部屋の掃除、整理整頓、食事、衛生観念、エトセトラ。聖臣とお付き合いをするにあたって、乗り越えるべき壁はさまざまあったけれど、結局のところ物理的な距離が一番高い壁だった、と今になって振り返る。
 大学に入って聖臣と出会ってから、おそらく一般的な男女が距離を縮める期間よりは少なくない時間をかけて、付き合い始めたのは大学四年になった頃だった。その頃には、すでに聖臣は次の年から実業団かクラブチームへ加入することが確定しているようなものだったから、卒論や就職活動をしていた自分よりもずっと忙しくしていた。そしてその忙しなさのまま、聖臣は大阪を本拠地とするチームへの加入が決まり、わたしたちは選択の余地なく遠距離恋愛となったのだ。
 わたしのほうはともかく、聖臣は一度始めた関係を物理的な距離が離れたくらいでやめてしまうような性格ではなかったから、大阪に行くことが決まったときも「そっち帰るときは連絡する」としか言わなかったし、わたしが大阪の支社に配属希望を出そうと考えていると話したときも、反応はといえば「おまえがそうしたいなら好きにすれば」と言うくらいのものだった。冷たいわけではない。聖臣はそういう人間だ。
 一方わたしはというと、聖臣には言えなかったけど寂しかったし、それなりに不安になることもあった。もともと友人であった頃も付き合ってからも会う頻度は少なかったし、聖臣の遠征も多かったから、遠距離になって急激にすれ違い始めたわけではなかった。けれど、会いたくなったときにすぐに会いに行ける距離にいないというのは、結構辛い。それでもわたしが耐えられたのは、たとえすれ違ったり喧嘩をしたりしても、聖臣は絶対に隠し事や浮気をしないと分かりきっていたからだ。そうやって信じられたのは、ただひとえに佐久早聖臣という男は、そういうことが「できない」性格の人間だと思っていたからに他ならない。
 それに、就職先の新入社員研修後に、遠方故の不人気さからかあっさりとわたしの大阪配属が決まったとき、それを知らせたときの聖臣は、やれ部屋はいつ探しに来るんだとか、やれ住むならこの辺りにしろだとか、やけに饒舌でそわそわした様子を見せた。だから、彼は彼なりにわたしと離れていることを寂しがってくれていたのだろうと感じられたのだ。
 ――それなのに。

「そろそろ帰れ。送ってく」

 終電がそろそろ近づいてくる時間帯。聖臣はテレビボードの上にある時計に目をやってから、そう言って立ち上がる。サイドチェストの定位置に置いてある車のキーを手に取って、視線でこちらを促した。わたしはそれに、わざと気づかないふりをする。

「……明日、練習午後からだったよね?」

 先週、今日の予定を決めたときに聖臣本人がそう言っていた。そしてわたしも明日は休みだ。久しぶりに一緒に過ごしている恋人同士なら、このまま泊まっていったって誰も文句は言わない、と思う。それを視線に含ませて、ソファに座ったままじっと聖臣を見上げると、彼はさっと目を逸らして目線を宙に彷徨わせた。
 自分が「聖臣には隠し事や浮気ができない」と思うのは、こういった行動が所以だ。中途半端なことができない人だから、意に沿わない行動をするとき、こうやってあからさまにぎこちなくなる。

「……朝からになった」
「嘘つくの下手すぎ」

 本当は笑ってあげたかったのに、ぎこちなく口角が引き攣るだけで終わってしまう。聖臣の下手くそな嘘に騙されてあげる余裕が、今のわたしには残っていない。いつもなら、「聖臣にはそんなことはできない」という確信にも似た信頼で切り捨ててきたあらゆる疑惑から、目を逸らしきれなくなってきている自分を自覚していたから。
 聖臣はここのところ、わたしが彼の部屋に泊まったり、逆にこちらの部屋に泊まっていくことを避けている。大学の頃や、わたしが大阪に越して来た当初は、予定が合えばお互いの部屋で朝まで過ごしていたのに、それから二ヶ月ほど経ったあたりから、あれこれと理由をつけて家に帰されるようになったのだ。
 理由を聞いても聖臣は「別になんでもない」と下手にはぐらかすことしかしないし、自分でいくら考えても原因には思い至らない。聖臣が不快に思うことといったら、彼の潔癖症(そう言うと「俺は潔癖じゃない」と返される)に起因することだけれど、彼が不快なことを我慢するわけがないし、今更わたしに気を遣っているとも思えない。遠距離だった頃に比べたら自動的にセックスの頻度が増えたから、それに問題があるのかもしれないと恐る恐る聞いてみたときには、不機嫌そうに「俺はしたくなかったらしない」とはっきり言われた。それもそうだ。聖臣は、奥ゆかしさとは対極の位置にいる人間だから、彼が「ノー」と言ったなら、それは絶対に「ノー」なのだ。
 じっと黙り込むわたしに、嘘が下手だと自覚があるらしい聖臣は、わずかに眉間に皺を寄せて唇を尖らせても、言い返してくることはない。彼の珍しく言い淀む姿は、今のわたしには不安を煽るものにしかならないのに。

「泊まったらだめなの」
「……今日は帰れ」

 目が合わないまま、聖臣は呟く。「今日は」って、先々週もその前も、一緒にいてくれなかったくせに。そんな、彼を責めるような言葉を吐き出してしまいそうになる。唇を噛んで、聖臣の顔から目を逸らした。

「わたしが泊まるの嫌?」
「嫌とかじゃない」
「じゃあなんでだめなの?」

 こうやって、しつこく食い下がるような真似を聖臣が好まないことは知っている。少しずつ声色が険しくなって、イライラし始めている空気も伝わってくる。そうやって怒るくらいなら、理由を教えてくれればいい。普段の彼ならそうするはずなのに、聖臣はなぜかそれをひた隠しにする。これまでわたしには見せたことのない姿だ。
 だから、余計に不安になる。想像し得る理由から、違うと思ったことを切り落としていくと、ありはしないはずのものが浮き上がって見えてくるのだ。そんなのあり得ない。聖臣に限って。そう思うのに、それ以外が見えなくなって、胸の中が棘だらけの波でざわつくのに耐えられなくなる。

「……誰か来るとか?」

 無音の部屋の中でなければ、聞こえないような小さな声だった。震えたそれは、静かな部屋の空気を伝って聖臣まで届いて、彼の「は?」という返事で冷たく掻き消える。指先が冷えて、それなのに汗ばんで不快だ。膝の上でスカートをぎゅっと握るわたしの言葉の真意は、歪むことなく聖臣に届いたらしい。それを示すように、部屋の空気が一瞬で張り詰めていく。

「馬鹿なこと言うな。なわけねえだろ」
「わたしがいたら困ることあるんだよね? それって他の女の人以外ある?」

 ひとつこぼしてしまったら、もう止まらなかった。遠距離の頃だってほとんど心配していなかったようなことが、彼が目の前にいるのに、溢れ出してくる。明確な理由が分からないまま、自分が知らなかった彼の姿を見せつけられて、改めてその距離と時間の長さを思い知らされるのだ。もし、聖臣が心変わりをするようなことがあったとしても、それに気付けないところにいた時間があったことは確かだから。

「俺がそこらへんの女とどうこうできると思ってんのかよ。おまえだけって分かるだろ」

 聖臣の語気がいつもより強い。そうさせているのが、誤解されたことに対する焦りなのか、やましいことを隠すための焦りなのか、わたしには分からなかった。聖臣の言うことは間違ってない。聖臣が浮気なんてできるはずない。「おまえだけ」なんて言葉も、本当なら嬉しくてたまらないはずなのに、わたしは今までのようにそれを素直に受け止めることができなかった。俯くだけでは足りないような気がして、聖臣のいる方からわざと顔を逸らして、「今はそうかもね」なんて信じられない嫌味がひとりでに湧き出てくる。
 ――だって、しょうがないじゃん。

「遠距離してるうちに何か始まってても、わたしには分かんないし」

 言ってから数秒、沈黙が流れる。ただ座って話しているだけなのに、全力疾走をしたあとみたいに息苦しくて、呼吸をするのに肩がわずかに上下していた。視界の端にいる聖臣は、ぴくりとも動かない。

「……は?」

 底冷えがするような声だ。これまで何度となく聖臣のことを怒らせてきたけれど、こんなに冷たい声を聞いたのは初めてだった。でも、当たり前だと思う。わたしの言葉は、遠距離の間も、今の聖臣のことも、ずっと疑ってきたと言っているのと同じだ。聖臣は、ただバレーボールをするために東京を離れて、わたしはそんな馬鹿みたいに一直線にしかなれない彼のことが好きなだけだったのに。そのどちらもを侮辱するようなことを言ってしまう自分に失望する。

「もういいよ。帰る」

 次に何を言われるのかと思うと怖くなって、自分の荷物をひったくって足早に玄関へ向かおうと身体を翻す。それを許さず、すれ違いざまにわたしの腕を掴んだ聖臣は、「待て」と言ってこちらを睨みつけた。

「おまえ、『もういい』って言うのやめろって言ったろ」

 言い争いになるたび、口では聖臣に敵わないわたしが「もういい」と議論を放り投げて逃げようとするのが嫌だと言って、いつだったか彼がそれを禁止にしたことを思い出す。懸念事項をそのままにしておけない聖臣は、いつだって根気強くわたしの話を聞いて、自分たちの妥協点を一緒に見つけようとしてくれたのに。今回はそうできない。このまま彼の話を聞いていたら、取り返しのつかない結果が訪れてしまいそうでおそろしかった。

「だって、話しても仕方ないから。じゃあね」
「待てって」

 引き止める聖臣の手を振り払って、駆け出すようにして部屋を出た。エレベーターを待たず階段を駆け降りている間、後ろから物音が聞こえないことを確かめる。聖臣は追いかけてこないはずだ。彼は無人の部屋をそのままに駆け出していくなんて不用心なことはしないだろうし、話を聞かないわたしに呆れて深いため息をついている姿が容易に想像できた。
 マンションから出て、駅に向かって駆け足から早歩きになるわたしのカバンの中でスマートフォンが振動する。メッセージの受信を通知するディスプレイには、<勝手に変な勘違いするのやめろ。戻ってこい>と聖臣からのそっけない言葉が表示されていた。彼からすれば、わたしの不安は「勝手」で「変」な「勘違い」に過ぎない。聖臣が、悪気なくそういう言葉選びをしてしまうことなんて分かりきっているはずなのに、今日はやけにそれが癇に障った。見なかったことにして、ひたすら無心で駅への道のりを急ぐ。終電の時間を調べているわけもなかったから、間に合うかも分からないけれど、間に合わなければタクシーを捕まえて、それも駄目ならビジネスホテルかネットカフェに泊まればいい。絶対に、聖臣の部屋にのこのこ戻っていくような真似はしたくなかった。



 その日はなんとか終電に間に合って、自宅へ辿り着いた頃にはすでに日付は変わっていた。メイクを落とすのもお風呂に入るのも億劫で、帰宅したその足で布団にくるまって不貞寝をした。目を覚ましたのはとっくの昔に正午を越えていて、それからダラダラとお風呂に入ったり家事をこなしていればもう夕方だ。
 テレビからもオーディオプレーヤーからも音のしない部屋で、何をするでもなくソファに横たわって、こんな自堕落な姿を聖臣に見られたら何を言われるか分からないな、と思う。でも、もしも今彼が現れてわたしに何か言うとしたら、そんなただのお小言ではない別の「何か」だろう。それが怖くて聖臣の前から逃げ出して、こうして身動きできずにいる。もしかしたら、聖臣はもうその「何か」を決断してしまったかもしれないのに。
 ソファの足元に置いたままになっているカバンからスマートフォンを取り出す。いつの間にか充電が切れていたようだ。充電ケーブルを差し込み、スマホが起動するのと同時に、一斉にメッセージアプリからの通知でディスプレイが埋まった。その通知画面に呆気に取られた瞬間、無音の部屋の中にインターホンの音が響き渡って、びくりと震えた手からスマホが落下する。――いくつも受信しているメッセージの送信者はすべて聖臣で、そのうちのひとつには、<今日練習終わったらそっちに行く>と記されていた。
 備え付けのインターホン画面には案の定聖臣が不機嫌そうな顔で映っていて、さすがに無視することはできずにオートロックを開ける。彼が何のためにやってきたのか、何を言われるのか、考えても嫌な想像しかできない。ドアを開けて現れる、先ほど画面に映っていたのと全く同じ不機嫌顔を見ていられなくて、目を逸らした。
 聖臣は、靴を脱ぐようなそぶりを見せず、玄関に突っ立ったままじっとわたしを見下ろす。普段外出するときは、風邪の予防や花粉対策で年中当たり前のように付けているマスクを外して、静かに息を吸った。

「なんで昨日連絡無視した」
「……あの状況で返事するわけないでしょ」
「ちゃんと家に着いたかくらい返せるだろ」
「なんでそんな子供みたいな連絡しないといけないの」
「ふざけんな。心配だからだろ」

 淡々とした調子で聖臣が発するのは、まるで小さい子供へのお説教みたいな言葉だ。けれど、わたしが想像していたものとは違う。性懲りもなく意地を張ってしまうわたしに、一瞬語気を強める彼の顔を思わず見上げた。

「あんな時間に一人で帰りやがって。電車あったのかよ。最寄りからタクシー使ったのか」
「……電車はあった。タクシーは乗ってない。近いし」

 てっきり、開口一番に振られると思っていた。彼が浮気なんてするわけがないと分かっているのに、聖臣を疑うようなことを言って、話も聞かずに口答えだけして逃げるわたしのことなんて、付き合いきれないと呆れたはずだ。なのに、聖臣の口から紡がれるのは、わたしのことを案じる言葉だけだった。

「喧嘩してもそういう連絡はしろ。いいな」
「……」
「おい。返事」
「……はい」

 不貞腐れた態度を取るわたしを睨みつけて、また新しいルールを作る。喧嘩をしたときに「もういい」と言わない。喧嘩をしても安否確認は欠かさない。聖臣と付き合うのは面倒だ。気を遣うことばかりだし、今みたいな上から目線の物言いもいつものこと。けれど、どうしてかわたしはどんなことがあっても聖臣のことを好きなままだった。

「……悪かったよ。勘違いさせるようなことして」

 ――謝った!
 自分の目がこれでもかと見開かれたのが分かる。あまりにも珍しい彼の言動に、言葉を失ってしまう。聖臣はいつも慎重で、当たり前に正しいことしか言わないし、そういう自分を自覚しているせいか、謝るという行為をすることはほとんどない。間違ったことは言わないし謝るくらいなら初めからやらない人だ。
 しかも今回のことは、ほぼわたしが悪い。彼が何でもないと言ったことを信じられなくて、勝手に不安になって一方的にそれを押し付けた。その原因が聖臣にあるとしても、自分の口にした言葉はあまりに理不尽だっただろう。
 だというのに、あの聖臣が自ら謝罪なんてするものだから、それまで燻っていた怒りも引っ込みがつかなくなっていた意地も忘れて、目の奥がじんと熱くなった。
 どんなことがあっても、聖臣のことを好きでたまらないと思う。

「……わ、わたしもごめん。聖臣が、浮気するわけないって分かってる」

 聖臣が、怖いくらいに誠実で結局は優しいことを知っているからだ。
 自分の口から「ごめん」と発した途端、身体の中から震え上がるような熱が込み上げて、視界がにじむ。こんなに一瞬で涙を流せるんだ、と他人事のように思った。そんなわたしの姿を見て、今度は聖臣が目を丸くする。ため息まじりに「泣くことないだろ」と呟いて、土間のギリギリまで近寄りそっとわたしの腕を引き寄せた。
 いつもなら胸に埋まるはずの顔は、段差のせいで聖臣の肩口に押し付けられる。勝手にわたしがお揃いにした柔軟剤と、練習終わりにシャワーを浴びたのか清潔な石鹸の匂いがした。「玄関とか埃っぽいのに」とか「荷物も下ろしてないんだけど」とか文句を言いながらも、背中に回った手は緩まなかった。

「……なんで朝まで一緒にいてくれないの」

 自分の喉の震えが少し治まったのを感じて、聖臣のジャージをぎゅっと握りながら呟く。お互いに謝ったばかりなのに無粋かもしれないけれど、聞かずにはいられなかった。聖臣も、今回のような喧嘩に発展してしまったことをなあなあにしておく気はないようで、しばらく考え込んだあと「……おまえがいると」と耳元で唸る。

「おまえがいると、朝起きれなくて困る」

 言われたことが、一瞬理解できなかった。よく聞こえているはずなのに反応することができなくて、聖臣はわたしが固まっていることには見向きもせず、でも少し言いづらそうに言葉を連ねる。

「おまえが横で寝てると、いつもなら走りに行く時間なのに起きられなかったり、それで朝メシも普段と同じもの用意する余裕なかったりして」

 あれこれと煮え切らないことを言う彼の様子は珍しかったけれど、わたしはその様子よりも聖臣の話す言葉の方に釘付けになった。
 普段の聖臣は、練習があろうが無かろうが同じ時間に起きてジョギングに行って、シャワーを浴びて、決まった朝食を摂る。朝だけでなく、そういったルーティンが聖臣の生活にはいくつも存在する。それはわたしもよく知っていた。けれど、一緒に過ごした日の朝の記憶を辿ると、朝起きたときに聖臣が隣にいなかったことはなかったように思う。「起きろ」とわたしを揺さぶって、こちらがきちんと目を覚ましてベッドから抜け出すのを見届けてから、ジョギングに出かけていくのだ。思いも寄らない理由にぽかんとしてしまうわたしを放って、聖臣は言葉を生み続ける。
 いつもなら起きるはずの時間なのにベッドから抜け出すのがひどく億劫になるとか、二度寝までしてしまうこともあるとか。それをきっかけに色んなことのタイミングを逃すのだと憎々しげに告げられた。わたしは声も出せないままだ。聖臣の声は、どこか気まずげで不機嫌そうに尖っているのに、その言葉はひどく熱烈な口説き文句みたいに聞こえてしまう。耳が端から熱くなって、背中にじわりと汗が滲んだような気がした。

「おまえがいると、いつもやってることが手につかなくなる。色々」

 触れ合っている聖臣の身体が熱い。わたしの体温だって急激に上昇しているはずなのに、彼の体温もそうであることを明確に知らせてくる。でも、ただ浮かれていてはいけない。
 聖臣の言葉の意味は、彼が大事にしている生活のあれこれを、わたしがいることで乱してしまっているということに他ならないのだ。逸る心臓の音に聞こえないふりをして、静かに深呼吸をしたあと声を絞り出した。

「……わたし、聖臣の邪魔してる?」
「はあ? なんでそうなるんだよ」

 怪訝そうな声を発した聖臣は、抱き寄せている身体をゆっくり引き剥がす。それまで聞こえていた声のとおり、その顔は眉間に皺を寄せた顰め面をしていた。その表情でじっとわたしを睨みつけたあと、口元をぐにゃりとまごつかせて、視線が逸らされる。

「遠距離じゃなくなって……」

 視線の合わない聖臣の表情から目が離せない。目尻のあたりがわずかに色づいている。その表情を見ているうち、いつの日か聖臣が「好きなんだけど」と言ってくれたときのことを思い出していた。

「……浮かれてるんだよ。分かれよ」

 またしても、わたしは聖臣の言っていることが理解できずにぽかんとしてしまう。付き合う前も、恋人になってからも、こうやって彼独自の感性に置いてけぼりをくらってばかりだ。浮かれて生活がだらしなくなってしまうのは分かる。ただ、それでも聖臣の生活ははたから見てもだらしないなんて思えないほど規則正しいものだったし、浮かれているから距離を取るなんて行動を察することなんてできるわけがない。聖臣じゃないんだから。
 混乱しきりで二の句が次げないわたしのことなどやはり置いてけぼりにして、聖臣はひとりで勝手に思い直したような顔で言うのだ。

「提案なんだけど」
「なに?」
「おまえしばらくうちに住め」
「……なんで?」
「色々考えたけど、おまえがいたりいなかったりするのが悪いんじゃないかと思って」

 納得したような顔してるけど、何ひとつわたしには伝わってないですからね。抱き寄せられていた身体を離しても、ジャージを掴んでいた手はそのままに口を尖らせて、じとりとした視線で聖臣を見上げる。

「……聖臣のほうが距離置いてたくせに」
「だから悪かったって言ってる。それで駄目なのはわかった。やり方を変える」

 わたしの文句なんて、一度こうと決めてしまった彼には通じない。こうなってしまったら、もう聖臣のペースだ。そうじゃなかったときなんて一度も思い出せないけれど、たぶん聖臣にとっては違うのだろう。わたしがいることで聖臣のペースが乱されるときがあって、あの聖臣をそんなふうにしたのだと思うと、悪くないと感じてしまいそうになる。
 そんな不遜なことを考えるわたしを尻目に、彼の表情はもうすでに決定したことをなぞっているように迷いがない。

「まずはおまえがいるのに慣れる」
「そんな訓練みたいな。無理しなくていいよ。生活リズムが崩れるってことでしょ? 聖臣にとっては大事なことじゃん」

 聖臣の言うことを完全に理解したわけではなかったけれど、彼がしようとしていることは何となく分かる。けれど、わたしは自分のために聖臣の生活を変えてほしいなんて少しも思っていない。理由が分かって、不安が解消されたなら、それでいいのだ。彼に振り回されて、それを不満に思うことがあったとしても、心の底から嫌だと思うことなんてない。聖臣にとって大事なことなら、わたしはそれを受け止めたい。本当のことだ。
 妥協して言っているわけではないのに、聖臣は聞く耳を持たないように首を振る。もう決めた、と言わんばかりの顔をして、当然のことを言うみたいにまっすぐにわたしを見つめるのだ。

「おまえに今回みたいな余計な勘違いされたくない。それに今のままじゃこの先どうすんだよ。結婚するときとか」

 ――だめだ。キャパシティが足りない。
 喧嘩しているときには癇に障って仕方なかった「余計な勘違い」なんて言葉選びは気にもならなかった。それよりも、そのあとに告げられた「結婚」という言葉にすべてを持っていかれる。自分は今、何を聞かされているんだろう。
 思わず呼吸を止めてしまっているうちに、「こんなことで別れるとか、絶対許さないからな」と続いて、もう言葉を見つけられなかった。振られてしまうかもと怖がっていたのはわたしだったはずで、そう決断する側のはずの聖臣が、それを「許さない」と言うのだ。
 ジャージを掴んでいた手に、聖臣の手が触れてぎゅっと強く握る。少し痛みを持ったその感触が、目の前にいる彼を、現実だと確かに知らせていた。

「俺も努力する。だからおまえも、なるべく俺をおかしくするようなことをするな」
「…………はい」

 わたしをおかしくするようなことばかりするのは聖臣のほうで、振り回されているのもわたしのほう。――でも、そうじゃないんだと他ならない彼が言うのなら、わたしはもうずっと、一生、このままだっていいよ。

朝が融解していく

- ナノ -