星喰い

 電車から一歩、踏み出した足は今朝の数倍は重くなっている。先日のボーナスで買い直したばかりの焦茶色の革靴の爪先に、小さな傷を見つけて細くため息した。降り立ったのは、普段の最寄駅である天鵞絨町とは違う駅だ。ホームを歩きながらスマートフォンの画面に指を滑らせて、耳元へ傾ける。電話の呼び出し音が、まるで貧血をおこしているように遠く聞こえた。ああ本当に、疲れている。

「――はい、立花です」
「あ、監督さん?」

 耳に届いてくる快活そうな声は相変わらず遠い。どうしたんですか、今日は遅いんですね、という言葉に、きちんとした返事をするのも億劫だ。

「ごめん、連絡いまになって悪いんだけど、今日外で泊まってくるから」

 結局聞かれたことに答えもせず言った言葉に、電話口の彼女は一瞬戸惑ったように言葉を詰まらせる。そしてすぐに理解したのか、「……ああ! ああ、はい! わかりました、わざわざ連絡もらっちゃってすみません、ありがとうございます」と照れ臭そうに取り繕った。それに曖昧な返事をして、そのまま通話を締めくくりスマートフォンをワイシャツの胸ポケットへしまい込む。
 なぜ彼女が照れるのだろうか、むしろ恥ずかしいのはこちらの方だ。外泊の連絡なんてLIMEで十分だろうし、なんなら俺は事後報告でもいいくらいだと思っている。ただそういうことはしっかりしておかないと、あとであの子に怒られるのは自分だとすっかり刷り込まれているので、このやり取りも慣れたものだ。なんだか母親にデートの報告をする思春期の男子学生みたいな心地になってしまうのは、ちっとも慣れはしないけれど。

 街灯と数カ所あるコンビニの明かりだけの夜道は、毎日通る天鵞絨町より暗闇が深くて少し不気味だ。自分でさえそう思うのだから、女性ならなおさらだろう。劇団の紅一点の彼女であれば、周りの屈強な男たちが嫌というほど気をきかせてくれるだろうが、あの子はどうだろう。誰がそうやって守ろうとしてくれるのだろうか。そうぼんやり考える。――ああ、俺か。あの子には俺しかいないのだ。
 目的のマンションのエレベーターをぼうっと待ちながら、物理的な可能不可能に首をもたげる。送り迎えができることなんて中々ないし、そもそも自分のほうが帰りは遅い。外で待たせるのもそれはそれで危ないし――そう思っている間にエレベーターは目的の階へたどり着いて軽快な音を鳴らした。答えの見つからない漠然とした不安と、謎の満足感。
 あの子には、俺しかいないのか。

「至くんだ、どうしたの」
「おつー」

 インターホンを鳴らして、少ししてから開いたドアの奥からは、すっかり化粧を落として気の抜けた顔が覗いた。右手を軽くあげてから、そそくさとドアの隙間へ身体を滑らせる。玄関には、仕事用のパンプスが二足と、近所に引っ掛けて行く用の彼女の足には少し大きめのサンダルが一足。それから一段上がった先で少々崩れた顔をした犬の玄関マットと目があった。そいつの顔を遠慮なく踏みつけて、彼女の背中について、キッチンが併設された短い廊下を歩く。食器類がいくつか伏せてあったので、食事はすでに済ませたようだ。

「ちゃんとインターホンのカメラ見た?」
「見たよー、なんだ心配性か」

 そうやってからかうように笑うなまえの楽観的な表情に、念を押すようにじとりと視線を投げる。宅配便だったりにも注意をしなければならないらしい物騒な世の中なのだ。恋人の心配をしたって過剰にはならないだろう。大丈夫、との口添えに頷いて、壁沿いに置いてあるグレーのソファに、抜いだジャケットを適当に投げ置いた。飲み物かなにかを出そうとしてくれているのだろう、冷蔵庫を覗き込んで顔の隠れたなまえが、冷蔵庫の扉の向こうから言う。

「なんかあったの?監督さんに連絡した?」
「した。なんか食べ物ある?」

 思った通り、母親への連絡を済ませたか子どもに確認する大人みたいなことを言うので、手短に斬り伏せておいた。この手の話は、いつだったか劇団に連絡をしないままなまえのところにいたことで、劇団内がちょっとした騒ぎになったことがあると話したときから、ずっと繰り返されていることだ。あのときは監督であり責任者である彼女にも、リアルヤクザにも、ついには我が組のリーダーにも心配したと絞られたが、誰より一番俺を叱ったのはなまえだった。この歳になって仕事以外で、しかも恋人相手に叱られるのは中々痛いものがあったので、あれ以来同じことは起こさないようにしている。
 冷蔵庫の扉に隠れたまま中を物色しているなまえは、うーんとひとつ唸ったあとで、扉から目元だけをひょっこり覗かせた。

「そうめんでいい? 至くんの好きなタレあるよ」
「あー、じゃあそれで」
「準備しとくからシャワー浴びといで」
「おけ」

 返事をして、風呂場へ向かおうとすれ違いざま、キッチンの壁に付いた湯沸かし器のスイッチを押して振り向いたなまえのくちびるにちょんとくちびるを重ねた。目を丸くしたあと、ふふ、と息を漏らして笑うので、満足してそのまま風呂場へ向かう。
 普段は、風呂に入るという行為はあんなに面倒に感じるのに、どうしてか今はそう思わない。なぜだろうか、と考えて、ふとなまえの笑い声が耳をくすぐっていくような気がした。身体に張り付いた外の空気を早く洗い流して、あの声をもっと近くで聞いて、風呂上がりのつるりとした頬に身体を預けてしまいたかったからかもしれない。
 気付けば、あの貧血のときのような、耳が遠くなる感覚は消えていた。

「あー、うまい。この素朴な感じ久しぶり」

 窮屈なスーツを脱ぎ捨てて身につけたTシャツとスエットは、気のせいでなく身体を軽くする。シャワーを浴びている間になまえが茹でていてくれたそうめんは冷たくて、少々夏バテ気味の喉を難なく滑っていく。めんつゆベースに醤油と辛味噌とごま油と、刻んだネギと鶏肉の入ったなまえお手製ダレはきれいな水色のガラスの器に入っているのに、氷と一緒にそうめんが盛り付けられているのはステンレスボウルで、そのアンバランスさがひどく俺を楽にした。
 素朴な感じ、という言葉を褒め言葉なのかと笑いながら、なまえは俺の脱ぎ捨てたジャケットとズボンとネクタイをハンガーにかける。褒め言葉だよ、と返事をして、たっぷりとタレに浸したそうめんを遠慮なくすすった。
 寮の食事となまえの作る食事は少し違う。綴が作る男の大皿料理とも、臣の作るレストラン顔負けの洒落た料理とも。もうひとりのカレーまみれは言わずもがなだ。どちらもまずいものや文句はひとつもないが、なまえの作る料理だけは、腹を膨らませるのと同時に、身体の力を抜いていってしまう作用を持っているのだ。それを食べると俺は、なまえの住むこの狭いワンルームに根を張って、動けなくなるような錯覚さえ覚える。

「それで? なにかあったの」

 もくもくとそうめんをすする俺の隣に腰を下ろして、軽い調子でなまえが尋ねた。風呂上がりの温まった身体に加え、なまえ側の肩にじんわり熱を感じて、そうめんを咀嚼して飲み込んだくちびるがゆるり、と動く。

「……ちょっと、疲れてさ」

 疲れて、身体の中で余計なものがうごめいているようなとき、どうしてもここに来たくなる。仕事が忙しいとき、行きたくもない会社の飲み会に無理やり駆り出されるとき、必死こいたゲームイベントの結果が一位タイだったとき、なんだかんだ楽しいはずの共同生活に、苦しくなってしまうとき。
 そうめんをぺろりと食べきってしまうと、途端に眠くなる。根が深くまで張っている証拠だ。弱音を吐いたと思ったら、食事を完食して眠くなり言葉少なになる子どもみたいな俺の背中を、なまえのてのひらが上から下へそっと撫ぜていく。

「そっか、おつかれさま」

 歌うようなその声がとどめだ。眠い、とこぼした言葉にひとつ頷いて、すぐ横にあるベッドへ促される。うつらうつらと船を漕いで、ぼやける視界で食器をシンクへ片付けるなまえの姿を追いかけた。スポンジを握ろうとするなまえをおいでおいでと呼んで、なにも言わずにベッドへ引きずり込む。腕の中に顔を埋めて、深く、長い息を吐いた。
諦めたような、困った顔をして、それでも俺を慈しむその表情を、今にも手放しそうな意識の中で、好きだと思う。そんな彼女の腕の中でなら、俺はどんな場所よりも長く呼吸をしていられた。

「……明日はお休み?」
「……うん、稽古もないよ」
「じゃあ、一日一緒にいられるね」

 少しうるさいくらいの団欒も、ひとりにしてはくれない心地よさも、あの居場所は俺にいろんなものを与えてくれた。けれど、こうやって肌のあたたかさや、穏やかな心臓の音で包まれて、柔らかな腕に閉じ込めてもらえるこの充足感を、与えてくれるのはたったひとりだけなのだ。
 寝言か子守唄か、それぐらい静かでゆっくりとしたなまえの声に頷いたつもりだったけれど、判断する前に意識はまどろみの中に落ちていった。

 目が覚めたら、なまえに天鵞絨町の近くに引っ越さないか提案してみよう。そしたらひとりで夜道を歩かせることも少なくなるし、もっと会いやすくなる。いっそ一緒に住むのもいいかもしれない。いや、ひとりになりたいときもあるしゲームにかけるお金も時間も減るだろうから、やっぱりなまえが引っ越す方向で。……普通に怒られる気がするけれど、なまえは結構現金だから、引っ越し代を出してやればすぐに落ちるはずだ。
 ――そんなことを考えながらついた眠りは、明日の昼過ぎまで、きっと覚めないに違いない。
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