世は年の瀬。十二月に入ると一気に街はクリスマスめいて、クリスマスを終えると次の瞬間にはすぐに年越しだ。師走とはよく言ったもので、クリスマスや年末なんて気にしていられないほど忙しい年末の業務を終えて仕事を納めても、やれ大掃除だとか年越し準備だとか、忙しないことに変わりはない。そんな中、今日は毎年恒例になっている仲のいい友人たちとの忘年会が開催されていた。集まっているのは高校時代の友人ばかりで――いわゆる女子会というやつだ。
ドイツにいる遠距離恋愛中の恋人は、向こうのホリデーシーズンに合わせてリーグ自体がしばらく休暇期間に入るようで、クリスマスの頃に帰国して、年明けにまた向こうへ戻るらしい。せっかく日本にいるのだからと、本当は今日の忘年会も断ろうと思っていたのだけれど、彼が「久しぶりに会うんだろ? 行ってきたら?」と言うのでお言葉に甘えた。
サッカーをしているときはともかく、高校の頃と変わらず優しくて温厚で、理解のある恋人である。
「潔とどうなの? 遠距離でしょ? 喧嘩する?」
そんなふうに世一のことを思い返していると、向かいに座っている友人がタイムリーに彼の話題を持ち出した。「うまく行ってる?」ではなく「喧嘩する?」という問いかけのあたり、他人事だと思ってエンタメ性のある話題を引き出そうとしているのが見え見えだ。わたしが本当に遠距離の状況を思い悩んでいたらどうするんだ。多分そうじゃないから、こうやって話題にしてきたんだろうけど。
渋々思い返してみても、喧嘩という喧嘩になった記憶はほとんどない。これは遠距離になる前からもそうだけれど、世一とわたしはあまり喧嘩をしない恋人同士だった。さっきも実感したとおり、世一は基本的に優しくて温厚だ。確かに無意識で自己中心的な部分がないわけではないけれど、それがサッカー以外のところで発揮されることは多くない。わたし自身もあまり意地を張ったりするようなタイプじゃないから、大きな喧嘩に発展したことはないに等しい。というか――
「いや、あんまり……喧嘩になる前にこっちが納得しちゃうっていうか」
「丸め込まれてるじゃん!」
「そんなことは……ないはず……」
丸め込まれているとは、聞こえが悪い。世一は頭の回転が早くて少し理屈っぽいところがあるけれど、気遣い屋なところも作用して、彼の意見を押し付けられたり強制されたりしたと感じたことはない。わたしが純粋に、世一の言うことに納得して、「そうだなあ」と思っているだけだ。だから喧嘩にはなり得ない――そもそも、口で世一に勝とうとした試しがない。
――もしかして、それが「丸め込まれている」ということなのか? 思わぬ気付きに、思考回路の動きが鈍るのを感じた。
「ていうか、めちゃくちゃ束縛されてない?」
「えっ!? 自覚ないですけど」
そんなところへ投下された新たな爆弾に、わたしは思わず声を上げる。先程話を振ってきたのとは別の、偶然同じ会社に勤めている友人が言った。その友人をまじまじと見つめてみるが、彼女の表情におかしな様子はない。本気でそう思っているようだ。それを聞いていた向かいの席に座る友人の、訝しがるような視線が突き刺さってくるのが分かる。
彼女たちは高校時代の友人なので、当然、高校時代の同級生として世一のことを知っている。わたしと仲がいいということも相まって、世一への印象も「サッカー選手」というより「友人の恋人」の方が強いのだ。だから、自然と世一への評価は厳しめになる。
「潔、束縛野郎なの?」
「そんなわけないよ! 優しいし……」
世一のためにも、ノータイムで否定をした。身に覚えがないのだから、そんな事実があるとは思えない。束縛というのは、行動や交友関係を制限したり、こまめな連絡を強制したりすることだろう。世一がわたしの交友関係に口を出してきたことはないし、何かを強制されたこともない。連絡はこまめに取るし、近況を報告し合うこともあるけれど、遠距離恋愛をしているのだからそれくらいは許容範囲だろう。わたし自身、それを負担に感じたことはない。
そういうようなことを弁明のように並べ立てると、じっとわたしの話を聞いていた同じ職場の友人が、腑に落ちないという顔で口を開いた。
「でもなまえ、女子会にしか来ないじゃん」
「それは会社の忘年会とかある時期がお休みだから帰省してきてて……あれ?」
――女子会にしか来ない。
思い返すと、わたしはほとんど会社の飲み会には参加しない。普段時差のある場所にいる世一と電話をしたりするタイミングは限られているから、仮に飲み会に誘われていても世一の方を優先する。今年の会社の忘年会も、偶然それと同じ日に世一が帰国してくるというものだから、当然わたしは忘年会を欠席して空港へ世一を迎えに行った。
でもそれは、世一が強制したことじゃない。今日だって快く送り出してくれたし――今日は、女子会だけど。
「服の趣味も変わったし」
「変わったわけじゃないよ。こういう服のほうが褒められるから乗せられて……あれ?」
――服の趣味が変わった。
確かに、わたしはもともと今着ているような服とは違う系統の服が好きだった。首元がスッキリしているようなものとか、ペンシルスカートみたいに身体に沿った形の服の方が、大人っぽくて細く見えるような気がしていたから。
でも、世一はローゲージのざっくりしたニットとか、カジュアルな方が好きみたいで、そういう服を着ているとよく「俺、それ好き」と言って褒めてくれた。世一に褒められたら悪い気はしなかったし、ゆったりした服は着ていてすごく楽ちんだから、段々と持っている服の系統がそちらへ寄っていってしまっただけだ。
それだって、世一に強制されたことじゃない――今日着ているのも、ハイネックで身体の線を拾わないニットワンピースだけど。
言葉を重ねれば重ねるだけ、友人たちの視線は呆れたように白んでいく。慌てて、決してわたしが嫌がっているのを世一に無理やり強制されていることではないのだと言い含めると、友人たちは「はいはい」と話を切り上げてくれた。流れていった話題に、ほっと息をついたけれど、頭の中でぐるぐると浮遊する疑惑は、飲み会の間ずっと消えてはくれなかった。
◇
飲み会を終えて店を出ると、店先のガードレールへ寄りかかるようにして世一が立っていた。地元だからなのか、特に変装らしきものをしていない世一の姿は友人たちにも一瞬で見つかってしまって、先程までの会話が記憶に新しいので、なんとなく友人たちの顔は見られなかった。生温かい視線が刺さっているような気がして、世一の腕を引き、挨拶もそこそこに友人たちと解散する。
変に焦った様子のわたしに、世一は「え、どうしたの」ときょとんとした顔をしていた。その顔から視線を逸らして、なんでもないと誤魔化してしまおうと首を横に振りかけて、やはり、動きを止める。彼の腕を掴んでいた手から力を抜いて、するすると手を下ろすと、その手を世一の手が捕まえて、きゅっと繋がれた。自分を待つ間、彼は外にいたというのに、そうとは思えない手のあたたかさにスポーツマンの筋肉量と代謝の良さを感じる。
そのまま何も言わずに帰路を歩き始める彼の考えていることを確かめるのは、今しかないのかもしれない。噤んでいた唇をおそるおそる開いて、「……あのさ」と呟くと、世一はこちらを振り向いて、軽く小首を傾げた。
「……わたしの会社の飲み会と、電話するタイミング被ったりすること結構あるよね?」
「……うん。そうかもな」
「あと、世一って結構、服装褒めてくれるよね? それって、その」
そこまで言って、その先どう伝えればいいのか分からなくなって言葉が立ち止まる。どう言えばいいだろう。「それってわざと?」なんて、少し嫌味っぽいだろうか。世一はべつに、そんな深い意味なんてなくやっていることかもしれないのに。
続きの言葉が出てこないまま俯いてしまったこめかみのあたりに、世一の視線が向けられているような感覚がする。焦って唇を噛んだのと、繋いだ手を世一がきつく握り直したのは、同じタイミングだった。
「……バレた?」
ぽつりと落ちてくる言葉に、無言で顔を上げる。想像どおりこちらを見つめていた世一の視線とかち合って、にっこりと晴れやかな笑顔を浮かべて「あーあ。気付いちゃったか」と肩を竦める様子をぽかんと口を開けて眺めてしまった。
何も言えないままでいると、彼はにこやかな笑顔を崩して、眉を下げる。怒られるのを予感している子犬みたいで、喉の奥が締めつけられるのを感じた。
「……ごめん、嫌だった?」
まさか謝られるとは思わなくて、咄嗟に「嫌じゃないよ!」と言ってしまう。世一が本当に、わざと飲み会と電話や帰省のタイミングを合わせたり、洋服の趣味を変えるように誘導しているだなんて、肯定された今でも信じがたいのだ。だって少しも、本当に少しも、わたしはそんなことに気づかなかったのだから。
慌てて否定するわたしを見て、ほっとしたように表情を緩めた世一は、首に巻いたマフラーへ口元を埋めるようにして唸った。
「だって、俺がすぐ駆けつけらんねーのに、男がいる飲み会なんて行かせたくないだろ。女子会に突撃する奴もいるって聞くし、ほんとは女子会も嫌だけどそれは我慢してる」
世一の声は、マフラーに遮られてわずかにくぐもって聞こえるだけで、言葉自体はすらすらと流れていく。言葉を選んでいるのではなく、頭で思っていることをそのまま口にしているような迷いのなさに、鼓動が高まっていくのが分かった。
「服も、俺がいないとこであぶない格好してほしくない。でも我慢させたいわけじゃないから、じゃあ好みを変えてもらったらいいかなって」
マフラーと髪の間から見えている耳が赤い。夜道にぽつぽつと点在している街灯に照らされた一瞬でも、それが分かる。そして、それを聞いているわたしの方もきっと同じだろうことが分かっていた。
だって、世一はいつも優しくて、それから穏やかだ。わたしの話を電話口で楽しそうに聞いて、相槌を打ってくれる。どんな話をしたってその様子は変わらないように思っていたのに、こんなふうに息苦しいくらいの独占欲を抱えていただなんて、わたしには思いもよらなかった。
言葉を途切れさせた世一は、睨むように真っ直ぐ前を向いていた視線を流れるようにこちらへ滑らせる。じっとこちらを見つめる眼差しには、静かで、どこかほの暗い熱が宿っているようで、わたしは頬に吹きつける真冬の風の冷たさを忘れた。
「……俺、重い?」
彼の目には、覚えがある。もうすっかりテレビ越しでしか見ることのできなくなった、彼がピッチを駆ける姿。ゴールだけを一心に見つめる眼差しと、今目の前で彼が浮かべている色が、同じもののように錯覚してしまう。
その色に侵食されていくことを、煩わしいと思うか? そう聞かれて、わたしは無意識のうちに首を横に振った。
「そ、そんなことない」
途端に、彼の目はやわらかく細まり、解けていく。繋いでいた手が持ち上げられて、わたしの手の甲に、彼は自分の頬をぴたりと触れ合わせた。
「うん。なまえが胸見えそうなVネック着てぴたぴたのスカート履いて、一緒にお酒飲む男はさ。俺だけにしてくれたら、うれしいな」
普段はしないような、意地悪で明け透けな物言い。やわらかい色になっても、手を伸ばすのは躊躇われてしまう瞳の熱。
晒されて、囲われて、もう、息をするのだって忘れてしまいそうだ。