花霞のひと

 花が咲くように、目が覚めた。
 それが、この意識のはじまりだ。『目』が開いて、柔らかい光が『眩し』くて、『口』から空気が滑り込んで、『呼吸』をする。そして、自分が一期一振という太刀であり、その生い立ちと最期、空白の記憶があるという『意識』が与えられる。ああ、自分は再び生まれたのだ。信じられぬことに、『神』の末席として。
 妙な感慨を飲み込んで、目にした光の先にいる『主君』を見た。顕現した肉の器と、その器の内側のそこらじゅうから目の前のひとと同じ気配がする。澄んだ慈しみのにおいと、凛と張り詰めたささやきが心地よい。こうして現れた自分の主君であると、器と魂の両方がわかっている。その人はまだうら若く、刀を振るう人間とは到底思えない、乙女のすがたをしていた。黒蜜色の虹彩をくるくると回して、大きな目をまるく、まるくして、息を呑んだように。

「――いちにい」

 呼んだ。
 え、と、己れの口上を述べるより先に溢れた声はとても不恰好だったが、目の前のその人は、そんなことを意にも介さぬように大きく息を吸って――叫び声を、上げたのだ。

「…っな、あるじ、」

 『え』とも『あ』ともつかない悲鳴を上げた主に、混乱以外のものも湧かず、わたりっと与えられたばかりの手を彷徨わせて、震えるように胸の前で握り合わされた小さな手を思わず握った。悲鳴の理由は、自分がなにか粗相をしたのか、そんなにひどい姿であったのか、様々なことをぐるぐると巡らせていると、部屋の外からけたたましい足音が響き、今にも叩き壊さんばかりの勢いで襖が開かれた。

「大将!なにごと――」

 濡羽色の短髪を揺らし、紫苑の瞳には、主を思うが故の焦りが浮かんでいた。その目と視線がぶつかった瞬間に、焦りの色はまたたく間に驚きのそれへと変わり、主とそっくりにまるく、まるくなってゆく。そして、「――いちにい」と、これまた主とそっくりに、自分を呼ぶのだった。それが誰と誰かに教わらずとも、どうしてか理解ができる、弟のすがた。
 薬研、とくちびるからするりとその名が溢れた。幾ばくかの沈黙のあと、まるくなっていたその目が二三度瞬きをして、これ以上ないというくらいの大きな溜息を吐き出した。そして罰が悪いというような複雑な、しかし喜ばしいような笑顔を浮かべて、腕を組んでみせる。頼もしいばかりの、その風体。

「遅いお出ましだったな、兄貴」

 含んだような言い回しのあと、こちらの顔に向いていた視線をちらと落として、心なしかじとりとした眼差しを覗かせる。向いた先は、先程思わず握ったままでいた、自分の手に包まれた主のてのひらだ。

「手、そろそろ離してやってくれねぇか」
「えっ、あ、これは、っもうしわけありません!」
「大将も、驚いたからってあんな声をあげないでくれ。心臓にわるい」

 弟の静かな忠告に、両手を胸の前に上げるようにして握っていた手を慌てて離す。咄嗟のことといえど、自分の主君となるお方の、しかも女性の手を初対面で握ってしまうなど、不敬もいいところである。焦りと羞恥の両方がいっぺんに訪れて、顔を赤くしていいのか青くしていいのかと視線がうろつく。手を離された主は、そのまま胸の前で両手を握り合わせ、そっと息をついた。そのあとに上げた顔には照れくさそうな笑みが浮かんでいて、主と呼ぶにはあまりに慈悲深い様子に、胸のあたりでコロンと音を立てて何かが転がってゆくような心地がする。

「情けないところを見せてしまってごめんなさい」

 肩をすくめて、息を落ち着ける。そうして数度瞬きをしてから改めて現れた瞳は、穏やかな慈しみと、凛とした強さに染められていた。先ほど目を丸くして顔色を変えていたその人がこんな目をするのかと、今度はこちらが息を呑んでしまう。この人のもとで生まれた一期一振、自分という意識のはじまりのひと。

「あなたをずっと待っていました。一期一振」

 あどけなさと強さのちょうど相中にいるようなまっすぐな眼差しに射抜かれる。自分で名乗るよりも先に呼ばれてしまった名前が、耳から全身へ巡っていくのを感じながら、今度こそと、息を吸った。

「――私は、」



 弟たちとの鍛錬を終え、午後からの遠征に向けて戦装束へと着替えて廊下へと出た自分を、「一期」と引き止める声がした。柔らかく通るおなごの声は、この本丸でただひとりのそれだ。もちろんそうでなくとも、彼女に名を呼ばれてそれを彼女と認識しない刀は、ここにはただの一振りもいないだろう。他ならぬ主の声なのだ。振り返ると、柔らかい声のまま、柔和な表情を浮かべていて、その呼びかけに応えるように「主」と溢す。

「鍛錬は終わった?」
「ええ、主もお仕事はひと息つかれましたか」
「うーん、ちょっと気分転換」

 眉を下げて肩をすくめる主は、仕事を抜け出してきていたようだ。なるほど、その後ろにいつも付いて回る弟の姿は今はない。

「薬研に小言をもらいますよ」
「すぐ戻るって言ってあるから大丈夫」

 いたずらに笑う様子に、弟が主の戻りを待つ姿がすぐさま脳裏に浮かび上がる。先ほどの鍛錬にも、短刀の兄弟のうちひとりだけ姿の見えなかった弟は、主が近侍と定めたただ一振りの刀だった。出陣時の部隊長はそのときの状況に応じて変えられるが、仕事のやり易さや役割の分担を優先する主は、側仕えの刀は一振りと決めている。それが自分の弟と知ったときは、なんとも面映ゆい心地だったことを思い出す。主の二本目の刀であり、鍛刀した初めての刀として、主が審神者となったその日から彼女の側を守る弟が主の隣を歩く姿は、この本丸にいる期間が最も短い自分が、まず初めに見慣れる景色となった。
 遙か昔から存在している自分たち刀剣と比べれば、主はずっと年下だということになるのだが、姿形だけを見れば、並んでいる様子はまるで姉弟のようだ。それを言えば、主のために力を奮うことを何よりの誉れとしている弟はきっといい顔をしないのだろうけれど。かく言う自分は、この姿を得ても姿形の年恰好は主よりも年上の部類に括られるだろう。自分の肩辺りにある顔がこちらを見上げて微笑んでくれる様は、妹がいればこういう心地なのだろうと思わせる。主を前に『妹』などと言うのは烏滸がましいが、初めてこの方の前に現れたそのときに呼ばれた言葉が、今でも耳にくすぐったく残っているのだ。

「……もう、『いち兄』とは呼んでくださらないのですな」

 特に調子を変えることなく、会話の流れのままで言った言葉に、主の声が返されることはなかった。会話を止めて口を噤んだ彼女の瞳は、自分が彼女に初めてまみえたあのときのように丸くなる。ひゅっと空気を吸い込む音がして、続いて何とも言い難い呻き声が聞こえた。こちらから顔を隠すように、顔の前にかざされた手に隠れきれなかった耳の端が、じわじわと朱色に染まってゆく。彼女が、照れてしまうことをわかった上で言ったのは、些か意地悪だっただろうか。いや、この主ならこのような物言いも意地悪も、きっと受け入れられると確信があったのだ。意地悪どころか、たちが悪い。
 自分の言動に、思わず苦笑いを浮かべてしまっていると、そんなことには気づきもしない主は、顔を隠していた手で今度は口許だけを覆って、ぽそぽそと小さな声で呟く。照れさせるようなことを言った自分では説得力に欠くけれど、彼女がそうやって申し訳なさそうな顔をしたり、照れる必要などないのだ。だって自分は、うれしかった。

「あのときはごめんなさい。恥ずかしいから忘れて」
「そんな勿体ない。驚きましたが、嬉しかったのだと今になって思いますよ」

 そう、嬉しかったのだ。そうでなければ、目まぐるしく新しい感覚や感情が訪れること肉の器が、あの一瞬の、あの些細な、あの小さな呟きを、そのくすぐったさまで耳に残したままでいるはずがない。嬉しかったのだと伝えて、未だ熱を灯しながらも優しい顔をする主は、妹のようで、また母のようでもあるのだろう。

「本当に驚いたの。早く来てほしいってずっと思ってたから」
「それは有難いですな。お待たせして申し訳ない」
「ううん。……早くお兄さんと会わせてあげたくて」

 刀の一振り一振りを気にかけて、心やすく、穏やかで。自分をこの花霞の舞う場所に喚んでくれたひと。自分たちは戦の中に身を置くことこそが本分であり、存在の意味だ。けれどだからこそ、せめて戦と戦の間、この場所にあるときだけは心の荒むことのないようにと心を砕く姿は、この人のために自身を奮わせるには十分だった。彼女を小娘だと侮る声も、甘いと誹る声もあったという。それでも、今までの彼女の人生には縁遠いだろう戦場に立ち向かい、自分では刀を握れぬからと、血に濡れる自分たちの姿に目を逸らすことなく凛と佇む主人の肩を、支えてやらねばと思わない刀などいるだろうか。皆が彼女の意思を受け入れているからこそ、この本丸は穏やかで凛とした、彼女の気で満ち満ちている。
 優しい顔をして、自分の主人が、自分の弟たちを慮る様を見るのは素直に喜ばしい。その深慮は、きっと自分にも向けられていることを知っていれば、くすぐったくもあった。それには気取られぬよう、ただの『兄』の顔をして、その配慮へ礼を述べると、今度は困ったような顔をするのだから、なんとなく、その先に告げられる者の名に気付いてしまう。

「粟田口の子たちはみんなそうだけどね。……薬研が」

 主が口にしたのは、思った通りの弟の名だった。初期刀に次いでここに喚ばれ、主人を支える気概に長け、刀としての矜持を重く背負った、およそ『弟』らしくない『弟』。刀の一振り一振りに目をかけるこの主からしてみれば、『目をかけさせてはくれない』刀の一振りであっただろう。予想がついてしまうから、困ったような顔をそのままに頬を弛める様は、思わずこちらに移ってしまいそうだった。

「わたしが審神者になったその日からずっと一緒で、ずっと頼りっぱなしだったから」

 他の刀と同様、弟を思う彼女の瞳は、深くまっすぐな慈しみが滲んでいて、しかもそれは弟が彼女のことを話すときの瞳とそっくりだ。自分を喚んだときの様子といい、彼と彼女の似通った仕種を見つけるたび、張り合うつもりもないのに、敵わないと肩を竦めてしまいたくなる。

「薬研が手放しで甘えられる人が、側にいてくれたらと思って」

 そう言ってちらと目配せをされて、自然と笑みが溢れた。自分に刀としてでなく、兄としての役目も与えてくれる。刀に兄弟の契りなどあるのかと思われても仕方がないというのに、生まれるときに魂に刻まれた自分たちの出生のつながりを、当然のようにわかってくれる主の先に弟の姿を見た。他の弟たちのように、わかりやすく兄を恋しがる性質ではない。あからさまな弟扱いを手放しで喜ぶことのできない彼は、きっと彼女にも同じように――否、自分以上に、彼女には甘えることを許さないのだろう。

「あの刀はそういう気質です。甘えることを良しとしないのは、貴女に頼られる刀であることを一番に望んでいるからでしょう」

 甘えたり頼ったり、心地いい彼女の気配の中に浸っていたくなる。だかそれよりもずっと、ずっと強く、彼女に甘えてほしいし、頼ってほしい。そう思わせるだけのものを、自分たちは彼女から与えられている。彼女はそれに気付かぬとも。
 こればかりは、自分よりもずっと長く弟と過ごした彼女よりも、自分の方が理解ができる気がした。それこそが主人と臣下の差であり、男と女の差でもあるのだろうと、刀であるはずの自分が思えてしまうのは少しばかり複雑な心地だった。
 自分たちから刀としての誇りを決して奪わず、しかしただの刀として扱うことを厭う主は、今日も慈しみの表情と凛とした佇まいを同時に携えて、困り顔で微笑むのだ。

「頼りにしてるから、たまには甘えてほしいのにね」

 頼りにしているからこそ、甘えられたい。
 頼りにされたいから、甘えてなどいられない。
 主と、彼女の言葉と見事に食い違う思いを頑なに抱える弟。弟と同じ立場であるから、自分はどうしても弟に肩入れしたくなってしまうけれど、どちらが正しいかなど言い切ることはできない、不恰好でやわらかな思慕のかたち。

「儘なりませんな」
「うん、儘ならない」

 ふたりして肩を竦める様は、きっと似ている。たぶん今だけは、あの弟よりも。

 廊下の先から主を呼ぶ声がした。呆れた表情で苦言を漏らすのは、今の今まで話の種となっていた弟だ。大方なかなか執務室に戻らない主を探しに来たのだろう。近くに寄ってきて、自分と主の顔を見比べてから少し眉を寄せる様子を見て可笑しくなる。ふたりが同じ表情を浮かべている理由は自分だというのに、そんなことを知りもしない彼は勝手に何かを勘繰って、面白くなさそうな顔をするのだ。『刀』や『臣下』としては似つかわしくない。
 刀として、主人に最も近く、頼られるそれでありたいと願うのは当然の本質であり、自分自身とてそうであるが、この弟は――はてさて。
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