心を奪われて、そばにいたいと願うことの、何が間違いだったのだろう。目の前にあった姿は決して偽りなどではなく、「それ」がのちにどういうものへ羽化するかなんて、知りようもないことだ。ただわたしが、運悪くそれを引き当ててしまっただけなのだろうか。もし、彼じゃないべつの人だったら。
 いまとなっては、そんな「もしも」は少しだって自分を慰めてはくれない。
 
 表情が豊かなところを好きだと思った。感情に抗わず、目を丸くしたり、声を上げたりして、よく笑う。人のいいところを見ようとする前向きなところも、自ら前に立とうとはせず人の輪の中で穏やかに笑っているのに――サッカーをしているときだけは、熱いような冷えたような目をするところも。
 相手はふたつも年下の後輩だったけれど、わたしにプライドや見栄なんてものはこれっぽっちもなかったから、先輩やあるいは同級生に恋をしてそれを伝えるのと同じように、告げた。

「潔くんのこと、好きになっちゃった」

 世間話をしているときと変わらない声をしていたことに、自分でも少し驚いた。来週末にある練習試合のこと、サッカー部の顧問をしている教師の授業では部員が当てられやすくて面倒なこと、学校のそばにあるコンビニがおかしな中華まんを売り始めたこと。そういう他愛もない話題の中へ唐突にこぼれ落ちてきた言葉にしばらくの沈黙が流れる。
 目を丸くしてぽかんと口を開けたままでいる彼は、ゆっくりとその顔を赤く染めていった。自分は告白された側なのに、わたしより彼の方がずっと取り乱した様子で慌てている。

「……は、え、俺……すか」
「うん。潔くん」

 潔世一くんは、ただ同じ学校の後輩というだけで、特に関わりのある男の子ではなかった。ほんの少しの期間、マネージャー業を手伝ったことが縁で知り合っただけ。
 年末から年明けにかけて開催される全国高校サッカー選手権に向けて、サッカー部の活動は強化されていくけれど、三年生の部員たちは全員が部活に残るわけではない。試合と自分たちの受験勉強を天秤にかけ、先に引退の選択をする部員もいる。そういうわけでマネージャーの数が減ってしまったから、選手権で仕事の多い期間だけ、手を貸してほしいと教師から頼み込まれたのだ。すでに推薦で進学先が決まって暇をしているだろうと言われては、断る理由を見つけられなかった。
 知り合いのほとんどいない、しかも大きな大会に向け緊張感が高まっている集団の中にいるのは居心地が悪かったけれど、そんなわたしを気にかけてくれたのが潔くんだった。彼は一年生ながらレギュラーメンバーに選ばれていたのに、雑用は一年生の仕事でもあるからと言って手を貸してくれて、穏やかな彼の雰囲気にひどく助けられたのを覚えている。マネージャー業を手伝ったのは一ヶ月程度の短い期間だったけれど、それ以降も彼とだけは交流が続いていた。
 だから、わたしが告白したくらいで耳まで赤くして慌てている姿になんだか嬉しくなって、小さく笑ってしまう。ひとしきり慌て終えた潔くんは、ウロウロとせわしなかった視線をそっとこちらへ向けて様子を伺っているようだった。

「……なんで、先輩が俺なんか」
「素直で可愛いし、サッカーに貪欲なところ、かっこいいから」
「……あざす」

 視線がまた地面へ落ちて、ものを咀嚼しているみたいに唇をまごつかせている。その様子が可愛くて、期待してしまう。「潔くんがよかったら、付き合ってほしいって思ってて……」と呟くと、地面を見つめていた視線が再びせわしなくうろつき始めた。返事はすぐには返ってこず、落ち着きのない素振りに先程の自分の期待は的外れだったのだな、と肩を落とす。
 たしかにそうだ。潔くんは何よりもサッカーを一番に考えている人だし、そんな中で恋愛に気持ちを割こうとは思わないだろう。異性から好意を示されることに慣れていないがゆえの反応があんまり可愛いから、勘違いをしてしまった。罪な人だ。

「急に変なこと言ってごめんね。忘れてもらっていいから」
「えっ!」

 答えを察して話を切り上げようとすると、彼が声を上げる。思わぬ大音量に肩を震わせると、何かを訴えかけるような目と視線がぶつかった。相変わらず、耳まで真っ赤だ。

「……あ、ええと、あの」

 意味をなさない言葉を繰り返したあと、彼は先程とは対照的にひどく小さな声で「よろしくお願いします」と呟いた。わたしは驚いて何度か瞬きをしてから、「いいの?」と問う。彼は無言で、一度だけ大きく頷いた。
 そうして、わたしの片思いはめでたく実り、彼はわたしの「恋人」になったのだった。


 ◇


 世一くんと恋人同士になってすぐ、わたしは高校を卒業した。東京の大学に進学して一人暮らしを始めたため、物理的に距離が離れ、同じ学校にいたときより顔を合わせる機会はかなり減ってしまったけれど、大きなトラブルもなく彼との付き合いは順調に続いた。
 そんなとき、彼が強化指定選手に選出され、合宿へ行くことになったと聞かされたのだ。選手権の県予選決勝で敗退してしまったことを悔やんでいたから、彼と一緒になってわたしも心の底から喜んだ。
 しかし、その合宿に行ったきり彼からの連絡がぱったりと途絶えたのだ。サッカーに熱中すると、周りのことが見えなくなってしまうのは彼の通常運転だったけれど、それでも彼はまめに連絡をくれていたし、ここまで音信不通になることはなかった。自分の中で立ちこめる悪い予感に、必死で見ないふりをする。――ただ、悪い予感は当たるものだ。
 彼は、U20代表とのエキシビジョンマッチという大舞台で日本中へその存在感を露わにしたのだ。姿形はたしかに潔世一その人なのに、多くのテレビカメラに囲まれるその人のことを、まったく知らない人のように感じる。
 ディスプレイをぼうっと眺めながら、わたしは、自分がひどく矮小な存在であると今まで知らずにいたことを、誰かに辱められたような衝撃を受けた。耳元で、「おまえのような凡庸な人間が隣にいられるだなんて、本当にそう思っていたのか?」と囁かれたような気分だった。実際にわたしへそんなことを言う人間はいないし、ただ自分自身の深層心理がそう感じさせているだけだと分かっているのに、その感覚は背筋をぞっと凍らせるように――本物だったのだ。
 しかし、そんなものは杞憂で、錯覚に過ぎないことをわたしはすぐに実感する。
 その試合の翌日、彼が家へやってきたのだ。息を荒げてドアの前に立つ彼は呆然と玄関に立ち尽くすわたしの肩を掴んで、合宿が始まってすぐに連絡手段が断たれたことや、今日ようやく二週間の休暇がもらえたことを捲し立てて、謝罪をしてくれた。そのあまりの必死さに、深呼吸をするときのような深いため息がこぼれ、自然と口角が和らぐのを感じた。

「ふられちゃったかと思った」

 呟くと、彼はぎゅっと顔に力を込め、泣きそうな表情をする。開け放したままのドアから玄関に足を踏み入れ、彼の奥でドアが閉まるのと同時に、腕を引かれてわたしはきつく抱きすくめられた。
 これまで、彼と付き合ってきて交わしたキスも抱擁も、そのすべてがこちらの様子を伺うように、おそるおそる行われる行為だった。そんな彼に、こんなふうに衝動に身を任せて行動するような一面があるだなんてわたしはこれまで知らずにいたのだ。なんだか息苦しく感じる理由が、彼に強く抱きしめられているからなのか、それとは別の理由なのか、わたしには分からない。でも、分からなくてもよかった。

「っごめん、そんなわけない。俺、なまえさんのこと好きだよ」

 わたしが彼に恋心を持ったことがはじまりの関係だったから、こうして彼の感情が自分の方に向いているのだと実感すると、目の奥がじわりと熱くなる。隠すように目を閉じて、彼の肩に押し当てた。背中に回した腕へ力を込めると、それにぴくりと反応した彼の腕に一層力が込められ、圧迫感で呼吸が止まってしまいそうになる。自分の髪に熱い吐息がかかって、喉の奥からこみ上げてくるような彼の掠れた声が、耳元で響いた。

「……なまえさんが、俺のこと好きになってくれてよかった」

 感じ入るような、それでいて安堵するような声色をした言葉は、わたしに聞かせるためというより、彼自身に言い聞かせるもののように聞こえる。きつく身体を拘束していた腕から力が抜け、こちらを覗き込む彼の目には、わずかに恍惚の色が滲んでいるようで、わたしはそんな目をした彼の姿を無意識に記憶の中から探し出そうとした。
 ――でも、いない。いないのだ。わたしの知らない表情をした世一くんは、青く発光する瞳を静かに細めて、まるで内緒話をするみたいにして言った。

「俺さ、なんか、なまえさんと付き合う前のこと、あんまり思い出せないんだ」

 それから、「サッカーのことは分かるんだけどな」と眉を下げて気恥ずかしそうに笑う。わたしは、その言葉が心底嬉しかった。彼の中に、わたしとの記憶が大きな存在になっていることに、充足感を覚えていた。
 なのに、消えないのだ。テレビのディスプレイの中に足を下ろす、今までとは違う生き物のように見える彼の姿が、なぜかささくれのように毛羽立っていた。

 それから、心臓の内壁にささくれが引っ掛かるような、違和感とも不快感とも言いがたい感覚が、時折訪れるようになった。それは決まって、あのときのように世一くんが瞳の色を青く瞬かせるときだ。わたしの知らない、何者かの顔を覗かせる。まるで、潔世一という人がふたり存在しているような感覚。――そして、その「もうひとり」は、少しずつ彼のことを飲み込んでいく。
 彼がブルーロックの全工程を終えてからも、その侵食が止まることはなかった。高校生活に加え、代表選手としての召集、高校卒業後に控えた渡独へ向けた準備と、相変わらず顔を合わせる機会も少ない。彼は、二度とわたしに「ふられたかと思った」というようなことを言わせまいと、こまめな連絡と愛情表現を欠かさなかった。
 高校を卒業したらクラブチームへ所属するためにドイツへ渡る――つまり、今よりずっと距離が離れ、大きな時差もある場所へ行ってしまうことを話してくれたときも、一番にわたしの気持ちを案じてくれた。だからといって、彼はサッカーと、わたしと離れて暮らすこととを天秤にかけることすらしないし、わたしだってサッカーよりも自分のそばにいることを選んでほしいだなんて望まない。
 けれど、それでも拭えない不安はあった。彼に正直に打ち明けられるものと、決して、知られてはいけないもの。

「世一くんのこと応援してる。一番」
「うん」
「でも、寂しくなっちゃうんだ」

 彼が遠くへ行ってしまうことへの純粋な寂しさを口にすると、世一くんは唇を強く噛み締めた。ドイツへ行かないでほしいだなんて、言えるわけも、言うつもりもないのに、自分の感情だけを一方的にぶつけられることは煩わしいだろう。彼が何か言う前に、「ごめんね」と付け加えた。非難に近い形をした自分の寂しさを、許して受け止めてほしいと願ってしまうことへの謝罪だった。

「……俺も、寂しい」

 けれど、そう溢した彼の表情は、わたしの身勝手さを許して受け止めてるようなものではなかったのだ。どろどろに崩れて今にも溶けおちそうな恍惚の目をして、「寂しい」という言葉を発しているようにはとても見えない、すべてを満たされているような幸福そうな顔をしている。
 そしてわたしは、思うのだ。――また、「世一くん」がいなくなった。
 いつだったか彼は、わたしと恋人になる前のことをあまり思い出せないと言っていたっけ。彼のその言葉の意図を知ることはなかったけれど、その感覚には自分でも覚えがあった。自分の中で、彼と恋人になる前の記憶が、ひどく朧げに霞んでいる。けれどそれは、自分が彼への思いで満たされているということとは違った。
 彼が恍惚とした眼差しを浮かべるとき、青く瞳を瞬かせて、冷たい熱を帯びるとき。わたしは必死で自分の記憶の中にいる「世一くん」を探している。でも、見つからないのだ。世一くんは、まるでもうひとりの何者かへ自分が羽化するのを待っているかのようで、わたしはそのときが訪れてしまうのがおそろしかった。そしてわずかな恐怖は、わたしの中を満たしていたはずの感情を、瞬く間に塗りつぶしていってしまう。
 彼はわたしを不安にさせないよう愛情を惜しみなく注ぎ、わたしはそれで満ちた。けれど、そうじゃなかった。それじゃだめだった。わたしの抱える不安は、愛情では消えない。
 そして、思うのだ。わたしは、本当に、いまの潔世一のことを「好き」なのか?


 ◇


 高校卒業を控え、ドイツへ渡る準備をあらかた済ませた彼は、日本を離れるまでの残りの時間を、よくわたしの部屋で過ごすようになった。今日も、彼のために買っておいた部屋着に身を包んで、「明日はここ行きたいな」と無邪気な顔で老舗の甘味屋のホームページをスマートホンで検索している。
 わたしのよく知る「世一くん」の顔をした彼の様子に、罪悪感が音を立てて身体の内側に突き刺さった。

「……あのね、世一くん」
「なに?」

 わたしと彼が座ればそれだけでいっぱいになるソファは、大学生の少ないアルバイト代で買える程度にはチープで、彼がわたしの呼びかけに応じて体重を移動させただけでぎしりと軋む。その音が耳の内側にこびりついて、まるで耳鳴りがしているみたいだった。
 言葉を続けようと吸い込んだ息は、何かから身を隠しているときのようにひっそりとしている。

「ごめんなさい。別れてほしい」

 息をするような閑やかさで、表情の抜け落ちていく彼は、たったいま羽化を終えた、何者かの姿をしていた。

どろどろ

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