smoking temptation

 この人がどこまでも自然体で、他でもない彼女自身の意思で、自分のそばに寄り添っていてくれる。それを実感するたび、言葉には言い換えがたい何かがじわじわと身体の奥から滲み出てくるのだ。自慢げに見せびらかしたくなるのでもない、誰にも見せまいと懐に閉じ込めたくなるのでもない。それが当然で、自分の独りよがりな気持ちではないことが、ただ単純に、満足だった。その事実だけが、身体を満たす。

 お昼時、人も込み合い始めたカフェテリアに、その人はいた。喫煙席の一角にその人の姿を見つけて、俺は半熟卵の乗ったカルボナーラとカフェラテを注文して、深緑色のプラスチックトレーに渡されたカフェラテと『3』と書かれた札の下がった旗みたいなものを乗せてそこへ向かう。自分はタバコなんて吸わないのに、なまえさんと飲食店で待ち合わせをするときはいつも喫煙席だ。飯時くらい我慢できるといつも遠慮するのだが、彼女は当然のようにそこで俺を待ち構えている。俺が座るために開けられた椅子の背へ手をやりながら見たテーブルの上には、彼女自身では使いもしない、店に備え付けてある灰皿が乗っていた。

「なまえさんおつかれさま」
「太刀川くんも。どうせ授業丸々寝てたんでしょうけど」
「お、すごいななまえさん。サイドエフェクト?」
「そんなのわたしじゃなくても見当つくよ」

 言っていることは、俺にとっては甚だ失礼なことだが、至極真っ当なことでもあるのだから笑って流しておいた。忍田さんを筆頭にした各所から小言をもらっていることを知っているなまえさんは、わざわざそれを蒸し返さない。そんな話題よりも、俺たち二人が満たされる話題を、行為を、理解しているからだ。彼女の前にはすでに料理がそろっていて、アボカドとエビのジェノベーゼは三分の二ほどになっている。まだ減った様子を見せないアイスコーヒーのそばには、ガムシロップだけが転がっていた。ポケットから財布と煙草、どこかの飲み屋からそのまま持ってきてしまったライターを置いて、お約束のように言う。「喫煙席じゃなくてもよかったのに」。すると彼女はまたお約束のように、煙草と、灰皿と、そして最後に俺を見ながら、「別に気にしないから、好きに吸って」と言うのだ。俺はなまえさんのこの、『好きに吸って』というセリフが好きだ。俺のするすべてを許されているような気もするし、すきま風が通るような距離感を感じさせてちょっと切ないし、あとなんかえろい。それをぽろっと風間さんに漏らしたとき、すごく険しい目線を向けられたのでそれをなまえさんに向かって言うことはないけれど、この言葉を何度でも聞きたくて、俺は何度でも、その気のない『おやくそく』を口にするのだ。今日もそのお約束を果たしてご満悦な俺のところに、プラスチックトレーと同じ深緑のエプロンをした男の店員がやってきて、目の前に注文したカルボナーラを置いた。タバスコと粉チーズは、なまえさんのところにあったので遠慮する。スプーンとフォークに巻き付けられた紙ナプキンをくるくるとはがして、真ん中に乗った半熟卵にフォークを入れると、空の胃袋がいっそう刺激された気がした。

「カルボナーラ? 迷ったんだよね、おいしそう」
「食べる?」
「うん、ひとくち」

 いますぐにでも一口目をほおばりたいのに、俺はいそいそとなまえさんのためにパスタを巻いてやる。「はい、」と差し出せば、なんの戸惑いもなく口を開けるその姿には、恥じらいから来るいじらしさも何もないと言うのに、確かな満足が俺の胃袋ではないどこかを満たした。「おいしい?」「おいしい」「ならよかった」。とても、よかった。
 俺が一口、二口と食べるのを進めていくうちに、もうなまえさんはジェノベーゼを食べ終えるようで、最後のエビにフォークを突き刺している。なまえさんは、食事をするのがとてもうまい。うまい、というのは適切な表現かわからないけれど、食べ方が綺麗、というのとは少し違う気がする。無駄な音を立てずに、見事食べとってしまう様子はもちろん『食べ方が綺麗』というのに他ならないのだが、エビとアボカドをひとつずつフォークに突き刺して、そのままスプーンの上で器用にパスタを巻き取ってゆく。『アボカドとエビのジェノベーゼ』を完璧に味わう一口だ。すばやく紙ナプキンでソースを拭ってから、ごちそうさまと手を合わせる。きれいで、おいしそうで、気持ちいい。俺より何倍も、食事というものを楽しんでいるのだろう。――いいなあ。

「なまえさん、今日夜は?」
「いつも通り。七時すぎに仕事終わったら、なにもないよ」
「じゃあ、なまえさんち、行ってもいい?」

 ――いいなあ、俺も、そんなふうにひと思いに食べてほしいくらいだ。



 大学を終えて、ボーダー本部へと向かった。今日自分の隊は非番だったけれど、非番だろうがそうでなかろうが、たいていの日は任務や模擬戦で時間を潰している。大学でお情け程度に講義を受けて、あとは戦って、戦って、戦って。自分の周りにいるボーダー隊員たちからあきれられるほど、俺には戦いしかなかった。それから、なまえさん。六時半をすぎたあたりで模擬線を切り上げて、彼女の会社の最寄り駅へと向かう。しばらくすると、当然だが昼間会ったときと同じ格好をしたなまえさんが、昼間より少し疲れた顔をしてやってきて、俺は「おかえり」と声をかける。なまえさんは、「ただいま」と笑った。重そうに右肩にかけられたトートバッグを取り上げると、なまえさんは素直に「ありがとう」と甘えてくれる。こうやって、気遣いを自然と受け入れられたり、気遣いと言う意識もないままにお互いがお互いに何かを与え合う習慣が、少しずつ俺の両肩に心地よい重みを乗せてゆく。なまえさんの鞄のことも、俺の煙草のことも、他にもたくさん。一方的に寄りかかられるだけでない重さは煩わしくはなかったし、重みの確かな存在感は独りよがりでない安心をもたらした。帰りがけに寄ったラーメン屋で、また麺類かとぶつくさいいながらも豪快に麺をすするなまえさんは、変に取り繕うことなく自然体のままで、それがどんなに俺を満足させるのか、きっと知りもしないのだろう。ごくり、スープを飲み込んで上下する喉を見ながら、俺はまた、いいなあと思うのだった。

 なまえさんは、帰るとすぐに風呂場へ直行する。潔癖性と言うほどではないが、全身を綺麗にしてから身体を休めたいのだそうだ。彼女の言うことはわからないでもなかったけれど、なまえさんのそれに少しの反抗心を示すように、風呂上がりの彼女の横で、煙草に火をつける。今日も、ふわふわと上気した頬でシャンプーやボディソープの優しいにおいをさせたなまえさんがソファにいる俺の隣に座るや否や、俺専用にこの部屋に置いてある黒い灰皿を引き寄せ、ライターを点した。食事中やセックスの後、いつ煙草を吸っても文句を言わないなまえさんだが、このときばかりは少し嫌そうな顔をする。その顔も俺は案外嫌いじゃないのだけれど、機嫌を損ねるだけだということはわかっているので、フィルターをかんだ唇のまま笑ってやるしかできない。

「……ちょっと太刀川くん、わたし今お風呂あがったんだけど」
「えー、だってなまえさん、俺のにおいじゃなくなってる」

 そう言って煙草の煙を吐き出して、中指と薬指で煙草を挟んだ右手を彼女から遠ざけながらなまえさんの首筋へ顔を寄せた。なまえさんの身体から香るにおいと、俺がまとう煙草のにおいが混ざり合って、ひとつになる。それが彼女のにおいだと信じて、俺は疑わない。そして、煙草のにおいのその奥になまえさんの部屋のルームフレグランスのにおいが見え隠れするそれが、俺のにおいだってこと。それを彼女が認識していること。それすら信じきってる。お互いがお互いをお互いに染めたがっているとか、そういうことじゃなくて、『それ』が『そう』であることが、当然のように自分たちの身体の中に染み込んでいる。それが、俺の身体を充たすたった一つの満足だった。

「……いいよ、好きに吸って」

 ほら、こうやって、赦される。
 『好きに吸って』は『好きにして』とは違う意味だと言うことはもちろんわかっている。けれど俺たちの関係を前にすれば、そんなものは結局同じようなものだ。一口だけ大きく煙を吸い込んだ後、手にしていた煙草はそのほとんどを残したまま灰皿に押し付けられ、俺のくちびるは煙などあっけなく放って、一目散になまえさんのくちびるを求めた。気遣われて、赦されて、与えられてばかりのように思えなくもないけれど、煙草の煙を嫌そうに避けていたくせに、口付けをせがむとすぐさま首へ巻き付けられる腕に、気づかない振りをしてやるのだ。やはりきっと、俺たちはお互い様なのだ。お互い様で、すごくお似合い。身体を充たす満足がこぼれそうで、思わず彼女の腰をいっそう強く抱いた。鼻筋をこすり合わせたままくちびるを離して息をするなまえさんの伏せたまぶたが震える。きれいで、おいしそうで、気持ちいい。今度は、いいなあ、とは思わなかった。鼻を突くように香るのは俺の煙草のにおいだというのに、彼女から香るだけで、俺はそのにおいにすら誘惑されてしまうのだ。

 ――ひと思いに、食べてあげよう。
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