この肉体を得たその瞬間から、僕は呼吸の仕方を知っていて、歩き方を知っていて、刀の――自身の奮い方を、知っていた。それなのに、この肉の内側にある、『感情』の扱い方――それだけを教えないまま、どうして彼女は自分たちに肉体を与えたのだろうか。
「主、入るよ」
数十振の刀剣たちが暮らしていても、まだずっと余裕のある本丸とは対照的に、こぢんまりとした離れにある執務室。その襖の奥へ声をかけると、どうぞと抑揚のない声が返る。襖を開けると、自分の方へ視線をやった主人は、まるでこちらの考えなど見透かしているかのように、眉を下げ、困り顔で笑った。その、自分たちのことを当然のように思いやる表情が、僕は、とても嫌いだ。
「聞いたよ。明日も僕が第一部隊でいいんだね」
「うん、よろしくね。そろそろ練度が揃うでしょ。その方が対応しやすいみたいだから」
文机の上の帳簿をぺらりと捲って、その上に万年筆を転がしながらそう言う。口から滑り出す言葉はもっともらしいことだけれど、彼女を真っ直ぐに見つめ続ける僕の視線と絡み合うことのない視線は、主である彼女の後ろめたさを表しているのだろう。戦や、人を従えることの似合わないこの人に、自分が今まで支えてきた武人たちのような振る舞いを求めることはしないまでも、ここまで筒抜けになってしまうのはいかがなものだろうかと、ひとりでに眉間に力が入る。優しく、穏やかで、それは女としての美点だ。しかし、将としては甘く拙い。物足りないとは言わないが、胸の真ん中が重くなるその原因に、この人を据えてしまう理由には十分だった。
いつも通り第二部隊として戦場へ向かおうとしていた折、第二部隊の隊長である加州清光から、第一部隊への配属を告げられた。編成の変更は適宜行われていたことだけれど、自分の代わりに第一部隊から外れた刀剣が、薬研藤四郎だということを聞いてすぐに、主人の考えを言外に悟った。
読みもしていないのだろう帳簿に視線を落としたままの主人に向かって、投げつけた言葉は驚くほどに静まり返っている。
「……薬研くんは、明日も遠征?」
薬研の名前を出すと、万年筆をころころと転がしていた指先が固まった。転がされていた万年筆は、帳簿の上で数度転じて、やがて動きを止める。主人からの返事はない。
先日の検非違使との交戦で、薬研は一歩間違えば破壊かというほどの重症を負った。意識を半分失ったまま、他の刀剣に抱えられるようにして本丸に帰還した彼を見て、主人が今にも膝を折りそうに震えていたことを僕は知っている。幸いにも破壊されることなく本丸へ戻った薬研は、審神者の手入れによって無事回復した。しかし、自分たちにその姿は見せずとも、事切れそうな彼の姿に審神者がひどく怯えていたことは、自分を含めたすべての刀剣たちが悟っていたことだっただろう。そこにやってくる、薬研除隊の命が示す意味は、ひとつだった。この心優しい主人は、臆したのだ。刀剣が折れてしまうことを。
自分たちの誰かが酷い傷を負うことは、初めてのことではなかった。今回は、その傷が一等酷いものだったこと、傷を負ったのが、彼女と最も長く時を過ごした薬研だったこと、検非違使という、未知の敵が相手だったこと、それらが重なって、一層彼女を脅かしたのだろう。ただそれでも、自分たち刀にとって、『戦から遠ざけられる』ということは、あまりにも大きな意味を持っていた。
滞りなく第一部隊での戦を終えた僕に、明日も編成はそのままでと告げたのは、主人の近侍であり除隊された薬研藤四郎だった。感情を上手く隠すことに長けた彼の表情から、特別な何かを汲み取ることはできなかった。誰よりも主人を思い、それゆえに戦場に立つことを望む彼の心情のすべてを推し量ることなどできないだろう。しかし、そう思いながら、恐怖した。もしも、自分が、と。
こちらから頑なに視線を逸らし、表情を強張らせたままの彼女に追い打ちをかけるように、息を吸った。吐き出していく言葉は彼女を責めるもののはずなのに、声にするたび、それを吐き出す自分自身の身体の中に重い何かが積もっていくような心地がする。
「明日は遠征で、明後日は内務で、それで?検非違使がいなくなるまで、戦場から遠ざけるのかい?」
こぼれていく言葉は、彼女だけではなく自分にも突き刺さってゆく。痛みと不安ばかりが膨らんで、憤りへと変容していくばかりだ。
誰より君を思う彼を、どうして信じてやれないの。彼と共に戦場に立つ僕たちを、どうして信じてくれないの。君に与えられたこの心は、どうして僕にこんな不安定な気持ちを与えるの。僕の目の前にいる、不恰好な君とおんなじだ。――君が、そんなだから。そんな君が、生み出した僕だから。君のせいで。
「もし僕が折れそうになったら、次は僕を追いやって、また誰かで穴を埋めるの」
――恐怖する。もしも、自分が、と。そして同時に思う。こんな風に入り乱れる情動をもたらす心など、欲しくなかった。こんな心があるばかりに、主であるはずの、こんなに小さな肩をした女にまで、血が混じるような言葉を吐きつけてしまう。
「君は甘い」
自分たちを慈しみ、大切に思う彼女から生み出されたこの身には、同じように、慈しみと思いやりとが満ち満ちている。それを心地よく思う魂としての自分がいて、同時に、これまで人斬りの道具としてだけ存在していた刃が、鈍るのではないかとそれを恐ろしく思う刀としての自分がいた。そのふたつが、ただひとつのこの身の中で悲鳴をあげる。主人の手の中で敵を屠るためだけに使われることが誇りで、それだけだった自分を、誰かと言葉を交わして生まれる情動に侵食されてゆく。混ざり合ってしまう。これは誰だ。刀が折れることを、人の死のように思うこの人に扱われなければ、こんな風になることはきっとなかった。誰かを思いやったり、憤りのまま主人を謗ったり、自分の感情ひとつ上手く扱えない、ただの刀では成り得なくなった僕は、まだ一振りの刀としてその矜持を刻んでいても許されるのか。彼女の思いを受ける薬研のように、自分も戦場を取り上げられてしまったら、自分は刀だと名乗っていられるのだろうか。
ただの刀であったはずの自分に、こんな考えをもたらす心を与えた彼女を恨んでいた。薬研から、刀から、その本懐を奪う彼女を恨んでいた。彼女の優しさが嫌いだった。自分の不安定で不恰好な有様を、心地いいはずの彼女の優しさのせいにしたのだ。憤りと不安と本音とがぐちゃぐちゃに混ざり合って、本心に塗り固められた八つ当たりが、みっともなく零れ落ちる。
「君は僕たちを、人か何かと勘違いしているんじゃないか?」
僕たちは人じゃない、刀だ。他の誰でもない主の、君のために、この力を奮わせて欲しいだけの、刀なのだ。
一方的に向けられた言葉を黙って聞いていた主人は、文机の上に投げ出されていた手をゆっくりと握り直した。絡み合うことのなかった視線が、前触れなくぶつかる。――ちらちらと、爆ぜるような光だった。透けて見えるくらいの戸惑いも、甘さも、すっかり消え失せたそこには、静かで今にも散ってしまいそうな、それでも確かに燃える、火があった。
「刀に心と器を与えて、それを人のように扱うわたしは、ひとり遊びをしているように見えるかもしれない」
怯えるような、焦がれるような震えが背筋をじわじわと痺れさせる。彼女の静かな瞳の光から、目を逸らすことはできなかった。黒蜜色の瞳。ただ黒いだけではない、砂糖を焦がしたような色を混ぜ込んだ、どこまでも沈み込んでしまえそうな瞳だ。自分たち刀の神秘的な虹彩とは違う、人間のそれは、普段ならば慈しみに哀しみにと、ゆらりゆらりと揺れている。それが今は、火が爆ぜるように瞬いて、自分を見ていた。まるで目の前で叩き打たれる刀身の火花を、映し出すような。
「……あなたたちは、刀だよ。でも、それだけじゃない」
それが何か、正確に伝える言葉を持っていないけれど、と。言葉はもどかしく、でもその声に迷いはなかった。
――審神者は、刀剣に情をかけるべきではない。審神者が審神者となる前、『心構え』としてそう説かれるらしい。人間の歴史、存在を賭けたこの戦争で、武器に情を持つことは当然非効率だ。自分たち刀剣には代わりがいて、審神者たる彼女にはそれがいない。事実として、この本丸の奥にも他ならぬ『自分』が、彼女の声で喚ばれることを待っている。それは純然たる、脅威だ。自分と全く同じ刀身が積まれ、この存在に特別な価値などないということを、目の当たりにする。けれど彼女は、そうしない。僕を、この個体を、自分の唯一の燭台切光忠だと、信じて疑わない。僕は刀で、道具で、でもこの人の前では、それだけでは済ませてもらえないのだと思い知る。
「わたしは審神者として未熟です。あなたたちをただの刀だと思うことはきっとできない」
――そう、言いきってしまうのだから。開き直りとも取れる言葉を紡ぐ姿に、自分の目は釘付けになる。彼女の中にも、刀としての自分たちと、それだけではない自分たちがいるのだと知らされた。その片方だけを選ぶことのできない自分を未熟だといって、微笑んでみせる。その姿を目にして、刀の自分と、それだけではない自分が、初めて同時に呼吸をした。
呼吸の仕方も、歩き方も、刀の振るい方も、この身に焼き付けて生んでくれたこの人が、たったひとつ教えてくれなかったもの。――感情の扱い方なんてそんなもの、この人ですら、知らないのだ。
「……僕は、ちゃんと『刀』かな」
仲間を憐れんで、自分に置き換えて怖がって、恐れを君のせいにして、それでも格好をつけていたくて、八つ当たりばかりしていた君の力になりたがる。そんな僕でも。
喉の奥から絞り出した声は、かすかに震えていた。きっと聞こえていただろうけれど、それを聞き咎めることはしない。黙って僕の言葉を飲み込んで、目を瞑って、開いて、笑った。この部屋に入って最初に見たときのように、眉を下げて、困り顔で。
「審神者として現世から弾き出されたわたしと言葉を交わして、わたしのために力を奮って、それから、美味しいごはんを作ってくれる」
――この場所へ喚ばれた初めての日、いきなり料理を手伝わされ、自分より手際がいいと悔しげに言われた。すっかり厨を任されて、思いつくままに作ったそれらを迷うことなく口に運んで、美味しいと、笑ってくれた。
本当にあるのかもわからない心臓が、ギリギリと痛む。怯えるくらいにチラチラと瞬いていた火が、とろりと蜜に変わる瞬間を、ただの一介の家臣に見せてしまう隙だらけの愚かな主。そんな人が生み出したのなら、鉄のからだには有り得ないはずの柔らかい部分が、このからだのどこかにあったとしても可笑しくはないのだろう。その不恰好さを、もう無様などとは思わない。
仲間を憐れんで、自分に置き換えて怖がって、恐れを君のせいにして、それでも格好をつけていたくて、八つ当たりばかりしていた君の力になりたがる。
「それが、わたしの刀だよ」
――そんな僕を、君の刀だと呼んでくれるなら。
腰に提げている自身の刀身が、熱を放っている。それと同じ熱が、左胸の奥からも感じるような気がした。僕の心臓は、この刀身そのものだ。それを彼女へ捧げる。彼女のために使う。この身ならそれができる。力の抜けてしまっていた肩や背中を、息を吸うようにして静かに伸ばした。背筋をしゃんとさせて向かいで微笑む主の前へ、腰の刀をそっと横たえる。漆色に艶めく鞘をひとつ撫ぜて、そのひとことを待って、目を閉じた。
「わたしの『刀』になってくれますか。燭台切光忠」
「……光栄だよ、我が主」
血が沸くような思いがした。冷たいく硬い鉄のからだの中に、たしかに熱く高ぶるものと穏やかに柔らかいものがある。この人に与えられた、今の自分だ。そしてこの人こそが、今の自分の、主なのだ。
柔らかく微笑む彼女に、今となってはまったくついでのようになってしまった彼のことを口添える。この本丸の誰もが、豪胆で聡いその気概を知っている、主の懐刀。彼の気持ちをきっと汲んでほしいと告げると、少しだけ傷ついたような表情を浮かべて、たしかに頷いた。その声にも少し情けない、慈しみを滲ませている。その顔を見ても、もう自分はそれを嫌いだとは思えないでいた。名前ひとつで彼女を傷つけてしまえる彼を、羨ましく思いこそすれ。