むらさきいろ

 ただいま、と声がした。大して近くにいたわけでもないのに、玄関先から聞こえるその声を、簡単に拾い上げてしまう。それはきっと、その声の主がこの本丸 でたった一人の女のものだからでもあったし、その人が自分の主人だからでもあったし、それだけでは足りない理由があるからでもあった。ただいまというから にはその人は今しがた外出から戻ったのだろうけれど、先ほどまでの天気を思い出して、薬研はひとつため息を吐いた。玄関へ向かう途中で、堀川が畳んでいた 洗濯物の山から白いたおるを一枚拝借する。その人のところへ顔を覗かせると、案の定。

「おかえり、大将」
「あ、薬研ただいま」

 水分をたっぷりと含んでへたれてしまった髪が振り向きざまにゆるく跳ねた。夏の始まりは、こうして時折通り雨をもたらす。濡れて脱ぎにくそうな履物と格闘しているその人へ、ふわりとたおるを被せた。

「随分豪快に降られたな」
「うん、油断してた。あ、薬研にこれお土産」

 そう言って足元から何かを差し出される。遠征に行くその都度土産のことを尋ねるせいか、主人は自分が出かけるときは、お返しにといろんなものを寄越すようになった。それはこんぺいとうであったり季節の果物であったり、弟たちや他の連中と一緒になって楽しめるものだったが、今日はどうやら違うらしい。彼女 の白い手から差し出されたのは、うすい藍と桃色を微妙な塩梅でまぜこんで、ほのかな紫色に染まった紫陽花の花だった。

「……あじさい」
「そう。薬研にあげようと思って、もらってきちゃった」

 梅雨の時期に主役を張るような花が今でも残っているのかと感心したのと同時に、季節や花の趣なんてこれっぽっちもわからない自分にこうして花を差し出す主人に少し戸惑いを覚えた。

「ちょっと着替えてくる。タオルありがとう」
「ん、ああ」

 ぼんやりと受け取った紫陽花を眺めていた自分をおいて、主人は自室へと向かって背を向けてしまった。礼を言い損ねたなと再びその花に視線を落とす。まだ わずかに雨のしずくを残していて、そのしずくに光を集めて咲く様はきっときれいなのだろう。淡い紫色の紫陽花。主人にもらったものだというのに、その花を 見て自分の左胸のあたりが、ちくんとわずかに痛んだ気がした。
 ――その理由は、なんとなくわかっている。
 先日、自分に与えられた調剤部屋にやってきていた乱が、興味深そうに植物図鑑を眺めていた。何をそんなに見るものがあるのかと聞くと、植物――特に花に は、『花言葉』というものがあり、それが図鑑で紹介されているらしい。ふうんと覗き込んだ中に、ちょうど、この花を見つけたのだ。紫陽花――花言葉は、 『移り気』。
 バカらしくて、いっそ笑ってしまいそうだ。気持ちを寄せられたわけでもないというのに、主人の気持ちが、別の誰かに移ってしまったことを示唆されたよう な気がしたのだ。小さな花をたくさんつけた、春と夏の間の雨の花。柄にもない思いに身をやつしてしまうそうなほど、自分の真に染み込んでしまった思い。――気持ちが移ろうなんて、自分には決してありはしないのに。
 そんな恨み言が、そっとよぎる。

「あれ、薬研?まだ玄関にいたの」

 うしろから声をかけられてはっとする。振り向いた先には、服装を変えた主人がキョトンとした顔でこちらを見ていた。なんでもない、とぎこちなく笑った自分に首を傾げ、手に持ったままの紫陽花に目を止める。

「紫陽花、早く水につけなきゃ。紫陽花はすぐ枯れちゃうんだから」

 近くへ寄ってきて、行こうと自分を促してまた背を向けそうになった手を、思わず掴んだ。

「大将」

 乾いた彼女の手に、紫陽花から自分の手に移ったしずくが伝ってゆく。そんなふうに、この言葉にもできない感情が伝わってしまえばいい。だけどあまりにも情けなくて、彼女の目は見れなかった。

「……大将、どうしてこの花をくれたんだ」

 移り気なんてそんなこと、気持ちが通ってもいないこの人が言うわけはなかったが、それでも、もっとほかの理由が、この人の口から聞きたかった。
 そっと伺うように見た主人の瞳は、まるく、それから一度二度と瞬いて、まるで花が咲くみたいに、しずくが花びらを伝うように、静かにやわくほころんだ。

「――だって、薬研の瞳の色だったから」

 ひゅうと、不恰好な呼吸が喉を狭くする。息を止めたままその言葉の意味を理解して、彼女の瞳と視線を交わしていることが、とてつもなくたまらなくなった。
 きれいだね、と、どちらを指して言っているのか曖昧なことを言って肩をすくめてみせる。
 ああもう、本当に。
 憎まれ口を吐きたいような、笑ってしまいたいような、複雑な感情がぐるぐると渦を巻いて、ようやく出てきた言葉は、小さく震える笑い声とともに、「ありがとう」と淡い紫色の紫陽花の上へ落ちていった。
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