あの日からこっち、暗雲が晴れない。彼女を腕の中に収めても、キスをしても、肺の入り口になにかがつっかえているような違和感が消えなくて、気持ち悪い。彼女と恋人になれたばかりの頃は、自分たちの気持ちに差があることなんて分かりきったうえで、この世の春が来たのかと思うくらい舞い上がっていたというのに。

「……ほんとに行くの」

 あれからずっと不機嫌で、ぶすくれた様子を鬱陶しいくらいに貫いていたオレの、ここ一番低い声に、彼女は眉を下げた。なまえは最近、いつもその顔をしている。自分の態度がそうさせていると分かっているのに、その表情はじりじりと鳩尾を焼いた。そんなところもガキの癇癪でしかなくて、いい加減にうんざりする。自分に。

「うん、行くよ」

 ――そして、そんなオレのことを放っておいてしまう彼女にも。
 悪循環だ。その循環を発生させているのはほかならない自分だけれど、じゃあその自分がこんなふうになってしまうのは彼女がオレを不安にさせるからで、ということは結局悪いのは彼女ということになる。
 なまえに責任を押し付ける無意識が、恨めしいくらいに正直だ。目の前で出社の準備を整える彼女は、もうこの部屋でオレとくつろいでいるときの空気を一欠片も感じさせない。皺ひとつないブラウスと、身体のカーブを強調しすぎない程度にフィットする上品なスカート。白い首筋にかかる細いチェーンのネックレスは、窓から入り込む日光でちらちらと光っていた。
 その姿を睨みつけるオレはというと、だるだるのスエットを着て頭は鳥の巣になっている。絡まった髪を解こうと撫でてくれる彼女の指を、ぎゅっと握った。

「……オレが嫌って言ってんのに?」
「歓迎会だもん。行かなきゃ」

 今日、彼女は仕事を終えてその足で飲み会に行くらしい。なんでも、彼女のいる部署に新しい社員(男)が入社してきたようで、その社員(男)のための飲み会なのだそうだ。
 なんで彼女が、そんなよくも知らない会社が同じなだけの男を歓迎しなきゃならないのか。しかも、そいつは彼女の部下になるらしい。それが余計に腹立たしかった。
 彼女は、年下に弱い。それは、誰よりも一番オレが分かっていることだった。だって、それを利用してこの位置に居座っているのはほかならないオレだからだ。
 それを知っているオレは、一層この不機嫌の納めどころを見つけられなくなる。彼女より年下で、それでいて紛れもない大人だというその男は、オレにとっては最上の脅威だ。仕方なくオレに付き合っているだけの彼女は、その男に誘惑されたら、ころっとそちらへ転んでいくんじゃないか。そんな最悪の想像が、腹の中で立ち込める暗雲に雷を蓄える。
 手を掴まれて、それをそのままにさせている彼女は、優しいため息を吐き出す。呆れとは違う、彼女を追いかけていた頃、あんなに好きだった「しょうがないな」のため息なのに、今はなんだか寂しかった。

「マイキーくんが心配するようなこと、なにもないよ」
「そんなん、相手がどう思うかなんて分かるわけなくね? クソチャラい男かもしんねーじゃん」

 名前も知らない、見たことすらない男は、彼女の身近に存在するというだけでオレにとってなによりも凶悪な人間になる。しかし、見知らぬ男を好き勝手こき下ろすオレを、彼女は「こら」と言って嗜めた。

「失礼でしょ。会ったこともない人に、そういうこと言わないで」

 真っ当な文句に、自分の下唇が尖っていくのを感じる。――知ってる。彼女はこういう人だ。
 なまえと初めて会った、ファミレスでの出来事を思い出す。彼女の恋人(今では元恋人)と口論になりかけた(なった)オレを、初対面だというのに庇ってくれた。相手は、さっきまで自分の恋人だった男なのに。
 そういう向こう見ずの真っ当さがかっこよくて、この人に相応しいのはどんな男だろうかと思うようになって、彼女のやわらかい視線を崩すなにかになりたかった。
 でも、彼女の恋人の位置に無理やり収まったオレは、そうなれているだろうか。かっこいいと思っていた部分だったはずなのに、それがほかの誰かに向けられているだけで、「なんで」と駄々をこねたくて仕方がない。オレは今でも、コーヒーなんて飲めないガキのままだ。

「……この前はああ言ってたけどさ、なまえはオレのことほっといていつもどっか行くじゃん」

 腹の中で唸りをあげる雷鳴が、身体の中で収められなくなっていく。それが自分への苛立ちなのか、彼女へのそれなのか分からなくて、それが余計に、頭をぐちゃぐちゃにした。――やっぱり、オレばっかりだ。
 自分の不機嫌の原因になったあのやり取りは、今でも明確に思い出せるほどに刻みついている。オレと彼女の間にある溝は決定的なのに、彼女は「そんなことない」と額を合わせてくれた。オレを置いてどこにも行かないって、オレに嘘はつかないって、言ってくれた。
 なのに、オレはそれを信じられていないのだ。この暗雲の出所に、ようやく気が付く。
 そんなことないなら、信じさせて、安心させてくれ。その大人ぶったやわらかい視線が大好きで、嫌いだ。

「好きじゃないなら、好きなふりすんなよ。ガキ扱いもうんざりなんだけど」

 ――言い捨てて、なまえを睨みつけたところで、「あ」と思った。
 オレを見つめる瞳が、わずかに見開かれて揺れている。彼女と出会って初めて見た、なまえの傷ついた表情だった。いつものやわらかい眼差しは、見る影もない。
 その衝撃に喉が締め付けられて、なにも言えずにいる間に、彼女は小さな声で「ごめんね」と呟いて背を向ける。手からすり抜けていく指の感触が、手の中で痺れのように残っていた。
 ソファの上で膝を抱えて深く長く吐き出したため息は、彼女のいない部屋の中で、散って、消えた。
 

 
 カーテンの開け放たれた窓から、太陽の日が差して、傾いて、空が暗くなるまでの時間を酷く無為に過ごした。こうしている間もなまえは会社で働いているのに、こんなのヒモ以外の何者でもない。
 オレだってなにもしていないわけじゃない。生活費くらいは稼いでくるし、道場の方にも手を出し始めた。けどそういう免罪符じみた言い訳をしているのは、やっぱり思うところがあるからだ。普段なら「そんなことどうでもよくね?」だし、彼女に愛想を尽かされなきゃなんでもいいと思うはずなのに、こんならしくない考えをするのは、今頃彼女が大人だけど年下の男と一緒にいることが分かっているからにほかならない。
 ソファの上で寝返りを打って、丸い照明があるだけの白い天井を眺める。――自分の部屋とは違う、あったかくて眠くなる部屋。
 まるで根が張っているように身動きができなくなって、ずっとここにいたいと思う。そのはずなのに、ひとりでソファに寝転がっていると鳩尾のあたりがそわそわして落ち着かない。
 いつもと違うところなんて、なまえがいるかいないか、それくらいのものなのに、たったそれだけでこの部屋は酷く色褪せて見えた。当たり前だ。ここがあったかいのも、眠く寝るのも、身動きができないと思うのも、なまえがいる部屋だからだ。
 せっかく朝早くから起きていたというのに、昼寝も、食事も、する気が起きなかった。本当なら、じいちゃんの道場に顔を出そうと思っていたのに、朝のやりとりや彼女のことを考えていたら、いつの間にかこんな時間だ。ごめんじいちゃん。
 着々と時間を進めていく時計を見るたび、彼女の様子が気になって仕方がない。
 なまえはオレの前だと一切酒を飲まないから、彼女が酒に強いのか弱いのかもオレは知らなかった。これまでも、会社の飲み会に出掛けていくこともなくはなかったけれど、普段とそこまで変わらない様子だったから、きちんとセーブができるんだろう。なまえは大人だから。
 そんなふうに頭では分かっているのに、そわそわと落ち着かない身体が大人しくなることはなかった。
 ――遅くね? こんなもん? 迎えにいく?
 でも飲み屋の場所聞いてねーし、連絡しても怒ってたら返してくれねーかも。
 悪い想像ばかりが広がって、フラストレーションが溜まって、それを自分自身では解消できない。そんなことにも自分の未熟さを痛感してフラストレーションは膨らむ。その繰り返しだ。
 こんな思考を手放して、なにもかも忘れて眠ってしまいたい。そう思って目を閉じたところで、玄関の方からがちゃんと鍵の回る音がした。意識を手放そうとしていたことが嘘みたいに、目を見開いて俊敏な動きで身体を起こす。
 玄関から続く廊下とリビングの境目のドアをじっと見つめてしばらくしても、そのドアが開く気配はない。自分があまりに彼女の帰宅を待ち侘びすぎたせいで聞こえた幻聴かと思ったが、あんなにはっきり聞こえたのだ。そんなはずがない。
 立ち上がって、そっとドアを開ける。リビングの明かりが漏れているだけの暗い廊下に、動くものは見当たらなかった――が。

「……はあ?」

 玄関で、うずくまっているものはあった。
 近寄って見下ろすと、靴も脱いでいないなまえが、小上がりに座り込んで顔を伏せている。身体を支えるように壁に寄りかかって、鞄はすぐ横で倒れて少し中身が溢れていた。
 なにがあったのか、聞かなくても分かる。彼女の近くに寄るだけで香るアルコールの匂い、力の抜けた身体。暗い中でははっきりと見えないが、きっとのぼせたような顔色をしているのだろう。

「なんでそんな酔ってんの」
「……酔ってない」

 俯いているせいでくぐもった声は、案外はっきりと耳に届いた。少し滑舌の甘いところはあるが、意識はきちんとあるらしい。
 とはいえ、座り込んで立ち上がれないような奴が、酒に酔っていないとは到底言い難い。
 彼女の言葉には返事をせず、だらりと垂れ下がった腕を自分の首に回して、膝裏に腕を通してその身体を抱え上げた。「やめて」とか「いいから」とか文句が聞こえたが、聞こえないふりをする。抱え上げた拍子に、つま先に引っかかっていたパンプスの落下する音がした。
 触れているところから伝わってくる熱は、普段触れているときとは比べようもないほど熱い。なんだか変に気が急いた。ろくな抵抗もできない手が、毛玉のついたオレのスエットを握る仕草に、首の裏がざわついていく。
 ソファの上に抱えていた身体を下ろすと、彼女はすぐに背もたれと肘掛けの角へ身体を埋めるように寄りかかった。眠そうに細められた目は溶けて、想像したとおり、頬はのぼせたような色をしている。
 初めて見る顔だ。なまえはオレの前では一切酒を飲まなかったから当然なのだけれど、その姿はただオレに見せていなかっただけで、今までずっと彼女の中に存在していた姿なのだと思うと、そのことが酷く気に障った。

「ンな顔して飲み会いて、ひとりで帰ってきたのかよ」

 自分の口から出てくる声が、酔っ払って通常の状態とは言い難い人間に向かって吐く言葉とは思えないほど、痛烈な色をしている。
 でも、嫌だった。オレの知らない彼女の姿を、知っている人間がいること。もしかしたら、その人間に邪な気持ちがあったかもしれないこと。ただの勝手な想像で、こんなにも腹の底が重く捩れる。

「なんでオレのこと呼ばねーの」

 彼女の目に、自分以外の誰も映っていないことを確かめたくて、ソファの足元に座り込み、なまえの顔を覗き込んだ。
 なまえは、ぼんやりとした目をさらに細めて、なんだか少し寂しそうに笑った。

「大人なんだから、大丈夫だよ」

 ――そうやって優しい大人でいてくれることが、突き放されているのと同じように感じることを、彼女は知っているのだろうか。
 舌打ちをしたくなって、必死に奥歯を噛み締めて堪える。喉から溢れてくる声が、唸り声のようにひずんでいた。

「オレが、なまえのこと好きだって知ってんじゃん。大人とか関係ねーよ、心配するの当たり前だろ」

 力なくソファに預けられた彼女の手を掴む。やわらかい力で包むように、なんて、できなかった。力一杯握ったそれに、彼女の表情がぴくりと揺れる。

「……なんで知らないふりすんの。オレのこと」

 握られた手の痛みのせいだと思われたそれは、手の力を緩めても元に戻ることはなかった。なまえの表情は、オレの言葉を聞いて歪んでいく。これまで、困ったような顔や呆れ顔は散々見てきたけれど、これは違う。
 アルコールにひたされた脳がそうさせるのか、彼女の眉は情けなく下がって、瞳は水分を蓄えて光った。「……だって、こわいよ」と、聞いたことのない震えた声が耳殻をびりびりと震わせる。

「マイキーくんに捨てられるのはわたしだもん」

 今まで何度となく、自分は「大人」だと線を引いてきた彼女の、子どもみたいな口調。そしてそれを吹き飛ばしてしまうような、耳を疑う言葉に、ひとりでに目が見開かれていく。
 世界が時を止めたような、錯覚をした。

「……は」

 それが、声になったのか、息を吐いただけなのか、自分でも定かではなかった。
 本当に、時間が止まってしまったんじゃないかと思ったのだ。なにもかもが動きを止めて、なまえの両目の淵から音もなくこぼれる雫だけが、この世で動くたったひとつの存在みたいに。
 だから、オレも身動きひとつ取れず、呼吸だって忘れて、その雫が白い頬を滑っていく様子をぽかんと口を開けたまま眺めていた。

「今はよくても、いつか、ほかの子がいいって言われたらどうするの」

 火照る頬には次々と涙が伝って、溢れるそれを拭おうともしない。その雫と同じように滑っていく言葉もまた、止めるものを持たないように次々とこぼれた。可哀想なくらい、揺れて、潤んだ声だった。

「マイキーくんは、年上が珍しかったり、お兄さんの代わりにわたしを好きって言ってるのかもって思ってた」

 聞き覚えのある言葉だ。確か、なまえと恋人になる前、彼女に好きだ好きだと追い縋る自分を、宥めすかそうと彼女自身が口にしていたもの。その整然とした理由を使って、オレに目を醒ませと言っていたのは、彼女の方だったのだ。
 それなのに。

「でも、そういうの、本当にそうだったら、嫌だなって思うようになっちゃった」

 醒ますどころか、目が眩みそうになる。
 オレには、自分よりお似合いの誰かがいて、それを知らないオレのわがままを叶えるために、仕方なく恋人になってくれたと思っていた。だから、オレたちの気持ちに溝があるなんて当然で、なのに耐えられなくなって、いつも彼女を困らせる。
 いつか彼女が、オレに恋をしてくれるまで、この途方もない不安と焦燥感はずっと消えないと思っていた。
 ソファの足元に座り込んでいた腰を上げて、膝をつく。静かに涙が伝い続ける頬をそっと両手で包んで、掬い上げた。

「そんなこと考えてたの? 今まで? ずっと?」

 やわらかくて優しいものだけを見せていたこの人の、なにもかもを露わにしたような表情。目で見える形になって溢れた彼女の感情の吐露を、疑う気なんてひとつも起こらなかった。それが、酒に後押しされたものだとしたって構わない。
 だって、額が触れる距離になっても、視線を合わせられないと伏せる濡れたまつ毛が、あまりにも。

「かわいー……」

 喉の奥から、噛み締めるような、息と混ざり合ったような声がした。
 ――ぜんぶ、オレだけだと思ってたんだよ。
 愛想尽かされることへのおそろしさも、あんたの周りにいるオレより大人の男への嫉妬も、恋とは違う、年下の男への慈愛が褪せてしまうことへの焦りも。ぜんぶ。
 でもそれを、彼女も同じように感じていたのだと知ると、途端に全てが可愛くてたまらなく思える。

「可愛いね、なまえさん」

 わざといつもと違う呼び方をしてやると切なそうに眉が寄って、その顔を見ているだけで身体の底から震えそうだ。それにつられて、彼女を好きだと感じた瞬間が、頭の中で明滅する。
 花屋の前を通ったときみたいにいい匂いがするところ。バブに跨れない、足に纏わりつくようなとろとろのスカートと、襟の伸びたゆるい部屋着のTシャツが似合うところ。やわらかい空気と、真っ当なかっこよさをどっちも持っているところ。
 そして、年下のオレのことが、可愛くて仕方のないところ。

「ほかの子とか、ねーよ。オレ、なまえに一生どこにも行かないでって言ったじゃん」

 言いながら、涙を流しすぎて腫れぼったくなったまぶたに唇を触れさせる。ちゅ、と音を鳴らして、濡れて光るまつ毛が震えた。身体の底から駆け上がってくる震えに急かされて、彼女の全てにキスをしたくなる。でも、それと同じくらい、伏せられたまつ毛の先にある瞳へ自分を映してほしくて、頬に触れた両手へ少し力を込めた。

「オレのこと見て」

 呟いた言葉にぴくりと反応したあと、しばらくうろうろしていた視線が、そっと持ち上げられる。それに合わせて、オレの腕に熱い体温が触れた。ぎゅっと力が込められるのを感じて、勝手に自分の目が細まっていく。

「オレのことばっか考えてよ」

 熱を帯びて溶けていくコーヒー色の虹彩も、爪が引っかかるくらい強く腕を握る力も、ずっとずっと、欲しかった。
 ――オレもそうだから分かるよ。それって、恋じゃん。ねえ、きっとそうだよ。
 今、自分の身体の中をひたひたにしているこの感覚に浮かされて、ぼうっとして、オレの方が酔っ払っているみたいだ。

「ずっと、わたしを好きでいて」

 そんなことを言う口を、今すぐ塞いでやりたい。この夜が明けて、朝が来て、彼女の頭からアルコールが抜け切っても、絶対に忘れられないくらい。

「うん、いいよ。オレのこと、ちゃんとあんたの男にして」

 キスをして、痕をつけて、オレが好きだと言ってくれ。
 ほかの誰が見ても分かるように、なにより彼女が忘れないように、オレに、あんたの名前を書いてほしい。

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