君があんまり美しく笑うので、僕は静かに目を閉じる

 彼女の笑顔は透明な色をしている。

 陽の光を溶かしたような鮮やかな黄色も、淫らに腫れた唇の赤も、全て自分のものだと取り込んでしまいながら、決して自分の色を失いはしない。そのうまれたままの少女が浮かべるような笑顔の中に、あれもこれもと飲み込んで、次から次へと気紛れに色を変えていくのだ。捕まえることなんて、初めから諦めてしまうくらい、自由なヒト。

「黒子くん、こっちにおいでよ」

 そうやって、ベランダから呼び掛ける彼女の頬には朝焼けの色がかかっていた。でもその色でさえも、彼女が笑顔を浮かべさえすれば、それは彼女のものになってしまうのだと思った。なまえさんの笑顔を前にすると、全ての色が、望んで彼女の手の中に堕ちて行く。それは僕も、そして彼らも同じだったのだ。

「ほら、すごくきれい」

 彼女の部屋のベランダからは、まだ眠ったままのこの街を呼び覚まそうと、太陽が昇る様がとてもよく見えた。この世から離れたがらない夜の濃紺が否応なく差す金色の光によって薄紫へと、そして赤へ、ぐちゃぐちゃに混ぜこまれていく。それは、彼女と過ごす夜を惜しんで、朝が来ることを嫌う僕の、焦りと苛立ちと諦めと、そしてかすかな安堵とが混ざる心の中によく似ていた。そして彼女は、その様を見て「きれい」だと、透明な笑顔でのたまうのだ。

 ベランダの手すりに腕を乗せ、身体を預けたままの彼女の横へ並ぶと、朝焼けに濡れた瞳に僕を映して三日月のように細める。目尻が描くカーブに触れてしまいたくなる。中途半端に伸ばした僕の手を優しく自分の頬へと導く手で、この髪を乱してほしい。そうだ僕は、手も、足も、からだも、髪も、何一つ要らないから、手に入らないのはわかっているから。それでも、どうしても、彼女の笑顔だけは、自分だけのものにしたいのだ。

「……朝になっちゃったね。学校大丈夫?」
「授業中はどうせ寝ているので、大丈夫です」
「ふふ、倒れたりしたらいやだよ?」

 頬を滑って、光のベールを被った髪の毛を混ぜる僕の手を真似るように、彼女の手が僕の頬を滑った。その指先は、ただ優しさだけを伝えて、これが僕と同じように彼らの頬を辿っているだなんて、遠い幻のように思えてしまう。僕の髪を柔らかく乱す指先に促されて、それが当然の動作であるかのようにくちびるを塞いだ。
 視線も、くちびるも、肌も、その笑顔を作り出す全てには触れることができるのに。僕が手に入れたいたったひとつ、彼女の笑顔だけは、どうあがいても犯すことのできない領域で、只々輝いているのだ。

「……なまえさん、好きです」
「うん、わたしも」

 心臓から切り離した一部を差し出したような僕の言葉以上に、一つの偽りも見つからない優しい真実を紡ぎ出すくちびる。そのくちびるは今の形を同じように形作って、あの人の、あの彼の前に立つのだろう。彼女にとって、この気持ちは紛れもない真実なのだから。真実だからこそ、僕はその言葉の前に閉口してしまう。

 その透明な笑みを浮かべる彼女に、僕はどう見えているのだろう。できることなら少しでも彼女の笑顔に近づいていたくて、自分の目はそれを捉えて囲いこんでしまいたいとまばたくのだ。
 ――どうせ捕まえられないのなら、いっそ遠ざけてほしいのに、

「黒子くんの目は透明なのね」

 きれいだとくちびるを震わせて笑うから、僕はまたその透明な色の中に溶けゆくしか、この眩暈を受け流す方法を見つけられなくなってしまう。
- ナノ -