今日は運が良かった。定時とは言わないが、終電近い時間まで仕事に拘束される普段よりはだいぶ早い時間。まだ大勢の人が通りを行き交う時間帯に会社を出たところで、携帯電話が震えた。メッセージの受信を知らせる端末を操作して、その画面を呼び出すと、今仕事が終わったから、食事の用意をして家で待っているという旨の文章が綴られている。恋人の名前が送り主に表示されているだけで、どうして文章までがいとしく見えるのか不思議でならない。
 すぐに電話をして、自分も仕事が終わったことを伝えると、電話口とは思えないほどに驚いて、俺よりもずっと喜んでいた。その弾む声を聞いていると、ふわふわと胃が浮き上がるような心地がする。空腹だからだろうか。せっかくだから外で落ち合って、食事をして帰ろう、と話して通話を切る。――本当に、運がいい。ひとりでに口角が緩んでしまうのを止められなかった。
 明日は久しぶりの休みだから、今日の夜のうちから彼女の部屋で過ごすことに決めていた。彼女が手ずから作ってくれた料理を食べるのもいいが、たまにはこうやって外で食事をするのもいい。どうせ明日もずっと一緒なのだから、手料理は明日作ってもらえばいいのだ。胃だけでなく、足取りまでが浮き上がってしまいそうだ。
 仕事続きで、ろくな休みも取れない自分と付き合っているばかりに、休日に一緒に出かけるなんて恋人として至極当然のこともまともにできない。恋人としては落第点であろう甲斐性なしの俺のことを、呆れずに許して、きちんと寂しがって、拗ねたり笑ったりしてくれる。そんな彼女が自分のそばにいてくれるなんて、俺は今でも、その事実を心の底から信じられないままだ。


「あ、ねえ、独歩」

 食事を終え、駅ビルの中を抜けて改札へ向かっている途中で、彼女がそう声を発した。呼び止めるように紡がれる自分の名前と、俺の方へ伸ばされて空中を掻く指。視線や意識はどこか別のところに向かっているのに、無意識に俺を探そうとする彼女の仕草に、ぐるる、と唸り声が出るときみたいに喉が鳴りそうで、急いで空気を飲み込んだ。その指を握りたいと思ったけれど、往来で触れ合うのは、少し気恥ずかしい。

「どうした?」

 動揺を隠して、彼女の視線の先を追う。駅ビルの一角にあるその店はアクセサリーショップのようで、彼女の視線を奪っていたのは、客に一番見えやすい位置にディスプレイされているピアスだった。
 留め具から金色の細い鎖が下がり、その先にしずくのようなガラス玉がぶら下がっている。そのほかにも、ガラスをメインとした様々なデザインのアクセサリーが並んでおり、店の照明を吸収してピカピカと光っていた。

「これ、買おうかな。かわいくない?」

 彼女はそう言いながら、細い指先でそっとピアスの台座をつまみ、耳に当てる。備え付けられている鏡でなく、俺に向かってそのピアスを見せようとしてくれるけれど、俺の意識はこれっぽっちもピアスには向いてくれなかった。だって、ピアスを当てる前に髪を耳にかける仕草とか、俺の方を伺うように見る瞳のまばたきとか、そちらの方が俺にとってはずっと魅力的だ。

「うん、かわいいな。おまえに似合うと思う」

 俺がかわいいと思うのはピアスではないのだけれど、そう言えるだけの勇気はないので、つまらない言葉を吐くしかできない。なのに、彼女はそんなつまらない言葉を聞いて笑顔を向けてくれるから、俺はどこかへ沈んで戻って来られないような事態に陥らずに済んでいる。
 彼女といるときの自分は、まるでまともな人間みたいだ。手にとったピアスを買いにレジに向かう姿を、なんだか幸せな心地で見ていられるし、地下鉄のホームから吹き上げる風に髪を乱されておでこを全開にしている顔もかわいいと思えるし、自分の中にポジティブな感情が生まれているのがわかる。
 彼女がいてくれたら俺は、心が広くて、愛情深い、真っ当な人間でいられるのではないかと、錯覚をするのだ。自分の中の薄暗いところが、どんどん見えなくなっていく。



 二週間ぶりに訪れた彼女の部屋は、自分の記憶の中のものと変化はない。白っぽい木目のフローリングはきれいに掃除されているし、チャコールグレーのソファは、まるで自分の形に合わせてあつらえられているように居心地がいい。帰宅してコートを脱ぐと、俺は早速ソファに座り込んで、そのまま動けなくなってしまう。彼女はソファの隣にある背の低いチェストの前で今つけているアクセサリーを外していて、なんともなしにその姿をじっと見つめた。チェストの上には、彼女がこれまでに集めたピアスなどのアクセサリーが、ケースの中にきれいに並べられているのを知っている。首を傾げるようにして、ピアスを外している横顔から目が離せなかった。白い首筋には髪が一筋垂れて、ネックレスの細い鎖をまとっている。華奢で銀色に光る鎖が、彼女の白い皮膚を引き立てているようにすら見えた。

「なあ、そのネックレスも自分で買ったのか」

 思わずこぼした声は抑揚がない。彼女がネックレスの留め具を外して、鎖が首筋を滑っていくのを夢中になって見つめてしまう。まるで彼女の首にかかるためにあるようなものだったから、それを見つけた彼女の審美眼を褒め称えたかった。

「え、あ……えーっと」

 ぼうっとした思考が、はたと覚めた。歯切れが悪い。彼女を見つめ続ける自分の視線と彼女の視線が一瞬だけかち合って、すぐに逸らされてしまった。気まずそうな顔で言葉を選んでいる様子が伺える。「ええと」「深い意味はないんだけど」と、いくつか前置きをして、彼女は決定的な言葉を言い放った。

「……元彼に、もらったやつ」

 短い言葉と、小さい声。けれど、それは鋭く俺の喉元に突き刺さる。これは比喩でもなんでもなく、本当に、一瞬確かに、心臓が止まったと感じたのだ。

「え、」

 声を発したつもりはなかったのに、呼吸と一緒に言葉が漏れた。ゆるやかで、穏やかだった思考が、ぐちゃぐちゃに乱れていく。自分の耳元で血液が逆流して、止まったと思われた心臓がどっと動き出すのが聞こえた。
 彼女の口から、以前の恋人のことを聞くのは初めてだった。気にしたことがないというわけではなかったけれど、彼女との会話の中でそういった話題が出てくることはなかったし、元恋人の存在を感じたこともない。だから、忘れていたのだ。自分が知らない頃の彼女に、今の俺みたいな、そばに寄り添う存在がいたということ。
 わかっている。当たり前だ。俺みたいな男のそばにいてくれる彼女が、人に愛されてこなかったはずがないのだ。彼女に好意を寄せる奴なんていくらでもいただろうし、その中の誰かと恋人になることだってあっただろう。彼女自身が他の誰かに恋をすることだって、きっと。
 遠いところで正論を導き出す理性は、そのことを理解している。それなのに、飲み込めないのだ。口の中が乾いて、苦くて、喉の奥から鉄の味がする。気道に粘ついた何かが絡みついて、息ができない。

「い、嫌だ」

 浅い呼吸しかできなかった喉が、震えている。絞り出した声も、当たり前のように震えていた。
 ――嫌だ。そうとしか、言えない。脈絡がないことも、言葉の意味が通じていないこともわかっていたけれど、それしか言葉が出てこないのだ。

「嫌だ……だって、おまえ、なんで……」

 彼女に、彼女を思う自分以外の誰かがいたことが嫌だ。
 彼女が、自分以外に思っていた誰かがいたことが嫌だ。
 彼女の中に、自分のいない時間があったことが嫌だ。

「なんで、お、おれのこと、好きだって言ったのに、なんで」

 支離滅裂な言葉がぽろぽろとこぼれてゆく。過去のことを責めるのはお門違いだというのはわかっている。そもそもその頃の彼女と俺は出会ってもいないのだし、俺にだって彼女の前に恋人だった存在はいたのだ。自分のことを棚に上げて、どうしようもないことで彼女を責めるような言葉を吐いてしまう自分に幻滅する。――でも、だって、昔の恋人からもらったものを今でも持っているなんて、そんなのは、だめだ。
 ついさっき、彼女と寄り添って歩いていたときのことを思い出す。彼女といるときの自分がまともな人間だなんて、嘘っぱちだ。心が広くて愛情深い、真っ当な人間でいられるなんて、錯覚だ。俺はどこまでも器が小さくて、執着心ばかりの、欠落した人間なのだ。

「違う、独歩」

 先ほどとは違う、強い言葉だった。はっとして俯いた顔を上げると、彼女は手に持ったままだったネックレスを放り、すぐさま自分の隣へやってくる。膝がつくくらいの距離で、いつの間にか膝に置いたままスラックスを握りしめていた俺の手をとった。

「別れたからって捨てるのももったいなって思っただけなの」

 ぎゅっと強く握られる手と、そのあたたかさに、自分の手が硬く、冷たくなっていたことがわかる。彼女の発する言葉は、前の恋人に未練があるんじゃないか、そのために持っているネックレスなんじゃないか、と濁ってゆく俺の思考を溶かすものではあったけれど、すっかり暗く塗り潰されてしまったそれは、簡単に晴れてはくれない。
 呼吸が浅くて、胸が苦しい。縋り付くように、彼女が握ってくれた指と指を絡めた。

「でも、無神経だったね、ごめんね」

 一本一本指を絡ませるのではなく、ぐちゃぐちゃに握り込んだ指を、彼女も強く握りかえしてくれる。それから、まっすぐにこちらを見つめて謝る瞳の中に、酷い顔をした自分が映り込んでいた。けれど、そんなものに構う余裕はない。
 ネックレスを外した彼女の首筋を見つめる。今はまっさらになったはずなのに、どうしてもそこに絡みついていた鎖のことを考えてしまう。先ほどは、彼女の細い首を引き立てて、そこにかかるためにあるだなんて思っていたのに、今はその鎖が、醜い傷のように見える。
 ぎゅっと、眉間に力が入って、心臓が締めつけられる感覚がした。嫌だ。

「お、おまえに、そんな気がなくても、俺は、嫌だ……」

 彼女に、昔の恋人への未練なんてなくて、彼女の言うとおり、物に罪はなかったとしても、嫌だ。彼女のそばに、自分以外の人間の存在があることが、俺の独占欲に針を刺していく。

「ごめん、心が狭くて余裕がない……こんなんだから重いって言われる……」

 自分の矮小さに嫌気が差す。今の彼女が自分の恋人で、確かに自分を思ってくれていることはわかっているはずなのに、俺はそれだけでは満足できない。
 握っている手は、どんどん力が強くなって、彼女の指を締めつけていく。こんなふうに、俺は彼女の心だって縛ってしまいたいのだ。彼女が痛いと言ったって、やめてと言ったって、きっと離してやれない。

「でも、嫌だ、嫌です……」

 言葉が、自分の感情そのままに吐き出されてゆく。頭で考えていることはもっと整っているのに、口からこぼれてくるのは、ただ純粋な拒絶の言葉だけだ。
 彼女を縛りつけて、駄々をこねる。そのうえこんな自分のことを受け入れて、彼女の中の一番深いところに入れておいて欲しいと思ってしまう。自分と同じだけ、お互いのことだけでいっぱいになっていて欲しいのだ。
 どこまでも欲深く、自分勝手な言葉しか吐けない俺の手から、突然彼女の手がすり抜ける。あんなに強く握っていたのにと、心臓がひやりと温度を消すが、その感覚はすぐに消え去った。

「うん、独歩が嫌なら捨てるよ。ごめんね」

 静かで優しい声が耳元から響いて、手だけで感じていた彼女の体温が、身体中から染み込んでくる。手を解いた彼女は、今度は手だけでなく、腕を俺の首へ回して、強く抱きしめた。彼女にこんなに力があるのかと驚くほどに、息苦しさを感じる。けれど、この息苦しさは彼女の腕の力によるものではなく、彼女の言葉と熱で、勝手に締めつけられる自分の心臓のせいだとわかった。
 喉の奥が狭くなって、熱が迫り上がってくる。じわじわと高まる気持ちが、目の奥に溜まって泣きそうだと思う。その衝動を全てぶつけるように、腕を彼女の背中に回して力を込めた。回した先でも強く彼女の服を握りしめてしまうから、きっとこのニットはくたくたになってしまうだろう。でも、やめられない。

「……前の、男の話とか、しないでくれ」
「うん」
「昔の話でも、嫌だ。く、くるしい」
「うん」

 優しい返事だけをしてくれる彼女の声に浮かされるように、自分の欲ばかりの言葉が溢れてゆく。願い事みたいに、祈るように、俺は、彼女を縛りつける。

「俺のことだけ、好きって、言ってくれ」

 学生の頃みたいな、はじめてできた彼女に思うようなことを、考えてしまう。ずっと、俺だけのことを好きで、ずっと、一緒にいてほしい。浮かれた気持ちではなく、静かで深いところでくすぶっている気持ちだから、たちが悪い。
 身体の中を、いろんな色が混ざり合っているような感覚。どの色も、暗く濁っている。それでも俺が崩れずにいられるのは、彼女のやわらかい声が俺に向けられていて、彼女の腕が強く俺を抱き寄せてくれるからだ。

「好きだよ」
「うん」
「独歩だけ」
「うん」

 好きだよ、と言ってもらう毎に、少しずつ自分の中の波が穏やかになってゆくのがわかる。息が整って、苦しさも消える。彼女の腕がそっと離れて、てのひらが両頬を包んだ。俺はその手を上から覆うように添える。少しも離れたくないと意思を込めた目を見て、彼女は困ったように笑って、俺のことを見透かしたように言うのだ。

「キスしてもいい?」
「……したい。してくれるのか?」
「うん。いい?」

 額が触れ合うような距離で、いい?と囁く彼女に、言葉もなく頷く。彼女から与えられる口づけはまるで何かの薬みたいに、身体中を満たした。触れ合って、離れて、また触れ合う。何度も何度も重なって、その度に満ちて、けれどすぐに乾いてしまう。たとえ飽きるほどにキスをしたって、すぐにまた欲しくなるから、本当の意味で俺が満たされることはない。

「もっと。して、ほしい」

 ほら、もう足りない。彼女のくれる、優しくて可愛らしいキスでは満たされなくなる。もっと、ぐちゃぐちゃして、水の音が響くようなキスがしたくて、俺の手は彼女の頬から頭の後ろへ回った。彼女からのキスが欲しくてそう強請るのに、俺は自分が彼女を乱したくなって、噛み付いてしまう。考えていることと行動とが乖離して、でもそんなこともすぐにわからなくなる。
 ――もう、彼女のこと以外は、何も。



 翌日、二人で再び駅ビルのアクセサリーショップへ出かけた。俺が、彼女に何か贈りたいと言ったからだ。普段は俺に金を出させることを渋る彼女だけれど、昨日のことがあるからか、大人しく「ありがとう」と言ってくれた。自分の贈ったものが、彼女を彩るのかと思うと、身体のどこかが整っていくような心地がするのだ。今日選んだのはピアスだったけれど、他のアクセサリーや服だって、彼女の身の回りにあるもの全てが、俺の買ったものになればいいなんて、極端なことを考える。もちろんそんなことは口には出さない。
 二人で選んだピアスを買おうとレジに向かおうとするけれど、彼女はまだディスプレイの方を見つめていた。どうしたのかと声をかけると、振り向いて笑う。

「わたしも自分で買おうかな」
「え、俺があげたやつあるのに、なんで別のやつ買うんだ」

 素っ頓狂な声をあげる俺を見て、彼女はその笑顔を困り顔に変えた。少しだけしまったと思う。彼女はピアスをたくさん集めているし、日によって違うものをつけている。多分、そういうものなのだろう。昨日、大々的に発露されてしまったせいで、自分の独占欲の吐き出し口みたいなものが緩くなっているのかもしれない。
 ごめん、と思わず謝る俺に、彼女は笑って言う。

「色んなのが欲しくなっちゃうものなの」

 彼女のその言葉が、アクセサリーを指していることはわかっていた。けれど、俺の思考はすぐに別の方向へ飛んでいってしまって、彼女が俺ではない別の誰かを好きになる可能性をひとりでに見出してしまう。彼女を疑うわけではなく、可能性の話なのだから、ないとは言えない話だ。けれど、もしそうなったとしても、きっと俺はそれを許さない、と思う。――許さないし、離さない。
 試着用の鏡に映り込んだ自分の目は、鮮やかな緑色をしていた。

ぼくは怪物

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