幸と降伏

 彼女の目がその日初めて開く瞬間から、太陽が落ちて私室の障子が閉じられるときまで、誰よりも近く長く、側に控えていられる喜びをこの身に受ける自分に、告げられた一言。

「長谷部、明日は一日非番ね。ゆっくり休んで」

 主からの言葉だというのになんの返事もできずにいる俺を気に留めないまま、彼女は「おやすみ」といつも通りの就寝の挨拶をして襖の奥へ行ってしまった。 ――自分はどうやら、暇を与えられたらしい。

 日の光が視界を白くして目を開けても、ぼんやりとしてしまうのはあまりにも久方ぶりのことだった。普段ならばすぐに身支度を整え、主に起床を促すために離れへ向かうために何も考えることなく体が動くのに。昨晩からずっと戸惑い通しの感情に身体がついてきていないのか、目を覚ましたのはいつもと寸分変わらない時刻だった。白い襦袢を脱ぎ、いつもの衣装に手をかける。肩が凝るだろうから着なくても良いと、主にお心遣いいただいた上着は壁にかかったままだ。
 普段自分と、朝食の支度で厨にいるもの以外はいまだ眠っている本丸は、相変わらず静かだ。そういえば、自分を非番にした今、誰が主を起こしに行くと言うのだろう。それに気づくとそわりと身体の中が浮き上がるような心地がして、忙しない動作で障子を開け放った。

「あれ、長谷部くんおはよう」
「……燭台切か」
「今日は休みだろう?主は僕が起こしに行くから、もう少し寝ているといいよ」

 ちょうど部屋の前を通りがかった燭台切光忠は、そう言って本丸の大広間とは逆の――主の私室のある離れへと向かって行った。普段戦以外では厨を任されている燭台切は、内番姿でいることが多いが、今日は燕尾こそ着ていないが、洋装の胴着までを身につけた格好をしていた。きっと奴が今日の近侍を務めるのだろう。手持ち無沙汰になった手の行き場はなく、なんとも浮き足立った心地に、ひとつ溜息を吐き出した。

 ――そのあとも、地に足をつけていないような心地は消えることなく、出陣や遠征に向かう仲間を見送るのも、内番に精を出す仲間を見るのもどこか居心地が悪い。戦わなければ、主人の命がなければ、自分はこんなにもからっぽになってしまうのかと呆れさえ覚えて、気づけば主の執務室へ足を向けていた。今日は朝餉と昼餉、それから出陣や遠征に向かう者や内番の者に声をかける姿を遠目で見たくらいしか、主人の顔を見ていない。普段はあんなに、近くにいるのに。

「――長谷部?」

 障子に向かって声をかけようとしていた自分の後ろから、柔らかな声色で名が投げかけられた。返事もできずに振り返ると、きょとんとした丸い目で主人がこちらを見上げている。

「……あ、主」
「どうしたの? なにかあった?」
「いえ、その」

 返す言葉が、なにもない。なにもないのだ。やることも、やったことも、やるべきことも、なにも。燭台切は近侍としてきちんと仕事をしているか、主が困りはしていないか。他でもない主人に賜った暇だというのに、彼女の言うとおりに体を休められる気がしない。そもそも、近侍だというのに燭台切はなにをやっているのだ。彼女は幾つかの書物を抱えているのに、側に奴の姿はない。自分ならばどこへだって供をして、主人を煩わせることなどきっと取り払ってみせるのに。主の腕から書物を取り上げて、障子を開けて道を開ける。

「燭台切は、近侍ではないのですか。主に持ち物をさせて」
「え? 違うよ?」

 主人の言葉に再び声をなくした。見つめる俺の目を見つめ返して、事も無げに言ってみせる。

「朝だけ起こしに来てもらって、それからはなにも」
「……何故ですか。近侍をお付けにならないと、主の負担が」

 今日は遠くで見る事しかできなかった主人の瞳が、いま目の前でやわくほころんでゆく。それを見て、自分の胸のうちは、何かが転がるように、ころんと音を立てるのだ。

「だって、わたしの近侍は長谷部でしょう」

 この人の言葉があってやっと、自分は何かを見つけたような心地がする。

「……なにも、ないのです。主」

 気の抜けた声とは対照的に、人知れず力のこもってしまう手では、抱えた書物に皺が寄ってしまうかもしれない。それを咎める事なく、主は無言で俺の言葉を促した。

「いつものように動いてしまう体を押しとどめて、あなたのことばかり考えてしまって」

 脈絡もなく、不恰好なままの言葉はひどく無様だろう。主が、毎日近侍を務める俺を思って出してくださった暇に、不満などあるはずもなく、むしろ彼女の心遣いに感慨さえある。それでも、主の側にいられなければ、自分の感情は声をなくしてしまうのだ。

「あなたの言葉がなければ、俺にはなにもない」

 自分の情けなさに頭をさげる俺を、主は「長谷部は本当に仕事が好きだね」と眉を下げて笑い飛ばしてくれた。好きなのは、仕事ではないのだと言えたなら、どんな顔をしてもらえるのだろうか。結局言えずにいる俺に向かって、主がそっと告げる。

「おやすみの長谷部に命令はできないけど、お願いならきけるよ」

 その声があんまり優しいものだから、その声に導かれるようにして、喉の奥からするりと声があふれた。

「……俺を、お側に」

 ――誰よりも近く長く、側に控えていられる喜びを、決して俺から奪わないで。

「うん。長谷部のお願いなら」

 主は柔らかく微笑んでいるのに、俺はどうしてか泣きそうな心地がする。目の奥に熱がたまって、それと同じ熱が懐にもある。だがその熱はあたたかいばかりで、その熱に為す術もなく沈むこの身を、どこか甘いような痺れが襲った。
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