――恋人が死んだ。
 一緒に食事をする約束をしていた夜、いつまで経っても現れなかった彼の名前を、翌日になって訪ねてきた警官から聞かされた。街の路地裏で倒れているところを発見されたときには、彼はすでに絶命していたという。呆然とした様子の恋人を亡くした女に気を遣ってか、警官は何も言わなかったけれど、彼は殺されたのだろう。わたしは頭脳明晰な名探偵ではなかったが、それくらいのことは分かった。
 恋人が死んだと聞かされたというのに、わたしの心は静謐を保っていた。次の日も、いつもと同じ時間に起床し、普段と同じ朝食をとり、職場へ出かける。職場である屋敷の、主人の部屋に向かうまでの廊下が、いつもより長く感じる、それだけの違いだった。

「ひでェ顔してやがる」

 寝室の扉をノックして、入室を許されたわたしの顔を見るや否や、主人はそう言った。
 わたしの家の全ての部屋を含めても、この部屋よりは狭いだろうと思わせる広々とした寝室。主人の巨躯を満足させる大きさのベッドを中央に据え、重厚で巨大なクロゼットと揃いの鏡台には、一箱でそこらの人間の一月分の給料を優に超える価値のある葉巻が無造作に放ってあった。
 ベッドの中からわたしの顔を嘲笑うように口元に笑みを浮かべるその人のそばへ近寄ると、不意に伸びてきた右手が頬を覆った。太い親指が、存外柔らかな力で目元をなぞる。

「……そうでしょうか」

 静かに答えたわたしに、その人は喉の奥で笑って返事をした。頬に触れた手が離れるのを合図に、胸元をくつろげたワイシャツの釦に手を掛ける。この人の身の回りの世話をするのが、わたしに課された仕事の一つだった。
 ワイシャツを取り去ると、袖の先を余らせていた左手首の先が視界に入り込む。引き攣れた皮膚と、丸く削れたその箇所に、新品同様に糊の効いたシャツの袖を滑らせ、袖口の釦を留めた。彼はカフスを好まない。両方揃わないものを付けておくのが煩わしいのだそうだ。

「今日のタイはどうしますか」
「おまえが選べ。深い色のものがいい」

 そう言われ、アスコット・タイだけで占められた引き出しから、ビリジアングリーンのものを選び、ついでにスラックスとベストも手に取り主人のもとへ戻った。わたしが衣服を選定している間に、枕元にあるチェストに放ってあった葉巻を咥えていたその人は、器用に片手で葉巻の先を落とし、火を付ける。切り落とされた部分がベッドの下に転がるのを見届け、身体を屈めてそれを拾ったときに、主人は呟いた。 

「顔は見られたのか」

 煙と一緒に吐き出された言葉の意味を、わたしはすぐに理解する。この街で、主人――サー・クロコダイルの耳に入らないことなどない。人の生き死にのような、人目を憚る話題なら尚更。

「いいえ。見ない方がいいと言われました」
「そうか」

 主人は頷いて、それからわたしの表情を確かめるように見る。自分の頬がピクリとも動かないことを、わたしは自覚していた。彼が昨晩眠る前に吸ったと思われる葉巻の灰が残った灰皿に、拾った葉巻の先を転がす。主人が吐き出す煙が、鼻先を掠めていった。

「こんなときまで社員に休まず働けと言うほど、おれは人でなしじゃねェつもりだが」
「……実感がないのかもしれません。それに、あなたといると気が紛れる気がして」

 どうしてわたしは、こんなにも平静でいられるのだろう。自分のことを愛し、自分も愛していた人がこの世から消えてなくなってしまったというのに、わたしの目から涙は溢れないし、唇は呪いの言葉を生まない。自分は何も、無感情な人間というわけではなかったはずで、だからこそ恋人という存在がいたのだ。確かに、彼のことを愛していた。それなのに。
 彼が死んだと聞かされたとき、わたしは、クロコダイルに会いたい、と思っていた。だからこうやって、恋人の喪に服すこともなくここを訪れている。主人に会うことに何の意味があるのか、自分でも分からなかったが、会わなければ、と使命にも似た感情を抱いたのだ。
 わたしがシャツの襟を立て、タイを折る様子を眺めながら、主人は言った。

「恋人を殺した奴を見つけたらどうする」
「……どうしてそんなことを?」
「おまえが怒り狂う姿には興味がある」

 今日の主人は大層機嫌がいいらしい。いつもなら、「くだらない」と切り捨てるはずの言葉遊びに興じるほどだ。
 怒り狂う、だなんて、言葉遊びか何かだとしか思えない。恋人が死んで、それでも変わらず仕事をして、黙って主人のタイを結ぼうとしている女が、今から怒り狂う姿を見せると思えるだろうか。

「……どうもしませんよ。わたしには何もできない」
「クハハ、冷てェ女だ」

 葉巻を指で摘み、口を開けて笑う主人のシャツの前にタイを回す。上質な絹が擦れる、高い音がした。

「なァ」
「……はい」
「おれは、自分のもんは大事にするタチだ」

 唐突な語り口に、指先がピクリと震える。タイを締めようとして動きを止めたわたしの腕の内側から彼の右手が伸び、頬に触れた。今日、彼に触れられるのは二度目だ。同じように、太い親指が目元を撫ぜ、輪郭を辿っていく。まだ指輪を付けていない手は、何の引っ掛かりもなく肌に触れ、確かめた。
 わたしのことを、「そう」だと確かめるのだ。

「どこぞの馬の骨に触られるなんざ我慢ならねェ」

 何もかもを奪っていくことのできる指先が、柔らかく肌の上を滑る。顎の先まで到達すると、そのまま手のひらが頸へ下って、そこを包むように覆い隠してから、離れていった。
 そのとき、わたしは理解したのだ。なぜわたしが、今日クロコダイルに会わなければならないと思ったのか。

「覚えておけ、泣き喚くのも怒り狂うのも、おれの前なら許してやる」

 なんて、魅惑的な声だろうか。強烈なアルコールを摂取したときのような倒錯がそこにはあった。喉の奥で震わされた甘い声で、彼はわたしを許すと言うのだ。泣き喚くことも、怒り狂うことも。
 ――恋人の死体を、「見ない方がいい」と言った警官の言葉には続きがあった。その死体は、身体から一切の水分を奪われたような、干涸びた姿をしていたという。何かの怪事件か、それとも。
 するり、と、タイを締めるわたしの手を覆うように、主人の手のひらが滑った。わたしに、何かの行動を促すようだった。

「……おまえだけが、おれを好きにしていい」

 この人は、わたしのすべてを許す。きっとこの手に力を込めたら、何かを遂げることができるはずだ。けれど、わたしはそうしない。それが何故なのか、終ぞ知ることはないけれど、自分のすべてを所有され、許される彼の中に足を取られて動けないでいる。それで、よかった。
 ――それが、よかったのだ。

流砂の城

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