※現代パロディ

「おれがきみの食事を作っちゃダメかな」

 付き合い始めてからしばらくして、彼はそう言った。困ったように眉を下げて、見上げるみたいにこちらを伺っているのに、「ダメ」と言われることをまったく想定していない表情をしている。わたしは、その顔をぽかんと眺めながら、彼――サンジくんと恋人になったときのことを思い出していた。あのときも、たしか彼はこんな顔をしていたっけ。


 サンジくんは、定期的に通っているレストランのコックだった。職場と自宅のちょうど中間、電車の乗り換え駅が最寄りにあたる、レストラン・バラティエ。オーナーシェフが有名で味もいいのに、なぜか首都の一等地からは少し離れた場所にあって、それでも客足の絶えない店だった。小洒落た雰囲気をしているけれど、一人で入るには気後れしてしまう高級レストランよりはカジュアルでリーズナブルなメニューに、わたしはすっかりファンになってしまって、毎日あくせく働く自分への労いとして月に一・二回ほどのペースで通っている。
 郊外にあるとはいえ、週末やランチタイムは行列必至で、わたしが行くのはいつも平日の夜だった。十九時を超えた、ラストオーダーまで少し余裕があるくらいの時間に訪れて、空席の目立ちはじめた店内でゆっくり食事を楽しむのだ。そこにはウエイターと見紛うほどにすらりとした佇まいの副料理長がいて、何度か訪れるうちに彼から声をかけられた。それがサンジくんだった。
 彼は、いつも同じような時間に一人でカウンター席に座るわたしを気遣って、オーナーの目を盗んでは、カウンター裏にあるワインセラーやグラスのメンテナンスをしながら食事に付き合ってくれた。最初は気後れしていたけれど、彼は店にやってくるすべての女性客に同じような気遣いをしていると気づいたから、わたしは割とすぐにそれを受け入れた。レストランに来るときにだけ言葉を交わす、底抜けに優しい、返事をする紳士的なぬいぐるみ。成人男性をテディベア扱いするのはどうかと思うけれど、わたしはその空間をそれなりに気に入っていた。
 店でそうやって彼と話をするようになって半年くらいした頃、いつものようにカウンターを挟んで向かい合うサンジくんがふと、なんだか深刻そうな様子で聞いてきたのだ。

「なまえちゃん、あの……普段メシってどうしてる?」

 視線が合わされないまま、聞きづらそうに言うものだから、何を言われるのかと思ったら。世間話の域を出ない――むしろ料理人の彼からしてみたらポピュラーな話題なのかもしれないと納得する内容だ。
 少し拍子抜けしながら、自分の普段の食生活を振り返る。

「うーん。作るときもあるけど、コンビニとかで買って済ませることの方が多いかな。デリバリーもするよ」
「……そっか」
「サンジくんから見たらだらしないかな?」
「そんなとんでもねェ! いつも遅くまで働いてるもんな、そうなるのが当然だと思うよ」

 料理を仕事にしている人の前では、とてもじゃないけど胸を張れない自分の答えに、へらりとした笑みを貼り付けて照れ臭さを誤魔化すと、彼は弾かれたようにこちらに両手を突き出して首を振った。
 自分のことを擁護するわけじゃないけれど、サンジくんが言ってくれたことはたぶん一般的に見ても妥当だろう。毎日くたくたになるまで働いているのだ。コンビニやデリバリーに頼ったり、自分が「作る」と言い張っている料理が、お手軽パスタや具材をコンソメや合わせ調味料で煮ただけのスープになったって、別に責められるほどのこととは思わない。普段がそういう食生活だからこそ、お店でしか食べられない大好きなエスニック料理とか、サンジくんのお店の料理を特別な楽しみとして味わえるというものだ。
 そんな楽観的なことを考えるわたしとは反対に、目の前にいる彼は、他人のことだというのにこちらが思わず驚いてしまうほど心の底から気遣わしげな顔をする。ちょっと、一瞬息が止まるかと思うくらい。

「ただ、ちょっと心配だ。おれが毎日作ってやれたらいいんだけど」
「あはは。毎日バラティエに来るのは、わたしのお給料じゃ無理かな」
「……おれは、客じゃなくたってなまえちゃんのメシ作りたいよ」

 間違えた。本当に、一瞬息が止まってしまった。
 目を見開いて、しばらく彼のことを見つめたまま動けない。ゆっくり瞬きを二回しながら、自分以外にも、まだ店にはお客さんが残っているんじゃなかったっけ?と他人事のように考えた。

「あー……ごめん。締まらねェなあ」

 乾いた笑い声をわずかにこぼして、サンジくんは照れ臭そうに少し色づいた頬を緩ませながら、カウンターの上でグラスに添えたままのわたしの手に自分のそれを重ねる。
 困ったように眉を下げて、見上げるみたいにこちらを伺っているのに、「ダメ」と言われることをまったく想定していない顔をして。

「……好きなんだ。おれをきみの恋人にしてほしい」

 わたしは、その顔をしばらくぽかんと眺めたあと、自分のそれと重なった彼の手の熱さに気づいて、そのまま頷いていた。返事をするテディベアじゃない、ちょっとどころじゃなく女性に弱いけれど、優しくてとびきり料理上手な恋人として、彼はすっぽりとわたしの日常に収まったのだった。
 ――そして、冒頭に戻る。

「おれがきみの食事を作っちゃダメかな」

 ダメかな、と言いながら決定事項のように告げられる言葉に、わたしはいつまでも首を振る理由を見つけられないでいた。
 彼と付き合い始めてしばらくして、お互いの家を行き来するようになった。飲食店という業種上、平日に休みになることが多いサンジくんと週末が休みのわたしでは休みが合うことは少ないから、そうやって会う方が都合がいいのだ。とはいっても、わたしが彼の家に行くことはほとんどない。彼が、「きみを一人でここに来させたり帰らせたりしたくねェから」と言って許してくれないのだ。それから、もう一つ。

「何品か作っておいたから、冷蔵庫入れとくね。サラダはコンビニで買うんだよ」

 サンジくんがわたしの食事を作りたがるからだ。彼の休みの日はもちろん、早上がりのシフトの日なんかも、わたしの家に来ては日持ちのする料理を作っていく。設備も道具も整っていない簡素な備え付けのキッチンなんて使い勝手が悪いだろうに、狭いその場所で窮屈そうにフライパンを振るう彼の表情は、とてつもなく嬉しそうなのだから、何も言えなくなってしまうのだ。
 とはいえ、恋人に一方的に自分の食事を作らせるだなんて、わたし自身本意ではない。もちろん材料費は支払っているし、感謝もしているけれど、それとこれとは別の話だ。

「仕事でも料理してるのに、大変じゃない? 無理しなくていいんだよ」
「無理なもんか。おれがやりたくてやってる」

 作る頻度を減らすとかそういう話をしたいのに、彼はそう言って議論をそもそもなかったことにする。
 これはもう諦めにも似ているけれど、彼の「やりたくてやってる」は紛れもなく本音なのだ。今わたしがやっている洗い物だって、自分がやると言い張るサンジくんから無理やり奪い取ったものだ。それなのに、彼は二人並ぶとより窮屈なキッチンから離れることなく、シンクの中で手を動かすわたしの手元を、隣に立ってじっと見つめている。
 その顔を横目で盗み見ると、洗い物をしているところなんて見て何が楽しいのか、ほんのり笑って呟くのだ。

「なまえちゃんには、いつでもうまくて栄養あるもん食ってほしいからな」
「……ありがとう。うれしいし、助かってる。すっごく」
「……じゃあ、チューしてくれる? ご褒美」

 溶けそうに柔らかくなった眼差しと視線がぶつかる。その眼差しに晒されることには、いまだに慣れはしないけれど、悪くはない。
 無言でしばらく見つめあって、サンジくんはその視線を肯定に受け取ったのだろう。まっすぐ伸びた背中を丸めて嬉しそうに鼻先を擦り寄せてくるから、わたしは両手を泡だらけにしたまま、首だけを少し伸ばして彼の唇にキスをする。すぐに離れた唇を追って、二度、三度と子供みたいな口付けを繰り返す彼の緩んだ表情を、仕方ないなあ、と受け入れている自分のこともまた、仕方ないなあ、と受け入れるのだった。
 あれやこれやと尽されていると感じる。それを決して忘れてはいけないのに、彼が本当に満足そうな顔をしているから、頭の端っこに引っかかる罪悪感が今にも消え落ちてしまいそうで、少しだけおそろしい。けれど、わたしの食事を作りたいのだという彼の願いが、わたしにとってもありがたいものであることは事実だ。
 洗い物を終えて、ソファでサンジくんの淹れてくれた紅茶を飲みながら、あまり深刻に考えないようにしよう、と思考回路に蓋をする。
 ――なのに、なのにだ。

「なまえちゃんの会社って、昼の弁当とか持っていける?」
「え? まあ、うん。お弁当作ってきてる人もいるよ」
「じゃあさ、おれ、作れるときは作ってもいい?」

 またしても「ダメ」と言われるとは少しも思っていない顔をして、紅茶のカップを傾けるわたしの顔を覗き込みながら、サンジくんはお得意のお伺いを立てる。まだ熱さを保ったままの紅茶をゆっくりと時間をかけて飲み下しつつ、彼のことをまじまじと見つめた。
 この人、もしかしたら人の話をあまり聞いていないのかもしれない。わたしはつい今しがた、無理してわたしの食事を作ってくれなくてもいいのだという話をしたはずだ。なのに、彼の口から飛び出してきたのは、自宅での食事に加えて、会社でのお弁当を作りたい、という言葉だった。以前は、言葉の通じるテディベアかと思うくらいに、わたしの言葉に頷くばかりだった彼が、まるで別人のようにわたしを混乱させる。

「え……うれしいけど、そこまでしてもらうの悪いよ」
「さっきも言ったけど、おれが作りてェんだ。なまえちゃんがおれの弁当食ってくれたらうれしい」
「でも……」

 言い淀むわたしの手を、サンジくんの大きな手のひらが覆い隠すようにして握った。その柔らくもたしかな力強さに、続けようと思っていた言葉が何なのか思い出せなくなる。困ったような、でもひどくいとおしいものを見るような目で見つめられるから、自分の考えていることがとてつもなく悪いことのように思えた。

「なまえちゃんは嫌?」

 嫌じゃないし、嬉しい。それは紛れもない本当の気持ちだ。だから、余計に分からなくなる。首を横に振って、「ありがとう」と呟くと、彼はまるで陽が差すみたいに表情を明るくして、肩を抱き寄せこめかみにキスを送ってくれた。
 彼がわたしのためにしようとしてくれていることだと分かっているのに、おかしな違和感を感じてしまうわたしは嫌な女だろうか。尽されているのも、与えられているのもわたしの方だ。施しを受けている側の自分が、どうしてか身動きが取れなくなるような窮屈さを感じている。
 言いようのない罪悪感と不実な自分から目を逸らすように、彼の肩に額を寄せたまま目を瞑った。


 しかし、目を逸らしても、瞑っても、それは否応なく膨れ上がって、わたしの目の前に現れた。
 サンジくんが休みの日と、早上がりのシフトの日、彼はいつもどおりわたしの家へやってきて、日持ちする作り置きと、翌日のお弁当を作っていく。今日も、ここに来る途中にあるスーパーで買ってきた食材たちを広げながら、頭の中で楽しそうにレシピを復唱しているようだった。
 そんな彼の様子を眺めているうち、ふと思い出す。明日は会社の部署のメンバーでランチに行くことになっていたんだった。時折、後輩の女の子が幹事となってランチ会が開催されることがあり、明日はその会にお呼ばれしているのだ。

「サンジくん、明日のお昼は予定あるから、お弁当作らなくて大丈夫だよ。ありがとね」

 わたしにとっては、なんてことない話だった。作ってもらっているお弁当を遠慮することは心苦しいけれど、無駄にするわけにはいかないし、今回みたいにタイミングが悪いときだってあるだろう。
 残念そうにする彼の姿を思い浮かべながら肩をすくめてそう言うと、静かに顔を上げてこちらを見るサンジくんの視線とかち合った。

「―――え?」

 知らないうちに、肩が跳ねる。今まで、彼の口から聞いたことのない声色だったから。

「……なんで? 外食? どこで食うの?」
「え、と、部署の人たちとランチすることになってて、お店は、わたしが好きだからってエスニックのとこ……」
「……そう。じゃあ、仕方ねェな。うめェ店だったら教えてよ」

 知らず知らずのうちに、ごくん、と唾を飲み込む。そして、瞬きをした次の瞬間には、彼は先ほどまでの、夜みたいにしんとした眼差しと声色が嘘みたいに軽やかな笑顔を浮かべていた。
 そのあとの彼は、いつもと変わらない、穏やかで優しい紳士なサンジくんそのものだったのに、わたしはその日中ずっと落ち着かない気分が続いた。気付いてはいけないものに、気付いてしまったみたいに。
 ――なんだか、おかしい。そう思ってしまった途端、それからのサンジくんの行動がやけに気になって仕方なかった。
 今まで多くても週に二日ほどの頻度で持たされていたお弁当が、三日、四日と多くなって、自宅では当然彼の作った作り置きの料理を食べているし、彼の料理を食べる機会が格段に増えた気がするのだ。これっぽっちも悪いことなんかないはずなのに、言いようもない違和感が募ってしまう。
 その違和感を払拭できないまま、サンジくんの行動はますますエスカレートしていった。
 これまで、作り置きしてくれる料理は日持ちのするものばかりで、きちんと野菜も食べるようにとコンビニでサラダを買うよう言い含められていたのに、それがなくなった。生野菜でなくても栄養が取れるよう配慮されたものを作って、「わざわざコンビニ寄るの面倒だろ」とにこやかに微笑まれる。
 ――コンビニに行かずに済んで、無駄な出費も抑えられる。助かっている、はずだ。
 当然、四六時中一緒にいるわけではないのだから、彼の料理を食べないタイミングだってある。そういうとき――たとえば、会社の飲み会がある日には、どの居酒屋に行ったのか、何を食べたのかを彼は事細かく聞いてきたし、たとえば、友人と食事に行く予定があるときには、「それならうちの店にしない?」と普段は予約を受け付けていないはずのランチタイムの席を特別に確保してくれる。
 ――気を遣ってもらっているし、彼の店なら間違いはない。ありがたい、はずだ。
 極め付けは、わたしの休日に、休憩中だったサンジくんと電話をしていたときのことだ。ランチタイムを過ぎたおやつ時。一服している彼は、レストランの外観に似合わない荒くれたコックたちについての愚痴に見せかけた楽しげな話をしてくれる。
 わたしはインスタントコーヒーとコンビニで買ったティラミスを食べながら、笑い声を漏らしてその話を聞いていた。すると、何かを食べている気配を感じたらしい彼は、ひどく静かな声をして「……なに食べてる? お菓子?」と尋ねるのだ。
 呟くように、ティラミス、と答えると、「そんなの、おれが作ってあげるのに」と、息を吐きながら応える声が、なんとなく笑っていないように聞こえてしまう。
 ――これって、やっぱり少しおかしいんじゃないだろうか?
 もはや不安にも似た違和感が、隠せないところまで浮き上がっている。このままじゃいけないという漠然とした感覚が、わたしの輪郭をざわざわと波立たせていた。





 おれには、自分でも自覚している悪癖がある。周りから「おまえの女好きは病気だ」とよく言われるけれど、それとは違う。そもそもおれは「女好き」じゃない。この世のすべての女性を敬愛しているだけだ。それに、自分が唯一そばにいてほしいと思う女のことはちゃんと分かるつもりでいる。そして、それがこの「悪癖」に深く関わることも。
 人に自分の料理を食べてもらうことが好きだ。そしてそれが、自分の大事な人ならなおさら。空腹よりも身近な不幸はなく、大事な人の不幸を自分が取り払えるなら、それがおれにとっての幸せだ。恋人にはできるだけうまいものを食べてほしいし、それが自分の作るものであったなら、どんなに、どんなに幸福なことだろう。
 彼女が自分の料理を口にしてそれを叶えたとき、おれは震えた。ただのレストランのいちコックでしかない自分に、「今日もおいしい」と口元を綻ばせて、「お腹空いてたから生き返った」と目尻を下げる姿に、恋をしたのだ。
 この人に自分の料理でもっと満腹になってほしい、もっと近くで「おいしい」と唱える声を聞きたい。願いごとには限りがなくて、ずるずると、這い出でるように、自分の悪い癖が顔を出す。まずいなァ、と思っているはずの自分の脳髄が、ビリビリと痺れて意識が遠のくような錯覚をした。
 ――おれには、恋人の食事を管理したがる癖がある。それが原因で、過去の恋人に振られたことも。

「おれがきみの食事を作っちゃダメかな」

 でも、どうしても繰り返してしまう。脊髄まで染み込んだ欲求が、この人を自分の愛情でひたひたにしてあげたいと望んで止まらなくなるのだ。

「……ありがとう。助かってる。すっごく」

 そのうえ、こうやって喜んだ顔を見せられると、快楽物質でも分泌されているんじゃないかと思うくらい、頭の中が幸福でめちゃくちゃになっていく。
 だから、ダメだ。

「明日のお昼は予定あるから、お弁当作らなくて大丈夫だよ」

 ――そんな幸福を、どうかおれから奪っていかないでくれ。
 こうしておれはまた、「奉仕」とは名ばかりの、束縛傲慢クソ野郎に成り下がるのだ。
 もちろん、恋人とはいえ四六時中一緒にいられるわけでもない人間同士で、常に自分の作ったものを食べてほしいなんて無理な話だというのも理解している。ふたりで出かけた先で知らないレストランに入ることだってあるし、それぞれが見つけた店を共有するのだって大好きだ。
 けれど、気になって仕方がない。おれがそばにいない時間、彼女が何を口にして、どんな声で、表情で、「おいしい」と唱えているのか。
 食事のうまさに種類こそあれ、貴賎はない。その人の腹を満たすことができれば、それだけで意義がある。誰が作ったのか、それがどれだけうまいかはその先の話だ。
 なのに、それを口にするのが彼女だと思うと、おれの頭の計量器はどうにも狂ってしまうらしい。
 大味な居酒屋料理?添加物まみれのファーストフード?おれがおかしなことを口走ると、一瞬固まって目を見開く彼女の姿を見るたびに、やめなくちゃと思うのに、嫌でたまらない。
 スナック菓子にコンビニスイーツ?どんなやつかも知れねェコックが作った、きみの大好きなエスニック料理?――ああ、こんなのだめだって分かってるのに。

「サンジくん。話があるの」

 少し緊張した様子でじっとおれを見つめてそう言う彼女の姿を見て、「終わった」と悟った。自分の踏みしめている足元が、ガラガラと音を立てて崩れ去っていくような感覚。
 彼女が、わざわざおれの店の定休日に合わせて休みを取ったと言ってくれたときから、嫌な予感はしていた。しかも、せっかく休みを取ったのに、どこかに出かけるでもなくいつもどおり部屋で過ごしたいと言うのだからなおさら。
 彼女の部屋に着くなり、いつもはおれが淹れている紅茶を今日は彼女が淹れてくれた。きちんとティーポットとカップを温めて、数分蒸らす手間も惜しまないから、自分が淹れる紅茶と違わない香りがしたし、彼女が淹れてくれた分それはおれにとってずっと価値があった。なのに、その完璧な紅茶を見ていると、もう自分は不要なのだと言われているような気がして、どうしても飲み進める気になれない。
 話がある、と言う彼女の目を見れないまま、彼女から少し距離を空けて、ソファに座った。

「……どうしたの」
「……あのね」
「うん」
「最近サンジくんが、わたしの食事のこと気にしすぎじゃないかと思って……」

 予想と寸分違わない話題だというのに、自分の頭のてっぺんから血液が下り落ちていくのが分かる。分かっていたのに、こうして彼女の口から聞かされるとその威力は凄まじい。
 空気を取り込んではパクパクと口を動かすだけで、一向に言葉を絞り出せないおれを見て、彼女はこちらを覗き込むように背中を丸めて気遣わしげに笑う。

「ご飯とかお弁当作ってくれるの、本当にうれしいよ。いつもありがとう」
「……っ、いや、おれァ、なまえちゃんのメシ作れるのがうれしいから」

 喉の奥から、今にも震えそうな声がした。「うれしい」とか、「ありがとう」とか、「好き」とか、口にした言葉があらぬ方向へ飛んで行かないように、まっすぐ放たれる彼女の言葉が好きだ。余計なことまで自分を顧みて空回りしそうなおれを、いつだって安心させてくれる。
 そしてそれは、おれを傷つける言葉だって同じだ。

「うん。でもね、少しやりすぎだとも思うよ」

 眉を下げて困ったような顔をする彼女に、頭を鷲掴みにされて脳みそを揺らされるような衝撃がした。自分の身勝手な願望が、彼女にこんな顔をさせてしまう。そりゃそうだ。おれだってそう思う。たとえ何を理由にしても、誰かがその人の何かを管理したり強制するようなことはあっちゃいけない。
 膝の上に置いた自分の手を、固く握りしめる。強く握っていないと、震えていることが知られてしまいそうだったから。

「……ご、めん。そうだよな。おれ、直すよ。気をつけるから」

 縋り付くような言葉がいくらでも湧いて出てしまいそうな自分が情けなかった。でも、そんなものに構ってはいられない。ここで言葉を尽くさなければ、おれは彼女を失うだろうという確信があったのだ。浅い呼吸で息を吸って、「別れるなんて言わないでくれ」と喚こうとした。――けれど、それが言葉になることはなかった。
 彼女がソファを降りて、足元に跪いたのだ。そして、膝の上で固く握られているおれの両手を、そっと包み込む。女性に膝をつかせるなんて、と反射的に彼女を制しようとしたが、ぎゅっと力が篭められた彼女の手がそうさせてはくれない。俯いていたおれの視界に潜り込むみたいにして、まっすぐに見つめる彼女の眼差しから視線を逸らすことは許されなかった。

「何か気になることがある? サンジくんがどうしてそうしちゃうのか知りたいの」

 呆気に取られるおれに、彼女の力強くて、でもどこまでも柔らかい声が突き刺さる。奥深く、簡単には抜けないところまで。
 ――この人のことを好きだと、心底思う。すべての女性を敬う心とは別に、たしかに存在するのだ。こうやって、おれの心を分かろうとして柔らかくなる眼差しと、棘まで全部飲み込んでしまおうとするおれを押し留めるてのひらのあったかさ。
 与えて尽くして、それを盾にきみをがんじがらめにしてしまうおれみたいな男に、なにかを与えようとしてくれる。

「……おれ、癖みてェで」
「癖?」

 促されるように呟いた声は情けなく震えていた。けれど、おれの拳を覆いきることなんて到底できそうにない小さく薄い手のひらが、それでも優しく包んでいてくれるから、固く閉ざしたおれの喉の奥は少しずつ開いていく。

「……ダメなんだ。どうしても、きみが何食べてるのか気になって、全部おれが作ったものだったらいいのにって思っちまう」

 この悪癖に、特別な理由はない。ただ彼女を好きだと思う感情に引きずられて這い出でてくる。だから、これを「治療」する方法はないし、自分自身でこれを抑え込むしかないと知っているのだ。それでもきっと、完全にこの願望を消してしまうことはできなくて、だからこそこうして彼女を困らせる羽目になっている。
 それなら、もっと強固に、もっと厳格に、おれが自分を押し殺せばいい。ルールを決めて、ペナルティを設けたっていい。それで、彼女のそばにいられるなら。
 息を止めるのと一緒に、下唇を噛む。そのタイミングを見越したように彼女が呟いた声が、あんまりにもあっけらかんとしているから、おれは噛んだ唇の痛みすら感じなかった。

「じゃあ、一緒に住む?」

 問いかけられて、何も答えられない。俯いていた視線を思わず上げると、彼女はまるで世間話をしているみたいになんでもない顔をしていて、もう余計に何を言われたのかわからなかった。

「……は、」

 ようやくこぼれたのは、そんな意味のない音だけだ。思いがけず身体の力が抜けて、緩んだ拳の隙間に、彼女の指先が入り込んでくる。その感触に導かれて、彼女の言ったことが数拍遅れで頭の中に何度も繰り返された。
 彼女の食事を過剰に気にしてしまうことをやめられなくて、でも離れたくなくて、やめられるようにもっと頑張るから、と縋り付くおれへの言葉が、「一緒に住む?」になるのはどういうことだ。
 まじまじと彼女を見つめてしまうおれの視線を尻目に、彼女はどこか気まずそうに笑う。

「サンジくん、いつもウチに来てくれるでしょ? お店と家からも近くないのに、負担ばっかりかけてるって気になってたんだよね」
「んなことねェ、おれァ本当に、おれがそうしたいだけで……」

 要領を得ないまま、それでも彼女の口からおれに負担をかけているだなんて言わせてはいけない気がして、首を横に振った。おれはただ、自分のしたいことを無理やり彼女に押し付けたに過ぎない。それがまるで「奉仕」の形をしているように見えたから、彼女はそうやっておれのことを案じてくれるだけだ。
 それをどうしたら伝えられるだろう。焦って目を見つめると、彼女は柔らかく笑ってくれるから、またおれは何も言えなくなる。

「分かってるよ。ただ、一緒に住んだら少しは楽になるかなって。それにサンジくんが気にしてることも、ちょっとは大丈夫になるかもしれないし」
「……おれのこと、鬱陶しいと思わねェの」
「あはは、ちょっとは思うかも。でもそのときはちゃんと言うから、大丈夫だよ」

 何が大丈夫なのか、おれにはちっとも理解できない。なのに、彼女の口ぶりはひどく軽やかで、穏やかで、おれのことを突き放そうとする言葉には少しも聞こえなかった。じわじわと立ち昇る圧倒的な気持ちに、目の奥に熱が溜まっていく。
 おれのこの悪癖を鬱陶しいと認めて、そのうえで「大丈夫」だと笑い飛ばされてしまうなんて、おれはこれまで考えもしなかった。おれが何を思うのか確かめて、それから、今よりもっと近くに行ってもいいんだと手を広げていてくれる。

「サンジくんは嫌?」
「嫌なわけねェよ! う、うれしくて、おれ、死ぬんじゃねェかと……」

 単純な驚きと、もうすぐそこまできている安堵に息を詰まらせるおれのしどろもどろな言葉を聞いて、彼女は堪えきれないような笑い声を漏らす。その表情に見惚れるおれにしっかりと目を合わせて、「あのね、聞いて、サンジくん」と呟いた。子供に言い聞かせるような、子守唄を歌うような声だ。

「ずっとサンジくんのご飯だけしか食べないっていうのは、たぶん無理。あと、たまにはファーストフードとかカップ麺も食べたい」
「う、ん……そうだよな、分かってる」

 自分の中にある願望を否定する言葉には違いないのに、あんまり優しい声をしているから、おれの胸の中はどこも痛むことがなかった。自分は、安心してこの人の愛情を受けていていいんだと、もう知っている気がしたから。

「だから、そのときは付き合ってくれる?」

 悪戯に歯を見せて笑う姿に、おれは今にも天を仰ぎそうになる。あーあ、降参だ。両手を上げて全面降伏。この激流の前に、おれはなす術がない。自分はただ流れになぶられる一本の棒切れでしかないのだと思い知らされる。
 おれの拳を包んでくれている手のひらの中で、くるりと自分の手を裏返した。包まれているだけだった手を、触れ合わせて、ゆっくりと握る。彼女も同じように握り返してくれることを、なんて幸福な出来事だろうと思いながら、頷いた。

「……あァ、もちろんだ」

 そうしておれは、ようやく自分の口元が力なく笑むのを感じた。その瞬間、彼女の眼差しがより深く、色濃く、柔らかさを増す。これまで自分が彼女を見つめてきた中で、もっとも恋しい姿をしていた。

「わたし、サンジくんのご飯がいちばん好きだよ」

 ――何よりも、この世界中のどこを探してもそれ以上なんて見つからない、最高の愛の言葉だ。
 きみが好きだよ、愛してるよ、そう答えたって、きっと太刀打ちできない。普段あんなにもよく回って、どんな賛辞だって生み出せる自分の口が、てんで役に立たなかった。それでもどうしたって、喉の奥からせり上がってくる感情を抑えることはできなくて、足元に跪いたままでいる彼女に覆い被さるようにして、強く、強く、その背中を抱いた。
 蹲るように丸くなるおれの背中に腕を回して、「ご飯どうする? 一緒にスーパー行ってもいい?」と笑う言葉が、どんなにおれを幸福にするのか、きっと一生彼女は知らないままだろう。でも、それでもいい。彼女がくれる言葉みたいに、今度はおれが、「うれしい」とか、「ありがとう」とか、「幸せだ」とか、まっすぐ伝えればいいだけだから。
 今日は何を作ろうか。おれの得意なアラビアータでも、この前おいしいと言ってくれたかぼちゃのキッシュでも、きみの大好きなエスニックだって、きみのために作る料理なら、きっとおれが一番うまく作れるに違いないのだ。

悪癖と恋人のポシェ

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