「はじまり」は、あのときだった。
 ブルーロックから一時的に離れ、それまでの間に連絡を取ることのできなかった彼女が、泣きそうな顔で「ふられちゃったかと思った」と微笑んだ、あのとき。俺は、腹の底から震え上がるような激情が自分の中で沸騰するのを感じた。それは、自分が「彼女から愛されている」ということの証明だった。
 最近、彼女が自分を好きと言ってくれるまでのことを、あまり思い出せない。ブルーロックに行くまでも、そう思うことは何度もあった。サッカー以外の――学校生活や、友人たちとのやりとりが、自分の脳内に留まっていかない。それまで、自分がどんなことを考えて、どんなふうに過ごしていたのか、思い出そうとすると霞がかかったように朧げになる。
 その代わり、俺は彼女のことを思い出した。
 自分――いや、そもそも年下の男なんて眼中になさそうな、目が合うと一度瞳を丸くしてから、微笑んでくれる人。自分には何の徳もなく、学年の違う男だらけのサッカー部は居心地が悪かっただろうに、嫌な顔ひとつせずに自分たちを支えてくれた。そんな人が、自分のことを好きだと言ってくれるなんて、俺にとっては突然横面を引っ叩かれたような衝撃だった。
 そのとき彼女に抱いていたのは、尊敬や感心、何にせよ「恋」とは違う感情だったはずだ。けれど、この人が自分へそういう感情を向けているのだと知らされたとき、指の先が痺れたように感じたのだ。
 彼女――なまえさんと恋人同士になってから、そして彼女のあの表情を見たときから、自分の中で感情が目まぐるしく塗り変わっていく。彼女が焦げた砂糖みたいな色の虹彩を溶けさせたり、寂しさを閉じ込めるように唇を噛むのは、自分のことを好きでいてくれるからだと、ひどく単純で劇的な方程式にたどり着いたとき、俺は自分が彼女に恋をしたのだと気付いた。
 そして、その感情は着実に自分の全身を満たして、侵食されていく。自分でも取り返しのつかないところまで。

「世一くんのこと応援してる。一番」

 サッカーのために日本を離れる俺の背中を押すように、そう言葉にしてくれたなまえさんの表情を見て、血液が頭の天辺からとてつもないスピードで引いていくのを感じた。身体の機能が低下して、目の前のそれを捉えることだけに、集中しているような感覚。

「でも、寂しくなっちゃうんだ」

 続けて「ごめんね」と付け加えた彼女は、寂しさと罪悪感とがないまぜになったような、そんな自分に困惑しているような、そんな顔をしていた。俺はそのあまりの美しさに、思わず唇を噛み締める。
 健気さと、俺を責めるような言葉をこぼしてしまうほどの感情、そのうえで自分を律しようとする清廉さに、めまいがしそうだった。そうさせているのが、自分への愛情なのかと思うと、俺は。

「……俺も、寂しい」

 それから、すごく嬉しい。
 言葉を堪えるのに必死だった。自分がすべてに満ち足りたような充足感が、全身の輪郭をびりびりと痺れさせる。湿っぽい息が、喉の奥から込み上げるようにして溢れた。
 腕を伸ばして、目の前の身体を抱き寄せると、彼女は一瞬だけ震えて、ひるんだような目でじっとこちらを見つめる。それから急いで肩口に顔を埋めてそれを隠すが、表情が見えなくなるまでの間にしっかりとその眼差しを捉えていた俺は、ふたたび自分の頭から血が引いていく感覚を味わっていた。
 ――気掛かりなことがある。
 彼女はこうして、俺が彼女に愛されていることを確かに示してくれているのに、時折何かに怯えるような表情をする。俺と目を合わせる以上に、目の奥の奥を凝視して、まるで、そこに他の誰かを探しているような。見つからないことに不安を感じて、迷子になっているような顔をするのだ。
 それが嫌だ。すごく、すごく嫌だ。
 胸元に顔を埋めた彼女の肩をゆっくりと引き剥がして、その瞳を見つめる。そこにはもう先ほどの怯えは浮かんでいなかったが、俺の頭はずっと冷え切ったままだった。まぶたの上に唇を押しつける。彼女は大人しく目を閉じた。本当は、そのまぶたを無理矢理にでも開かせて、まぶたの奥にある眼球へ齧りつきたかったと言ったら、彼女はまたあの眼差しを浮かべるんだろうか。
 なまえさんは俺の前でだけ微笑んで、俺のために寂しさや不安を抱えていてほしい。それが、自分に「愛されている」実感をもたらして、俺は彼女を心の底からいとおしいと感じる。
 それがよかった。それでよかったのに。


 ◇


「ごめんなさい。別れてほしい」

 日本を離れるまでの残りわずかの時間を彼女と過ごしていたある日の午後、なまえさんから告げられた言葉に、一瞬にして全身の力が抜けていくのが分かった。
 膝同士が触れ合ってしまうくらいの狭いソファで、彼女は俺の視線から逃れようと首を折って自分の膝の上で握っている手を見つめている。

「……なに言ってんの?」

 自分の声は、思いのほか静かだ。でもそれは、自分が冷静なわけでも、聞き流しているわけでもない。彼女の言ったことが、何度か脳内で繰り返し再生され、少しずつ腹の底が泡立っていく。自分の感情が、事実に追いついていないだけだった。

「……嘘? 冗談? そういうの俺好きじゃないよ」

 先ほどまで、テレビもスピーカーも付けられていない無音の部屋に何の感想も抱かなかったのに、今はその無音がやけに際立って感じる。失言を撤回できるような問いを投げかけても、俯いて黙したままでいる姿に、これまで彼女へ感じようもなかった苛立ちがたちこめていった。まるで、腹の中に雷雲を孕んでいるようだった。

「黙ってちゃわかんない」
「……ごめん」
「……ごめんでもわかんねーって……」

 今にも、何か酷いものを吐き出してしまいそうで、深呼吸をするように息を吐く。それでも腹の底が静まることはない。
 頑なに目を合わせようとしない彼女が、俺のことを拒絶しているみたいに見える。拒絶して、彼女の言った「別れてほしい」という言葉が、嘘でも冗談でもない本心からの言葉であるかのように現実味を帯びて、心臓が嫌な音を出した。

「……俺のこと好きだって言ったのはなまえさんだろ」

 呟くと、俯いたままの彼女の肩がびくりと跳ね上がる。その反応に、釣られるようにして身体の中の波が荒立っていく。
 そうだ。最初に俺を好きだと言って、俺にこの気持ちを気付かせたのは他ならない彼女だ。なまえさんが俺を好きになったから、だから俺、こんなふうになったのに。

「俺のことこんなふうにしておいて、捨てんの?」

 ぽつりぽつりとこぼれていく言葉は、彼女の返事を必要としていなかった。今まで自分の中で明確になっていなかったことを、言葉にして正しく認識する作業だった。ひとつひとつがパズルのピースみたいに散らばって、でも、それらは凹凸が噛み合わず一向にきちんとした絵にはならない。
 そりゃそうだ。だって、こんなのは間違っているのだから。

「俺と別れて、ほかの男を好きになんの?」

 自分で口にしておいて、数秒遅れでその言葉の意味に気付く。彼女を見つめ続けても、その瞳がこちらを向くことはなく、まるで俺の言ったことを彼女が肯定しているみたいで、目の前にパッと火花が散った。
 俯いたままの彼女に手を伸ばし、顔の輪郭を掴む。力なく項垂れていたそこは何の抵抗もなく自分の手によって固定され、上を向いた。ずっと俯いていたせいで垂れ下がった後ろ髪が顔の前にかかり、乱れたその姿は、どこか自分に抱かれているときのその人の様子を思わせる。
 でも、その奥にある表情は違う。焦げた砂糖みたいな色の虹彩を溶けているのでも、俺のために寂しさを閉じ込めるように唇を噛んでいるのでもない。怯えているように、俺の目の奥の奥を凝視して、まるで、そこに他の誰かを探しているような。
 目の前の自分ではない、誰か別の人間を。

「――ふざけんなよ」

 おかしいだろ。そんなん許すかよ。彼女に聞かせるでもない独り言みたいな声がぼろぼろこぼれ落ちる。
 彼女から愛されたことが、自分たちの始まりだったはずだ。始めたのは、彼女だったはずだ。だから、彼女のほうから終わらせようだなんてことは許されない。
 自分の考えていることと目の前で起こっている事象の乖離に、頭が混乱する。くらくらする頭で、始まりの日を思い出した。
 放課後の教室で、練習試合のことや顧問の教師の愚痴みたいな取り留めもない世間話をしながら、とても告白をしているとは思えない優しい声と表情で、「潔くんのこと、好きになっちゃった」と言ってくれた。俺のことが好きだって、彼女はそう言ってくれたのだ。
 そんな、震えた声色や、知らない人間を見るような怯えた顔じゃない。

「よ、世一くんのこと、好きなのか、わかんない」

 ブツン、と瞬断されたコンピューターみたいに、一瞬にして目の前が暗く閉ざされる。こめかみに押し当てられた銃口から鉛玉が直接頭にぶち込まれる。そんな衝撃で、しばらく脳が揺れた。顎にアッパーパンチを食らったボクサーというのは、こういう感覚なのかもしれない。吐きそうだ。

「なまえさんさあ」

 口から出てくるまでの間でどこかに引っかかって、掠れた声が漏れる。ギターの弦が擦れたような音。
 ひずんで、耳障りで、鼓膜に張りついて剥がれない。

「俺のことめちゃくちゃにして楽しい?」

 輪郭を掴む手がぶるぶると震えた。短い爪が皮膚に食い込むのが分かって、でも力を緩めることができない。彼女は眼球がこぼれ落ちそうになるほど目を見開いて、心底傷ついたように顔面を白くした。自分の焦燥感が、その様子にすら煽られていく。

「……そ、んなこと、してな」
「してんだろ」

 傷ついているのも、絶望しているのも、俺のほうだ。なのになまえさんは言葉の原型を留めないほど声を震わせて、俺はその声を食うように言葉を遮る。

「俺のこと好きだって言って、死にそうなくらい好きにさせといて、捨てんじゃん。そんなひでえ女だったの?」
「ち、ちが、う」

 そこで初めて、彼女が抵抗を示した。掴んでいた顔が、頭を横に振るような動きをする。こちらを見上げる彼女の目には、水の膜が張って、黒い睫毛が細かく震えていた。その様子を、じっと見つめる。目が乾く。
 なまえさんの潤む瞳と、俺の言ったことを否定しようと震える姿を見ていると、瞬間的に膨れ上がった熱が徐々に鎮まっていった。鎮まって、そこで止まることなく、そのまま冷えていく。さっきまで煮え湯を飲まされたみたいに身体の中が熱かったのに、今はぞっとするほど冷たくて、その身体の中から、同じようにぞっとするほど優しい声がこぼれた。

「――うん。違うよな」

 自分の顔なんて見えないのに、俺は自分が微笑んだのだと自覚していた。それなのに、なまえさんはまるで凍りついたように表情を強張らせるから、「なあ」と反応を促すように語りかける。
 輪郭を掴んでいた手から力を抜いて、頬を包み込むようにしながら吐いた言葉は、自分自身にも言い聞かせるような声をしていた。

「なまえさんはさ、優しくて、寂しがりで、不安なのにいつも俺のこと応援してくれて……俺のことが一番好きだったはずだろ」

 なのにどうしてこんなことになっちゃうんだろう。俺には分からない。不思議でたまらない。
 ――そうやって、この人のことが好きだと思うよりも先に、この人に愛されたいと思う自分に幻滅する。でも、そんなことももう分からなくなっていた。
 強張ったまま解けない身体を引き寄せて、そっと彼女の左胸の上へ手を触れさせる。跳ねるように反応した彼女の姿に、首の裏がざわつくのを感じた。

「……あ、」
「ハハ、すげードクドクしてる」

 耳元でそう吹き込んで、ちゅう、と耳殻にキスをする。左胸の上にあった手をそのまま身体に沿うように下ろして、服の下へくぐらせてからふたたび胸に触れた。直接触れる肌は柔く生ぬるくて、自分の手を押し上げるほどに激しく鼓動する彼女の心臓の脈拍を感じる。
 なまえさんは黙ってされるがままだった。薄く唇を開けて、そこからわずかに息の切れる音がする。酸素の入る場所が狭くなっているみたいに、浅い呼吸を必死に繰り返す姿が可愛くてしかたない。

「息が詰まる? 苦しい?」

 俺の唾液で光るほどに濡れた耳が真っ赤だった。問いかけると、彼女は頷く。俺は、たぶん笑っていた。

「それってさ、恋だよ」

 心臓が壊れるくらい脈を打って、息が苦しいくらいに胸がいっぱいなるなんて、そのほかに何がある?
 俺はそれをよく知っていた。だって、俺がそうだからだ。彼女が、俺をそうさせたのだから。彼女が俺と同じように感じているというのなら、それってつまり。

「なまえさんは、俺が好きなんだよ」

 呟いて、それから肌の上を辿っていた手を背中に回し、抱きしめる。わずかに彼女が背中を反らすほど力を込めて、頭を擦り寄せると、お互いの髪が混ざり合うのを感じた。
 されるがまま、淡々と並べられる俺の言葉を静かに聞いていた彼女は、耳を澄ませなければ聞こえないような微かな声で、息を吐くように言う。

「……そう、なのかな」

 頭が真っ白に痺れた。穏やかな午後だったはずの部屋は、日の傾きに従い、薄暗く陰る。その部屋の中で、俺の身体に埋もれる彼女が、もっとも暗い影の中にいた。
 込み上げてくる感情を堪えられない。息を止めても居られない。溢れてしまう。

「――あは、」

 影があまりに暗いものだから、彼女の目に映っているはずの自分の姿が見えない。でもそんなのはどうでもよかった。もう、彼女を塗り替えてしまいたいという己の欲求しか分からなかった。
 なあ、なまえさん。そう頭の中で彼女へ語りかけているのに、目の前にある唇を塞いだせいで、それは声にならず消えていく。それでも、頭の中で声は止まなかった。まるで、自分以外の誰かが囁いているみたいだった。
 ――なあ、なまえさん。恋という感情も、自分の身体がつくり変わるような劣情も、あなたが教えてくれたもの全部、今度は俺が教えてあげるから。

めちゃくちゃ

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