なまえさんは、好きなものが明確だ。
よく行く飲食店では必ず同じメニューを頼むし、洋服も好きな形や色が決まっていて、一目見て「これはなまえさんが好きなやつだ」と分かる。そんなふうに彼女の好きなものを把握していくと、どういう現象が起こるのか。
なまえさんがそばにいないときでも、なまえさんの好きそうなものを見つけるたびに、彼女のことを思い出してしまうようになった。この店に来たら、絶対なまえさんはこれを食べるだろうなとか、このピアスはなまえさんが好きだろうなとか。
そんなふうに、俺は気がつくと彼女のことを考えていて、いつだって彼女に会いたくなってしまう。なんだか不公平だ。
彼女のことを知っていくにつれて、日常生活の中で彼女を思い出すタイミングが増えていって、俺ばかりが、彼女のことを考えているみたいで。
それをなまえさんに伝えると、彼女はおかしそうに笑った。
目の前のローテーブルに、マグカップがふたつ置かれる。ひとつは、真っ黒に濁ったブラックコーヒー。なまえさんのやつ。そしてもうひとつは、彼女が俺のために用意してくれた真っ青な色の、すべすべな手触りのマグカップに入った牛乳と砂糖がたっぷりのカフェオレ。
以前、今以上に彼女との歳の差を気にしていた頃、背伸びをしてブラックコーヒーを飲みたいとねだったときがあったけれど、苦くて飲めたものではなかった。結局、コーヒを半分こしてから牛乳を足してカフェオレにして、なまえさんも一緒に飲んでくれた。情けなくてたまらなかったけど、彼女が「たまにはカフェオレもおいしいね」と言って笑ってくれたから、俺はなまえさんのつくる沼の中に深く沈んで、動けなくなった。
自分の部屋より広くて、大人っぽくて、いい匂いがする彼女の部屋。あまり多くものを持たない、でも一際気に入ったインテリアや雑貨たちだけが置かれた特別な空間。その部屋の中にいると、俺も彼女に選ばれたもののひとつのような気がして、じわじわと身体の中をなにかが満たしていく。しかし、ハッとして思い直した。
俺ばかりがいつも彼女のことを考えているなんて不公平だ。それを笑われた。うやむやにしてはいけない。
「……なんで笑うの」
彼女のことが好きだ。俺を見て優しい顔をするところも、年上のお姉さんぶるところも、少しめんどくさがりなところも、全部。でも、俺のそういう気持ちを知っても、余裕そうな顔をするところは、ちょっと嫌だ。
俺は、なんらかのタイミングでなまえさんが俺のことを好きなんだと実感できたときはいつも、この世の春が来たのかと思うくらいに舞い上がるのに。
むっつりと唇を尖らせて、ソファの脇にあるクッションと、膝を抱える。目を細めて彼女を睨むけれど、そんなものは意にも介していない余裕そうな笑みが、一層深まった。
「だって、世一くんがそれ言う?」
「……どういうこと」
理解の及ばない言葉に、クッションに口元を埋めたまま応える。くぐもって、低い声が吸い込まれていった。
そんなふうに、俺のガキでダサくて情けない駄々を聞いている彼女の瞳が、なにかいとおしいものを見つめるみたいに和らぐから、思わず息を止めてその目の中へ吸い込まれそうになる。
「わたし、サッカー見てると世一くんのこと思い出すよ」
こちらを覗き込むように首を傾げ、さらさらの髪が肩を滑っていった。――あ、触りたい。
脳直の衝動と、彼女の言葉に聞き入って身動きできない身体。どちらも自分のひとつの肉体の中にあるものなのに、欲望が溢れて、一致しない。彼女の目を、見つめていることしか。
「サッカーの試合だけじゃないよ。近所の子供がサッカーボールで遊んでるのとか、運動部の子たちとか、テレビのCMとか、他のサッカー選手とか」
――全部、世一くんのこと思い出すのに。
うたうように流れていく言葉に、一拍を置いてから、腹の底から熱が膨れ上がった。
なまえさんの好きそうなものを見つけるたび、彼女のことを思い出す。それと同じように、俺がそばにいないときでも、俺のことを思い出していて――しかもそれが、自分が人生を捧げたいと思うものだなんて。
自分にとっての世界の全てと言っても過言ではないそれと、自分自身が、彼女の中で繋がっている。
それって、なんか、すごく。
「ずるだ」
「ええ?」
口元だけでなく、顔全体をクッションに突っ込んだ。コーデュロイのふわふわした感触が優しく頬にあたる。燃えそうに熱くて、自分の顔が真っ赤に染まっているだろうことが想像できた。
ついさっきまで、一方的な不公平感にもやもやとしていたのに、今はそんなもの元々存在しなかったみたいに頭の中が春めいている。
「……なまえさん、俺の機嫌とるの上手すぎて、ずるい」
こんなに簡単でいいのか、と自分のちょろさに愕然とする。でも、そんな俺のことを見つめる瞳が、一番きれいで、好きだと思うから。
簡単でもちょろくても、なまえさんが好きだと言うなら、もうなんでもいいのだ。