「観音坂くん、君、明日休みね」
「は」

 ガチャガチャとキーボードを叩きながらディスプレイを睨み付けている俺の背後から、課長は唐突にそう告げた。昼休憩の時間だというのに、外食に出ることもゆっくり休憩スペースで食事を取ることもできず、キーボードと身体の間のわずかなスペースにコンビニ弁当を広げる社員に対して、少しは慈悲の心を持ったらどうなのだろうか。
 俺の気の抜けた返事が気に障ったらしく、片方の眉をピクリと吊り上げる課長に、慌てて向き直る。

「あ、すみませ、えと、明日って……」
「君、振替休日が溜まってるんだって? 人事がうるさいんだよ」
「はあ……」
「そろそろ監査だろう。とりあえず一日休みとっておけば何とかなるから」

 課長は頭が痛い、とでも言うように、どこまでが額でどこからが頭皮なのか分からないその部分に手を当て、大袈裟にため息を吐いた。
 休日出勤の代わりの振替休日が消化されておらず、ただでさえ残業が多いというのに定められた休日も取得できないのは問題ではないかと人事に目をつけられているらしい。しかも毎年の社内監査も近づいており、とりあえず形だけでも休みを取れば人事への言い訳は立つだろうということだ。残業を強いられるのも休日出勤になるのも、振替休日が取れないのだってほとんどが目の前の上司のせいだというのに、その張本人は、「休めるように業務を調整するのも仕事の内だよ」などと言ってやれやれと首を振っている。俺は今にも叫び出してしまいたいのを堪え、「はあ、すみません。承知いたしました」と首を折った。こうやって課長が自らを顧みない発言をするのも、自分の権利であるはずの休暇を好き勝手されるのも、きっと、はっきりと物を言えず、押し付けられる仕事にノーと言えない自分のせいなのだろう。
 言うことを言って満足した課長は、食事に出ると言ってオフィスを出て行った。もう昼休憩に入って三十分以上が経過しており、今から食事に行くのだから、どうせ昼休憩の終わりまでに戻ってくるつもりはないのだろう。苛立ちはするが、オフィスに課長がいない時間があることはありがたくもあった。
 空になりつつある弁当から、最後の唐揚げを口に入れて、スマートフォンの画面に指を滑らせる。トークアプリを起動し、一番上のトーク画面を選択して、トタタタとメッセージを送った。相手も昼休憩のタイミングだったのか、すぐに既読が付き、返信が返ってくる。

<明日休み取らされることになった>
<急だね! でも、誕生日に休めてよかったじゃん>

 返信に、一瞬指が止まった。そうだ、明日は自分の誕生日なのだ。
 この歳になって、今更誕生日が待ち遠しいだとか、誰かに誕生日を祝われたいだとか、そういう気持ちがあるわけではない。けれど、明日はその誕生日を理由に、今メッセージをやりとりしている彼女と食事をすることにしていたから、ただ、それが楽しみだっただけだ。俺の誕生日だからといい店を探したり、俺よりもそわそわしている彼女の様子に何だか胸がいっぱいになって、誕生日って嬉しいものなんだなと思ったことを覚えている。
 彼女と食事に行くために、明日は死ぬ気で仕事を終わらせようと思っていたから、思いがけず休みになったことは幸運だったかもしれない。課長の傍若無人さにささくれていた気分が、少しだけ和らいでいく。けれど、休みになったからといって、彼女は日中は仕事なのだし、一人で何をするわけでもない。花の金曜日を前に英気を養っているであろう一二三を付き合わせるのも悪いし、そもそも自分は多分一日中寝ている。

<そうだな。飯行くの楽しみだ>

 そう返信して、スマートフォンをデスクへ放る。誕生日の休日を寝て過ごすばかりだとしても、彼女と会える約束があるのなら、それだけで十分だ。
 社内のイントラでスケジュールを確認すると、明日は運よく客先訪問もなく、社内の会議もリスケが効くものばかりだ。関係者にその旨を知らせるメールを打ちながら、明日作る予定だった週明けの訪問用資料の存在を思い出す。誰かに任せるのは気が引けるし、不安だ。持ち帰りの仕事になる未来が想像できて、何が振替休日だと舌打ちをしそうになったが、スマートフォンの画面通知に、「わたしも楽しみ」というメッセージが上がってくるのを見て、そんな荒んだ気持ちはすぐに凪いでいった。
 誕生日の前日まで上司に振り回されても、仕事を持ち帰らされても、自分には恋人と過ごす誕生日が待っている。そう思えば、何ということはない。明日の夜、彼女に会えるまでの時間はまだずっと長いけれど、その時間だって楽しみのひとつだ。斜め前の席に座る後輩が、にやける俺に不審そうな視線を向けていようと、少しだって気にはならないのだ。



 就業時間を超え、今日終えなければならない仕事を粗方終えた辺りで、デスクに放ってあったスマートフォンが振動した。横目に画面を見ると、彼女の名前が表示されていて、慌てて手に取る。メッセージアプリの画面には、「急に来てごめん」「会社の近くで待ってるね」という白い吹き出しが表示されていた。驚きのあまり、極度の猫背が一瞬にして伸び、その勢いで太腿をデスクに強かにぶつけてしまう。しかし、痛がる余裕はなかった。

「えっ、えあ、え?」

 スマホを見つめて身体をびくつかせ、意味不明な言葉を発する俺は、さぞ気味悪く映っただろう。斜め前に座る後輩の視線は、数時間前に見たような冷めた温度をしていた。

「……観音坂先輩、何かあったんすか」
「え、あいや、ごめん、大丈夫」

 後輩の声に抑揚はなく、俺に何があったかなんてこれっぽっちも興味のなさそうな声だったが、目の前で先輩が挙動不審な様子を見せたので、仕方なく声をかけたのだろう。その心遣いはありがたいが、もう少しうまくできないものだろうか。無視されたほうがよっぽどマシである。「そっすか」という返事にも、「反応をしたのはただの義理です」という本心が見え透いていて、乾いた笑い声を返すしかできなかった。
 再びアプリ画面へ目を落として、そのメッセージを確認する。見間違いでなく、そのメッセージは彼女が今俺の会社の近くにやってきていることを示していた。胃袋が浮き上がるような心地がして、気が逸る。
 あと残っている仕事は何だっけ。契約書は法務のチェック待ちで、メーカーから送られてくる予定の機器諸元は週明けのフォローでもいいか。頭の回路が目まぐるしく回転して、仕事を振り分けていく。今すぐやってしまわなければならない仕事はなく、そもそも週明けの資料は持ち帰りのつもりだったのだ。他の仕事を持ち帰るのも一緒のことである。「もうおわるすぐいく」と、変換も句読点も忘れてメッセージを返した。
 バタバタとデスクを片付け、持ち帰る仕事用の資料をまとめて鞄に突っ込む。パソコンのシャットダウンを待つ時間がとてつもなく長く感じた。先に帰ってしまうのも、上司の指示とはいえ休みをもらうことも後ろ暗く、「お先に失礼します」と呟いた声は蚊の鳴くような音だったが、今の俺はそれで遠慮をして会社に踏みとどまるような俺ではない。何せ彼女が来ているのだ。
 後輩の「お疲れっしたー」は相変わらず無感情甚だしかったが、その声に針で刺されるような申し訳なさは感じない。それどころか、足取りはほとんど小走りに近く、軽やかで、エレベーターの現在地を示すランプが自分の階までやってくるのをじっと見つめてしまうくらい気分が浮ついている。
 エレベーターを降りて、ビルのエントランスに立っていた見覚えのある姿に、思わず声を上げた。

「……っなまえ!」

 名前を呼ぶと、彼女が振り返って、丸くなった目が俺の名前を呼びながら細くなってゆく光景に、眩暈がしそうになる。

「あ、独歩。おつかれさま」

 その言葉を聞くと、風が通り抜けて行ったみたいに、身体中に蓄積された疲れが消えていってしまうような気がするのだ。栗色の髪が肩からストン、と背中に流れていく様子とか、薄いウエストがしなって、かかとの高いパンプスでくるりと器用に振り向く姿とか、彼女が他の誰でもない自分を待っていて、自分を見てこんな顔をしてくれるのだと思うと、息をすることも忘れてしまいそうになる。

「お、お待たせ、どうしたんだ急に」

 彼女と仕事終わりに待ち合わせをするのは初めてのことではない。けれど、それは元々食事に行く約束をしていたり、週末にそのまま彼女の部屋へ泊まりに行くときのことだ。もちろん彼女のすることで困ることなんかないけれど、彼女が事前の連絡もなしにこういうことをするのは初めてだったから、少し驚いてしまったのだ。しかも、明日には会う約束をしているのだし、わざわざ今日こうしてやってくるなんて、何かあったに違いない。
 思い当たることがなくて首を傾げる俺に、彼女はこともなげに言った。

「今日、泊まりに来ないかなと思って」

 思わず、「えっ」と声を上げてしまう。弾かれたような声は、思いの外エントランスに響いて、我に返って口を結んだ。俺の反応に、にこにこと嬉しそうに笑顔を向ける彼女は大層ご機嫌そうに見える。金曜日の夜の、明日からの休日を喜んでいるときの顔とおんなじだ。

「明日休みになったんでしょ?」
「うん、でも、おまえは明日仕事だろ?」

 自分の休日をそこまで喜んでくれるのはありがたいが、翌日に振替休日を約束された、社会人としては無敵状態であるところの俺が、明日も仕事の彼女の部屋に上がり込むだなんて卑劣なことはできない。そう遠慮をする俺に、彼女は「んふふ」と堪えきれないような笑みを浮かべるものだから、俺は先ほど以上に首を捻った。
 彼女の様子から、悪いことではないだろうと予想はするが、想像がつかなくて、心臓がおかしな脈を刻んでいるのがわかる。しかし、彼女が発した言葉で、俺の心臓はたぶん、ほんの一瞬だけ、確かに止まってしまった。

「有給取っちゃった」

 再び「えっ」と声を上げてしまい、もう一度自分の声がエントランスに響き渡るが、今度はそれを気にする余裕はない。俺の反応がお気に召したらしく、先ほどまでの笑みを一層深めて、肩を竦める。

「意外とね、いけた」
「あ、明日?」
「うん」
「な、なん、何で」

 うまく言葉が出てこなくて、いつも以上に声がつっかえた。ピンクとオレンジの間のような色をした唇が、きゅっと口角を上げて、嬉しくて仕方がないことを話すように緩むのをどこか茫然と眺める。

「だって、明日独歩の誕生日でしょ?」

 自分の口がぽかんと開いたまま、閉じられない。信じられなかった。だって、明日が休みになったことを話したのは今日の昼で、そこから翌日の有給を取るなんて俺には到底無理で、無謀なことだ。いくら彼女の勤める会社が、自分の会社よりは融通が効くのだとしても、それが大変なことだというのは社会人ならば十分にわかる。
 なのに彼女は、そんな素振りは少しも見せず、笑うのだ。まるで自分の方が誕生日みたいな顔をして。

「あの独歩が誕生日にお休みなんて、そんなのわたしも休むに決まってるよ」

 それは、普段まるで休みが取れない俺のことを揶揄する言葉であることには違いなかったけれど、ちっとも嫌味には聞こえない。身体の輪郭が痺れるみたいな衝撃で、全身が震える。酸素が足りない。

「あ、明日だって、約束してただろ」
「そうだけど、今日から一緒にいられる方がよくない?」

 彼女の言動になすがままの自分が何だか悔しくて、少し捻くれた物言いをしてみても、すぐに返り討ちだ。明日を待つより、今から一緒にいられる方がいい。そんなの決まってる。彼女に会えるまでの時間を楽しみだと思ったのだって本当だけれど、そんなのは、一緒にいられる時間と比べたら霞んでしまう。
 奥歯を噛み締めておかないと、今すぐ何か恥ずかしいことを口走りそうなのに、そんな俺のことは知らん顔で、彼女は追い討ちをかけるのだ。

「やっぱり急すぎた? 帰ったほうがいい?」

 こちらを伺うように見上げて、早まっただろうかと声色が寂しげになる。だめだ。歯を食いしばっても、息を止めても、喉が勝手に震えてしまう。

「……い、一緒にいる。泊まりに行きたい」

 ここが会社のビルじゃなかったら、すぐにでも抱きしめて、「好きだ」と言っていたに違いない。



 遠ざかっていた意識が、とろとろと手繰り寄せられていくような感覚。暑くも寒くもなくて、眩しすぎない光にまぶたがぴくりと震えた。耳朶を撫でるようなやわらかさで、自分を呼ぶ声が聞こえる。

「独歩、起きて」

 彼女の声だ。その声に呼ばれると、応えないわけにはいかないような気がして、意識が輪郭を帯びてゆく。目をこじ開けると、俺は顔を半分枕に埋めて、太陽のにおいがする布団にすっぽりと包まれていた。彼女の声はするのに、腕を伸ばしているベッドのスペースにその姿はない。
 夢も見ないほど深く沈み込んでいたから、もしかしたら昨日のことこそが夢なのではないかと思ったが、自分のベッドとは異なる、やわらかい花のような匂いに、ここが彼女の部屋であることを認識する。
 瞬きを二・三度繰り返すうち、ぼやけた視界が開けて、それを誘導するように頭に触れるものがあった。

「おはよ、寝癖すごいね」

 クリアになった視界が、ようやく彼女を捉える。眉を下げて、おかしそうに笑いながら、俺の乱れた髪を何度も撫でつけた。ずっとそうやっていてほしくて、なのに心地いいあまり再び意識が遠のきそうで、困ったなあ、と思ってもいないことを考える。
 彼女の指が髪の間をくぐるように触れてくるから、昨晩触れ合ったときのことがすぐさま思い出されて、俺の身体は従順に反応をしようとした。けれど、今はそれも惜しい。彼女のただ優しいだけの愛撫を享受していたかった。
 そんな俺の鼻先を、香ばしい匂いがくすぐる。そういえば、腹が減った。

「……いい匂い、する」
「うん、シャケ焼いたよ。テンション上がってお味噌汁も作っちゃった」

 得意げな顔に、空腹であるはずの胃がまるで満腹みたいに錯覚する。すぐに、満たされているのは胃ではなく胸の中だということがわかった。
 喉から絞り出される俺の「……ありがとう」という掠れた声に、彼女はその視線をとけてしまいそうに解けさせるから、もっとその目で見つめてほしくて、もっと触れてほしくて、さっきまで満たされていたところが乾いていく。俺の底のない愛情みたいなものは、彼女に満たされて、乾いて、また満たされて、その繰り返しだ。
 ほら、そのくちびるから溢れる言葉で、満ちて、満ちて、

「独歩、お誕生日おめでとう」

 ――今日は、俺の誕生日だ。そして、彼女がそばにいてくれる。
 溢れるほどに満ち足りて、もう、どこにもいけない。

心臓に愛を飼ってる

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