「なまえ先輩」
ふわふわでツヤのある黒い猫毛。アーモンドカットの瞳はどこを彷徨うことなくまっすぐに見つめて潤う。淡い色の薄いくちびるがそっと開いて、わたしの名前を紡いでゆく。
「好きです」
落ち着いたトーンの声が、静かに鼓膜を震わせた。温度の読めない猫目がふっと細くなる。いつもより少し熱がこもったような表情のまま、その言葉をするりと口にした彼を、わたしは見つめるだけで何の言葉も返すことができなかった。
――これはだれだ。
烏丸くんといえば、高校一年生でありながら玉狛支部のA級隊員で、各所でイケメンだと囁かれていて、家族のために幾つかのアルバイトを掛け持ちしている好青年。その実、表情の変化は乏しく、何を考えているかわからないクールな性格で、かと思えば真顔で冗談を言ったりする飄々とした部分も持ち合わせており、クールというよりもはやミステリーだ。そんな彼と本部所属のわたしは、同じ女子校に通う小南桐絵を通して知り合っており、彼の様子を見る限り、A級の星である木虎ちゃんをはじめ、たくさんの女の子に思いを寄せられているだろうし、彼に好きな人がいるのならそれは桐絵だろうとすら思っていた。――それなのに、である。
烏丸くんの様子から、すっかり目が離せない。わたしに向かって、『好きです』と言った。猫みたいな目を眩しそうに細めて、そっとわたしの名前を呼んで。――これは、誰だ。わたしの知らない烏丸くんが、そこにいた。
「なまえ先輩」
びくりと、自分の肩が大袈裟な反応をする。
テーブルを挟んで向かい側にいる烏丸くんは、まっすぐにわたしと視線を合わせている。どうしてかその目を見ていられなくて、すぐさま視線を逸らした。状況をうまく読み込めない。そもそも、なぜわたしは彼とふたりきりでこんなところにいるというのだろう。
「……あ、あのね烏丸くん、桐絵は? 桐絵に頼まれてわたしのこと呼んでくれたんだよね?」
桐絵とわたしが通う女子校の正門前に、突如として美青年が現れたのが今日の放課後。色めき立つ生徒たちの視線に居心地を悪くされながら、美青年もとい、烏丸京介の元へ向かったわたしに、彼は防衛任務で特別早退した桐絵がわたしを玉狛支部に呼んで欲しいと言うから迎えに来た、とのたまった。それにふんふんと頷いて、ついでに言えば木崎さんの作る夕飯に釣られて、ほいほいついて行ったわたしを待っていたのは、がらんと静まり返った玉狛支部だったのだ。そこには桐絵どころか、戦闘のみならず炊事洗濯とあらゆる意味でオールラウンダーな木崎さんも、ボーダー組織を丸ごと巻き込むトラブルメーカーの迅さんも、スーパーメカニックかつスーパーメガネ推しの宇佐美ちゃんも、最近入隊したという新人くんたちの姿もない。人数の少ない支部だから、こういうこともあるのだろうと深く考えないまま、ソファに座らされてコーヒーを出してもらって、そこでいつもの彼のポーカーフェイスが変容した。『好きです』と、言ったのだ。わたしと彼以外、誰もいないここで。
慌てて話を戻そうと、わざとらしく辺りを見回して桐絵を探すわたしに、烏丸くんはけろりとした顔で告げる。
「嘘です」
「……え、」
「小南先輩が呼んでる、っていうのは、嘘です」
嘘。言葉を飲み込めないまま唖然とするわたしに、烏丸くんはさらに「いづみ先輩とふたりになりたくて、すみません」と、追い打ちをかける。『ふたりになりたくて』。その言葉に只事ではない甘ったるい何かを感じて、わたしの頭はカッと熱を持つと同時に、この状況をどうにか回避しようという防衛本能が働いた。慌ててテーブルに戻したマグカップは、思いの外大きな音を立てて、中身がだいぶ減っていたお陰でこぼれはしなかったけれど、コーヒーがマグカップの中で大きく波打っている。それを気にかける余裕もなく、通学用のトートバッグを手繰り寄せて立ち上がった。こんな風に逃げるのは申し訳ないけど、今の状態で冷静に考えるなんてとてもじゃないが出来そうにない。一度落ち着いて、改めて話そう。逃げ口上に過ぎない言い訳が一瞬にして頭の中を通り過ぎて、「ごめんちょっと今日は帰るね」と矢継ぎ早にまくし立てて立ち去ろうとした。
「待ってください。なんで逃げるんですか、迷惑ですか」
踵を返した足は、そのまま先に進むことはなかった。トートバッグを持った方の手首が、彼の手に捉われていたからだ。振り返った先の烏丸くんは、目にかかってしまっている前髪の奥から覗く瞳で、視線さえもしっかりとわたしを捕まえていた。絡み合っていた視線を不自然なほどに素早く逸らして、それでも彼の視線の圧力からは逃げられない。
「め、迷惑とかじゃないよ。でもいきなりで、烏丸くんそんな感じ全然しなかったし、」
「わかりづらくてすみません」
その場をやり過ごそうとするだけの言い訳は、謝られてしまえばそれまでだった。烏丸くん自身にも自覚があるらしいように、彼のポーカーフェイスは本人の意図にかかわらず一級品だ。同じ支部の木崎さんの冷静さ、迅さんの飄々としたところ、ふたつを上手に受け継いで、見事に掴み所のない性格が出来上がってしまっている。元々の性格にそれぞれの部分を持ち合わせているから、というのももちろんあってのことだろう。けれど、彼の目が自分に向けられて、実感する。厄介なのだ、とても。
「でも俺、ずっと好きでした。小南先輩に紹介されたときから、ずっとですよ、ずっと」
こんなことを、こちらの目を見たまま真顔で言えるというのだから。
「う、ちょ……ちょっと待って、混乱して、そんな、言われると、照れる……」
喉の奥で小さく唸る。一度も外されることなく見つめてくる彼の視線に堪えきれず、掴まれているのと反対の手を目の前に翳して彼との間に頼りない壁をつくった。しかし、烏丸くんは空いている方の手でその壁を掴み、涼しい顔をして下ろしてしまうのだから、この好青年、案外意地は悪いようだ。
意図せぬところで両手を拘束され、彼とわたしの間には人ひとりを通せるほどの隙間さえもなくなってしまっている。身動きもできない。俯くことでしか彼の視線から逃れる術もない。けれど繋がれた手と、まっすぐな視線の熱を感じるのだ。眩暈がする。
「……なまえ先輩、こっち見てください」
目を回すわたしに、今にも前髪同士が触れ合ってしまいそうな距離で、そんな無茶なことを言うのだ。やっぱり、意地が悪い。心臓が胸をどんどんと叩く。俯いた視線の先で、烏丸くんのスニーカーが、一歩、
「なまえさん」
なにかの合図のように、敬称が変わる。それだけだというのに、肩が細く跳ね上がって、それを敏感に察知した彼の手は一層強い力でわたしの手首をきゅうと繋いだ。
「こっち見て」
両手首を掴んで引き寄せたまま、わたしを促す。どうせなら無理やりにでも顔を上げさせてくれればいいのに、彼はわたしに、自分の意思で彼を見るように求めるのだ。言葉と言葉の間の沈黙が長くて、重くて、耐えきれずに恐る恐る視線だけを上げる。アーモンドカットに切り開かれたまぶたには、褐色の虹彩が埋め込まれて、濡れたように光っていた。いつもは何を思っているのか読めない視線が、今は確かなひとつの意思を持っている。それが他でもない自分に向けられているのだと思うと、喉の奥が苦しくて、背筋が震えた。
「なまえさん、好きです」
目を見つめて。名前を呼んで。
たったひとつ年下なだけの男の子が、初めて出会う男の人のような顔をして、わたしを好きだと言う。
「好きですよ」
現実から離れた非現実にいるような、ふわふわと完全に浮き足立ってしまっているわたしを、繋がれた手の熱だけが引き留めていた。半ば夢心地になっているわたしに、何度も何度も、好きだと言い聞かせる。わたしがやっとその言葉を受け入れた頃、ひそめられた声で、そっと問うのだ。
「なまえさん、俺の彼女になってくれませんか」
手首を掴んでいた手は、手首をゆっくりと下って、指先をきゅっと握る。右と、左と、ふたつの答え。
「ね、頷いて、はいって言ってください」
一級品のポーカーフェイス。家族思いの好青年。けれど少し意地の悪い彼の猫の瞳には、どちらにせよひとつの答えしか用意されていないのだ。