きっかけはたぶん、期末テストのときだった。
 テスト後に行われる東京遠征のため、成績が芳しくない一年コンビの赤点回避に頭を悩ませていたわたしは、文字通り襲いかかる頭痛に見ない振りをしながら必死でノートにペンを走らせていた。一年生部員の中で一番成績のいい月島から、部活前後に勉強を見てもらったのだけでは到底追いつかないうえ、それ以外の時間での勉強会は早々に月島が匙を投げた。そしてめぐりめぐって来たのがわたしと谷地さんのところだったのだ。月島の性格からして、そこまで世話を焼いてやるわけもないし、マネージャーとして部員の熱意には応えなくてはいけない。特別勉強が得意というわけではなかったけれど、縁下さんのところには二年の同コンビが厄介になっているし、三年の先輩たちは部活に熱を入れていると言っても受験生だ。一年生部員の中で何とかできるのなら、なんとかしたほうが絶対にいい。マネージャー候補として最近バレー部にやってきた谷地さんと偶然同じクラスだったことも相まって、わたしと谷地さんの一年四組では、昼休みの度に勉強会が開かれている。
 人見知りもせずむしろ人懐っこい日向は、すぐに谷地さんとも打ち解けた(一方的に日向が絡んでいると言ってもいい)が、もうひとりはあの影山だ。彼の無愛想さや目付きの悪さはいまに始まった話ではないし、彼も悪気があってやっているわけではないのだけれど、人一倍気が小さい谷地さんに相手をしてもらうのは少し気の毒で、谷地さんと日向、わたしと影山というマンツーマン形式がすっかり出来上がってしまっていた。ふたりを一気に相手にするよりはずっと楽だとわかっているはずなのに、問題を進めていくたび、わたしの頭は重くなるばかりだ。

「……ううーん。影山、わたしは頭が痛いよ」
「風邪か」
「……ちがうけど。とりあえず暗記で行けるとこ教えるから」

 要点を絞って効率的に教えてしまおうという余裕は一日目にして潰えた。要点に辿り着くことすらままならないのだから、ガンガンと地鳴りのような音のする頭で、とことん付き合うことを覚悟する。机ひとつを挟んで頭を突き合わせて、影山の教科書とノートを一緒に覗き込む。まずノートが悪い。現代文・古文ともに、原文がしっかり読めなければ意味がないというのに誤字脱字のオンパレードで終いには所々にミミズが張っている。書き写すところから落第点だ。読解どころか文章を読もうという意思がない。この男に『このときの主人公の気持ちは』だとか『この部分を文字数に納まるように言い直して』だとか、逐一説明したところできっと無駄な話である。そっとワークを閉じて、ほとんど使われていない文法書と漢字の書き取り帳を差し出した。

「文法と漢字だけでも完璧にして、あとは記号問題で運に賭ければなんとか……」

 目の前で仏頂面をした男は、眉間に皺を寄せて案外真剣な顔をしている。バレーのために生きているような男だ。そのバレーのために無縁とも言える勉強を頑張ろうとしているのだから、少しは報われないと可哀そうだ。「よし、がんばろ」と努めて明るく声をかければ、「おう」と真面目な返事が返ってくるので、カチカチとシャーペンを鳴らして、前のめりでまっさらな文法書に向き合った――と、そのとき。

「ヒィ!」

 わたしの横で日向に英語を教えていた谷地さんから悲鳴が上がった。びくっと肩を跳ねあがらせて、日向がまた何か無鉄砲なことでも仕出かしたのかと様子を窺うと、彼女は教室の外を見てがたがたと身体を震わせている。

「谷地さん廊下になんかいた?」
「い、いやあの、バレー部の、一年生の、背の高い……」
「月島? 月島がどうかした?」
「すごく、ものすっごく、不機嫌そうな顔で、睨まれました……」

 教室の外に目をやったが、彼女の言うような月島の姿はもうそこには無かった。彼が休み時間にわざわざ教室外に出ることはあまりないから、様子を見に来たわけではなかったのだろう。何かの用事ついでに教室前を通りがかって、この光景を見て、なにか気に入らないことがあったのだ。予想がつかないわけでもない。昼休みに、女の子二人掛かりで必死に勉強を教えてもらうなんてこの馬鹿どもが。といったようなところだろう。あの月島ならなくはない話だ。すっかり怯えた谷地さんの肩を叩いて笑ってやる。それはそうと谷地さんは、素直で真面目で表情豊かで、すごくいい子だ。いままであまり話したことはなかったけれど、最近バレー部を通してよく一緒にいるようになって、これからもきっといい友達でいられると思う。

「それ多分このふたりのことだし、いつものことだから谷地さんは気にしなくていいよ」

 月島のことはちっとも気に留めず、「ほらまた月島にばかにされるよ!」と唆すと、机に覆いかぶさらんばかりに前のめりになるふたりを見て笑いが零れた。赤点回避問題はきっとなんとかなるだろう。不安は少しずつ薄れていったけれど、地鳴りのように続く頭痛はなかなか引いてくれない。自分が思いのほか心配性だったのだと、心の中で大きく溜息をひとつ、した。



 夏は間近だというのに、喉が酷く渇いている。といっても、水分を求めている渇きではなかった。咳払いを二・三度して、喉の奥から吐き出した息がいやに熱い。季節の変わり目でもあるし、風邪かもしれない。そう言えば確かに少し頭がぼうっとするし、あれから頭痛は一向に止んでくれない。心なしか視界も狭まっている気がする。けれどなんにせよ、練習試合や遠征を控えたこの時期に、マネージャー業と谷地さんへの指示で忙しい潔子さんの迷惑になるわけにはいかないのだ。

「影山ごめん! そのモップ持ってきて」
「おう。……みょうじおまえ、なんか顔赤いぞ」

 湿気が酷くなるこの時期は、いつもより入念なモップ掛けが必要になる。コートの隅にモップ掛けの甘いところを見つけ、怪我につながると大事だからとモップを片付けようとしていた影山に声をかける。振り返った影山は、モップの柄を差し出しながら、わたしの顔を見て怪訝そうな顔をした。顔が赤い、と言われて、いよいよ本当に風邪なのかもしれない。けれど意識ははっきりしているし、今日の部活くらい問題ないはずだ。部活が終わったらさっさと帰って、早めに寝てしまえばいい。なんなら明日の朝練だけでも休ませてもらってゆっくり寝れば、すぐによくなる。元々病気には強いつくりをしているし。影山に向かって、大丈夫だと声をかけようとしたところで、伸びてきた掌がその声を遮った。バレーボールばかりを追いかけてかさついた指先が、静かに前髪を掬って、ぺたりと額を覆ったのだ。
 じんと冷たい感触に、思わず目を細めてしまう。

「え、ちょ、かげやま」
「おまえこれ、熱」
「――なにやってんの」

 温度を感じさせない静かな声が、ぞっと首筋を張った。首を捻ると、目線の高さには黒いTシャツの襟口しか見えない。日焼けなど一切していない肌色をした首筋を辿ると、声と同じく、温度の感じられない、色素の薄い瞳と視線がかち合った。わたしが、「月島」と言葉を零すと、彼はその冷えた目線をそのままわたしの奥の人物へと向ける。影山の掌はとっくにわたしの額から離れていた。

「いちゃつくなら余所でやってくんない」
「はぁ? いきなり食い付いてきてなに言ってんだ」

 わたしを挟んで、しかも頭上で繰り広げられる言い合いにぐらりと眩暈がした。影山と月島の言い合いなんていつものことだけれど、なんだか今日は月島の機嫌が最悪なようだ。いつもなら、月島は影山を嫌味な口調でからかって、影山が吠えて終わるくらいのものだったから、怒気すら含んだような声で食ってかかる月島の姿に混乱する。しかも今回は標的が影山だけでなく自分も含まれているのだ。部活が始まろうというのに、どうしたことだろうか。
 思考が頭の中で右往左往して、ぐらついて行く。頭の内側からガンガンと殴り付けられているようで、目も開けていられない。身体の中を熱がぐるぐる廻って、今すぐしゃがみこんでしまいたい。ビリビリとしたふたりの張りつめた雰囲気を肌で感じ取って、もう、頭が痛い。

「……おい、みょうじほんとに大丈夫か――」
「ちょっと」

 力の入らない腕を強く掴まれた。足はまだふらつくことなく地面に立っていられたけれど、その支えがあるだけで少し楽になった気がする。ぼんやりした視界でふたりを見上げると、焦りを見せる影山と、いまだ不機嫌さの消えない顔をした月島がこちらを覗き込んでいた。不機嫌そうで、睨まれているに等しい目付きでこちらを見ているくせに、腕を掴んで支えてくれているのも紛れもなく月島なのだ。混乱と頭痛とでひどい状態の頭を置き去りに、強く掴まれた腕が、その掴んでいる力からは想像もできないくらいにそうっと、わたしのことを引き寄せる。

「顔色最悪。しかも熱あるでしょ。なんで休まないの、馬鹿なの」
「……や、大丈夫だから」
「いいから。保健室行くよ」
「え、いいよそんな」
「うるさい。黙んないと抱えていくから」

 その一言でわたしを押し黙らせた月島は、「先輩たちにそう伝えといて」と影山に言い捨ててゆっくりと歩き出す。引きずられるようにしてついて行くわたしの後ろで、呆気にとられた影山が「お、おお」とうろたえている声だけが耳に届いた。
 体育館を出て、校舎へ続く渡り廊下を歩く月島は前だけを向いて歩いていて、こちらを振り返ることはしない。体育館と校庭から響く運動部の掛け声がどんどん遠ざかって、校舎へ入る頃にはそれはもう聞こえなくなっていた。しっかりと腕を掴んだままの月島は、こちらを向かないままだったけれど、ふと立ち止まって、呟くようにして言う。

「本当に歩けるの。無理そうならおぶって行くけど」
「……ううん、だ、いじょうぶ」
「……そう」

 そう言ってふたたび歩き始めた月島のその歩みは、先程よりずっとゆっくりしたものだった。腕を掴む手の力も、最初は痛いくらいの力だったはずなのに、すっかり優しいものに変わってしまっている。さっきまでの不機嫌な様子がひっそりと息を潜めた彼の様子に戸惑っていると、リノリウムの床を滑る上履きの音で掻き消えてしまうくらい小さな声で「具合悪いの、気付かないで食ってかかって、悪かったよ」なんて謝ったりするものだから、驚きと、もうひとつうまく言い表せない感情のせいで「……うん」としか返事をすることが出来なかった。なんだか、さっきよりも顔が熱い。ガンガンと響く頭痛は変わらずだけれど、その音と同じくらいに大きく胸を叩く心臓の音には、気付けないままだった。
 保険医である女性教師は、月島がわたしに熱があるのだと聞くと、ベッドをひとつ明け渡したあと、月島に体温計を押しつけて家庭科室へ向かって行った。なんでも家庭科室の大きな冷蔵庫に氷嚢を保管してあるのだという。わたしがベッドに寝転ぶのを見届けて、すぐに練習へと戻るのかと思われた月島は、キャスター付きの丸い椅子を引きずってきて、ベッドの脇でそれに座った。なにも言わないままにこちらを見つめてくる視線に耐えきれず、そっと目線を逸らして口を開く。

「あの、ありがとう月島。もう練習戻って大丈夫だよ」
「あのさあ」
「……話聞いてる?」
「影山と付き合ってるの」

 逸らしたばかりだというのに、今度は目を見開いて月島のほうを凝視してしまった。月島が人の話を聞かずに話を進めることは珍しいし、その上恋愛関係の話を振ってくるなんてよっぽどだ。何事だろうかと不思議に思ったけれど、凝視した先の月島はまるで何でもないような顔をしてこちらを見ている。黄味がかった、色素の薄い茶褐色の瞳の奥にわたしがいる。揺らぐことのない視線に返事を急かされているような気分になって言葉を探したけれど、うまく働かない頭では気の利いた言葉が見つかることはなかった。

「つ、付き合ってるわけないでしょ」
「じゃあ好きなの」
「違うよ。なんなのその話」

 要領を得ない話し方に眉間に皺が寄って行くのを感じる。対する月島は表情を変える様子はない。質問ふたつを否定すると、ふうん、と気の抜けた相槌を打って、膝の上に肘をたてて頬杖をついた。そのときようやく自分から月島の視線が外れたことにホッとして、小さく深呼吸を一回。すぐさま横目の視線が降り注いで、またしても息が詰まった。何を考えているのか分からない瞳の奥に、やわらかな色が見え隠れしている気がして、見ていられなくなる。さっきから止まない心臓の音と、うまく言い表すことのできない感情は、胸のあたりで騒いだままだ。
 月島の目を見ていられなくなって、逸らした先に見つけたものも、きっと気のせいだ。何でもないような顔をしている月島の耳の先が、少しだけ赤らんでいるなんて。

「――あんまり、触らせないでよ」
「……え」
「昼休み、勉強教えてるの見たけど、近づきすぎ」

 月島の言うことに全く追いついて行かない思考の中で、フラッシュバックするように思い起こした。昼休みに谷地さんが言っていた、『月島がこちらを睨んでいた』という言葉。わたしはてっきり、いつものように日向と影山を馬鹿にした目で見ているものと思っていたけれど、そうではなかったのだ。日向と影山ではなく、影山と、わたしを見ていた。それが気に入らなくて睨みつけて、熱を測ろうとわたしの額に触れた影山に食ってかかるなんて、そんなの。相当な鈍感でない限り、それがどういう意味かなんて、自惚れなくたってわかってしまう。

「取られたくないから言うけど、君が好きだよ」

 元々眠ってなんかいなかったけれど、目が、醒めるような心地だった。月島がわたしを、『好き』だというのなら、影山へ向けていたのは『嫉妬』という感情なのだろうか。嫉妬していたから、触らせるなと言ったり、近づくなと言ったり、わたしを取られないように、『好き』だと告げたというのだろうか。あんなにわかりやすい不機嫌さを覗かせて。そんなの、いつだってスマートで余裕ばかりを振りかざす、月島らしくない。その月島らしくない様子を見せられてから、ずっと心臓をうるさくさせられていたのは、他の誰でもなく、わたしだった。
 何も言えないまま、熱とは違う理由で顔を赤くしてしまうわたしに気を良くしたのか、いつもの余裕ぶった、どこか嫌みたらしい笑みを浮かべて、そっと月島の手が差し伸ばされる。衝動的に瞑った目のすぐそばで、冷たい指が汗を吸った髪をそっと梳かし、固い指の背がゆっくりと頬を滑って行くのを、確かに感じた。

「これで、おあいこだね」

 影山のものとは違う指先は、彼のものと同じく冷たく感じたというのに、月島の触れたそこだけが、じわじわと熱を放っていた。――おあいこなんて、思ってもないくせに。

あのこがほしい

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