きっと何処にも行けないんだ僕ら

「どうしたらいいと思うっスか!緑間っち!」

 汗をかいたプラスチックカップのなかで、氷と一緒に回るカフェラテ。その向かいには、大振りのマグカップに入った真っ黒なコーヒーが揺らめいている。そのカップを悠然と持ち上げて口をつける彼の眉間には深い皺が刻まれていた。ミルクも砂糖も何も加えられていない純粋なコーヒーを、眉ひとつ動かさずに飲んでしまえるだなんて信じがたい。――否、前述通り、彼の眉はきつく寄っているのだけれど、それはコーヒーのせいではなく、オレへの不満の表れだということは言われなくてもわかっている。だけどそもそも、こうして助けを求めている相手の言葉に無視を決め込んで、優雅にコーヒーなんか啜っているのはちょっと薄情すぎやしないかと思うのだ。

「……おまえ、まさかそんなことを聞くためにオレを呼び出したのか」
「そんなことってオレにとっては死活問題っスよ!」

 空席がぼちぼち見受けられる平日昼間のコーヒーショップ。店の隅に陣取っているのがこんな大男二人組だというのはいささか暑苦しいけれど、そんなことを気にしていられる余裕は今のオレにはなかった。目の前で不機嫌を隠す様子もなく深々と溜息をつく彼は、オレの中学時代からの友人である。深緑色をした髪を流して、シンプルな形をした眼鏡越しでもわかる、長い睫毛を蓄えた切れ長の目。それなりに美しい作りをしたその顔には、でかでかと『不機嫌』と描かれている。彼との付き合いの中で、この手の話題を振られていい顔をするとは思っていなかったけれど、それでもオレはこんな気持ちを一人で抱えているのは耐えられなくて、それを発散するために選んだのが彼だったのだ。

「……緑間っちなら、他の人にペラペラ話したりしないでしょ」

 緑間真太郎というこの男は、なかなかどうして、真面目な男だ。真面目という表現では優しすぎるくらいに、堅物で我儘で、そのうえオレに対していつも辛辣な言動をする。正直扱いづらくて面倒な人だけれど、案外世話焼きでお人好しで、冷徹になりきれない甘さがある。――そしてこちらが本気で他言してほしくないことに対して、口が堅い。それが今のオレにとってはとても重要だった。なぜならオレが彼に吐いている弱音は、みょうじなまえ、その人のことだったから。



 昨晩、家でいつものように夕食をとっていたオレとなまえちゃんだったが、そこにひとつだけ、いつもと違うものがあった。細長く半透明の黒色をしたビンに、繊細な装飾がなされたラベル。グラスで揺れる濃い紫色の液体。少し鼻をつく、酸味とアルコール。仕事場で貰って来たのだというそのワインを、なまえちゃんは幾分か口にしていた。次の日も仕事だからと、それほどの量を呑むことなくワインの栓はされたのだが、彼女は確かにそのアルコールに酔わされていた。酔ったといっても、ほろ酔い程度。足取りも口調もはっきりとしていたし、さほど気にしていなかったのだ――が。

「はあ、なんか、肩重くなってきた……」
「わ、ちょ、なまえちゃん?」

 夕食後、ソファに座ってテレビを見ていたオレと彼女だが、ふと自分の肩に、やけに高い体温をした重みが寄りかかってきたのだ。もちろん、それは彼女のもの以外にあり得ないのだが、ほどよくアルコールが回ってぼんやりしているその目は、思った以上の破壊力でオレに襲いかかってくる。肩から染み込んでくる熱と赤く火照った肌の色に、ぎくりと身体が固まった。眠そうに瞬く瞳は今にも溶けてしまいそうで、自分の硬い身体を包むように触れる柔らかな肌に、思わず口の中に唾液が溜まってしまう。

「いや、あの、なまえちゃん?水飲んだ方がいいんじゃないスか、オレ持ってくるから……」
「いいよこれくらい。それよりここにいて」

 彼女を避けて立ち上がろうとするオレを、熱を持った手が腕にまとわりつくようにして引き留める。そして、「ペットなんだから言うこと聞きなさい」だなんて、いつもは使わない『ペット』という名称を使うものだから、思わずくらりと脳が揺れた。
 ――ペットって自覚だけだったら、どんなにいいか。
 たまらずひとりごちる。見ず知らずの他人だったオレをこうして大事に扱ってくれて、心地良い温もりをそっと自分の近くに置いておいてくれる。受け取る自由を与えてくれて、おそるおそる手に取ると、やさしく指先で愛撫されて。オレの心を上手に揺らしてばかりのこの人を、恩人以上に、飼い主以上に思わずにいられるなんて、嘘だ。日を重ねるごとに、そんな気持ちが強くなって仕方なかった。

「……なまえ、さん」

 だからそんな姿を見せられると、困るのに。
 駄目だ駄目だと身体を押さえつけようとする理性はことごとく打ち崩されて、なまえちゃんだなんてかわいいペットとしての呼称なんて消えていた。寄りかかる肩をそっとソファへ押しつけて、そのままソファの背へ手をついて檻で囲うように彼女の身体を覆う。震えるように自分のくちびるから漏れる呼吸とぶつかる位置で、彼女からかすかなアルコールの匂いがした。

「……涼太?」
「――っ」

 戸惑うようなその声にはじかれて距離を取ると、声色のままに戸惑った顔をした彼女がいて、背筋がすっと冷たくなった。

「も、もう!そんな油断してると、いたずらしちゃうよ!」

 大急ぎで取り繕うように笑みを張り付けて、「なまえちゃん、ごめんね?」なんて、精一杯かわいこぶって見せるしか、この場をやり過ごす術が思いつかない。耳元で、自分の血流が逆流したような音を立てている。

「ほら、眠たいならお風呂入ってきたらどうスか?」
「……うん。そうしよっかな」

 こちらの取り繕った笑顔を見て、上手く誤魔化されてくれたらしいなまえちゃんは、肩を竦めて風呂場へと歩いていく。足取りは確からしい。脱衣所のドアが閉まる音を確認して、腹の底から沸き上がる溜息とともに、崩れ込むようにしてソファへ倒れ込んだ。
 ――あぶない。あのままだったら彼女をどうにかしてしまっていたかもしれない。それだけならまだしも、もしこの気持ちが彼女に知られてしまったら、もうオレは立ち直れないだろう。だって、こんな、彼女を飼い主として慕う気持ち以上のものを抱いているなんて知られたら、きっと自分はもうここにはいられなくなる。そんな予感が脳裏をよぎって、少しだけ、泣いてしまいそうだった。



 だが結局、彼女が何か不審に思っていたらどうしようというオレの危惧は、幸いなことに要らぬ世話だったようで、今朝は何事もなかったかのような顔で接して接されて、いつものように仕事に行く彼女を送り出した。心の底から安堵したけれど、それでもどうしようもない焦燥とこれからの生活への危機感に耐えられず、自分と同じタイミングで講義を終えたこの男を呼び出したところだったのだ。昨晩のことを思い出して重々しい息を吐くオレに、「溜め息をつきたいのはオレの方だ」と低い声で呟く緑間っち。

「そもそも、おまえの言う『なまえちゃん』というのは、誰のことを言っているのだよ」
「……あれ、言ってなかったっスか?」
「……だからおまえは駄目なのだ」

 お決まりの罵り文句を浴びながら、オレは自分と彼女が暮らすことになったいきさつを詳しく話した。家をなくして途方に暮れていたこと、心身ともに憔悴して道端で眠りこけていたこと、なまえちゃんがそんなオレを家へ迎え入れてくれたこと。それから、オレが家を失った理由。相変わらず眉間に皺を刻み続けている彼は、今日一番の深い溜め息を吐き出して、まるで頭が痛いとでも言うように、皺を刻んでいる眉間のところへ手をやった。

「馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが……何をやっているのだよおまえは」
「まあ緑間っちはそう言うと思ってた」

 彼はこの通り真面目な人間だから、見ず知らずの人間の家に転がり込むことも、そうして恋人同士でもない男女が共に生活することも、理解できないのだろう。その点においては、特に弁明するつもりも彼の理解を求める気もないのだが、これを他言されることだけは、困るのだ。奇異な視線を向けられるのはごめんだし、元々離れて暮らしている自分の両親にこれを知られるのもまずい。そしてなにより、このことが広まったなら確実に彼女の人生に傷がついてしまうだろう。そんなことは、何としても避けなければならなかった。
だから、誰かに話してしまいたくてたまらない焦燥を吐き出す相手に、口の堅いこの男を選んだのだ。

「……好き勝手話しておいて悪いんスけど、誰にも言わないで」
「……わかっている」

こうやって、理解はできなくても、こちらの考えを受け止めて自分の中にとどめ置いてくれるところを、信頼しているのだ。ありがとうと小さく呟くと、聞こえないふりをされた。オレもそのことに気付かないふりをして、代わりに今度は少し大げさに喚いてみせる。

「ねえ、なまえちゃんどう思ったかな?警戒心持たれたらどうしよう……」
「オレが知るか。とにかく、本人が何も言って来ないなら、変につつくな。蛇が出るぞ」

 テーピングに包まれていない右手の指先をマグカップの取っ手に引っかけたまま、揺らめく黒い水面を見つめるまなざしがスイと細まる。素っ気なく言った後、コーヒーをひとくち啜り、ふたたび口を開いた彼は、気遣いなどかけらもないまっすぐな声で言い切った。

「このままあやふやにすれば、なかったことになる」

 なかったことになる。その言葉は、変化を怖がるオレへの励ましのようであって、そうではないようにも聞こえた。コーヒーカップを下ろした口元は、少し意地悪に歪んでいて、それを見たオレは苦く笑う。彼がオレをこんな風に励ますわけがない。これは挑発だ。その言葉の先は、考えなくてもわかっている。
 ――なかったことになる。それで、いいのか?
 何もなかったことにして、このままお行儀よくペットのふりを続けていれば、オレはきっとなまえちゃんのそばにいられるのだ。けれどもしペットと飼い主という関係以上の、別の何かになりたいと望むのなら、オレはこの気持ちを彼女に伝えなければならないだろう。――そして、この残酷なくらいに甘く柔らかな生活は終わるのだ。
 彼女に触れてしまいたい。そしてそれはペットとしてでなく、たったひとりの男として。その気持ちに偽りはなく、彼の安い挑発に乗ってやろうかとも思う。けれど。

「あの人がオレのことをそばに置いてくれるなら、ペットでも弟でもなんでもいい」

 そうして続けた。今はね。
 自分がいま一番望むことは、なまえちゃんと恋人になることではない。彼女に男として触れることではない。彼女の一番そばにいることを許される、名前ばかりのくだらない愛玩動物として、甘えて、甘やかして、あのしあわせな部屋の中に納まっていたいのだ。

「あのね、緑間っち。オレにとってはあの部屋が、この世で一番しあわせなところなんスよ」

 無表情のままにオレを見る目を真っ直ぐに見返して言うと、その口から一際大きな溜息が吐き出された。本当に馬鹿の考えることはわからん、とか、答えの決まっていることに人を付き合わせるな、とか。今となってはもう意味のない恨み言を言う。そのまっとうな苦言を苦笑いで受け止めて、手首に付いた腕時計に目をやると、その文字盤の上で短針が六と七の間で立ち止まっていた。濡れたプラスチックカップに残ったカフェラテを一気に飲み干して、席を立つ。すっかり氷が解けて薄くなってしまったそれはあまりおいしくはなかったけれど、悪くはなかった。

「じゃ、オレご主人様のことお出迎えしなきゃなんないんで帰るっスわ」

 聞いてくれてありがとうと完璧に作り上げたと自負できる笑顔を向けると、お返しに彼からは大層嫌そうなしかめっ面を頂いた。ひどい。椅子の背に引っかけておいたキャンバス生地のトートバッグに腕を通すオレを、緑間っちが「そういえば、黄瀬」と呼び止める。彼の表情は、先程までとはまた違ったするどい緊張を携えていて、次に紡がれた言葉は、オレの身体にも同じような緊張を突き刺した。

「今日、聞かれたぞ。おまえが今どこにいるか」

 チリ、と心臓を焼く熱は、じくじくと痛みや焦燥をオレの身体に残し続ける。家に帰って、なまえちゃんの笑顔を迎えても、それは収まるどころかより一層痛みを増した。なまえちゃんに近づくたび、好きだと思うたび、その痛みは暗く暗く、影を落とすのだ。
 ねえなまえちゃん、オレ、きみに言えないことがひとつだけあるんだ。
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