、鼻まっかだよ」
「外すげー寒くて。だからなまえちゃんが、あっためて」
頬に触れた彼の指先は、火照ったわたしの頬から瞬く間に熱を奪ってゆく。十秒後には触れ合う鼻先も、唇も、わたしを温めることはないだろう。彼の棘だらけの愛情がわたしを癒すことはない。傷つけるばかりだ。そして彼の体温はわたしの身体をつめたく冷やすことしかできない。けれどそれが、三十回という数の夜の間、わたしを彼へと繋ぎ止めるのだ。
きっと明日になれば、新しいケータイはまた女の子の名前でいっぱいになるのだろう。そして気紛れに声がかかる日を、膝を抱えて待つのだ。それでもわたしは、この男を決して責めない。この腕に包まれるためなら、何度だって、重い扉を開けるのだ。
――ねえなまえちゃん、オレのこと、捨てないでね。