もっと泣いてよマイディア

 蛇口から流れ出る水道水で、フライパンや食器類をざぶざぶ洗って、食器乾燥機に立てかける。それまでほとんどやったことのなかったこんな作業も、もうこんなに手慣れてしまった。人様のキッチンのはずなのに、何でもないように使いこなしてしまえる自分にどうしてか誇らしいような気持ちが湧き上がってくる。
 ――今日は、ちゃんと起きてくるだろうか、あの人は。

 とんだことから始まってしまった共同生活は、おそろしいくらい自然に自分の身体へ馴染んでいった。まったくの他人であるオレを住まわせてくれているこの部屋の主、みょうじなまえさん――なまえちゃん、は、オレを『涼太』と呼んで、ほんとうに、ペットのように、オレのことを扱う。それは人間扱いをしないとかそういうことではなくて、大切なペットを可愛がるように接してくれているとか、そういうことだ。
 生活を始めた当初は、当然ぎこちなさが漂ったものの、彼女のフランクな性格は一緒にいて心地が良かったし、オレも彼女に気に入ってもらえるような努力を怠らなかった。住まわせてもらっているのだから、お互いに好印象を持っていたほうがいいに決まっている。毎朝彼女を送り出して、帰宅を出迎えて。社会人の彼女と比べて大学生の自分は時間の融通も利くし、彼女との生活は案外心地がいい。甲斐甲斐しく尽くすオレを、彼女は本当にペットにするように可愛がってくれたし、それがまんざらでもない自分もいた。
 そう、たとえば。
 なまえちゃんは、朝が弱い。生活を始めたばかりの頃、とてつもなく苦労して起きてくるのを見かねたオレが、指定された時間に起こすようになったくらいに。そうすると甘えを覚えたのか何なのか、オレが起こしに行かなければいつまでも起きてこない、という事態がたびたび発生するようになってしまったのだ。だから、平日の朝はいつも冷や冷やしながら時間が経過するのを見つめている。そういえば一度だけ、ちょっとした恨み言を言ってしまったことがある。

「もう、オレが来るまではちゃんと自分で起きてたんじゃないんスか?」

 その日の朝、なまえちゃんはいつも起きてくる時刻を過ぎても一向に現れず、オレが起こしに行くと目覚まし代わりのスマートフォンを枕の下に突っ込んだまま眠っていたのだ。そんな彼女を無理やり起こして、家を出る予定の時間ぎりぎりでやっと準備を整えた彼女に、溜め息を吐き出しながら言った。なまえちゃんは申し訳なさそうに肩を竦めて、何でもないような顔をして、ぺろりと言ったのだ。

「涼太がいると思うと安心しちゃって、すぐ気抜いちゃうんだよね」

 すぐに次の言葉が出てこなくなって、言葉の代わりに心臓がぎゅう、と鳴いた気がした。
 そんな風になまえちゃんは、するりと自分の中にオレを導き寄せる。最初の頃に気を付けていた、彼女の機嫌を伺ったり、気に入られる努力をしたり。そんなこと必要なくて、馬鹿馬鹿しくて、ただ時間を一緒に過ごすことが心地よくて、それでいいでしょ?って。無言でオレに語りかける。だからオレは安心して、よろこんで、この人のそばにいることができるのだ。
 この生活を始めた日に彼女の懸念として告げられていた、『きみみたいなイケメンを置いておけるほど人間ができていない』という言葉。そんな下心を実感するようなこともないまま時間が過ぎることを少々残念に思ってしまうくらい、オレはこの人のことを気に入っているらしい。

「おはよ、涼太」
「――お、はよ。今日、めずらしいっスね?」

 洗い物を片付けながら回想にふけっていた思考回路を、寝室から出てきたなまえちゃんの言葉が遮った。先程言ったように、彼女は朝が弱く、オレが起こさずとも起きてくる今日のような場合はとても珍しい。驚きのあまり、つっかえながら返事をしたオレに向かって小さく笑みを零す。今日はまだ始まったばかりだというのに、その笑顔はすでに少しの疲れがのぞいていた。

「お疲れっスか?」
「うーん、ちょっと、最近忙しくて」

 みょうじなまえという人は、外では大変しっかりとした女性で、仕事もバリバリこなせるタイプの人間だ。そんな人がこの家で見せる隙のある部分をオレはとても気に入っているけれど、その人が仕事前に、こんな風に疲れを露わにするところを初めて見たような気がした。ふう、と軽く溜息をついて、オレが作った朝食が乗っているテーブルの方でなく、テレビの前のソファに腰を下ろす。

「朝飯食わない?」
「食べるよ、もちろん。涼太が作ったんだし」

 ――ううん、敵わない。
 オレは『人生の夏休み』と称される大学生真っ最中で、働いている人の苦労というのは正直なところよく分からない。学生の身分の自分でさえ、大学に行きたくないと思うこともあるのだから、社会人は当然その何倍もそういうことがあるのだろう。洗い物を終えたその足で、彼女が座るソファへ歩み寄る。少し猫背気味になったなまえちゃんを視界に捉えながら、寝転がるようにして自分の背をソファへ、頭を彼女の膝へ、預けた。

「……涼太?」
「なんていうか……癒そうと、思って?」

 やわらかい太ももの感触を後頭部に感じながら見上げた彼女の顔は、やはり少し疲れの滲んだ、化粧前のあどけない表情をしている。こんな図体のでかい男が膝に寝転がってきて、それが癒しになるのかと言われれば閉口せざるを得ない。けれど、下から彼女の表情を見上げながら笑ってやって、髪をくしゃくしゃに撫でてやれば、少しだけその表情から硬さが消えるから。それだけで自分の胸の中はちょっとだけ暖かくなって、くすぐったい気持ちがこみ上げる。眉を下げて笑ってくれるなまえちゃんの肩が、少しでも軽くなればって、本当にそれだけなのだけれど。

「かわいいなあ、もう!」

 丸くした目を一瞬ニヤリと歪めて、弾けるように上がった声とともに、頭を酷く甘い衝撃が襲った。ぶらりと下がっていた両手が、彼女の膝の上に乗せたオレの頭へ伸ばされて、乱雑に髪を乱される。遠慮なんかありはしない手付きは優しさなんて感じやしないのに、どうしてか喉元がくすぐったくて仕方がなかった。

「ぎゃあ!せっかくセットしたのに!」
「うん、似合ってるよ」

 大袈裟に声を上げて彼女の両手から逃げるように起き上がると、お互いにぼさぼさの頭のまま目が合って、笑う。「もう、ほら、ご飯食べるよ」と、仕方ないみたいな溜め息を吐いているけれど、顔はちっともそんな顔をしていないのだから、参ってしまう。オレが作った朝食をおいしそうに食べてくれる様子も、済ませておいた洗いものに気付いてふわりと頭を撫でてくれる指先も、こちらが指摘する間もなく、勝手に与えられて、勝手に離れて行ってしまうのだ。どうしてこの人は、上手な距離の取り方と、軽々とオレを引き寄せてしまう方法を心得ているのだろう。
 
「そろそろ、いってくるね」

 身支度を整えて洗面所から玄関へ向かうなまえちゃんは、ばっちりとお仕事バージョンへ切り替わっている。パールホワイトのブラウスにてろんとした生地のジャケットを羽織って、軽く揺れるミルクティー色のスカート。ハーフアップにまとめた髪をべっ甲柄のバレッタで止め上げて、耳たぶにはいつもの真珠色の小ぶりなピアス。ホワイトベージュのストッキングに包まれた脚はたおやかに伸びて、きゅっと締まった足首に纏う健康的な色気。
 かっこいいオレの御主人さま。

「なまえちゃんすげー決まってる。超いいオンナ」
「……あたりまえ」

 黒々とした睫毛に囲まれた目を一瞬丸くして、静かにそれを細める。余裕を滲ませながら吊り上がる口角と、高らかに床を叩くヒールの音。ほんとうに、いい女。男のオレが見惚れちゃうくらいにかっこいい、お仕事バージョンの彼女は申し分ないくらいにきれいだ。だからオレが待ってる家には、かっこ悪いただのなまえちゃんで帰って来ていいんだよ。――安心して、いってらっしゃい。

 ご主人様に元気がなければ心配で、笑わせてあげたくなって、笑ってくれたらどうしようもなくうれしくて。そういうところがある辺り、オレは案外、ペットが性に合っているらしい。
 ――だけどほんのちょっと、オレにはもっとよわい部分を見せてほしいって願ってしまうこの気持ちは、はて、なんなのか。
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