きみの名前は願い事に似ている

 昼間は暖かかったり肌寒かったりを繰り返すけれど、夜になれば風はいつも冷たい。その風を頬に感じながら、テレビ局の裏の駐車場で人目を避けるようにして空を見上げた。今日は自分の誕生日だ。予定では、二十時には仕事を終えて、彼女の部屋でささやかなお祝いをしてもらうはずだったのだけれど、腕に巻かれた時計はすでに二十三時近くを回っている。帰路に着く前に、あまりにも遅くなると申し訳ないからと、彼女に断りの電話を入れたところだったのだ。
 電話口の彼女はけろっとした様子で了承して、軽やかに笑い、しゅんとしてしまった自分の肩をまるで撫でるようにわざと大袈裟に言う。

「せっかくケーキにロウソク立ててハッピーバースデー歌おうと思ってたのに」

 冗談めかした恨み言を言う彼女に、胸の中にじわりとあたたかさが広がってゆく。冷たい空気を吸い込んでいたそこには、広がるあたたかさは少し痛みにも似ているように感じた。ごめんね、と呟いて、頭の中で彼女の言葉通りの光景を思い描く。彼女の部屋にふたりきりで、小さいケーキを囲んで、年齢にはまるで足りない数のロウソクに火をつけて、自分のためだけにハッピーバースデーと歌ってくれる景色。それはとても眩しくて、苦しいくらいに幸せな景色なのだろう。
 胸の中が、その景色の中の自分を羨んでまた少し痛んだ。

「……聴きたいな」

 思ったことがそのまま、言葉になってくちびるを滑り降りていた。想像だけに留めておくにはもったいない景色を、ほんの一部だけでも自分の身体の中に残しておきたかったから。電話口で歌うことを恥ずかしがって、ええ、と不満げな声を上げる彼女に、ねえ、とわがままを言う。

「歌って、なまえ」

 そうやって食い下がる自分が珍しかったのか、単に今日が誕生日だったからなのか、しばらくの沈黙を経て、スマートフォンの奥から、いつもより少し高めの声がぽつぽつと届いた。ハッピーバースデートゥーユー。小さく、ゆっくりと、歌うというより零れていくような、かすかな歌声。鼓膜を静かに振動させ、全身へと伝わる震えは、やがて後から追うようにして甘く苦しいまでに心臓を締め付けた。音程もリズムも、完璧なものはひとつもなかったけれど、今だけは、そして自分にとってだけは、ステージで歌を歌うどんなミュージシャンよりも特別な音色だったのだ。
 ふと、泣いてしまいそうになる。会えない時間が長くても、彼女にさまざまな我慢を強いているのがほかでもない自分であったとしても、それをまるごと飲み込んで笑って、自分の心を守っていてくれる人が、ここにいる。

「……龍之介、お誕生日おめでとう」

 ――世界中の人が、きっとあなたのことを祝ってる。
 そんな、人が聞いたら笑ってしまうようなことを、願い事を言うみたいに唱えてくれるひと。

「……すきだよ」
「えっ」

 ハッピーバースデーを歌い終えた後の第一声に、思いもよらない言葉をかけられて戸惑ったのか、告白の返答にはおよそ相応しくない反応が返って、おもわず息が漏れた。けれど構わず続ける。

「うん、好きだ、ありがとう」

 感謝より先に溢れた言葉に、なにそれと照れ臭そうに言ってから、俺にそんなことを言ってもらえる自分は贅沢者だと笑う。それを聞いて、そんなことはないのにと彼女の肩を抱きしめたくなって、それと同時に思い出すことがあった。
 TRIGGERとして活動していて、嬉しいと思うことはなんですか、とインタビュアーに聞かれたことがある。俺は、『自分がTRIGGERに貢献できていると感じられるときだ』と答えた。飾ったわけではない、正直な気持ちだ。隣でそれを聞いていた、いつもクールな顔つきをしているくせに熱い心を持った友人は、『貢献なんて言い方をするな。おまえがあってこそのTRIGGERだろう』と少しむくれた顔をするのだ。
 そのときは純粋に、その言葉を嬉しいと思っていたけれど、今ならば彼の気持ちがわかるような気がした。彼女は、俺のそばにいられることを、ただ幸運で奇跡だったのだと思い込んでいる。自分は運に恵まれただけの贅沢者だと信じて疑わない。けれど、俺は彼女に、自分のことをそんな風に言ってほしくなかった。俺たちふたりの繋がりを、そんな細い糸で結んでいるだけでは足りなかったのだ。
 彼女がそばにいると、自分の内側はころころと弾んで、形をなくしてしまいそうに溶けてゆく。けれど同時に、あるべき場所を見つけたように安らかに整うのだ。
 自分が世界中の人間に愛されることを、星に祈るように祝福してくれる人を、他に知らない。そして彼女のためだけの十龍之介がいることを望む自分を、他に知らない。

「やっぱり、会いたいな」

 彼女と自分のことをひとつひとつ思い返していけば、会いたくなってしまうのはもう仕方のないことだった。近くの大通りの方へ足を向けて、タクシーを探す。
 今から向かえば、日付が変わる前には会えるだろうか。

「遅い時間になっちゃうと思うけど、いいかな?」

 いいかな? と伺ってはいるが、答えを聞く前に身体は動いてしまっている。自分の感情を優先して身体が先に動いているようなことは、自分にとってそうあることではなかったけれど、年に一度のこの日ならば、きっと許されるに違いない。だって、電話口の声は「もうケーキ半分食べちゃったよ」と恨み言を言いながら、柔らかい声色を隠せていないのだから。ケーキなんて、いくらでもあげるよ。ほかのどんなときよりも今日、きみに会いたいのだ。そう呟いた声は、歌を歌うときのように震えていた。

「……うん、待ってる」

 その言葉が強く身体中へ響いていくのを、ずっと感じていたいと思った。
 待っていて。悲しい思いも、寂しい思いも、どこかへ行ってしまうほど抱きしめてしまいたいこと。柔らかくあたたかな腕に甘えてしまう俺をいつも迎えてくれる温度に、何か返してやりたいこと。幸運と奇跡を盾にして、不安だらけの自分を守っている彼女に、いつかきっと、たしかな未来を捧げたいこと。

 ――願ってる、いつも。
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