お誂え向きの私

※現代パロディ



 きっとこの恋は、成就しない。

 シャワーがタイルの床を叩く音で、目を覚ます。窓のない部屋では、時間の流れが不明瞭だ。ベッドのヘッドボードに設置されたデジタル時計は、今が真夜中であることを示している。
 不必要なほど広いベッドと、コーヒーメーカーが乗った備え付けの棚、そして小さなテーブルとソファがあるだけの、簡素な部屋。ふたりがからだを重ねるためだけにある部屋だ。
 なにも考えられない、頭の中が空っぽだ。けれど、浴室から響いてくるシャワーの音と、ソファの端にひっそりと置かれているシアーベージュのハンドバッグが、自分以外の誰かの存在を知らせている。からだ中にまとわりつく気怠さと、充足感。それからすこし、罪悪感。シャワーの音がやんで、浴室のドアが開かれた音がする。そして、ほんの少しの罪悪感が、消えた。

「……おはよう」

 真夜中に似つかわしくない言葉で呼びかけると、一瞬だけ目を丸くして、ハの字型の眉をして笑ってみせる。そして、『おはようございます、光忠さん』。
 ――ああ。フラッシュバック。



 きれいに塗られたリップグロスが中途半端に崩れたくちびるから、ああ、と息が漏れる。彼女のこぼす一言、一呼吸が、耳の縁をじわじわと熱くしてゆく。安い感触のシーツに、恋人のように繋ぎ合った手を縫い付けた。もう片方の手で、ふわりとした丘を描く膨らみをそっと支えて、花みたいな色をした部分に舌先を滑らせる。舐めても、咥内に含んでも、すこしだけいじめても、どれにも等しく息をこぼすから、もっとその芯を固くして欲しくて、咥内にはそこを濡らすための唾がたまっていく。

「これは好き?」

 乳房に口をつけたたまま問う言葉に彼女は答えない。震えるのを耐えるように、くちびるを噛みしめてそっとそっと、息を吐くだけだ。その姿が、痛々しいような、かわいくて仕方ないような複雑な気分で、思わず笑ってしまう。上唇に食まれた下唇を、音を立てて吸ってやる。声を聞かせてほしいのだと言うと、泣きそうな顔をするから、ゆっくりと耳から首筋を撫ぜて、眼差しを溶かした。

「……いいこにして、ね?」

 いい子に、だなんておかしくて仕方ない。自分ではない、ほかの誰かに恋をしている彼女を、何度も何度もなし崩しにしているのは、他でもない僕だ。
 彼女が特別に優しい声で、あのひとの名前を呼ぶことを知っている。通じ合わない気持ちに、悲しい目をしていることを知っている。なぜなら、僕も彼女と同じだったから。
 彼女だけに特別に優しい声で、その名前を呼んであげたかった。悲しそうな目を綻ばせてあげたかった。
 かなわない思いを患っていたのは僕も彼女も同じだったけれど、僕だけが、そこから抜け出そうと狡い方法に手を出したのだ。自分も彼女と同じく叶わない恋をしているから、慰めてほしいと縋った。つらいよね、苦しいよね、と微笑んでみせたのだ。『慰めてあげる』と言えば、彼女は悲しそうな顔で首を振ることはわかっていたから、自分のこの寂しさを埋めてほしいと、彼女の寂しさにつけ込んだ。
 ――手と手が触れ合ってしまったら、その先は簡単なことだった。口では何も語らなくとも、彼女の寂しさは温もりを求めたし、温もりの先には愛情を求めた。僕はそのどちらもを彼女に与えることができたのだ。ねじれながら重なった欲求は、信じられないほどにふたりの心と身体を満たして、さらに欲深く沈んでいった。
 夜が来て、身体を重ねなければ、うまく感情や言葉を交わせないような関係へ変容していきながら。

「っん、待っ、て」
「どうして?」

 深くさぐりあうようなキスをして、身体を触れ合わせているうちに潤んでしまう、彼女のいちばん敏感な部分に指先をこすりつけると、仔犬が鳴くような声を出して誘う。声だけでなく、息までも震えているのがわかると、自分が彼女を乱しているという自覚で背筋がぞくぞくと粟立った。
 どう感じるのか、どうしてそんなことを言うのか、言わせたがるのは僕の悪い癖だ。女性を抱くのなら、言葉より多くの口付けをして、甘やかして、きれいだと言ってやることが最善だとわかっているのに、彼女にはそうできない。甘い呼吸を零すだけでは足りなくて、彼女の声で自身の情動をあけすけにしてほしかった。そうやって、他の誰も知らないところまで、彼女のことを暴きたかった。

「だって、っ」
「ん? なあに」

 待ってという言葉に聞く耳を持たず、その場所を少し押すように擦ると、跳ねるようにして腰がシーツから浮き上がる。覆いかぶさっていた場所から、彼女の横に沿うように移動して、浮いた腰の隙間に片足を潜らせて腰を突き出すようにさせると、彼女はその体制を恥じるように顔をそらして駄々をこねた。その拍子に露出した耳にくちびるを近づけて問いかけた自分の声は、まるで砂糖で粉まみれにさせたように甘ったるい。そしてその甘ったるい声に返される彼女の視線は、もうどろどろに溶けてしまっていた。

「きもち、よくて」
「――まいったな」

 暴きたくて、乱したくて、指も言葉も声もキスも、使えるすべてを駆使するのに、それに返されるものに結局こちらが煽られてる。

「ねえ、何が欲しい?」

 指先を蜜で潤う入り口に差し込むと、口付けをしているように濡れた音がした。あたたかく、柔らかいのにゆっくりと収縮している感触が自分の指先から身体すべてを侵食していく。まるで求められているみたいで、錯覚してしまう。
 触れられるままに高まってゆく身体と、どれだけ重ね合わせても通じることのない感情。この行為で寂しさを埋めているのは、彼女だけだ。僕は寂しさに耐えられず手を伸ばしてしまった。埋めるだけじゃなく、満たされようとしている。
 頂点のありかを見つけるために、彼女は『僕』をほしがるだろう。溶けてしまった視線は、熱っぽく潤んで、僕に勘違いをさせようとする。

「……光忠さんと、同じもの」

 ぞくりと背筋を走る震えと、ずきりと胸を焼く痛みが同時に押し寄せた。同じもののはずがない。
 ――だって、ねぇ。僕は『君』が欲しいよ。



 浴室から出てきた彼女は、困った顔をそのままに、ベッドから中途半端に起き上がった僕のほうへ歩み寄る。下品にはならない程度に首元の開いたリブニットのセーターは手触りが良さそうだと思うけれど、その手触りに覚えがないのは、そんなものを感じる暇もなく自分が剥ぎ取ってしまったからだ。そのセーターの浅い襟ぐりは、白い鎖骨を隠しても、薄紅色のしるしは隠しきれなかったらしい。ほのかに色付いたそのしるしは、たしかに僕が彼女を愛したのだという痕跡を残している。

「光忠さん、痕つけたでしょう」
「……うん、ごめん」

 口だけの謝罪には覇気がない。彼女にもそれは伝わっているようで、ハの字型の眉が緩むことはなかった。
 彼女はその胸元のしるしにしか気付いていなかったけれど、それをつけた張本人である僕は、それが胸元にあるものだけではないことを知っている。彼女自身からは見ることのできない位置――耳の下や首筋に、鎖骨に付けられたささやかな色とは違う、赤黒いしるしが付いてしまっていることは、僕だけが知っていることだった。
 してはいけないと言われたことを我慢できない僕は、きっとみっともないし、無様だろう。けれどそんなものは、彼女に寂しいと手を伸ばしてしまったその時から分かりきったことだったし、彼女の瞳が同情と罪悪感で綯い交ぜになったものだとしても、その瞳で見つめられることは、僕にとって歓喜すべきことだった。抱きしめてくれるなら同情でもいい。自分を突き放さないでいてくれるなら、罪悪感で苛まれていればいい。あのひとに向けるような、綺麗な愛じゃなくたって構わないから、どうか僕を彼女自身と重ねて可哀想がって欲しかったのだ。

「……わたし、帰らないと」

 謝ったきり何も言えない僕に背を向けて、彼女は呟いた。ソファに置いてあるバッグを取って、そのまま帰ってしまうのだろうと予感して、起きたまま動けないでいた身体が瞬く間に腕を伸ばす。
 終電は過ぎ、始発はまだ遠いこの時間。ここを出たところで帰るすべのない彼女は、どこかのファミリーレストランやジャンクフード店で、たった一人で朝を迎えるのだろうか。身体を重ね合わせて寂しさを埋めてしまえば、彼女に残るのは罪悪感だけだ。恋人同士のように、ひとつのシーツに包まってささやき合うようなことはできはしない。
 けれど、僕は違う。埋めて、満たされても、すぐに渇いてしまう。潤ったことなど忘れてしまったように、次から次へと、水を求める。僕が愛しているのが彼女であるばかりに、僕の欲は底なしになる。
 腕を伸ばして、背中を向けた彼女を引き寄せた。ばさりと音を立ててシーツは剥がれ、みっともない姿で女に縋り付く、愚かな男へ成り下がる。僕が、彼女を愛しているばかりに。

「朝が来るまで、お願い」

 揺れる虹彩が、複雑な色をして僕を見る。シャワーを浴びて温まった首筋にすり寄せた僕の冷たい鼻先は、安っぽいホテルのアメニティの香りの奥に、匂い立つ熱を感じるような気がして、頭の奥に靄がかかる。自分が求められることに安心してくれ、寂しさを埋める自分に酔ってくれ。そうやって僕を、彼女がどこかへ落ちていく理由にして欲しかった。

「……キスして」

 そう強請った僕よりも震えた唇が自ら触れたのを感じた瞬間、両手で強く彼女の頭と首の裏を掴む。呼吸もままならず、唇同士の隙間からやっとこぼれる二酸化炭素は、ひどく熱い。
 彼女のぬくもりの理由が、同情でも罪悪感でも構わなかった。くだらない仲間意識だと言うのなら、それでもいい。美しいかたちの愛なんていらないから、あのひとに恋をする君に戻る前に、朝が来る前に、口付けをしよう。
- ナノ -