みょうじなまえの存在に初めて気付いたのは、高校生になったその日、入学式を終えてすぐのホームルームで、お決まりの自己紹介をしていたときのことだった。名前と出身中学、それから適当なあいさつ。クラスメイト達のそれをぼんやりと聞き流していた僕の耳に、聞き慣れない学校名が滑り込む。たしか、ここから電車で一時間ほど行ったところにある駅と同じ名前だ。引っ越してくるほどの距離でもないから、わざわざ電車で通ってきているのだろう。烏野高校は、偏差値が特別いいわけでも悪いわけでもなく、ここへ通う生徒の大半が「家が近いから」という理由でこの高校を選ぶ。そんな高校に、遠いところからせっせと通ってくるほどの理由がとくに思い当たらなくて、もの好きもいるものだと興味本位で彼女の姿を目にしていた。これはあとから知ったことだけれど、彼女と同じ出身校の生徒は彼女の他にひとりもおらず、彼女はたったひとりで見知らぬ土地の高校へやってきたのだそうだ。
――まるで、なにかから逃げだしてきたみたいだ。
そのときはそんなふうに思ったけれど、彼女はすぐに友達を作り、特に目を引く行動をするような人間ではなかったから、そんな考えはすぐに僕の中から消え去って行った。
ただ時折、彼女はひどく大人びた顔をする。友達同士で楽しそうに笑い合っているのが大半だったけれど、たまに、そこから一歩離れたところで呆然と立ち尽くしているような目をすることがあったのだ。それは人を見下しているようでも、悲しんでいるようでもなく、どこか遠いところでたったひとり、置いてけぼりになったような、そんな目だ。空虚で、どこか甘ったるい、所々黒ずんだ仄暗く濁った瞳。腐りかけの果実が、眼球に埋め込まれているみたいだ。僕はぞっとする。自分と同じ年の、どこにでもいそうな平凡な女の子が、こんな目をしてしまうことに。僕は彼女のことなんてこれっぽっちも知らなかったというのに、どうかそんな目をしないでほしいと、一言も発することのできない喉で空気を呑みこんだのだった。
初めて彼女と接触したのは、五月の中旬ごろ、授業をすべて終えたばかりの放課後だった。自動販売機の前に立つ僕の後ろで、ジャリ、と砂を踏む音がする。
「あれ、月島くん」
クラスメイトが初めて言葉を交わす時期にしては少し遅いようにも思えるけれど、僕は自分から人に声をかけるようなタイプではなかったし、彼女もそうだ。ただ、唐突に訪れたふたりきりの空間には、思いの外スムーズに会話が流れ出す。
「……ああ、ごめんちょっと待って、いま買うから」
「急いでないから大丈夫。それより月島くん、それ、部活?」
ごく自然な動作で隣に並んだ彼女がそれ、と指し示したのは、膝に巻かれたサポーターだった。そういえば、制服や体操着以外の恰好で彼女と同じ空間にいるのははじめてだ。部活用のTシャツと短パンは、着慣れたもののはずなのに、彼女にそう指摘されると途端に身動きがしづらくなったような感覚がした。むずむずとしたそれを振り切るように、小銭を自販機へ突っ込む。
「……そうだけど」
「何部なの?」
「バレー」 彼女の瞳が一瞬驚きに満ちる。居心地が悪い。
「へえ。月島くんて頭いいのに運動もできるんだね」
「べつに小さいときからやってるだけ。特別上手いわけじゃないよ」
「でも背も高いし、似合うよ」
「……どうも。じゃあね」
バレーが似合うと言われたところでどう反応していいかもわからないし、居心地も悪いしで、僕は早々に会話を切り上げて背を向けた。「部活頑張って」とかけられた言葉に応えることもしなかった。手にしたスポーツドリンクの冷たさがじんとてのひらに染みる。軽い耳鳴りがした。自分に向けられた彼女の笑みが、瞳が、あの仄暗く濁った色をしていないことに、僕はどうしてかひどく安堵していたのだ。
彼女の秘密を知ったのは、それから一ヶ月半後のことだった。梅雨から夏へ移行する期間は、湿気と熱気が鬱陶しいし、いつもより入念に体育館のモップ掛けをしなければならないし、練習に行くのが億劫だ。けれどその日は体育館の照明器具の点検か何かで朝練が休みだったから、幾分かましな気分で玄関を出たのだ。いつもより高く上った太陽から目を逸らした視線の先で、ふと、違和感を感じる。向かいのマンションの住人が出かけるところと遭遇したらしい。そこまでは特に気にかけるようなことでもなかったのだけれど、そのドアをくぐって出てきた人の姿は、あきらかに異様だった。
同じ部屋から出てくる、若い男女二人。ワンルームの部屋ばかりが並ぶ小さなマンションから、若い男女が連れ立って出てくるなんて、答えはひとつしかないのだろう。そういったことに特別興味はないものの、どうしても目は釘付けになってしまう。男はダークグレーのスーツを着て、きっちりネクタイを締めたごく普通のサラリーマン風。しかし、あとから部屋を出てきた女のほうは、見間違いようもないほどに見慣れた、高校生の制服を着ていたのだった。頭を殴られたように思考が真っ白になって、息が止まる。朝日に浴びせられて、人違いを疑う隙もなかった。マンションの塀越しに、彼女――みょうじの仄暗く濁った色の瞳と、目が、合った。
ああ、また彼女は、『あの』目をしている。
「月島くん」
その声は、いつだったか自販機のそばで遭遇したときに掛けられた声と何も変わらない温度をしていた。それなのに、僕の名前を紡ぐ彼女の目は、どこまでも仄暗く濁っていて、僕は無意識のうちにびくりと肩を震わせる。本当なら、僕がこんな風に気を揉む必要はない。それは本来彼女の役目のはずだ。年上の、しかも社会人の男の部屋から登校するところを同級生に見られたのだから、もっとこちらの様子を窺うように、不安そうな目をしていればいいのに。人通りもなくはない昼休みの廊下なんかで、こうやって声を掛けてくるみょうじの瞳の色に、僕は、心底怯えているのだと思った。
ゆっくりと彼女の方を向く自分の足元で、リノリウムの床と上履きが擦れる音がする。今にもどろどろに腐り落ちてしまいそうな、濁った果実の色をした瞳が、どこかオートマチックに細くなってゆく。思わず眉を顰めた。そんな目をして、そのうえ、そんなふうに笑うのか。
「……今朝、見られちゃったよね」
「…………うん、」
「誰にも言わないで、くれるかなあ」
「――うん」
何の色なのだろう、それは。
同年代の他の誰とも違う大人びた表情は、確かに何かを予見させるけれど、それだけじゃない。仄暗くて、濁っていて、でも、甘ったるい。まるで、元々は甘く淡く輝いていたかのような。熟れた果実が、熟し切って腐って朽ちていく様を見せられているようで、見てはいられない。僕の手で、その瞼を覆ってやれればいいとすら、思った。
みょうじは、自分の今までのことを少しずつ話した。彼女とふたりで話す時間は、急速に増えていった。そして、彼女を自分の影に隠してやらなければという使命感みたいなものがむくむくと大きくなっていくのには、見ないふりをしていた。
みょうじがあの朝一緒にいた男は、彼女の出身中学の教師だという。ふたりは、まだ彼女が中学校に在籍していた頃から、恋人同士だったそうだ。中学最後の一年間、彼女の卒業をさみしく、一方で心待ちに、関係を誰にも悟られないまま過ごしていた。けれどどこからか、その関係は『噂』という形でしずかに広がっていってしまったのだ。囁かれる自分の名前と、好奇の視線と下卑た声。肩を縮めながら無反応を貫いて、誰にも本当のことは言わないまま、逃げるように自分と恋人のことを誰も知らない高校へ進学した。けれど、噂のせいでぎこちなくなったふたりの関係は、同じ学校の教師と生徒という関係を離れても好転することはなかったのだ。
「最近ね、冷たいの」
そう話し出したみょうじの瞳は、今日は一層濁って、匂い立つくらいの甘さがした。僕たちがふたりで話すのは、決まって窓際の廊下だった。中庭が覗けるその場所から身を乗り出すように窓枠へ身体を預けて、視線を交わさずに話をする。生徒や教師の往来もあるし、決して静かではないその場所で、なんでもないような顔をして、みょうじの秘密を共有するのだ。ただ、今日は少し違っていた。放課後の、誰もいない閑散とした廊下。遠くで吹奏楽部の演奏が聞こえるくらいで、あとはなにも音がしない。かすかに、お互いの息遣いが聞こえるだけだ。そのくらいの距離にいるみょうじの横顔を盗み見ると、いつもの濁った瞳は伏せられていて、余計な甘さを放って酷い色だった。そんな目をして、恋人であるあの男が『冷たい』のだと、より瞳を濁らせる。
高校生になって、自分でも目を見張るくらいに手足が伸びて、ただ薄っぺらいだけだった身体に女性的な丸みを帯びて、胸も膨らんで、顔つきも大人びた。自分の身体が大人のそれへ変化しているようで、彼に近付いているのだと嬉しかった。そう言うみょうじの目は少し潤んでいる。濁った果実の瞳が溶け出してしまうのではないかと、僕は気が気ではない。
そして、その男に見合う女性になれると喜ぶ彼女の身体的な成長を見て、その男は怪訝そうな顔をするのだと、みょうじは声を震わせるのだ。
「わたしがね、ずっと中学生だったらよかったのにって、言うんだよ」
ガツン、と。頭をぶん殴られたような心地がした。ひどい、吐き気がする。所々が黒ずんだ濁りがじわじわと広がって、熟れきった果実のような甘ったるさがある。けれど腐りかけのそれに、輝きは見当たらないのだ。憧れと焦がれるような熱情を蓄えて、淡く甘く輝いていた瞳が、不信と寂寞に侵食されて少しずつ濁ってゆく。憧れと、信じていたいという愛情だけは消すことができないまま。
――今、ようやくわかった。みょうじのその瞳は、もはや崩れるのを待つだけの、盲目の色だ。
「なまえ」
小さく、一度も呼んだことのなかった彼女の名前を吐き出した。一瞬だけ甘いような、途端に苦みが競り上がってくるような感覚がして、喉は、熱かった。
突然呼ばれた名前に、みょうじは目を丸くしてこちらを見ている。瞳には、涙こそ浮かんでいなかったけれど、今にも雫を作り出せそうなくらいゆらゆらと揺らめく水分の膜が張っていた。たとえば、その光る膜が涙になって瞳から零れ落ちるのだとしたら、いま彼女の瞳に滲む濁りすらも一緒に流れ落ちてくれるのだろうか。濁りが溶けだした涙が、みょうじの頬を伝うのを思うと喉の奥が狭くなって、鳩尾の辺りが悲鳴を上げそうになる。けれど、もしそれが流れ落ちたあとの瞳が、濁りも、甘い輝きも、何もない、まっさらな色をしていてくれたなら、僕は一秒でも早く、彼女に泣いてほしいと思うのだ。
「もうやめたら、そのひと」
「……どうして」
呼吸を止めたように、ぞっとするほど静かな声でみょうじが言った。未だ揺らぐことをやめない瞳の膜は、僕の言葉を待ち望んでいるようにも見える。それが正しくても、間違っていても、僕は次の言葉を止める気など少しもなかった。彼女のために、違う、自分のために。
「制服の女の子を連れ込んでるの見たよ」
ぐらりと一層濁るみょうじの瞳を、逸らすことなく見つめ続ける。他の言葉と何一つ変わらない調子で吐き出した自分の言葉は、彼女を篭絡する虚言でも、自分を宥めすかす言い訳でもないほんとうのことだった。自分の家のすぐそばに居を構えたマンションの住人というのは、意識すればそれなりに姿を見るものだ。見るたびに、というほど頻繁ではなかったけれど、あの男をあのマンションで見た内の一度だけ、こことは少し離れたところにある中学校の制服を着た、まだ見た目にも幼い少女を優しげな顔で家に引き入れる瞬間を目にしていた。あの顔は、少女の悩みを包み解きほぐす兄のように見えた。けれど、みょうじの話を聞いていた自分には、その笑顔がどこまでも汚らしいものに思えて、思わず駆け足で自宅に飛び込み、込み上げる苦々しいものを吐き出していた。あの男の手の下に、みょうじがいるなんて他の何を許せても、それだけは考えたくもない光景だった。
みょうじの瞳は、じわじわと濁りが浸食していく様子が見て取れたけれど、表情や声の調子は存外静かだ。こちらを向いていた視線が、ふたたび窓の外へ向けられる。僕は彼女の瞳を見つめたまま逸らすことはしなかった。
「……月島くんは、わたしが好きなの」
「わからない。そうかもしれない」
みょうじのこころに、揺らぎはないのかもしれなかった。あの男への思いは、こんなことでは覆るものではないのかもしれなかった。けれど、その濁る瞳に映る盲目は、もう醒めようとしているんじゃないかって、信じたかったのは他ならない僕のほうだ。どうして、好きなことや苦手なこと、そんなふつうのことも知らないうちからこんな救えない秘密ばかり知ってしまっていた彼女のことに気持ちを割いてしまうのか。それが好きだってことなのか。そんなこともわからない。だけど僕は、その瞳の濁りが溶け落ちた瞬間のまっさらな瞳を、まっさらな君を、見てみたいと思うんだよ。
早く、泣けよ。
「ねえ月島くん。月島くんは、わたしがおとなになっても、わたしを好きでいてくれる?」
――あたりまえだろ。
それは、あまりにも無責任な気がして言葉にすることが出来なかった。けれど、彼女をこれまでたくさん悲しませて、苦しませて、いまだってこんな顔をさせてしまうロリコン野郎よりずっと、笑わせてやれるだろうと思った。泣きたいときに、目の前で、泣きたいだけ泣かせてやることもできるだろうと思った。何よりきっと、彼女のとなりにいるのが自分だったなら、その瞳をそんなふうに濁らせたままではいさせてやらないのにと、そう思ったのだ。
手を、握る。あたりまえだなんて押しつけがましい台詞は言葉にはならなかった。そのかわり、窓枠に添えられた五本の指をしっかりと握った。冷たいのに、汗で濡れている。まちがっても滑らせて離してしまわないように、強く強く握った。自分の硬く握った指の中で彼女の細い指が微かに動いて、握り返すような動作をする。それとちょうど同じタイミングで、彼女に出会ってから今までずっと、見つめ続けてきたその瞳から、大きな涙が両の目から一粒ずつ落ちていった。西日に反射して、その粒が濁った色をしていたのかは終ぞ知ることはなかったけれど、それらが廊下に落ちて散り消える頃には、彼女の瞳は陽の光を受けてちらちら瞬くだけの、大きなそれを残すだけになっていた。僕はようやく、先程自分が口にした『わからない。そうかもしれない』という感情の正体を知る。この目に、自分の姿を映してほしい。あんな、誰かへの恋心で濁っている瞳より、誰かへの憧れで輝いている瞳より、そのまっすぐでまっさらな瞳に、自分だけの姿を映してほしかった。――だって、これはきっと恋なのだから。
彼女にあんな目をしてほしくなかったのも、泣いてほしかったのも、その目が見たかったのも、全部、全部、――ぜんぶ。