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「手をつなぎたい」

 初心な少年のように可愛らしいことを言うくせに、手をつなぐどころか女を布団の上に引き倒している男の言動はちぐはぐだ。見た目は若いというよりもむしろ幼いくらいだが、その目はむせかえるほどの色香を含んでいて、強い倒錯が『審神者』と呼ばれる女を襲う。審神者が返事をできないでいるのをいいことに、彼女に仕える刀剣男士のうちの一振り――薬研藤四郎は寝所に敷かれた布団の上に、審神者の左手を縫い付けるように指を絡めた。そしてふと目を細めると、続けて言う。「髪を触りたい」。言うなり、もう片方の手で頭の形を確かめるように髪を撫で下ろし、一房を指に滑らせて、また言う。「頬に触れたい」。髪を手放した右手が頬に伸びるのを感じながら、審神者は気が遠くなりそうな心地がしていた。

 一等月の明るい夜のこと。資材の帳簿を付け終えて、さて眠ろうと手元のランプの光を落としたときだった。執務室の襖の先の廊下から、審神者を呼ぶ声を聞き止めた。その声は自分の近侍を務めている薬研のもので、こんな時間にと不思議に思いながら襖を開け、その瞳を捉えたところで、――ああ。と、先の展開を悟った。突然の訪問を形だけ詫びて、答えの決まっている入室の許可を取る。いいよ、と答えると薬研は音もなく部屋へと足を滑らせ、執務室の奥にある寝所へと彼女を手招いたのだ。
 なにがきっかけだったのかは覚えていない。皆に隠れるように触れ合って、体を重ねたこともあったけれど、これが『なに』であるかは明確にできないままだった。どうすることが正解なのかわからないまま、けれど自分の中に存在するはっきりとした劣情に身を任せて、気がつけば薬研の手を取っていた。彼はその答えを促したりしない代わりに、あけすけな物言いで、審神者を求めるのだ。

「こっちを見てくれ。あんたの目が見たい」

 目なんて、逸らしていても見ることはできるだろうに。喉の奥で恨み言を噛み締めながら、視線で薬研を捉える。本丸で皆と顔をあわせるときには穏やかな色をしているむらさきが、今、このときにはまるで別のもののように色を変える。淑やかな藤から、蜜の香る葡萄の色。それが自分を見つめていると思うだけで、目の前がチカチカと点滅するのだ。なにもせずとも、気をやってしまいそうだ。

「そうやって言うの、やめてほしい」
「口付けがしたい」
「……聞いてる?」
「聞いてる。でもしたい」
「駄目よ、って言ったら?」
「聞こえねぇな」

 反論のための呼吸の瞬間、くちびるで封をされるのだから意味がない。凹凸を合わせたまま、吸って、乾いたくちびるをお互いの唾液で濡らしてゆく。くちびるの入り口を舌先が滑って、力を抜けば瞬く間に蹂躙される。薬研の着流しから香る白檀に、全身が浸食されてしまいそうだ。その心地から抗おうと、審神者は薬研の首へ腕を回した。審神者の縋るようなその仕草が、薬研は特別に好きだった。戦いのことはさておいて、身の丈のためにどうしたって太刀や打刀の連中と比べると、審神者の隣に立つには見劣りする薬研だが、ふたりの夜の間だけはこうして審神者の全てを委ねられる存在になれる。自分だけの前で現れる彼女のその姿を、喰らうように求めた。秘された蜜事は誰かに知られることなどないのだろうけれど、ふと、公になってしまえばいいと思う。誰かにひけらかして、認識されて、実感したい。そして今より一寸でもこの人に近付きたい。
 望んではいけない幾つかが、薬研の奥底でふつふつと燻って、いま、もう、こぼれる。

「なあ大将」

 窓から差し込む月明かりが、薬研の濡羽色の下を晒した。月の光で銀色の幕をかけた葡萄色の虹彩が、蜜を滴らせるように熟れてゆく。審神者はいままで一度だって、この瞳に勝てた試しはない。頭の中に靄がかかって、目の前のたったひとりのことだけしか思うことを許されなかった。そんな溶けかけの思考を見透かしたように、薬研は囁く。

「あんたの名前を教えちゃくれねぇか」

 うっとりと、夢見るような口調で落とされた言葉は、さすがに審神者の心臓を一瞬冷やした。「何を言ってるの」。溶かされていた思考は真っ白に塗り変わり、目を白黒させている彼女を、薬研はひとつも変わらない微笑みをたたえたまま見つめている。
 審神者は、刀剣男士に名前を教えてはならない。幾つかある禁則事項のひとつだ。刀剣男士は、審神者の刀として彼らに忠誠を誓う存在ではあったが、同時に付喪神と呼ばれる『神』でもあった。姿を晒したり、共に生活することは、審神者の力で現し身を得ているが故に許されているが、名前を知られることは、その範囲ではなかった。『審神者』ではなく、審神者であるところのその『人』を示す名前は、記号として、その人を縛る。それを神に知られることは、輪廻の全てを握られてしまうことと等しい。

 恋い慕うように求め合っていても、あるじと刀としての絶対的な関係が、神と人の子としての差へと色濃く変容してゆく感覚。薬研の目に審神者を脅かそうという気配はひとつも感じられない。ただ慈しむように甘くほどけて、彼女を誘うのだ。たったふたりだけの部屋で、こんなにも近付いて、それでも。まるで内緒話をするように、睦言を囁くように、薬研は丁寧に言葉を紡いでゆく。審神者は自分の耳の縁が痺れるほど熱くなっているのを感じていた。息が当たる。なあ、と、艶めいた声は掠れていた。

「これから睦み合うってのに、『大将』じゃあ野暮ってもんだろう」

 いま目の前の密事で女を愛でるために名前を求めるのか、それとも。真意を読み取ることのできないむらさきが、とろとろと溶け出して審神者の喉を熱く溶かす。あ、とか細い喘ぎにも似た声が溢れて、それを聞き止めた薬研はうれしそうに彼女の頬を撫でさすった。優しくくちびるに触れて、親指で下唇をゆっくりなぞる。決してくちびるの動きを邪魔しないように。

「なあ、教えてくれ」

 理性もなにも、遠のいてゆく。嘘もつけない。月明かりの下の薬研の瞳がほんとうにきれいで、その瞳のむらさきに誘われるがまま、審神者からただのおんなになってしまいたかった。思いにつられるように、瞳が揺れる。それを見透かすようにして紡がれる薬研の声は、とびきりあまく、熟れていた。

「俺はあんたを暴きたい」
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