ひとかけらで世界を廻す

 じりじりと鳴くセミの声が、輪郭を濃くしていくことに気付いたと同時。沈んでいた意識が浮上した。手触りのいいラグの上でうっかり昼寝をしていたらしく、気だるい身体を起こすと、背中がジワリと汗ばんでいるのを感じる。遠くで聞こえるセミの声以外には、ブゥンと静かに機械音を立てる扇風機の音しか聞こえなくて、午後の陽射しの匂いが心地よい。
 先程まで自分が寝転がっていたラグのすぐそばにあるカウチの上では、行儀よくからだを真っ直ぐに伸ばして、仰向けのまま眠ってしまっている、彼女がいた。おなかの上で手を組んで、まるでお伽噺に出てくるお姫様の死体みたいだと思ったけれど、そんな神々しいものにしては、その表情は間抜けすぎてあどけなさすぎて、オレはひとりでそっと柔らかい息を吐く。
 友達でも、ましてや恋人でもない。
 でもこんなに愛おしいおんなのひとと当たり前みたいに日々を過ごすこの奇妙な日常が、オレにとって唯一の幸せだ。

「……なまえちゃん、寝てる?」

 静かに投げかけた自分の声は、寝起きのためか渇いたように掠れている。そんなオレの呼びかけにも反応せず、ほとんど聞こえない寝息を立てている彼女の額に汗で張り付いた髪をそっと払ってやった。テーブルの上のリモコンでエアコンを起動させて、開け放たれた窓を閉めるために立ち上がる。
 彼女にとっては久しぶりの休みだろうに、こうして昼寝に時間を費やしてしまうことを少し残念に思いはしたけれど、こんなに穏やかな寝顔を見せられては、多少の不満なんて喜んで飲み込んでしまえるのだ。
 オレに何も求めなかった、ただ与えられる庇護と愛情を自由に受け取らせてくれたこの人が、安らかに日々を過ごしてくれれば、と柄にもなく思う。
 この人に拾われた最初から、自分はこの人のそばを渇望していたのだから。
 お互いがそばにいることを無条件に許せる気持ちを、クリームシチューみたいにコトコト煮込んでいたい。
 少女みたいな素顔をうつくしくコーティングしたプライドの殻を、オレだけが剥がしてあげたい。
 どうしようもないくらいの無防備に首を締め上げられても、お行儀よくとなりで笑っているから。
 無意識に与えられるやさしさが詰まったその部屋に浸っていられるよう、鍵をちょうだい。
 ――だいすき、だいすき。いつかペットをやめるそのときまで、お願いだからオレを誰よりも近くに置いてほしい。
 そしてそのいつかが来たら、今度はオレが、ほんとうの永遠の時間、きみの隣にいられるように頑張るから。
 エアコンから優しく吹き抜ける空気が部屋を満たして、彼女の額に浮いた汗が気持ちよさそうに渇いてゆく。彼女の顔のすぐ近くに腕を乗せて頬を寄せる。上を向いて、時折ふるりと震える睫毛がどうにも眩しく思えて、自然と目が細まるのを感じた。かすかに開いたくちびるもそこから漏れる寝息も、なにもかも。本当はいますぐ奪い去ってしまいたい。

「……なまえちゃん、はやく起きて」

 睫毛に縁取られたその瞳でオレを見て、ふっくらと膨れたくちびるでオレの名前を呼んでほしい。
 友達よりも心地よくて、恋人よりも気高い。オレの唯一のヒト。
 誰かにいちばんに「おはよう」を伝えられることがこんなにしあわせだなんて、きみに会うまで知らなかったんだよ。
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