審神者の仕事はそれほど多くはない。その日の出陣や遠征に出るものを見送り、刀装の手配をして日に三度の鍛刀を行う。あとは資源の帳簿をつけたり刀装や鍛刀の統計をとったり、編成を練るなどの事務仕事ばかりだ。鍛刀は審神者でなければできないが、刀装は刀剣男士にも作ることはできるし、内番は刀剣たちが決まった順番で持ち回りで行うものだから、たまに畑仕事を手伝うくらいで、審神者自身はのんびりとしたものである。
バタバタしているのを見るのは月末の報告書に追われているときくらいで、その時は部屋を資料まみれにさせて、資料の捜索と運び役を頼まれるのが恒例行事だった。だから近侍の自分にも仕事というものはそれほどなく、月末の処理の手伝いと、目を離せば根を詰める主人に息抜きをさせて話し相手になってやる程度のことだ。仕事に関してはしっかりしているくせに、自分のこととなると腑抜けがちになる主人の世話をするのは、元々世話焼きな性分らしい自分には、仕事というまでのことでもない。他でもない彼女のことだ。
それに、朝に弱い彼女を起こしに部屋を訪れて、ひときわ無防備な姿を見られるのは近侍の役得だと、満足と優越感を隠そうとも思わない。
そういうわけで、近侍には仕事という仕事は多くはなかった。だが、最近になってその『仕事』が、出陣を控えさせるほどに意図的に増やされるようになったのだ。
「……なあ大将」
「なあに」
「最近俺を戦に出さないのはどういうわけだ?」
文机に向かって書き物をする主人へ向かってそう言うと、ぴたりとその一瞬動きが止まる。そして再び手を動かし始める彼女と自分の間には、彼女が手にした万年筆の先が、紙と擦れる音だけが響いていた。正座をしている両膝の上で拳を握る。妙な緊張感を生み出しているのは自分なのだろう。頭の中は静かなものだというのに、腹の底にチリチリと潜んだものがあることを感じた。
「……最近、他の子とも練度に差がついて来ちゃったでしょう。他の子たちを底上げするのも、必要かと思って」
尤もらしい理由を告げる主人の顔は、机の上へ向いたままだったが、表情はこの部屋に入った時より幾分硬い。振り返るようにこちらへ向けた笑顔も、またぎこちなく、下手くそだ。
「それに薬研が本丸にいてくれると何かと助かるし。頼りにしてるんだよ」
頼りにしている、という言葉は、この人に仕えるために与えられた身体には喜びに沁みるけれど、今のそれは、まるで前々から用意してあった答えのように整然としていて、喜びに身を任せることはできそうになかった。何が、とは上手く言葉にできない違和感が、主人の言葉と浮かべられた笑顔から伝わる。その違和感が、自分の中で燻っている疑問に拍車をかけた。
主人の近侍として、数多の刀剣の中から自分が選ばれ、誰より側に置かれて頼りにされることは誇らしい。ただ、刀に生まれた自分はそれだけでは満たされないのだ。主人の求めるまま、戦場を駆って、敵を討ち、武功を挙げたい。それが自分の刀としての本懐であり、それを捧げたいと思える主人へ、自分が唯一返せるものだと思っている。
主人の初期刀に次いでこの本丸へやってきた自分は、練度でも初期刀に並び最も高い。いままで、それだけの練度を積むに相応しい時間戦場に立って、戦場から戻っても近侍としてその隣を守ってきた。刀として、仕える者として、自分は誰よりも主人の側で主人の支えになれているという自負がある。そんなしあわせに浸りすぎた自分には、どちらか一方を取り上げられても黙ってそれを受け入れることなど到底出来はしなかった。
「俺が傷を負うのが怖いのか」
ピクリと、今度は肩が震えて、彼女は書き物をする手を完全に止めた。腹の底で燻る熱が、ジリジリと温度を上げてゆく。表情の読めない彼女の姿に、熱に、浮かされて喉が震えた。こんなふうに問い詰めることは、不敬と同じだ。けれど止められはしなかった。言葉が溢れる。
「大将は俺が短刀で、脆いから、呆気なく折れちまうんじゃねえかと思ってる」
――あと一太刀を浴びればあわや、という重傷を負ったのはまだ記憶に新しい。
日に日に激化していく戦場と、新たに現れた検非違使という第三者。短刀には荷が重いのだろう戦場で、他より練度が高くとも、自分だけが傷を多く負うことは稀なことではなかった。苦しげな表情で手入れを繰り返して、それでも、主人は俺を第一線に置き続けた。それを俺が望んだからだ。最も高い練度、主人の近侍刀、それで第一線に立てなくて、どうして他の刀たちの前を歩けるというのか。そんな意地にも似た気持ちと、もうひとつ。自分以外の刀が、主人のためと力を奮うのを、ただ見ているだけの位置に収まるなど許せなかった。
仕留め損ねた敵の大太刀が目の前で振りかぶる姿はあまり覚えていない。その代わり、途切れそうな意識の中、霞んでいく視界で見た、顔色をなくして涙を零さんとしている主人の姿が、何度夜を越しても瞼の裏側で幾度も横切ってゆく。情けない。やるせない。自分が脆いばかりに、主人を脅かすのではないかという負い目は、きっといつまでも消えない。
けどそれでも、譲れないのだ。
自分が主人の露を払い、自分が主人の肩を支える。戦の似合わないこの人が、どうか健やかなままいられるように。――それを、彼女もわかってくれていると思っていた。
「――なまくら扱いするなよ」
溢れた声は、ひどく不恰好だ。ざわつく胸のあたりに、主人の息を呑む音が追い討ちをかける。――わかってる。俺が自分で自分を蔑んで、それを聞いた彼女がくちびるを噛み締めて痛ましい表情を浮かべるわけを。そんなの、わかっているのに。
執務室のある離れは、賑やかな本丸の声はほとんど響かない。風に揺られる木々のざわめきがなければ、時が止まっていると錯覚するほどにふたりは止まったままだった。かすかに開けた小窓の隙間から風がそよいで、彼女の髪を一筋攫うのを合図に、彼女はそっと噛み締めたくちびるを開く。
「薬研が傷付くのは、すごく怖いよ」
そのまま続ける。だって大事だから、と。その言葉で自分の喉がきゅうと狭くなるのを感じた。大事にしてくれていることは、この身をもって知っている。苦しげな表情で手入れをして、出陣のたびに『気をつけて』と無事を祈ってくれる。そして何より、何度傷を負っても、俺を戦場へ送り出してくれる。刀としての自分を大事にしてくれていることを、知っている。――わかって、いるのだ。
「薬研が弱いなんて思ってない。薬研だって、わかるでしょ?」
短刀の自分が、ここまで戦場に立っていられること。それは、自分が強くなることを、自分と、そしてこの人が望んでくれたからだ。刀のこの身は、主人が強くあれと望まなければそうはならない。この人が自分にそう望んだから、自分は今こうしていられる。その彼女が、俺を『なまくら』だなんて思っていないことは、この身が一番よくわかっていた。
「どんなに薬研が強くなったとしても、怖いよ。これからもずっと怖いんだと思う」
初期刀と、彼女と、自分。三人だけだった最初の日を思い出す。初めての出陣も、遠征も、演練も、ひとつずつを不器用にこなしていった日々のこと。今よりずっと感情的で頼りなかった主人を、倒れないように崩れないように、隣に立ち続けていたのは他ならない自分だ。
最近ではめっきり見せなくなった、今にも泣き出しそうな弱々しい顔をして、俺のたったひとりの主人が笑って言う。
「だって、あなたがいないと、もうわたしはどこにも行けない」
小さい肩で、戦など不似合いで、誰よりも凛々しい、唯一のひと。
このひとの唯一になりたいと願ってしまった、俺の、
「――大将、」
思わず、手が伸びそうになる。
その身体を抱こうと急いて腰を上げ、思い留まった。この『肉体』と『感情』というやつは、どこまでも厄介だ。戦では何をどうするか本能的にわかっているというのに、それが感情と混ざり合うと、途端に制御が効かなくなる。頭ではわかっているのに、衝動のまま言葉を操ったり、思わず主人と仰ぐひとを抱き締めてしまいたくさせる。
小さく息を吐いて、腰を上げた膝立ちのまま、差し伸べた手でそっと彼女の肩を撫ぜた。そして言う。なにを偽りとしても、これだけは本物だと意志を込めて。
「俺は、あんたの刀だ」
折れるときは、あんたの傍で。
あんたが死ぬなら、黄泉の国まで供をする。
口に出すには、あまりにも重苦しくて言えやしないが、自分はたったひとりだけを思う、たったひとりだけのものなのだと、この一言で伝わればいい。自分がいなくては動けないなんて、家臣から見れば頼りない主人に他ならないのに、幻滅とは違う、もっとべつの、あたたかな痺れが全身を回って、薬研藤四郎をかたどってゆく。それを、自分のなかだけに留めておきたいと思う。勿体無くて、息が止まりそうだ。
「薬研」
名前を呼ばれるのと同時、突き合わせた膝の上で手になにかが触れた。彼女の手の片方が自分の手を取り、懐から取り出した何かを、そっと握らせる。俺の手に収まっていたのは、きらきらと光るやまぶき色の布で作られた、守り袋だった。審神者の神気が込められ、破壊を防ぐのだという、皆に与えられている桃色のものとは色も形も、気の強さも異なる。より一層強いその力に、何も言えぬまま顔を上げると、彼女は肩をすくめるようにして微笑んだ。
「貴重で、中々手に入らないから、ひとつしかないの」
笑うだけで、はっきりと言うことはしなかったけれど、これは紛れもなく『戦いの道具』だ。再び戦場に立つことを許されたのだと悟って、歓喜と、安堵に身体の真ん中が震え立つ。そのうえ、この人にそんな気はなくとも、勘繰らずにはいられない、与えられた『特別』。それをわかっているのかいないのか、主人はそっと声を落として目尻を弛ませた。
「他のみんなには内緒だよ」
強く、つよく、この人の気配がする。その守り袋を両手で受け取ると、彼女の存在がこの身に染み入るようだった。俺の両手を、あたたかな両手で包んで、さらに額へ引き寄せる。額に手を当てて目を瞑る姿は、出陣前にしてくれるいつもの『神頼み』だった。
――背筋が、震える。
願い事をくれ。なんの儀式でもない、陳腐な真似事でもいい。あんたの願いをくれ。
自分は刀だ。敵も、守る者も、見境なく傷付けられる。だからどうしようもなく大事なこの人の手を、自分はたやすく握れはしない。けれどこの人がそうやって自分を包んで、この命を慈しんでくれるから、たとえ真っ二つに折れようとも必ずこの人の傍へ戻るのだと、夢みたいな世迷言に目を眩まされてしまうのだ。