夏島の気候海域に入って天候が安定すると、この船ではいつも芝生の甲板に白いシーツがはためく。甲板を挟み、柵と柵にロープを渡して、船中のシーツや毛布が日光に晒されるのだ。
 その真ん中で、一仕事を終えて仲間たちと笑い合う姿が、はためく洗濯物に合わせて見え隠れする。その様子を二階のデッキからじっと見下ろして、サンジは悩ましげな溜息をついた。

「なあナミさん、知ってるか? なまえちゃんて、犬歯が結構尖ってんだ……」

 デッキに設置したパラソルとテーブルセットを同じように囲むナミに語りかけながら、サンジの視線は外れない。この場にはいない、甲板の真ん中で洗濯物干しに勤しむなまえのことを見つめたままでいる。
 ナミは、突拍子もないサンジの言葉をしばらく逡巡して、やはり意味を理解できず眉間に皺を寄せた。

「……はあ?」
「足の甲なんか白くてぺらっぺらでさァ、爪なんてこ〜んな小せェんだぜ?」

 しかし、ナミの反応など耳に入っていないように、次から次へと並べたてる。「こ〜んな」と言いながら、サンジは自分の人差し指と親指で小さく丸をつくって、その中を覗き込んだ。
 いつもどおり様子のおかしいこの船の専属料理人の姿に、ナミはやれやれと肩を竦める。このコックが女に見境がないのも、絶えず賛辞を並べるのも、そしてそれが、彼女にだけ少し行き過ぎてしまうことも、この船の日常だ。それを当人が自覚していないことも、ナミの頭を悩ませる。
 そんなナミのことなどつゆ知らず、サンジはタバコを咥えたまま、テーブルの上へ液体のようにくずおれた。

「しかも、おれを気遣って洗濯も手伝わせてくれねェ優しさ……本当に天使なのかもしれねェよ……」

 甲板を洗濯物まみれにするこの習慣を始めたのはなまえだ。洗濯物に甲板を占領されてしまうけれど、その日の夜の毛布の肌触りも寝心地も最高だから、誰も文句は言わない。だから、放っておけば彼女ひとりでやってしまうところに、いつも誰かしらが付き合っている。今日はフランキーが手を貸したようで、フランキーの肩に乗って、洗濯バサミを取り付けているところが見えていた。
 サンジは当然、我先に手伝おうとするのだが、いつも彼女は首を横に振る。朝から晩まで、よく飲みよく食べる船員たちのために、この船で一番働いているのがサンジだと知っているからだ。
 女のやること成すことに手を貸したい性分のサンジだが、そんな気遣いを無碍にできるわけもない。朝食後の片付けと昼食の準備のわずかな時間をこうして過ごしながら、くるくると動き回るなまえの姿を、目玉をハートにして見つめている。どういう原理か、タバコから漏れる煙も、ハートの形をして立ち昇っていた。

「はァ〜、かんわいいなァ〜♡」

 甘ったるい溜息と、それに似合いの言葉を吐き出しながら、サンジは今にもテーブルから溶け落ちてしまいそうにしなだれる。ナミは呆れ半分、諦め半分の目でサンジの丸く眩しい色をした後頭部を眺め、深く息を吐いた。
 両手両足の指の数でも足りない、枯れる気配のない泉のように湧いてくる語彙の限りを尽くして、サンジは女を褒め称える。サンジの前に立てば、どんな女も人智を越えた女神や天使の称号を手にするだろう。そんな彼が、犬歯が尖っている? 足の甲が薄っぺらくて? 爪がこんなにも小さい? なまえ本人の前では決して口にされない、誰が聞いても首を傾げてしまうような褒め言葉が何を示しているのか、ナミには手に取るように分かっていた。
 全員が夢を追うこの船で、恋愛沙汰はご法度だなんて馬鹿なことは言わない。当人同士がそれでいいなら好きにすればいいし、何なら祝福する用意だってある。けれど、恋のあまり暴走しがちなこの男の思いが、彼女を傷つけてしまわないか。ただそれだけが、ナミの溜息の理由だった。

「……ちょっとあんた、どうでもいいけど、船でおかしな真似すんじゃないわよ」

 釘を刺すナミの言葉が耳に届いた途端、サンジはその中に骨が通っていることを感じさせないほど軟体化していた身体を嘘みたいに立ち上がらせて、胸を張った。少し緩んでいた細いネクタイをきゅっと上まで整えて、紳士然としてみせる。

「まさか! おれはジェントルコック。レディの困ることはしねェ。それに、なまえちゃんのことはおれが一番よく知ってんだ。そんな余裕ねェ真似しねェから安心してくれよ」

 当然、と言わんばかりのサンジの言葉に、ナミは口元へグラスを運ぶ手をぴたりと止めた。
 テーブルにセッティングされている、夏島の気候に合わせて用意された飲み物も、すでに食べ終えたシャーベットも、ナミの好みに合わせて作られている。ナミだけではない。サンジが用意するものたちは、いつもこの船の誰かしらの好みに寄せられていた。誰に聞くまでもなく、彼は人知れずそれを把握して、振る舞う。最たるものは食事だけれど、なまえについてはそれだけではない。彼女のことをよく見て、よく知っているから、無闇に迫るようなことをする必要はないのだと、サンジはそういうことを言いたいのだろう。
 ――聞き捨てならないわね。ナミは心の中でひっそりと笑った。

「じゃあサンジくんは、なまえの寝相のよさ、知ってる?」
「……へ」

 それまで気のない返事ばかりしていた様子から一変したその声色に、口にされた言葉に、サンジの思考回路は一時停止する。片方だけ覗かせている目を丸くして見つめると、ナミは健康的なオレンジ色のリップに彩られた唇をにんまりと吊り上げた。

「寝返りもほとんどしないんじゃないかってくらい静かで、でもたまに寝言で話しかけてくるのよ」

 先程のサンジがしたように、つらつらと並べ立てられていく言葉を少しずつ理解して、見開かれたサンジの目はそこからさらに丸くなる。そんな彼の様子に気をよくして、ナミはそのまま続けた。

「右の胸の下に、この前銃弾が掠った治りかけの傷があることは? 下着のサイズは知ってる?」

 たとえ同じ船のクルーだったとしても、特別な関係でもないただの異性であるサンジには決して知り得ない、ナミだけが知っていること。もしかしたらロビンやチョッパーも知っているかもしれないけれど、そんなのはサンジにしてみれば同じことだ。
 思わぬ方向から引っ叩かれたような顔をしているサンジは、目を丸くするだけでは飽き足らず、ナミが言葉を連ねるのに合わせて、ぽかんと口を緩ませる。咥えていたタバコがその緩んだ口元からこぼれて、ぽとりとテーブルの上に落ちるものだから、ナミは慌ててそのタバコを摘み上げ、灰皿に押し付けた。

「ちょっと、テーブル焦げるじゃない!」

 睨みつけるナミの視線を受けても、サンジはぱちくりと丸くなった目と、開いたままの口を閉じられずにいる。普段ナミを怒らせたときは、ひたすら謝って、猫撫で声でご機嫌取りをするというのに、今日は少しもそんな様子は見られない。
 ただ純粋に驚いた顔のまま、先程テーブルの上へ落としたタバコのように、ぽろりと呟いた。

「……ナミさんおれァ、もしかして喧嘩売られてる?」
「あら、あんたがなまえのことを一番よく知ってるなんて言うから、ちょっと意地悪しただけよ」
「……勘弁してよ。脅かさねェでくれ」

 ふたたび唇を吊り上げて、意地の悪い顔をしてみせるナミに、今日一番深いため息を吐きながら、サンジはテーブルの上に項垂れた。この船で、自分が一番彼女のことを知っているし、気にかけている。その自負に迷いはなかったのに、こんなふうに釘を刺されると心臓がおかしな鼓動を刻んでしまう。
 この船の船長はもちろんルフィだが、この航海士に目を付けられて無事で済むわけもないのだ。思い上がりもほどほどにしなくては、と思う反面、自分への対抗心みたいなものを仄めかされて、鳩尾のあたりが焦げつくような感覚がしたことに、サンジは心の中で首を傾げる。
 ――女神の戯れだ。でも、この腑に落ちない心地はなんだろうか。

「あ、ルフィ」
「え?」

 考え込むサンジの姿を通り越して、彼女のいる甲板の方を見ながらナミが船長の名前を呟いた。その声を追いかけるようにして甲板へ視線をやると、はためくシーツを泳がんとするように飛び降りてきたルフィに、なまえが巻き込まれてしっちゃかめっちゃかになっている。ルフィのゴムの腕と、白いシーツにぐるぐる巻きにされて、芝生を転がるなまえは声を上げて笑っていた。

「てめェルフィコラァ! なまえちゃんに何すんだ!」

 弾けるように声をあげて、サンジは一目散にルフィとなまえのところへ飛んでいった。階段を駆け降りるのではなく、二階の柵に足を掛け、文字通り「飛んで」いく後ろ姿を眺めて、ナミは息を吐くようにして笑って、肩を竦める。
 当人同士――なまえがそれでいいなら好きにすればいいし、何なら祝福してあげてもいい。でも、彼女はサンジの想い人である以前に、この船の大事なクルーだ。
 どんなに彼女が恋しかろうが、それだけは、決して忘れないように!

あの子はかわいいプティ・フール

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