もう、全部やめちゃいたいな。
 仕事帰りの地下鉄で、変わり映えのしない景色が流れていくのを眺めながら、そんな投げやりな言葉が浮かんだ。仕事でミスをしたわけではない。こっぴどく叱られたわけでもない。けれど、何度繰り返しても報告するたびに話がリセットされる上司とか、「それはこっちの仕事じゃない」が口癖の同僚とか、大して考えもせずに助けを求めてくる後輩とか。あと、昇級とかノルマとか、そういうの。
 一晩の睡眠や週末の休暇だけでは拭い去れないものが、たしかに自分の中に積み上がっているのが分かる。別に悲しくなんてないし、激昂するようなことが起こったわけじゃない。それなのに、もう自分が持っている何もかもを放り捨てて、どこかへ飛んでいってしまいたかった。
 本当にそれを実行したとしても、案外なんとかなるものだ。どんなに仕事を抱えていようが、そのわたしがいなくなっても会社は倒れたりしない。数ヶ月給料が無くなったとしても、わたしは死んだりしない。
 なら、もう全部リセットしたっていいのかも。
 投げやりな気分のまま玄関のドアを開けると、ひとり暮らしのはずのマンションの部屋の明かりが眩しくて目をすぼめた。
 
「おかえり。お疲れさま」
「……ただいまぁ」

 明かりの先から、以前わたしがプレゼントしたエプロンを付けたままのサンジくんが飛んできた。今日は特に約束をしていたわけじゃなかったけれど、合鍵を渡しているから、別におかしなことじゃない。玄関までいい匂いが漂ってきているから、きっと食事を用意してくれていたのだろう。仕事を終えてもそわそわと落ち着かずにいた身体の内側が、少しだけなだらかになった気がした。
 気の抜けた返事をするわたしの顔を見て、一度きょとんと目を丸くしたサンジくんは、そのあと何故か眉を下げて微笑む。何も言わずにわたしの肩から鞄を取り上げて、もう一度「おかえり」と言った。
 パンプスを脱いでリビングへ進み、ハンガーラックに上着をひっかけて、そのままソファに深く腰掛ける。柔らかい座面と背もたれに沈み込んで、知らず知らずのうちに長くて深い呼吸をした。
 サンジくんは、受け取ってくれた鞄をきちんと定位置にしまってから、エプロンを外してわたしの隣に座る。覗き込むように、じっとわたしの顔を見つめたまま呟いた。

「……今週もお疲れ様。すごく忙しそうだったよな」
 
 たしかに、最近は忙しかった。偶然、わたしが担当しているお客さんの案件が重なって、いつもより余裕がなかったのだ。先ほどの投げやりな考えも、もしかしたらそれが影響しているのかもしれない。
 とはいえ、サンジくんには何も言っていないのに、顔を見るだけで「忙しそう」と思われるなんて、多分よっぽど疲れた顔をしていたのだろう。

「……わたし、そんなにやばい顔してる?」
「きみはいつでもきれいだよ。でも、無理してないか心配だ」
 
 大真面目な顔をしてそんなことを言うものだから、わたしは思わず笑ってしまった。「いつでもきれいだよ」なんて、サンジくんが相手じゃなければとても聞いていられないキザったらしい言葉なのに、サンジくんの声で聞こえると、素直に受け止められるのだから不思議だ。
 そんなキザなセリフを、心底心配しているのだと分かる表情で言ってくれる人がいる。それが嬉しかった。
 わたしの生活の全部、本当に全部を、やめて、リセットしてしまいたいと思った感覚は変わらない。けれど、わたしの中からサンジくんがなくなってしまうことだけは、嫌だなあとぼんやり思った。
 あったかくて肌触りのいい愛情と、どんな名店で食べるものより美味しい料理。わたしのことを世界一大切にしてくれる、熱くて大きなてのひら。
 
「サンジくんのごはんがあれば大丈夫だから」
 
 そう言って笑った。鼻先を掠めるお出汁の匂いには覚えがある。以前わたしが体調を崩したときに作ってもらった料理で、そのあまりのおいしさに、体調が悪くなくたって作ってほしいとねだるようになった、卵と椎茸の雑炊の匂いだ。
 笑顔を見せてみても、サンジくんの下がった眉は元に戻らない。わたしの表情の変化をひとつも見逃さないとでも言うみたいに、じっと見つめている。その視線は逸らされないまま、彼は首を傾げた。
 
「そりゃ嬉しいけど、そんなに頑張ってどうするんだい? おれのこと専属コックにでもする?」
「それもいいねえ」
 
 全身どこにも力の入らない身体で、口角にだけ力を入れる。サンジくんを、わたし専属のコックさんにしてしまえるなら、こうやって働いている甲斐もあるのかもしれない。
 でも、そんなものはただの冗談で、夢物語に過ぎないと、色褪せた現実を生きるわたしは知っている。
 何もかも放り捨てて、何も持たない自分になりたい。そんなことを考えているなんて知られたら、サンジくんはわたしに幻滅するだろうか。
 それを思ったのと、サンジくんが深いため息を吐いたのは同時だった。
 今まで少しも揺らぐことのなかった身体の奥が、わずかに震えたのが分かる。途方もないおそろしさで、じわり、と熱が込み上げてくる予感がする。
 
「……も〜。こっちおいで」

 辛抱たまらない、と言いたげな声だった。
 こっそりと頬の内側を噛んで堪えようとするわたしの肩が、やさしく、でもたしかな力強さで引き寄せられて、その拍子に涙は引っ込んだ。
 頬が、体温の高い彼の胸に埋まる。背中にぎゅっと回された腕が熱かった。全身にサンジくんの体温が巡りはじめる。
 彼と触れ合うようになって、自分の体温が低いのだと知ったことを思い出した。
 
「おれができること何でもしてあげる。きみが何したって許すよ」
 
 ――きみが、そんな顔をしなくて済むんだったら。
 呟くような、普段の声よりも少し低い声が耳元で聞こえる。しっかりとした力で背中を抱き寄せてくれる腕と、見た目の印象よりも分厚い身体で優しく圧迫されて、苦しくて、気持ちよかった。
 彼がわたしへ向ける言葉に嘘はない。彼はきっと、彼にできることは何でもしてくれるし、わたしが何をしても許してくれるだろう。たとえわたしが、からからに干からびて、全て投げ捨てて、空っぽになったって。
 
「……サンジくんは優しいね」
 
 顔を胸元に押し付けられたまま目を瞑ると、心臓の音がした。眠りを誘うようにゆったりとして、でもたしかな鼓動と、包まれているだけで指の先まであたたまるような高い体温。本当は普段エプロンなんて付けないくせに、わたしがプレゼントしたものだから、わたしの家で料理をするときは必ず身につけてくれるところ。
 埋もれて息ができなくなりそうなくらいに捧げてもらっているのに、そのわたしが、本当はそんなことをしてもらうには値しない存在だと知られることがおそろしい。自分の中から何もかもがなくなって、その辺に転がされてしまうより、ずっと。
 今にも消えそうにぼんやりした声で「優しいね」と呟くわたしに、サンジくんははっきりとした声で頷いた。
 
「うん。きみが頑張ってるからじゃなくて、おれがきみを好きだから優しくするんだよ」
「……前は頑張り屋なところが好きって言ってなかった?」
「もちろん好きだよ。でもそうじゃなくても、変わらねェさ」

 先ほど引っ込んだ涙が、身体の奥からふたたび滲み出す。声を出したら、そのまま溢れてしまいそうだったから、声には出さなかった。ただ、「本当に?」と聞きたかっただけなのに、たったそれだけの言葉を吐くこともできそうになかった。
 なのに、彼はそれすら見越したような低くて柔らかい声色をして、まるでそれに返事をするみたいにして続ける。

「だから、何もかも全部嫌になっても、おれのこと離さないで」

 力強い腕に拘束されて上手く動かせなかった腕を、精一杯伸ばしてサンジくんのシャツの背を握った。すでに抱きしめられているのに、もっと重なりあいたくて身体を押し付けた。
 それを合図にして、彼はわたしを抱く腕にいっそう力を込める。痛くて、苦しいけれど、それが良かった。もし、そのせいで息が止まっても、それが良かったのだ。
 しばらくふたりで何も言わずに抱きしめあったあと、少しバツが悪いような顔をしたサンジくんが「……何でも許すけど、浮気とかはやだよ?」だなんて拗ねたような顔をするものだから、わたしはようやく声を上げて笑った。
 あなただけが鮮やかな世界で、目移りなんてするはずがないのにね。

世界から色が消えても

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