まったく、人使いの荒い先輩、もといライオンである。
魔法史の授業終わりに、担当教員であるトレインから、次の授業で課題となる小論文を提出しなければ補習を受けることになると聞かされたのだ。自分が、ではない。我らがサバナクロー寮長であるレオナ・キングスカラーが、である。教師たちも、もうすっかり自分がレオナの世話を焼いていることを理解して、彼に何らかの用事や注文がある際は自分に言ってくるようになってしまった。自由気ままで態度も不遜なレオナを探して高説を垂れるより、自分にその面倒を押し付け引き摺り出す方が早いとわかっているのだ。
少し、いやだいぶ不本意ではあるが、その役割を引き受けていることで得られる報酬もある。持ちつ持たれつというやつだ。これで魔法史の授業にレオナを引っ張り出せば、相対的に自分の評価が上がることにもつながるかもしれない。そんな打算で、オレは今日も学園内を駆けずり回る。
まず一番最初に向かった植物園を一周していると、そこには探していた人物より一回りも二回りも小さい人物がいた。
「あれ、監督生くんじゃないスか」
植物園の一角にある花壇のそばに座り込んでいるその人は、声に気付きこちらを見て目を丸くする。
「ラギー先輩、こんにちは」
「はいこんにちは。こんなとこで何やってるんスか?」
「魔法薬学用のカモミールを採りに来てて」
よく見ると、その人の横に置いてあるカゴには、引っこ抜いたであろうカモミールの花が二、三本入っていた。少し土に汚れた指は、白くて細くて、小さい。皆から監督生、と呼ばれるその人――彼女は、この学園には本来いるべきでない、たった一人の女生徒である。くん付けで呼んでしまうのは、癖みたいなものだ。
「フーン。そういえば、レオナさん見なかったスか?」
「いえ、ここでは見てないですけど」
首を傾げる仕草は、たしかに自分の周りにいる屈強な男たちがするようなものとは程遠い。だが、そんなことは大した問題ではなかった。自分にとっては、自分の役割と、その先にある報酬だけが大事なものだからだ。
「そうスか……あーもう、どこ行ったんだか」
ため息を吐き出しながら、頭を掻き毟ろうと腕を上げる。それと同時に腕に鈍い痛みが走った。
「あイテ」
思わず声を出すと、しゃがみ込んでいた彼女は目を丸くして、立ち上がる。
「大丈夫ですか?」
「あいたた……まだ万全じゃないっつーのに、オレのこと走り回らせてレオナさんもハクジョーッスよね」
「この前の怪我、治ってないんですか?」
この前。学園内のマジカルシフト大会当日に起こった、あの騒ぎのことだ。オレは暴走した力の被害を一番に被り、その後もエキシビジョンに付き合い試合本番でも目一杯仕返しをくらい、大会が終わるころには医務室に担ぎ込まれるほどだったのだ。その傷は、日常生活を送るには問題ない程度に回復したが、完治とまでは至っていない。
「まあ、腕ひび割れてたし、肺もちょっとやられてたみたいで」
ぐちぐちと言い並べてしまったが、実際はもう大したことはない。こんなもののためにバイトを休んで収入を減らしたくはないし、レオナを放っておくわけにもいかない。「なーんて、大丈夫ッスよ」そう言いかけたところで、彼女がその言葉を掻き消した。
「あの」
普段より勢いのある声に、掻き消された言葉を飲み込む。どうしたのかと彼女を見ると、何だか一大決心をしたような顔で、じっとこちらを見つめている瞳と目があった。
「わたし、ラギー先輩の怪我が治るまで、レオナ先輩のお世話とか、手伝いましょうか」
「……は? なんで? 何か企んでるんスか?」
「企んでるわけじゃ……深い意味は、なくて」
そのまま声は萎んでいき、しばし無言の時間が漂う。その申し出はありがたいものではあったけれど、タダより高いものはないと誰よりも理解しているオレには、その言葉は到底信じ切れるものではない。
ただ働きをするのに深い意味はない? そんなわけがあるか。
「手伝ってもらっても、何も出ないッスよ」
「わかってます。ラギー先輩が、あの、大変ならと思っただけで」
ウロウロとさまよう彼女の目線は、こちらを見ようとはしない。そして、俯いたせいで髪に隠れてしまいそうな頬が、じわりと紅色に染まっているのを見つけた。
ははーん。なるほどね。
「んじゃあ、お言葉に甘えるッス! いやあ、助かるなあ」
いやはや、恋する乙女というのは、何ともいじらしいものである。
オレのことを助けたいとたいそう殊勝なことをのたまった彼女は、オレの「お願い」に素直に頷いた。どうやらこの少女は、自分に好意を持っているようなのである。最初は、好意があるのは自分ではなくレオナで、レオナに近付きたいからそんなことを言い出したのかと思ったが、これまでのことを思い出すと、どうにもそうではないようなのだ。
校内で自分を見かけると、その表情はパッと明るくなるし、そばに駆け寄ってくることだってある。対してレオナにはどうかというと、怖がっているのか面倒に思っているのか、話しているところを見かけることはないし、オレと彼が一緒にいるときは、会釈をするだけであまり近寄ってこない。その態度を見るに、好意を抱いているとすれば、相手はレオナではなく自分だろう。
自意識過剰なのは重々承知だが、これを逃す手はない。助かるなあ、と言って尻尾をわざと揺さぶってやれば、彼女はまあるい目を綻ばせて喜んだ。少女の淡い想いを弄ぶのに罪悪感がないわけではなかったが、無償の労働力と彼女の恋心(仮)では、簡単に天秤が傾いてしまう。自分という動物は、ハイエナの名に相応しく作られているらしかった。
翌朝、指定した時刻を少し過ぎたくらいに、寮にあるレオナの部屋を訪れてみると、そこには自分の手を介さずして起床し、いつも通り不機嫌そうな顔をしたレオナがそこにいた。そして、その周りでベッドから落ちたクッションをかき集める監督生の姿も。
「ラギー先輩、おはようございます」
「おはよーッス、ちゃんとレオナさん起こせたみたいッスね」
「はい、起きてくれなかったらどうしようかと思いました」
安堵したような顔で笑う彼女とは対照的に、右側から嫌悪感丸出しの視線が突き刺さるのを感じた。レオナである。寝起きの機嫌がとんでもなく悪い彼を起こすのは至難の技で、それを彼女に任せるのは不可能に思えるが、そうでもない。レオナは、その実女子供には甘いのだ。それは彼の生まれたコミュニティが女性中心のものであることが理由のようだが、第二王子として育てられた彼は、よりその兆候が強い。彼女の頼みを、おそらくレオナは断りきれない。
その考えは当たっていたようで、ベッドの上であぐらを掻いたままこちらを睨みつける視線は鋭い。余計なことをしやがって、という文句が聞こえてきそうだ。
「てめえラギー、余計なことしやがって……」
「はいはい、レオナさんはさっさと着替えてくださいよ」
ほら当たりだ。ニコニコした顔でその文句を聞き流してやり、クローゼットを開けて制服一式を取り出してベッドへ投げる。大きく舌打ちをし、渋々ワイシャツに手を掛けるレオナを横目に監督生の方へ視線を送った。
「レオナさんが着替えたら、朝メシいきましょ」
彼女は、その言葉に視線をうろつかせ、そばに置いていたバスケットを持ち上げた。そういえば、この部屋に入ってから、何だか香ばしい匂いがする気がする。
「あ、あの、ラギー先輩これよかったら」
「え?」
すん、と鼻をならすと、バスケットの蓋が開けられ、匂いのもとを確かめずともそれがわかった。
バスケットの中には、こんがりと焼き目のついたホットサンドが詰められている。卵をマヨネーズであえたものと、レタスとハムの二種類が、それぞれよっつずつ。やわらかい黄色と、みずみずしい緑、それからより強くなる香ばしい匂いに、食に貪欲な胃袋がぐるぐると唸るのを感じた。
「朝食、自分で作ることもあって、せっかくだから」
なるほど、確か彼女は、この身ひとつの無一文で学園にやってきたということもあり、食堂で余った食材などを融通してもらっていると聞いたことがあったが、それらをこうして使っているのだろう。住んでいるのもあの廃墟同然のオンボロな建物だし、それくらいは施されて然るべきだ。自分だってたまに食堂からのおこぼれに預かることはある。
ただ、それをこうして他人に差し出すのはどういうわけか。レオナの部屋を訪れることになった手前、分け前がなければ気まずいとでも思ったのだろうか。しかし、ホットサンドはそれぞれよっつずつ。ソファで丸くなってあくびを噛み殺しているグリムの分を合わせても、監督生・グリム・レオナの三人分には数が合わない。もしかして、と顔を上げる。
「……レオナさんだけじゃなくて、オレにも?」
「……いらなかったですか?」
「いやいや、ありがたくいただくッス! オレが食い物を断るわけないでしょ」
カラカラと声を上げると、彼女はあからさまにほっとした顔をして、「じゃあ食べましょう」と言った。
「レオナ先輩、ここでみんなで食べてもいいですか?」
「……もう好きにしろ」
制服を着て、尻尾を引きずるようにしながらベッドから降りたレオナは、諦めたような顔をして、彼女がバスケットを広げたラグの上に腰を下ろす。そして、彼女がペーパーナプキンに包んで差し出したホットサンドをおとなしく受け取り、食べ始めるものだから、オレは吹き出しそうになるのを堪えるのに必死になった。
「何だラギー、文句あるのか」
「まっさかあ。監督生くん、オレ卵がいいッス!」
「はい。みんな卵とレタスひとつずつですよ」
手渡されたホットサンドはまだほんのり温かく、噛み付くと端から卵がこぼれそうになるほどたっぷりと詰まっている。卵とマヨネーズにブラックペッパーが効いていてうまい。こういうわかりやすい味は大好きだ。
「うまいッスね」
「本当ですか。よかった」
そう言って肩を撫で下ろす彼女は、本当に嬉しそうに微笑んでいて、オレはそれに笑顔で応えてみせた。しかし、内心では首を傾げている。何の対価もなしに、自分の労力や食い物を他人に分け与えて、そのうえそれを喜ぶなんて、裏があるのではないかと勘ぐってしまうのだ。だが、もしかしたらそれが「情」というものなのかもしれない。恋心(仮)というものは、なんと殊勝な感情なのだろうか。呆れを通り越して、いっそ感慨すら覚えてしまう。
こうしてオレは、彼女が自分に好意を持っているのでは、という考えを確かにしていくのだった。
彼女に頼んだ「お手伝い」の内容は、主にレオナの身の回りの世話だ。朝の身支度と食事の確保、それから部屋の掃除くらいのもの。教師たちのご用命で彼を探し回ったり、寮長の仕事をサボらせないなどという不定期なものについては流石に遠慮した。だが、彼女がいくつか賄ってくれるだけで、オレは毎朝少しでも長く眠れたり、時間ができた分バイトを入れられたり、助かることこの上ない。この便利な「お手伝い」がいなくなってしまうのは惜しい。
――だから、欲が出てしまったのだ。
「ラギー先輩、怪我の具合はどうですか?」
「うーん、もう少しかかりそうッスねえ。アイタタ」
「お手伝い」を初めて一週間が経った頃。学園から寮へ向かうまでの道中で偶然会った監督生にそう聞かれ、オレは眉を下げて唸った。本当はとっくに怪我は治っていたし、部活の朝練にだって出ていたけれど、正直にそう話してしまっては、彼女は「お手伝い」をやめてしまうだろう。意外と勘の鋭いところもある彼女なら、オレの安い小芝居を見破ってしまう可能性もあったけれど、それは杞憂だった。
「でも、あんまり付き合わせるのも悪いしなあ」
「ちゃんと良くなるまでお手伝いしますよ」
「……ホント?」
「はい! 役に立ててるかわからないですけど」
このとおりだ。お人好しのうえ、特別な好意まで乗っかっていると、効果は絶大らしい。役に立つうえに、ほぼ毎朝朝食のサンドイッチまでついているのだ。得が過ぎて怖いくらいだ。
「アンタがレオナさんのお世話代わってくれるだけで、めちゃくちゃ助かってるッス」
「ほ、本当ですか」
「もちろん! なんかお礼しなきゃッスねえ」
つい口に出したのは社交辞令というやつだったが、「助かる」と言ったオレの言葉に目をまあるくする彼女の反応に思わず口が滑ってしまった。こちらの言葉に、素直に驚いたり嬉しそうな様子を見せられると、なんとなく胃のあたりが浮ついて、自分でも思わぬ言葉をこぼしてしまったりする。
そんなオレに気付くことなく、彼女はソワソワした様子で肩にかけた鞄を身体の前で抱いたり、後ろに回したりする。そして目線を伏せたまま、呟くように言うのだ。
「あの、そしたら、ひとつお願いしてもいいですか」
おや。
失敗した、と思ったが、ここまで無償で労働力を提供されたり、食い物を与えられたりしたのだ。逆に何か対価を要求された方が自分も気は楽だった。
「何スか?」
「マフィンを、焼いてみたんですけど、ラギー先輩に食べてほしくて」
「ハア?」
すっとんきょうな声が出てしまう。おっと。口を自分の手で塞いだ。彼女はぶら下げていた鞄からクラフトの紙袋を取り出して、差し出してくる。受け取って中を覗くと、きれいに膨らんだマフィンが三つほど入っていた。チョコチップと、バナナと、プレーンの三種類。バターがたくさん使われたお菓子の匂いがする。
紙袋から顔を上げて監督生の顔をまじまじと見た。少し緊張しているような顔だ。対価をもらった方が気は楽だと言ったが、これは思ったのと違う。彼女を見る自分の視線が、訝しげにひそめられていくのがわかった。
「後から返してくれとか、代わりになんかくれって言われても無理ッスよ」
「わかってます」
「……フーン、アンタがいいならいいッスけど」
そう言って礼を続けると、「よかった」と肩を下ろして、本当に嬉しそうに笑うものだから、言葉に詰まってしまう。
手伝いをしてもらったお礼が、マフィンを貰うことだなんておかしな話だ。等価交換や物質保存の法則から外れている。これはもはや錬金術の類だ。しかし、それをポンと現実にしてしまえるのが恋心(仮)というものらしい。それが自分に向けられている好意なのだとしても、理解のできないものを受け入れるのは何とも難しい。
「朝メシもそうッスけど、ただ貰えるとかそういうの、なーんか信用できないんスよね」
だから、そう正直に言った。だってオレは損をすることが何よりも嫌いだ。自分なら、彼女のようなことは絶対にできない。自分の何かを差し出すのは、その先に自分にとって有益な何かがあるからだ。
目の前にいる彼女を見る。その目には、そんな打算は見つけられない。
――なぜだろう。さっきまで綻んでいたはずの笑顔が、少し、ぎこちないだけで。
「……作りすぎちゃっただけですから」
もうひとこと何か言ったなら、崩れてしまいそうな顔をしていた。「えっ」と思わず口からこぼれたが、彼女は「それじゃあ」と背中を向けて行ってしまった。
しばらく呆然とその場に立ちすくんで、それから紙袋をもう一度開ける。中からマフィンをひとつ取り出して、てっぺんに焼き目のついたバナナの乗ったそれにひと思いに噛み付いた。加熱されてより甘味を増した果肉と、卵とバターの甘い味がじわじわと口の中を痺れさせてゆく。
甘味は贅沢品だ。腹が膨れるならそれで十分なのに、砂糖は頭の中をふわふわさせる成分を含んでいる。なのに、このマフィンはちっともそんな味がしないのだ。対価らしい対価もなしに手に入れたものだからだろうか。いやいや、タダで手に入った食い物なんて一番うまいに決まっている。
噛んで、ごくんと飲み込んでも、舌の上に確かに甘い味は残っていた。なのに、どうしてだろうか。頭の中に浮かぶのは、彼女のぎこちない笑顔だけなのだ。
◆
「じゃあ、レオナ先輩のところ行ってくるね」
午前中最後の授業を終え、隣に座っていたエースとデュースにそう声をかける。あくびを隠そうともせず、大きく口を開けていたエースは、あくびを終えて一度口を閉じてから、眉を寄せてこちらを見た。
「またあ? おまえもマメだよなあ」
「マメとかじゃなくて、頼まれてるから」
椅子から立ち上がると、グリムが髪の毛をくぐるようにして肩に乗る。「さっさと行かねえとレオナがまたどっか行っちまうんだゾ」そう言うグリムの言葉に頷いて席を離れようとすると、デュースのさらに奥に座っていたジャックが、わたしの言葉に首を傾げた。今日は一年生合同の実験授業だったのだ。
「頼まれてる? 何をだ?」
「そういえばジャックには話してなかったね。最近、ラギー先輩の手伝いをしてるんだ」
毎朝サバナクロー寮にも行ってるんだよ、と続けると、ジャックは大きな耳をぴくりと動かして、目を丸くした。
「ラギー先輩が頼んだのか?」
「この前の怪我の具合が良くないみたいだったから、手伝いましょうかってわたしが言ったの」
「怪我?」
わたしが話すたび、ジャックの耳が小刻みに動くので、それを追うのに夢中になってしまう。いつか触らせてもらいたいけれど、触るなら耳よりも、ふんわりとした毛を蓄えた大きな尻尾だろうか。椅子の背からはみ出たそれに視線を落とそうとするが、顰められたジャックの眉間に目が止まる。
ジャックは腕を組んで、腑に落ちないような顔をした。
「……ラギー先輩、毎朝部活の朝練にも出てるし、いつもよりバイトも入れてるみたいだけどな」
え、と小さく声が溢れる。その小さな声は、隣に座るエースの「はあ?」という声に掻き消された。
「なんだよそれ。監督生、おまえ騙されてるんじゃねーの」
「……そんなこと、」
そう言うのが精一杯だった。
わたしは、ラギーの怪我が良くなるまで、毎日忙しく駆け回っている彼の仕事を少しでも引き受けられたら、その分ラギーは身体を休められるだろうと考えたのだ。だから当然のように、彼は寮でのんびりしたり、医務室に通っていたりするものと思っていた。
ジャックの言ったことが本当なのだとしたら。それを考えようとすると、何かが邪魔をして、その先を何も考えられなくなってしまう。
「卑怯くせえんだゾ」
「あの人、そういう卑怯な真似やりそうだよな」
「……監督生、大丈夫か?」
グリムとエースが口々に好き勝手なことを言って、デュースがこちらを伺うように覗き込む。何も言わないわたしを見かねて、エースは「オレが文句言ってやるよ」と胸ポケットからマジカルペンを取り出した。文句を言うと言いながら、すぐに実力行使に乗り出すのは彼の悪い癖だ。いつもなら、そんな彼をコラと叱って宥められていたはずなのに、今日はそうもいかない。
「……いい。大丈夫」
そんな、小さな声しか出てこないのだ。
「直接、聞いてみるから。大丈夫」
あからさまに落ち込んでしまっているわたしに慌てたらしいエースたちは、「一人で大丈夫か?」「ついてってやろうか」と甲斐甲斐しいし、ジャックも「ら、ラギー先輩だって何か理由があるはずだ!」と必死でフォローしてくれた。それになんとか返事をして、教室を出る。何も言わずに頭を擦りつけてくるグリムのやわらかい体毛が顎の下をくすぐったけれど、「ありがとう」と答えた声は少しもくすぐったそうな音をしていなかった。
教室から大食堂に引っ張り込んだレオナ先輩と一緒にランチをとっている間も、気分が上向きになることはなかった。今日はベーカリーの出張はなく、いつも通りのバイキングだったけれど、メインディッシュにハンバーグがあったせいか、レオナの機嫌は悪くないように思えた。一度に二人(と一匹)分の食事は持って来れないから、まずはレオナの分の食事を取ってくると言うと、わたしの顔をじっと見た後に、なんと一緒に行くと言ってくれたのだ。
「え、でも、レオナ先輩、列に並ぶんですよ」
「んなのわかってるに決まってんだろ。馬鹿にしてんのか」
「いえ……じゃああの、行きましょうか」
大食堂のバイキングは毎日が大行列だ。給仕係のゴーストたちが凄腕なので、あまり長い待ち時間を感じることはないけれど、レオナが大人しく列に並んでいるのが想像できず、いつ誰かに殴りかかるか気が気ではない。その想像は誰しも同じなのか、レオナと一緒に列に並んだときの大食堂の動揺は凄まじかった。あのレオナ・キングスカラーが、バイキング列に並んでいるのだ。
周囲は当然ざわついたが、本人は我関せずといった顔で、あくびをして眠そうに目を瞬かせている。そして、次々と自分たちの前に並んでいる生徒たちは列から抜けていき、普段の倍以上のスピードでバイキングにたどり着くことができた。なぜそんなことになったのかは、火を見るより明らかだが。
「レオナ先輩……すごいですね」
「あ? オイ、野菜はいらねえ」
レオナはわたしの後ろで自分の分のプレートを持っているだけで、料理をプレートにのせていくのはわたしの役目のようだった。サラダの小鉢を取ると、文句を言うが戻すことも面倒なようでそのままにされている。
「ハンバーグ、デミグラスソースとトマトソースが選べるみたいですよ」
「デミグラス」
「はい。あの、デミグラスとトマト一つずつお願いします」
ハンバーグは、焼きながら配膳する形式のようで、担当のゴーストにソースの種類を告げると、魔法であっという間に焼き立てのハンバーグが差し出された。高級ホテルバイキングもあわやと言わんばかりの出来栄えだ。
他の生徒たちが融通してくれたおかげで早急にバイキングを終えることに成功したわたしは、心の中で皆に頭を下げながら、レオナと向かい合って食事をはじめた。
席に着く直前、周囲を見回してみたけれど、ラギーの姿は見つからない。きっと、この一部始終は大食堂にいる全員に見られていたはずで、もしラギーもここにいたのであれば、すぐにレオナの様子を伺いにやってきたはずだ。
ラギーがいないことが、寂しいような、ほっとしたような、複雑な心地だ。
「……目の前でンなしけた面されちゃあ、メシが不味くなる」
「えっ、あ、ごめんなさい」
ハッとして、目の前のランチを食べることに集中した。グリムはすでに食べ終わったようで、膨らんだお腹をさすりながらテーブルで大の字になっている。
「……ハイエナに熱あげるなんて、物好きな奴だな」
ため息と一緒に吐き出された声は小さかったけれど、低くくっきりとしていて、大食堂の喧騒の中でもわたしの耳にはっきりと届いた。その言葉の意味はわかり切っていて、否定しようにも今のわたしにその気力はなかった。
「まあ、泣くことにならねえように気をつけることだ」
そう言って、ポタージュの器にスプーンを落とした音を合図に、レオナは席を立った。食器は片付けろということらしい。そのくらいは想定の範疇だったけれど、(半分脅しの)アドバイスのようなものをくれるだなんて、驚きのあまり反応をするのが遅れてしまった。大食堂を出ようと歩き始めるレオナに、慌てて声を掛ける。
「レオナ先輩! 午後の授業、ちゃんと出てくださいね」
レオナはその声に何の返事もしなかったけれど、たった一度だけ、その長い尻尾がぶらんと揺れた。それは、肯定なのか、五月蝿いという文句なのかはわからない。レオナのプレートは、トマトが一つ減っただけのサラダ以外、全てきれいに食べ尽くされている。
――泣くことにならないように、というアドバイスは、少し遅かったのかもしれないなと思った。
自分とレオナの分の食器を片付けて、学園内をぐるりと歩き回る。聞いてしまうのは怖かったけれど、ジャックの言っていたことが本当なのか、ラギー本人に直接確かめたかった。グリムには、自分一人で話をしたいからと、エースたちのところへ戻ってもらうように頼んだ。
この時間に食堂にいなければ、購買か中庭だろうか。購買から中庭までの道を辿っていると、日当たりの良いベンチの一つに、陽に透けてしまいそうな色素の薄い茶髪と、それより少しくすんだ毛色の獣の耳を見つける。その瞬間、緊張でぎゅっと心臓が締め付けられるような感覚がした。
「ラギー先輩」
「ん?……あれ、どうしたんスか」
彼が座るベンチに駆け寄りながら声をかけると、ラギーはわたしを見て目を丸くした。抱えている紙袋からは、口に咥えているものと同じクロワッサンがちらりとのぞいている。
「ちょっと、ラギー先輩に聞きたいことがあって……いいですか?」
「ンン、いいッスよ。レオナさんのことスか?」
もぐもぐと口を動かしながら、ベンチに置いてあった紙パックのミルクを退けて、ベンチの端に寄ってくれたので、開けてもらったスペースに座る。レオナのことか、と聞く彼の言葉には首を振った。
いざ言おうとすると、緊張が高まって嫌な汗をかいてしまう。ブレザーの胸元を握って俯くわたしを、ラギーは不思議そうな顔で覗き込んだ。彼の瞳の、淡くてくすんだブルーがきれいで、息が止まりそうになる。一度大きく息を吐いて、そのまま空気を吸い込むと、少し喉がひくついた。
「怪我、もう治ってるって本当ですか?」
「え……」
一思いに言ってしまうと、空気が不自然に静まりかえったように感じる。それは自分の緊張がそうさせているのだとわかっていたけれど、それをどうにかする方法は、自分ではわからなかった。
「ジャックに、部活とか、アルバイトのこととか、聞いて」
沈黙が恐ろしくて、ラギーの返事を待てずに矢継ぎ早に言葉を上げ連ねてしまう。自分のブレザーを握ったままの手に、心臓が大きく脈打つ音が伝わって、余計に落ち着かなかった。「あー……」という煮え切らないラギーの声と、その後続けられたため息に、身体がびくついてしまう。
「バレちゃったか。すげー楽できたから、惜しくなっちゃって」
乾いた笑い声と一緒に吐き出された言葉に、喉の奥がひゅっと狭くなった。ついさっき大きく息を吸ったはずなのに、もう息が苦しい。
「いやあ、悪かったッスね。でも最初怪我でキツかったのも、助かったのもホントッスよ」
驚いたのは、思った以上にショックを受けている自分自身に対してだ。ラギーは、口角は上がっているけれど、気まずそうに目線を逸らして、申し訳なさそうに耳を伏せている。けれど、そんなものは何のフォローにもならないと、自分の身体の内側がじんわりと熱を帯びていくことにわたしは驚いているのだ。
「頼んでたこと、もうやめにしてもらっていいッスから」
もし自分が恐れていたことが本当なら、わたしと彼のささやかなつながりは消えてしまう。そんなことはわかっていて、それでも確かめたくて告げた言葉だったはずだ。なのに、あっさりとそんなことを言う彼の言葉に、突き放されたように感じてしまう自分の方がおかしいのだと、わかっているのに。
「もちろんなんかお詫びも……」
「いらない」
身体の内側はこんなにも震えているのに、自分の口から出てきた言葉は、強く、頑なだった。
「へ……」
「い、いらない、です」
わたしから発せられた強い言葉に、ラギーは呆けたように呟いて、慌てて背筋を伸ばす。所在なくさまよう手が、彼の困った様子を表していたけれど、彼の顔を見ることはできなかった。
「お、怒ってんスか? 悪かったって、ね?」
「怒ってませんから」
こんな、子供みたいな物言いをしておいて怒っていないなんて、説得力のかけらもないだろう。身体の中の熱を冷ますように、刺だらけになった言葉を飲み込むように、過剰なほどに、息を吸って吐いた。
わたしは、怪我をしていた彼のことが心配で、だから彼を手伝うと言ったのだ。だから、彼がわたしに嘘をついていたって、彼の怪我が良くなったのなら、それで構わないはずだ。何度も、何度も言い聞かせる。
「……ラギー先輩が、もう何ともないなら、それでいいです」
言い聞かせるのに、目の奥がどんどん熱くなって、視界がぼやけてゆく。
――ああ、止めないと。そう思うのに、目に溜まった涙は、乾く前にこぼれてしまう量だった。とっさに顔を伏せたけれど、ラギーがその涙に気づいて、ぎくりと肩を震わせたのがわかる。
「な、なにも泣かなくても」
「っ、すみ、すみません、なんでもないですから」
なんでもないわけがないのに、そう言うことしかできない。ラギーはまだ何か言いたそうにしていたけれど、それを聞く前に背中を向けて走り出してしまう。当然だけれど、彼は追いかけてこなかった。
オンボロ寮に辿り着き、扉を閉めても、涙は流れ続けていた。グリムのいない、ひとりきりのオンボロ寮は暗くて寒い。まだ日が高いから、賑やかなゴーストたちも現れず、わたしはその場にへたり込んで膝を抱えた。
彼から逃げ出すのは、これで二回目だ。一度目は、ラギーにマフィンを手渡し、それを「信用ならない」と言われたとき。そのときと、一緒だ。
わたしは、なんの見返りもなく彼に尽くす振りをして、彼からの好意を期待している。
声を震わせながら言った、ラギーの怪我がよくなったならそれでいいという言葉に嘘はない。だから、利用されていたって、構わなかったはずだ。それなのに、「裏切られた」だなんて思ってしまっている。本当は、そうやって彼に尽くすことで、彼にわたしのことを好きになってもらいたかったのだ。
それを見透かされたみたいで、渡したマフィンを「信用ならない」と言われて恥ずかしかったし、嘘をつかれてショックだった。こんなのは、好意の押し売りで、餌付けと一緒だ。なのにそれを拒否されて傷ついてる。
もう、ラギーの顔を見れない。そう思った。
献身的な振りをした下心ばかりの自分が恥ずかしくて、どうしようもなく醜く思える。なのに、彼のことを好きだと思う気持ちは、どうしたって消えてはくれない。
喉から嗚咽がこみ上げる。
明日からもう、ラギーにサンドイッチを食べてもらえないことが、悲しくてたまらなかった。
◆
生まれて初めて、女の子を泣かせてしまった。身勝手な嘘をついて、傷つけてしまった。
彼女の、自分自身を守るように胸の前で握りあわされた手が震えていて、見開かれた瞳は、いつも自分を見つけてまあるくなるそれとは似ても似つかない。その瞳いっぱいに涙を溜めて、溢れる瞬間、顔を背けられた。頭のてっぺんからサアッと何かが引いていって、背中に冷たい汗が伝っていくのがわかる。いつも器用に回転している頭がちっとも回らなくなって、その代わりに目の前がぐるぐると回るような心地がしたのだ。
――やばい、嘘だろ、どうしたら。
目を覚まして、ベッドから起き上がってしばらくの間ぼうっとしてから、我に返った。昨日から、夢の中でも、同じことを繰り返し思い出していたような気がする。普段あんなにも身軽な身体が、ひどく重い。
昨日は散々だった。彼女が走り去っていくのを馬鹿みたいに見送ってしまったあと、とにかく謝らなければと立ち上がったが、午後の授業が始まることを知らせる鐘にそれは阻まれた。購買で買ったクロワッサンも食べかけのままで、食事を中途半端に終わらせてしまうなんて自分にとっては由々しき事態だったが、胸の中がむかむかして、それ以上食べる気にはならなかった。
授業を終えてから彼女の教室を覗くと、そこに彼女はおらず、代わりに恐ろしい面持ちをしたエースとデュースの二人(と一匹)がオレを待ち構えていたのだ。なんと、監督生は昼休みから姿を見せていないらしい。その理由がオレだとわかっているらしい二人(と一匹)から命からがら逃げ出し、部活も何も手につかず寮に戻ったのだ。
あの真面目な監督生が、授業を放って消えてしまった。おそらく自分の寮に戻ったのだろうが、そこまでして誰かと会うことを避ける彼女を追って寮まで押しかける気にはなれなかった。大体、会いに行ってどうしようというのだろう。謝ったオレに、彼女はオレの怪我がよくなったならそれでいいと言っていたし、お詫びをしようと言っても跳ね除けられてしまった。確かにひどいことをしてしまったけれど、どう詫びれば彼女が機嫌を直すのか見当もつかない。これ以上自分が身を削る必要があるのかと疑問にすら思う。
――でも、だって、このままじゃ、彼女はもう自分には会ってくれないだろう。笑ってくれないだろう。あのくすぐったくてちょっと居心地の悪いくらいの好意を、向けてはくれないだろう。
そんな言い訳じみた感情が、またぐるぐると思考を迷わせて、身体を重くしていくのだ。
気は重かったが、やるべきことはやらなければならない。もう彼女は「お手伝い」をやめてしまった。一週間と数日ぶりに、レオナを起こそうと彼の部屋の扉を開ける。この精神状態でレオナの相手をすることを思うと、すでにやる気は地に落ちてしまっていた。
「レオナさーん、起きてくださいッス……」
声は朝一番とは思えないほどに重苦しかったが、レオナの部屋に入ってそれは一瞬にして驚きのものに変わった。いつもクッションを抱きしめて丸くなっているレオナが、何度声をかけても聞こえない振りをしているレオナが、目を開けてもすぐに閉じてしまうレオナが、すでに身体を起こしてあくびを噛み殺していたのだ。
「え!? どうしたんスか、一人で起きるなんて……」
「あ? お前があの草食動物寄越したんだろうが」
「へ……」
思わぬ人物のことを指され、気の抜けた声が出てしまう。レオナは一般生徒の大体を草食動物と呼ぶけれど、今の状況でその言葉が示す人は一人しかいない。
「か、監督生くんが起こしに来たんスか?」
「ああ。うるさく騒いで、メシ置いてすぐどっか行きやがったがな」
昨日あんなことがあって、自分からも「手伝いはもうやめていい」と言っていたから、彼女がオレの手伝いをすることはもうないと思っていた。彼女から起こされたのだと言うレオナの足元には、見覚えのあるバスケットが置いてあり、彼はベッドの上であぐらをかいたままそれを抱えている。中に入っていたのは、レタスとボイルされたソーセージを挟んだバターロールのようだ。
監督生はレオナを起こし、朝食まで置いていったが、レオナの支度を手伝って学園へ連れ出すことはしなかった。たぶん、オレと顔を合わせるのを避けたのだろう。黙り込んでいるオレを見て何を思ったのか、レオナはこちらを見て鼻で笑う。
「お前の分はねえよ」
別に欲しくねーよ!と言ってやりたかったが、言葉にはできなかった。欲しくないなんて、嘘だったからだ。そしてそれを欲しいと思ったのが、ただの食い意地だけの理由ではないことがわかっていたから、オレは何も言えなかった。
レオナの牙にかかり、パキっと音を立てるソーセージが憎らしい。王族であるところの彼は、食い物に対する執着心が特別強いわけではないし、他人のために用意されたものまで手をつけるほどの卑しさはないはずだから、恐らくオレの分のサンドイッチがないことは本当なのだろう。
監督生が用意したのはレオナの分だけで、オレには用意しなかった。そういうことだ。
「そう、スか……」
「何だ、腑抜けた顔しやがって」
面白くなさそうな反応をした彼は、大口を開けてサンドイッチを放り込む。探るような視線に、居心地が悪い。
「い、いやあ、昨日でレオナさんのお世話代行は終わりにしようって、なったはずで……」
「ふうん」
取り繕うように笑顔を貼り付けるオレを見て、レオナは一変して面白いものを見た、という顔をした。瞳が半月型に細まり、唇は片側だけ吊り上がる。それを向けられるこちらはたまったものではない。不気味ににやつくレオナに、嫌な予感がした。
「なあラギー。オレは、小間使いは今後もあの草食動物で構わないんだぜ」
「え、な、何言ってんスか」
「鬱陶しいのはお前でもアイツでも変わらねえし、アイツが作るメシも悪くねえ」
あぐらをかいた腿に肘を立て、頬杖をつきながらこちらへ向ける視線は、雄弁に「揶揄ってやろう」と語っている。わかっているのだ。レオナが、監督生とオレの様子を見て、面白いおもちゃを見つけたと思っていること。いつもの高みの見物だ。そんなのは、わかっている。
わかっているのに、おかしい。彼女のことを必要だと言う彼の言葉が、こめかみを殴りつけているみたいだ。
「何より、女に世話焼かれるのは気分がいいしな」
火が膨れ上がるように、頭の中が一瞬だけ熱くなる。レオナの口が、彼女を「女」と言ったから。
息を吸って、口を開く。何も言えないまま口を閉じる。それを二回繰り返した。何を言えばいいのかわからないのに、否定したくて、なんとか言い返してやりたくて、気が逸る。
「……な、なーに言ってんスか。監督生くんも、いつまでもただ働きさせられちゃ可哀想でしょ」
吐き出されたのは、よくもそんなことが言えたな、という言葉だった。彼女にただ働きをさせていたのは他でもない自分だというのに、何か理由を探したくて、口先がから回る。
「オレだって、そろそろレオナさんからのお駄賃が恋しいかなーなんて……」
ああだこうだと言い連ねてみるけれど、言葉を重ねれば重ねるほど、レオナは満足そうに笑みを深めて、それがまたオレの焦燥感を煽っていく。なんで自分はこんなに必死なんだ。何を焦っているんだ。自分の思考を理解する前に、どんどんと先走っていく感情に追いつけない。息切れしてしまいそうだ。
「まあオレは何だって構やしねえが……」
頬杖をついてこちらを見たまま、顎を上げる動作が腹立たしい。大体、どうして監督生がレオナにだけサンドイッチを用意してきたのか理解できない。オレの方が絶対にありがたくおいしく食べられる自信はあるし、そもそも彼女は自分のことを好きなのではなかったのか。今まで作ってきてくれた朝食をおいしいと褒めたらあんなに喜んで、手作りのマフィンだって寄越して、なのに、どういうことだ。
レオナが、彼女を気に入っているような素振りを見せることが気に食わない。この鋭い視線がニヤリと笑って、緑色に光る瞳で彼女を見つめるのかと思うと、
「アイツ、“いい”な?」
――よく、ない!
叫び出さなかった自分を褒め称えたい。クローゼットの中から、シワになるのも構わずワイシャツを引っ掴み、ハンガーごとこちらを鼻で笑う顔に投げつけてやった。ワイシャツの下から「てめえ、ラギー!」と恐ろしい声が聞こえてくるが、怖くはない。ワイシャツくらいでは仕返しし足りないから、今日の三つ編みはピンク色の紐で縛ってやろうと思う。
モヤモヤとイライラが、募って仕方ない。彼女にぶつけても仕方のないことで、そもそも自分にそんな資格はないというのに。この感情の正体くらい、オレにもわかる。わかっている。これは、嫉妬だ。
レオナに仕返しをしたところで晴れることのない気持ちは、みぞおちのあたりから膨れあがって、もう喉のすぐそこまで迫ってきている。口を開けたら、そのまま吐き出してしまいそうだ。
学園内を歩き回って、あちこちに視線を向ける。できるだけ耳を高く上げて、声を拾えるように。鼻先に意識を集中させて、あの髪の匂いを探すように。右側の耳がその声を捉えたところで、自然と肩がこわばるのがわかった。
「クルーウェル先生、誤魔化されてくれてよかったな」
「監督生、すげー顔ブサイクだったし、説得力あったんじゃん?」
聞こえてきたのは彼女と、いつも彼女のそばにいる二人(と一匹)の声だった。ブサイク、とエースに言われた監督生の声は不本意そうに尖っているが、そこに本気の嫌悪は感じられない。
「失礼だなあ。……まあ、助かったんだけど」
彼女がそう言ったところで、自分の視界に彼女たちの姿が現れる。彼女を真ん中にするように三人並んで、外廊下をこちらの方へ歩いてくるようだ。グリムは彼女の両肩に前足と後ろ足を乗せてくつろいでいる。遠目だが、目を凝らすと彼女の顔が見えた。わずかに、目元が赤く腫れているように見えて、ぎゅっと喉の奥が締まった。
自惚れかもしれないけれど、それはきっと、昨日彼女が散々泣いた跡なのだろう。デュースが言った「クルーウェルが誤魔化された」というのは、監督生が昨日午後の授業に出なかったことに対する言い訳のことで、おそらく二人(と一匹)が体調不良とかそういう理由をつけて誤魔化したのだ。
モヤモヤが喉の奥でうごめいて、よくわからない焦燥感で心臓がじくじくと熱を放っている。
泣くほど傷ついたなら、オレに直接そう言えばいい。一人で泣いて、そんなふうに他の誰かに頼ったり、救われたりするなら、オレのことを責めてくれたらいいのに。
思ったよりスムーズに動き出した足は、芝生を踏み締めてずんずんと進み、外廊下の石畳をタン、と強く叩いた。彼女たちの前を遮るように現れたオレの姿に、彼女の瞳がまあるく見開かれていくのがわかる。
「ドーモ。ちょっと、監督生くん借りてもいいスかねえ」
「……昨日の今日なんでちょっと貸せないすね」
監督生の代わりにエースが答えるので、舌打ちしたいような気もしたが、そこは飲み込んで笑顔を貼り付けた。
「エースくんたちにも迷惑かけたッスけど、まずは本人と話したいんスよね」
言いながら、彼女の目を見つめる。見開かれたまま、戸惑うように視線を揺らしていた目が、一度二度と瞬きをして、見つめ返されたときには、覚悟を決めたような強い眼差しに変わっていた。
「……わかりました」
頷いた彼女を伺うように、エースとデュースが顔を見合わせるが、「大丈夫だから」という彼女の一言で、仕方なく「わかったよ」と頷く。監督生の肩に乗っていたグリムは、猫のように彼女の頬にすり寄ってから、デュースの肩に飛び移り、自分で歩けと言われても素知らぬ顔だ。
二人(と一匹)がオレの脇を抜けていくのを確認してから、彼女へ近づいていく。彼女の立つ場所まであと二・三歩というところまで近寄ると、赤く腫れた目元がよく見えた。
「今日、レオナさんのこと起こしに来たみたいッスね」
「……い、いつもの癖で」
今朝のことを尋ねると、バツが悪そうに視線が逸らされる。口に出した言葉も、なんとなく白々しい。無言で視線を向けたままのオレにたじろいだのか、自分の白々しい言葉に気後れしたのか、黙り込んで、じっと足元を見つめている。しばらく噤んでいた唇がそっと動き出して、ゆっくりと持ち上がる視線とぶつかるまで、時間が流れるのがひどく長く感じた。
「もうやめます。余計なことをしてごめんなさい」
――そうじゃない。じりじりと焦れる心臓の熱が上がって、モヤモヤが膨らんで沸騰するみたいに泡立っていく。違うだろうと言いたかった。余計なんかじゃない。彼女がレオナの世話を焼くのはもうたくさんだけれど、オレのことを思って何かしてくれることが余計なことのはずがない。
いつも通り、オレのことを見つめて、駆け寄ってきて、にこにこ笑っていてくれればいい。対価もなしに何かを与えられるのは、やっぱりよくわからないけれど、彼女のやることなら受け止めてみたいと思う。それを突き放して彼女が泣いてしまうなら、自分じゃない他の誰かのために、彼女の何かを差し出すなら、オレにとってそれは耐えがたいものになり得るからだ。
口を開いたら、この熱をあげる嫉妬も、膨れあがる焦燥感も、吐き出してしまいそうだ。けど、もう堪えきれない。
「……いつもの癖だって言うなら、じゃあ何でオレの分は作ってくれなかったんスか」
彼女の目を見つめたまま言うことはできなかった。いつも口先だけで表面をうまく取り繕ってきた自分から出てきた言葉にしては、それはあけすけすぎて、呟くようにしか声にできない。
しかししっかりとそれを捉えたらしい彼女は、腑に落ちない様子で答える。
「ただ貰えるだけは信用できないって、ラギー先輩が言ったんですよ」
「そりゃあ……そう、なんスけど」
正論すぎてぐうの音も出ない。反論だって思いつかない。自分だって、今でもそう思っているからだ。ただ与えられるだけのものは信用できないし、後になって何を要求されるのかと思うと気が気ではない。根付いてしまった感覚は、簡単には消えたりしない。なのに、それとは違うところで、膨らんでゆくのだ。
「だ、だって、アンタ、オレがマフィン食ったら、喜んでくれたじゃないスか」
普段目まぐるしく回転している頭は今は役立たずで、腹の底から膨れて、胸の中で泡立つ感情が喉から溢れて言葉になる。
「オレが助かってるって言ったら嬉しそうにして、ずっとオレのこと見てたじゃないッスか」
てのひらが冷たい。なのに汗が噴き出て、ぶら下がるネクタイをギュッと掴んだ。瞬きのたびに、脳裏をよぎっていく景色がある。ホットサンドを差し出してきたときの細くなった瞳、こちらの言葉一つで目をまあるくして喜色を滲ませる表情、俯いて見えなくなった瞳から伝っていく涙が透明だった。それから今朝、レオナにバスケットを手渡している姿を想像する。寝汚いあの人を必死で起こして、眉を下げて笑ったりしたんだろうか。
ごくん、と唾を飲み込んでも、喉は干上がったままだ。
「それなのに、今更レオナさんだけとか……そんなの、」
――ずるい。
そう言いたくて、でも言えなかった。言いながら持ち上げた視線が彼女を捉えて、その顔があまりに、言葉にできないほどに、アレで、思わず飲み込んでしまったのだ。
今まで見た中で一番と言ってもいいくらいに目をまあるくして、ぽかんと間抜けに口を開けている。それから、眦がほんのりと赤く染まっていた。涙を流して腫らしたものではないことは見ればわかる。見つめている間に、じわりじわりと、その範囲を広げていくからだ。それを見ていると、自分がとてつもなく情けなくて恥ずかしいことを言っているのではないかと思えて、一気に身体中が熱を帯びる。尻尾の先まで、ぶわわと鳥肌が立つような感覚がした。
うわ、どうしよう。嘘をついて泣かせたくせに、オレのことが好きなんだろうと責めるなんて、最低だ。自意識過剰も甚だしいうえにかっこ悪い。どの口が言っているんだ。まずは謝るのが先だろ!
ああ、と濁った声がこぼれて、うう、と喉の奥が唸っている。彼女が黙っているのをいいことに、クソ、と自分に悪態をついた。
「……この前のこと、ホント、悪かったと思ってるッス」
「……それは、もういいんです」
「いや、よくなくて。ちゃんとアンタに謝んねーと、なんか、言えるもんも言えなくなるっていうか」
もうすでに、これ以上ないほど赤裸々に白状してしまっているけれど、本当ならそれは、彼女から許されてから言うべきことだ。身勝手な嘘をついて、ただ純粋な好意を向けてくれた人に涙を流させる。それは、そう簡単に許されていいことではないはずだ。
もういい、という言葉は、自分に対する諦めなのかもしれないと思うと、少し恐ろしい。それは許しではなく、彼女の感情の中から手放されることと同じだ。
みっともなく追い縋る自分に、再びかっこ悪いなあとため息を吐き出したところで、そのため息に掻き消されそうなほど小さい声が届く。
「……わたし、ラギー先輩にわたしを好きになってほしくて、手伝うって言ったんです」
ここから消えてしまいたい、そんな顔をしていた。
ぎゅっと眉間にしわを寄せて、耳まで真っ赤で。今度はオレの方がぽかんと口を開ける番だった。
「……は、」
「し、下心なんです。手伝いだって、マフィンだって」
声が震えている。くしゃりと歪む表情が今にも泣きそうで、また泣かせてしまうのではないかと冷や汗が出る。けれど、正直それどころではなかった。開けっ放しの口を噤んで、ごくん、ともう一度唾を飲み込む。
「……したごころ」
「う、はい……だから、謝らなくていいんです」
「……そんなんアリ?」
下心。言葉の意味が分からなくなってしまったみたいに、頭の中で繰り返した。彼女は、「お手伝い」や手作りのマフィンを、オレに好意を持ってもらうための下心だったと言ったのだ。無償の好意だと思っていたあれやこれやが、全てオレに、好かれたいからだなんて、そんなの。
耳の先の神経まで電気信号が走る。まるで魔法にかかったみたいな、自分にはどうしようもない痺れになす術もない。
「……オレ、すげーチョロいのかもしんない」
だって、そんなの、反則だ。彼女の作戦通りだ。
オレにとって、対価とは目に見えるものや、金銭や、それに代わり得る情報で、腹にたまらなければ何の意味もない。でも彼女にとって、オレの好意はそれと同等だと言われたのだ。
混乱してどうしようもないので、置き換えてみる。自分が何かをすることで、彼女の瞳が綻ぶとしたら。自分の何かを差し出すことで、彼女の声が弾むのだとしたら。
――腹なんかちっとも膨れないのに、喉の奥まで何かがいっぱいで、何も食べられそうにない。
「……アンタは、どうなんスか」
それに気がついてしまえば、次はもう欲しくなってしまう。呟くようにして言うと、彼女はきょとんとした顔をした。首を傾げて、その仕草にぎゅっと喉が詰まる。
「わたし?」
「オレのこと、好きなんスか」
「ええ? さっき、ずっと見てたって自分で言ってたじゃないですか」
「そうッスけど、それとこれとは別で……あーもう」
がしがしと髪をかき混ぜる。はあと吐き出した息が熱かった。
彼女にそれを言ってもらえたら、自分は何を差し出せるだろう。自分が何を差し出したら、彼女にそれを言ってもらえるだろう。考えるけれど、この俗物的な頭にはそんな情緒的な回答が浮かぶわけはなくて、ただ欲しがってしまうだけだ。
「……アンタに、ちゃんと言われたい」
そしたら、オレは、アンタのお望みのものを返せるかもしれない。
なんとなく悔しくてその言葉は言えなかったけれど、視界に捉えた彼女の目が、サンドイッチをおいしいと言ったときより、助かっていると言ったときより、ずっと嬉しそうに緩やかに細まっていくから、どちらにしろ悔しくてたまらなくなった。耳がひとりでに前を向いてしまって、困る。
「ラギー先輩」
「……はい」
「好きですよ」
あんなに腹の中に溜まっていたモヤモヤと、心臓をじりじりと焦がしていた焦燥感は、もう跡形もない。その代わり、さっき想像したとおり身体中がふわふわした何かでいっぱいで、まるで満腹みたいに錯覚する。
たとえば、「オレも好きだ」と返したとして、それでも彼女の一言には、きっと敵いはしないだろう。