まるで、雷に打たれたみたいだ。

「潔くんあのね、わたし彼氏できたんだ」

 彼女を初めて目にしたとき、名前を呼んでもらったとき。落雷に遭ったような衝撃を受けた瞬間は今までに何度だってあったけれど、今回のそれは、これまでで一番重く、俺の脳天を直撃した。少しも疑いようのない、明確な失恋。
 半開きになったままの口から、思わず息が漏れるような、喉が震えるような、低い音が転げ落ちる。

「……は?」
「大学の先輩なの。潔くんはわたしが卒業しても仲良くしてくれてるし、言っておこうかと思って」

 こちらの様子に気付きもしない彼女は、照れくさそうに口元を手で隠して、それでも隠しきれない高揚に目尻を緩める。その表情は、俺が好きな彼女の笑った顔そのものだった。
 そんな顔をさせているのが、彼女の言う「彼氏」なのだと思うと、自分の足元がガラガラと崩れ去ってしまったように平衡感覚が覚束なくなる。頭が痛い。
 彼女――なまえさんは、一難高校の卒業生で、サッカー部の元マネージャーだ。
 俺がなまえさんと初めて会ったのは入部初日のオリエンテーションで、つい数日前まで中学生のガキだったうえ、強豪校のサッカー部へ入部してとてつもない期待感に浮ついていた俺には、ふたつ年上の彼女は、ひどく大人びて見えた。
 毎日の厳しい練習の中、いつも笑って部員たちをサポートして、分け隔てのない優しさを振りまく彼女は憧れの象徴で、俺はまんまと恋に落ちた。
 けれど、告白する度胸なんて俺にあるはずもなく、何のアクションも起こせないままなまえさんは卒業した。
 それでも、卒業してからも試合に顔を出してくれたり個人的に連絡を取ってくれる彼女に、この感情が霞むことはなく、俺は密かな片思いをゆっくりと拗らせていったのだ。
 時々連絡を取り合って、彼女にとっての「かわいい後輩」であり続けられればそれでいい。彼女が俺にとっての「憧れの先輩」であり続けるみたいに。
 そんななまえさんを必死になって呼び出したのは、冬の県大会決勝では敗退してしまったけれど、JFUの強化指定選手に選出され、活躍のチャンスをもらえたことを報告したかったからだ。
 ただ、それだけだったのに、こんな仕打ちがあるだろうか。

「あ、わたしの話ばっかりしてごめんね。強化指定選手だっけ? 何かの選抜? すごいね」

 眉を下げたあと、なまえさんはそう言ってパッと表情を明るくする。彼女は心底嬉しそうに俺の報告を喜んでくれたけれど、それ以降、自分が何を話したのか、彼女が何を言ったのか、これっぽっちも記憶には残らなかった。
 
 全国大会への切符を逃し、秘めていた片思いもこんなにあっけなく終わる。けれど、そんなふうに打ちのめされた俺の絶望を、ブルーロックは怒涛の速度で飲み込んでいった。
 無意識だったのか、防衛本能なのか、俺はすぐに彼女のことを忘れた。自分の思考回路は瞬く間に青色へ塗りつぶされて、そしてU-20代表戦での勝ち越しゴールを決めた瞬間、気付いたのだ。
 あのとき自分が思い込んでいたこと――時々連絡を取り合って、彼女にとっての「かわいい後輩」であり続けられればそれでいい。彼女が俺にとっての「憧れの先輩」であり続けるみたいに――そんなものは、まやかしだ。嘘っぱちだ。欲しいものは、手に入れなければ意味がないのだから。
 そう気付いて、それから、今思えば当然の結論に辿り着いた。
 誰かに先を越されてしまったのなら、奪い返せばいい。もともと俺の方が先に好きだったんだ。奪われたのは、俺の方だ。

 ◇
 
 中学の美術教師は、美術品の中でも特に絵画が好きで、授業の際に様々な絵画についての逸話をよく話す人だった。この絵画が描かれた時代の政治が背景にあるとか、とある神話の一場面を元にしているとか。ほとんどの生徒はその話を聞き流していたし、自分もその中のひとりには違いなかった。
 けれど、その中でたったひとつだけ記憶に残っているものがある。
 ――気に入った人間の女に近づくため、その神様は雪のように白い牡牛へと変身した。女は美しく穏やかな牡牛に次第に心を許して、その背に跨った途端、牡牛は走り出し、女は人の手の届かないところへ攫われてしまう。
 もう、絵画のタイトルすら覚えていない。なのに、荘厳な色彩とグロテスクな逸話との不揃いな気味の悪さが、なぜか俺の記憶に色濃く残っていた。
 そのことがふと思い起こされて、理解する。これから俺はあの神様と同じように、雪のように白い牡牛になるのだ。

 U-20代表戦を終えてわずかな休息を得た俺は、なまえさんから届いていた「おめでとう」のメッセージを是幸と利用して彼女を呼び出した。一大イベントで活躍した後輩のお願いを心優しい彼女が跳ね除けるはずもなく、なまえさんはふたつ返事で了承してくれた。
 休日のコーヒーチェーン店はひどい混雑で、レジ前に行列ができているような状況だったものの、ドリンクを買って何とか席を確保した。テーブル席同士の間隔を広めに取っているせいか、満席の店内でも席についてしまえばそれほど窮屈さは感じない。クラスの女子たちが、新しいフレーバーが出るたびに通っていることは知っている。けれど自分自身ではほとんど近寄らないような小洒落た空間は、何となく落ち着かない。
 無意識に耳が色んな音を拾って、ざわついた店内の雑音を大きく感じる。うるさいくらいのそこに、滑り込むような、浮き上がるような声が自分を呼んだ。

「潔くん」

 呼ばれて、振り向いた先にはアイスコーヒーのカップを片手にこちらへ手を振っているなまえさんの姿がある。それを理解するだけで、周りの雑音も、居心地の悪さも、他のすべてが俺にとって無意味なものになるのだ。
 待ち合わせ場所に選んだ喫茶店へ現れた彼女は、何だか別人のように見えた。「彼氏ができた」だなんて酷い通告をしてきたときと比べて少しだけ伸びた髪と、色味の違うくちびる。
 確かに容姿そのものの変化もあるけれど、自分が彼女を別人のように感じるのは、容姿の変化が理由ではないことは分かっていた。自分の、彼女を見つめる感情の形が変わったのだ。ただそれだけで、まるで彼女自身が違う人のように見える。
 なまえさんはもう、憧れの先輩じゃない。必死で手を伸ばしても触れない、自分の手の届かないところにいる人じゃなくて、他でもない自分がその手を掴んで、誰の手も届かないところへ攫ってしまいたいと思う人だ。
 好きという感情は今も昔も変わらないのに、今の俺の脳は、この人を自分のものにするためのピースを探している。
 目の前の男が、そんなグロテスクな感情を抱いていることなんてこれっぽっちも気付いていない彼女は、「お待たせ」とただの後輩を見る眼差しをして、その柔らかい色の瞳をゆっくりと細めた。

「試合見たよ。すごかった。ゴールも決めてたし……後輩なんだよって周りに自慢しちゃった」

 席に着くなり矢継ぎ早に言葉を並べるはしゃいだ様子の彼女に、腹の底から何かがじわじわと込み上げてくる。それは、純粋に彼女から褒めてもらえたことへの高揚感と、彼女の周囲の人間へ自分の存在を認識させられたことへの優越感がごちゃ混ぜになった何かだ。
 それを必死の思いで飲み下して、俺は力を抜いて眉を下げる。憧れの先輩に活躍を認められて、嬉しくて仕方のない後輩に見えるように。

「マジすか、うれしいです。なまえさんに自慢してもらえて……」
「ふふ。うん、かっこよかったから」

 くすぐったそうな声が、鼓膜にこびりついて反響する。自分の脳が思わぬ電気信号を送って、唇の端がひくりと痙攣するのがわかった。

「……彼氏より?」

 ひとりでに呟いていた言葉は、可愛い後輩を演じたい俺の意思を無視して、低く静かに響く。その場には不釣り合いに無感情な声は、不自然な静寂を呼んで、首の裏がビリビリとざわついた。
 聞き返すように、なまえさんが「……え?」と首を傾げるから、俺は気の抜けた笑顔を取り繕って、肩をすくめて見せる。

「なんちゃって……あの、彼氏さん、どんな人なんすか」
「え、そんなの気になるの?」
「気になりますよ! なまえさんがどんな人と付き合ってんのか」

 不自然な沈黙を取り繕うためにわざと大袈裟な反応をすると、彼女は何かを言いたげに唇をまごつかせて、横髪をかけた耳の端が赤く染まった。その表情を見て、途端に自分の頭の中が濁った色で塗りつぶされていくのが分かる。
 気まずさと照れ臭さが半分ずつ滲んでいるようないじらしい顔を見せられて、しかもそうさせているのが自分以外の誰かだなんてわずかでも理解したくない。俺は自分の脳内で、見たことすらないその男の姿を塗りつぶした。頭の中を汚しているのと同じ色で。

「……普通の大学生だよ。一個上で、居酒屋のバイトしてて……あ、フットサルのサークル入ってるよ」

 ひとつひとつ、その男の特徴を挙げていく声を聞いているうち、身体の奥がスッと冷え切っていく感覚がした。居酒屋のアルバイトも、フットサルサークルも、それらの何が「普通の大学生」なのか俺には分からない。
 たったふたつしか違わないのに、犬か猫でも見ているみたいに油断しきった表情と、誰もに平等に与えられる朗らかさが好きだったから、これまで彼女が年上であることに不満を抱いたことは一度もなかった。
 けれど自分の立ち入れない場所で、知らない価値観を植え付けられている姿を見ると、酷く不快な焦燥感が全身へ満ちて、俺は初めて彼女との歳の差を呪った。そして畳み掛けるように、彼女がその男のいるフットサルサークルでマネージャーをしているという事実を突きつけられて、舌打ちをしたくなるのを必死で堪える。
 あーあ、恋人としてのなまえさんだけじゃなく、マネージャーとしてのなまえさんも取っていくんだ。いやだな、嫌いだな。会ったこともない人間を、自分がここまで嫌いになれるなんて、ある種の感動すら覚える。

「へえ。羨ましいな」

 ぽつりとこぼした声は、心の底からの本音だ。なまえさんは、目を丸くして応える。

「何が?」
「なまえさんがマネジャーやってくれてたとき、すげー助かってたし、部活めちゃくちゃ楽しかったから。いいなって」

 俺の言葉を聞いているうちに、丸くなっていた彼女の目が何かを懐かしむように、愛おしげに細くなっていく様子があまりにきれいで、息が止まりそうだった。苦しくなる心の中で、「思い出して」「忘れないで」と唱え続けながら、その瞳を見つめる。
 自分がいた頃を懐かしんで惜しむようなことを言う後輩を、彼女は蔑ろにしない。そんな確信にも似た願望を彼女は当たり前みたいに叶えて、照れくさそうに、そして少しだけ寂しそうに笑った。含みのある笑顔に、俺は簡単に釘付けになる。

「わたしも、あのときは楽しかったな」
「……今は? 楽しくないんですか」

 言ってから、少し直球すぎたかもしれないと後悔したけれど、なまえさんが「あのときは」だなんて言い方をするから、つい前のめりになってしまった。
 彼女は何かを誤魔化すように、きゅっと口角を上げる。

「楽しいよ。楽しいけど、フットサルより飲み会してる方が多かったり、派手な人たちも多くて、ちょっと疲れるかも」

 ――いつもどおり繰り返しているはずの呼吸が、わずかに浅くなって、息が湿っている。
 控えめに見せる困ったような彼女の表情に、俺は思わず、声を上げて店内を走り回りたくなった。口角が震えそうになるのを、頬の内側を噛んで堪える。噛み締める力加減を間違えて、少し、血の味がした。
 なまえさんがこんな顔をしているのに、彼女の笑った顔が好きだったはずなのに、嬉しくてたまらない。「あー俺、また性格悪くなってるかも」と頭の隅で思う。でも、そう思っただけで何も感じることはなかった。

「また会いたいです」
「え?」
「俺、楽しくさせるんで。なまえさんと話したい」

 少しも減っていないカフェラテは、氷が溶けてもう飲めたものではないだろう。プラスチックカップに水が浮いて、垂れて、テーブルの上に小さな水たまりを作る。少しずつ、少しずつ大きくなって、いずれテーブルからこぼれ落ちていくかもしれない。
 真っ直ぐに彼女を見つめて、わずかに揺れている瞳から決して目を離さなかった。俺の言っていることが、何を示しているのか、どんな感情が隠れているのか。そんなものは、彼女が気付かないなら何もないことと同じだ。

「彼氏には内緒にして。後輩と会うだけなんだから、大丈夫ですよね?」

 俺は、大人しくて、温厚な、高校時代のただの後輩だ。やましい気持ちや下心なんて何も知らない、真っ白でかわいい牡牛。近寄って、頭を撫でて。噛み付いたりしないから、安心してよ。

「……うん」

 小さく頷いた彼女の目の奥に、誰かへの罪悪感が滲んでいるのを見つけて、腹の底が甘く痺れた。
 
 ◇
 
 それから、俺は頻繁になまえさんと連絡を取り合うようになった。バイト帰りの彼女を家へ送って行ったり、メッセージや電話を続けて、彼女がこれまで以上に気を許してくれるのを待つ。けれど、ブルーロックへ戻るまでの二週間という期間はあまりに短く、俺は焦っていた。
 たぶん俺は、あんまり気が長くない。彼女に会いたいと声をかけて、「彼氏と予定がある」と言って断られると苛立って仕方なかったし、サークルの飲み会が億劫だからと俺との予定を優先させてくれたときは、嬉しさのあまり彼女を抱きしめてしまいそうに手を伸ばしかけた。
 ――だから、彼女は気付いてしまったのだろう。俺は、雪みたいに白く清廉な牡牛なんかじゃなく、あれこれと手を尽くして機会をうかがっているだけの、ただの男なんだってこと。

「もう、連絡取るのやめよ? 潔くんもわたしより、同級生の子たちと遊ぶ方が楽しいでしょ?」

 一目見ただけでバレてしまいそうなくらい下手くそな作り笑いをして、なまえさんはそう言った。
 何度目かの、彼女をバイト先から家に送るまでの道中にある、住宅街の緑化のために作られたであろう広場とベンチがあるだけの小さな公園のそばで、彼女は立ち止まる。周りは世帯用の住宅やマンションばかりのせいか、まだ深夜とは言い難い時間帯にも関わらず、人通りは少なく、彼女が息を詰める吐息の音だけが響いた。
 立ち止まった彼女から数歩遅れて足を止め、何も言わずに振り返る。なまえさんは首を折って俯いており、視線は合わない。そばにある街灯がその姿を照らして、高校の頃の黒髪から染められた柔らかい栗色が光っていた。

「……何でですか?」

 客観的に見ても、静かで落ち着いた声色だったのに、彼女はその声を聞いてびくりと肩を揺らす。俺は、じっとその様子を観察していた。不思議な感覚だ。
 もう連絡を取るのをやめよう――なまえさんに彼氏ができたと告げられたときと同じ、明確な言葉だった。今でも覚えている。疑う余地などなく、完全な失恋を突きつけられて、雷に打たれたような衝撃を受けたこと。
 いま彼女が告げたのは、それと同じ明らかな拒絶の言葉だったのに、俺の頭の中は荒れ狂うどころかおかしなほどに静まりかえっている。
 脳内にありとあらゆる選択肢が浮かんで、消えて、目まぐるしい。頭は冴えて冷え切っているのに、腹の底では熱がぐつぐつと沸いているような気がする。まるで、サッカーをしているときみたいだ。
 静かに息を吸う。取り込んだ空気は冷たくて、頭の中がより冴え渡っていくのが分かる。

「俺は、なまえさんといるのが楽しい。なまえさんもそうでしょ? 大学もサークルも、疲れるって言ったじゃん。何でそんなこと言うんですか」

 事実はこんなにも明快なのに、彼女の言うことがひとつたりとも理解できなかった。自分には、彼女以上に一緒にいたい人間なんていないし、彼女もそのはずだ。だって、一緒に部活をやっていた「あのときは楽しかった」って、サークルの集まりは「ちょっと疲れるかも」って、彼女自身がそう言ったのだから。
 喉に小骨のようにつっかかる妙な違和感を、誰かがなまえさんに植え付けている。俺といるときの彼女は、優しくて、かわいくて、あんなに楽しそうに笑っていたのだ。

「……彼氏が、嫌がるの。何回も喧嘩になってる」

 変わらず視線は合わないまま、呟いた彼女の声は少し震えている。何だか怯えているように見えた。その原因も、違和感の正体も、何もかもに気付いてしまった俺は、目の前がいきなり開けたように明るくなったのを感じる。
 寸分違わず答え合わせができたような全能感。
 ピースが嵌る。邪魔者は誰なのか、そんなことは初めから分かっている。
 彼女の姿を照らす街灯は、スポットライトだった。俺はその光の中に、一歩足を踏み入れて、言った。

「じゃあ、別れたら?」
「……え?」
「別れて、俺と付き合ってください」
「何言ってるの?」

 光の中で、彼女は顔を上げて、ようやくその瞳の中に俺の姿が映る。酷く戸惑って、取り乱している様子の彼女を、俺は心底不可解に感じた。言葉の通りだからだ。今、何の間違いかなまえさんの恋人の枠に収まっているその男と別れて、俺をなまえさんの恋人にしてほしい。ただそれだけのこと。
 そんなことも分からない人じゃないはずなのに、彼女の表情は硬く強張ったままだ。俺はゆっくりと、穏やかな声色を保ったまま、当然の言葉を口にする。

「え、だって絶対に俺の方がなまえさんのこと好きだよ。だったら俺が彼氏でいいじゃん」

 そう言うと、なまえさんは「信じられない」とでも言いたげな顔をした。それは、「夢みたいだ」という意味の「信じられない」ではなく、「理解ができない」という意味の「信じられない」だ。俺としては、頬を染めて、感激の涙のひとつでもこぼしてほしかったけれど、一応まだ彼氏がいる身の彼女にはそれは酷な話だろう。
 しばらく時間を止めたように固まっていた彼女は、震える呼吸で静かに息を吐いたあと、努めて優しげな声を出した。

「……潔くん、変だよ。どうしたの? 何かあった?」

 小さな子供に問いかけるような、そんな声。
 どうしてそんなふうに言うんだろう。乾いた作り笑いを浮かべて、まるで俺の方がおかしなことを言っているみたいな物言いをする。腹の底でぐつぐつと沸いているものが、跳ねて、胸を焼く。喉をのぼってくる。静かだった呼吸が、震えて乱れる。

「……変?」

 続けざまに吐き出した声は、半分笑っているみたいに揺れた。
 ブルーロックから一時的に離れ、部活のチームメイトと話をしたときに知ったのだ。俺が思っている以上に、自分が変わってしまったこと。青く染まって、もう戻らない。
 それと同じだ。欲しいものは手に入れなければ意味がないと気付いてしまった。

「うん。俺、変だよ。なまえさんに彼氏がいるって聞かされてからずっと、頭おかしくて、ぐちゃぐちゃになってんの」

 街灯の光の下からは、光の外側がより暗く、濃く映る。そこに何があったのか、どんな形を、色をしていたのか、目を凝らしても思い出せない。

「だから、なまえさんが彼女になって。そしたら、元に戻るから」

 ――嘘だ。元になんて戻れない。でもなまえさんが望むなら、いくらでも優しい牡牛のふりをしてあげる。だから、他のものはもう要らないよ。
 彼女の虹彩は、かわいそうなくらいにグラグラと揺れていた。そんな顔をしないでほしいと思うのに、俺は嬉しかった。彼女が、自分のことでこんなにも揺れ動いていることが、嬉しかったのだ。
 前触れなく手を伸ばす。初めて触れた彼女の肌は、冷たくて、なのにしっとりと俺の手のひらに吸い付くような感触だった。掴んだ腕を引き寄せて、突然のことで抵抗できずにいる彼女のくちびるを塞ぐ。俺となまえさんの、初めてのキスだ。
 触れたところから全身へ痺れが回るようだった。比較するものが何も思い浮かばないほどに柔らかく、吐きそうなくらいに甘い。人間の唇が甘いわけはないから、たぶん頭がぶっ壊れていたのだろう。それも仕方のないことだ。
 思わず、俺は笑った。腹の底から込み上げてくる興奮で、口角が震えて歪むのを堪えられない。

「あーあ。なまえさん、浮気しちゃったね」

 様々な感情が入り混じった顔をしているであろう自分とは正反対に、彼女は表情がひとつ残らず抜け落ちたような顔をしている。初めて見た表情で、笑った顔とは程遠かったけれど、何だか酷く愛おしかった。
 力が入らない様子の彼女の身体を、そっと抱き寄せる。特別身体が大きいわけではない自分でも、包み隠せてしまうくらい小さい女の身体。初めて体感する彼女の造形、厚み、そして温度に、信じられないほどの充足感を覚える。喉の奥から湿った息が溢れた。

「好きだよ、なまえさん、大好き。早く俺の彼女になって」

 頬を擦り寄せて、呟くように願う。そして、身じろぎひとつしない彼女の耳に向かって低い声で言葉を続け、彼女は静かにそれを聞いていた。
 なまえさんの彼氏は、あなたに対してこんなふうに抱えていられないくらいの感情を持っている?
 身体が震えて、息が苦しくなるくらいに好きだと言ってくれたことはある?
 俺はその全部を持っているけれど、それだけじゃあこの感情は何も成さずに死んでいくだけだ。手に入れなくちゃ意味がないし、叶わなくちゃ意味がないのだ。彼女だけがこの感情に意味を持たせられる人間で、彼女がそうしてくれればいいだけなのに。
 早く気付いて、思い知ってほしい。こんなにもなりふり構わず求められることは、気持ちよくてたまらないんだってこと。全部溶けてぐちゃぐちゃに混ざり合って、もう元のかたちには戻れなくなってしまえばいい。

 その日からあまり時間を置くことなく、彼女からの連絡があった。「別れた」「振られちゃった」と、なまえさんには珍しく端的で投げやりなメッセージだった。
 居ても立ってもいられず、俺は彼女のいる場所へ向かう。あの日と同じ、何もない公園へ足を進めながら、自分でも気付かないうちに足取りが早くなって、いつの間にか走り出していた。以前よりずっと鍛えられた身体は、少し走ったくらいで息切れを起こすわけもないのに、なぜか呼吸は浅く短くなる。
 彼女のもとへ向かう間、頭の中は彼女が恋人だった男に「振られた」ときの想像でいっぱいだった。この感覚は、子どもの頃、まだサンタクロースのことを信じていたときのクリスマスの朝によく似ている。
 ――どんなことを話したのかな? 俺とキスしたことを言ったんだろうか?
 なまえさんの恋人だった男の顔なんて死んでも見たくないけれど、俺となまえさんがキスしたことを知らされたときの顔なら、見てみたいかもしれない。傷ついただろうか。プライドをへし折られただろうか。
 でも、当然だ。彼女は、俺の恋人になるのが正解なんだから、それを歪めているおまえの方が、間違いだったんだよ。

「……なまえさん」

 夜の公園のベンチにひとりでぽつんと座る彼女の背中は、丸く、小さく、頼りない。その背中に声をかけると、振り返って俺を見る彼女のまなじりは赤く腫れていて、喉の奥がじりじりと熱を持った。
 そっと手を伸ばして、酷く冷たくなったなまえさんの肩に触れる。何の反応もしない代わり、拒絶されることもなく、俺は衝動のまま彼女の身体を腕の中に入れた。黙ってされるがままになる彼女の様子に、腹の底が波打つように興奮する。

「……潔くんは酷いよ」
「うん。俺のせいにしていいよ」

 ベンチに座る彼女は、立ったままの俺の腹部に額を押し当てて、声を震わせた。自分がしでかしたことなのに、そうやって力なく項垂れて泣く彼女の姿を見ると、不憫でたまらなくて慰めのようにゆっくりと髪を撫でる。

「俺がめちゃくちゃしたから、なまえさんは俺のことで頭いっぱいになって、彼氏に振られちゃったんだもんな?」

 大学で初めての彼氏ができて照れ臭そうにしていたあの顔も、自慢の後輩だと言ってくれた弾む声も、全部全部、俺がぶち壊した。俺が近付いて、好きだと言って、キスをしたから、彼女はこんなふうに傷ついてる。

「最高にうれしい」

 手のひらを頭の形に沿わせて撫で下ろし、指の間に髪を滑らせた。静かな動作とは対照的に、心臓は激しく鼓動して血を巡らせる。何か、劇的な結末がすぐそこまで来ているような予感に、背筋が震えて仕方がない。

「……こんなの、普通の恋人同士になれるはずない」

 涙声で喉を震わせる彼女の声が、鼓膜に甘く響く。憧れの先輩だったときの彼女の声を、俺はもう少しだって思い出せなかった。

「大丈夫。だって当たり前だろ。これが本当なんだよ。俺が、世界で一番、なまえさんのことを好きなんだから」

 俺の言葉に、彼女は無言で顔を上げる。傷ついて悲しんで、それでも自分へ向けられる熱烈な欲求に抗えないでいる瞳が、真っ青に染まったこの世界の中で、一番きれいだ。
 笑った顔が好きだった。平等に与えられる朗らかさに憧れていた。なのに、失望と諦観が混ざり合って、その奥に確かな欲が滲んでいる彼女の表情に、こんなにも高揚している。――ああ、ようやく報われた。俺は、あの絵画の神様と同じように、白い牡牛になって恋しい人を誰の手も届かないところまで攫ったのだ。
 本当は知っている。この感情が意味を持つために、俺が何を犠牲にしたのか。
 それでもいい。だって、それでも欲しかったから。
 ――きっと、この恋心は呪われている。

呪われたロマンス

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