日本最大の犯罪組織だなんて大層な渾名で呼ばれるこの場所にいる人間は、ここに辿り着くまでの経緯は数あれ、結局はみんな同じだった。
 自分にまだ何かが残っていると思っているようなやつは、ここにはいない。そのとおりだ。ぐうの音も出ないし、的を得ていると頷きすらする。九井一もそうだ。自分の中にはもう何もなくて、何かが存在していた、その残骸すら残っていないと信じている。
 自分が持っていたものを忘れてしまったようなやつは、ここにはいない。自分の中にその残骸など残っていないと信じているのは、そう思っていなければ、こうやって立っていられないからだ。自分は空っぽだと嘯く嘘つきの集まり。同じ穴の狢という言葉が腹立たしいほどに適切だった。
 九井一も、その狢のうちの一匹だ。

「あ? 九井もう帰んの?」

 一見すれば、ごく普通の企業と同じようなオフィスの、簡易な応接スペースで革靴も脱がずにソファに足を投げ出したまま寝そべる男が、九井を呼び止める。九井はそのひょろりと細長い男を横目に見下ろしながら、垂れ下がるその目が値踏みをするように歪むのを見て視線を逸らした。
 灰谷蘭が暇そうにたむろしているタイミングと重なるなんて、ついていない。自分が把握している限り、そうやって事務所のソファに寝転びながらスマホを弄っている余裕なんて、この男の抱える仕事にはなかったはずだが、それを言うのは藪蛇だと九井は知っていた。
 財布と、スマホを二台、羽織った上着のポケットに突っ込みながら、深く長い溜息を吐く。

「帰らせろ。もう三日帰ってねぇんだよ」
「そうだっけ? オマエいっつもいるからそういう感覚死んでるわ」
「オマエがもっとまともに働いてくれれば、いっつも顔合わせなくて済むんだけどな」
「そう言うなって、肩代わり分は払ってやってんじゃん」
「当たり前だ、タダ働きなんざごめんだね」

 蘭の不真面目さは幹部の中でも突出している。力も才能もあるというのに、それを帳消しにして余りある気紛れな気質に振り回されているのは、蘭の弟である竜胆と、九井だった。まあ、別に構わない。蘭の仕事を片付ける代わりに、蘭のポケットマネーが自分の懐に入る。ただ、今日はそれに巻き込まれるわけにはいかない。
 視界の左側は、自分の髪に覆われているはずだが、視線が飛んできているのには気付いていた。蘭はいつだって飄々とした雰囲気を携えている男だが、今日はいつもより余計に含意を感じる。そう思うのが、自分の紛れもない後ろめたさに起因していることを、九井は分かっていた。そしてそれを見透かしたように、蘭は笑う。

「でも、今日は帰んだ。オンナ?」

 本当に、嫌な男だな。自分のことを善人だなんて口が裂けても言う気はないが、それでもこの男よりはマシだろうという自負はあった。酷く楽しそうな様子で、もしも自分が頷いて返事をしたら、「オレも行きたぁい」とでも言い出しそうな顔だ。わざと聞こえるように舌打ちをしても、その表情は崩れない。

「……違ぇよ、オマエと一緒にすんな」

 髪の隙間から、温度のないにやけ面を睨みつける。蘭に、不特定多数の女の付き合いがあることは知っていた。裏社会の女から、何も知らない一般人まで、つまみ食いしているだけの水商売の女も含めると、両手の指で足りるのだろうか。この男は周りに対して自分のそういう話を隠さないから、例に漏れず九井もそんな知りたくもないことまで知っている。
 だから、その蘭に女のことを言及されると、ついわざわざ否定してしまうのだ。他のことと同様に、「どうだっていいだろ」と突き放してしまえばいいのに、「彼女」のことをそうやって下世話な括りにまとめられるのは、何だか腹立たしかったから。
 蘭はこちらの返答を聞いて、薄い唇の端を吊り上げる。そしてようやく視線を外して、ソファの肘掛けを支点にして首を逸らした。

「フーン。ま・一緒にはしねーよ。堅気の女と『オトモダチ』とか、オレにはわかんねーもん」

 その言葉に九井は返事をしない。誰に探らせたのかは知らないが、九井がこれから誰と会うのか把握しているような蘭の口ぶりに何の反応も返さず、上着の裾を翻して蘭に背を向けた。事務所の扉を潜って、エレベーターに乗り、待たせていた車でビルの地下駐車場から抜け出す。
 いつまで経っても、返すべき言葉は思い浮かばなかった。

 待ち合わせの前に自宅に戻り、服を着替える。普段よく着ているマオカラーのジャケットは、色も相まって往来を歩くのにはそぐわない。黒色のタートルネックとスラックスに、スタンダードな型のトレンチコートを羽織って、左の側頭部にある刺青を隠すように手櫛で適当に分け目を変えてから緩く後ろ髪を縛れば、週末の繁華街を歩けるくらいの姿にはなれる。この髪色はどうしようもないが、素知らぬ顔をしていれば、案外目には留まらないものだ。
 適当に拾ったタクシーで店へ向かう。有名店ではなく、チェーン店でもない、特筆すべき点のないただの居酒屋だ。入り口からは衝立の影になっているボックス席にそれらしい影を見つけて覗き込むと、所在なさげにスマートフォンを操作している女が、こちらに気付いて顔をあげる。

「あ、おつかれさま」
「悪い、遅れた」

 トレンチコートを脱ぎながら、九井は女の向かいの席に腰を下ろした。約束の時間に遅れたと言うから、スマートフォンの画面端に映る時計を見ると、きっちり二十時ちょうどを示している。事前に取り決めていたものとちょうど同じ時刻だ。

「遅れてないよ、時間ぴったり。さすがじゃん」

 そう言って笑う女に、「はいはい」と気のない相槌をして、テーブルの隅に広げてある店のメニューを二人揃って覗き込む。女も店に到着したばかりらしく、まだ何もオーダーしていなかったようなので、生ビールの中ジョッキを二杯と、すぐに配膳されそうなものを適当に注文した。たこわさがあるから他のメニューにしろと言っているのに、長芋のわさび漬けも頼むと言って聞かないので、酒のつまみはわさび尽くしになりそうだ。
 女――なまえは、九井の大学での同期生だった。九井は、当時諸々の事情で高校には通っていなかったが、その後、今の組織を立ち上げるにあたって、高卒認定資格を取得したうえで大学に入学した。組織を拡大し、隠れ蓑になったり資金を蓄えたりするための企業や店を維持管理していくために、自分自身にそれなりの学歴をつけておくことは有用だったから。
 なまえは、そこで出会った女だ。九井は、必要な知識を取り入れて、卒業さえできればそれで良かったので、大学での人間関係など不要だと思っていたし、そうやって周りと距離を取る九井の様子に、周りの学生たちは自然と九井と関わることを避けた。とある講義の際に「すみません、人多いので横詰めてもいいですか?」と律儀に聞いてきた、なまえだけを除いて。
 偶然隣に座っただけの女だが、結局卒業するまで、九井が大学で友人と呼べる人間はなまえひとりだけだった。
 二人は、どういうわけか気が合った。九井はなまえと共にいるのがもっとも気が楽で、かつ有意義だった。お互いの情報を一切知らない状態で知り合ったことと、共通の知人や生活圏を持たないことが、その気楽さに繋がっていたのだろう。日々のいいことも悪いことも、お互いへ吐き出すことに理由がいらなかった。だから、自分の過去の出来事を明らかにすることに抵抗はほとんどなく、九井はそれがごく自然的なことであるように、「あの人」のことも打ち明けていた。
 その頃からの付き合いは、大学を卒業してからも継続して、何もなくともこうして顔を合わせている。
 ただ、そんな友好的な関係であっても、なまえは、九井が周りから見て決して一般的とは言えない仕事をしていることを知らない。自分の一番柔らかくて薄暗い部分を知っている彼女だけれど、それとこれとは話が違う。堅気の人間に簡単に言えることではなかったし、それを伝えたとして、そのときなまえの目に何が浮かぶのか想像すると、どうしても思考が一時的に停止してしまうのだ。だから、九井はなまえに何も伝えないことを選択した。偶然なのか、故意なのか、なまえが九井の仕事について詳しく聞きたがったことはない。故意だとしたら――それを考えるとまた、頭が働かなくなる。
 今日みたいに酒を飲んだ日は、もっと酷い。

「あいつら、女・女って鬱陶しいんだよ。オレは、一途なんだ」

 仕事の内容について九井が口にすることはないが、酒を飲んだ九井が、職場の同僚もとい組織の構成員たちへの文句を吐き出すのは、もうお決まりになっていた。九井は、酒に強くない。おかしな酔い方をするようなことはなくとも、ジョッキのビールを飲み干す頃には目尻がわずかに赤くなって、そのあともう二・三杯ほど飲めば完全に出来上がってしまう。
 今日も、事務所から出掛けにちょっかいをかけてきた蘭のことを思い出して、二杯目のビールジョッキを傾けながら管を巻いた。なまえのことを知りもしないくせに、「女」だと下世話に括られたり、なまえと友人であることを否定されたり、アルコールで緩んだ思考では、湧き上がる苛立ちを制御できない。
 自分の預かり知らぬところで話題にのぼっていたと知らされたなまえは、重力のままにテーブルに下ろされるジョッキの鈍い音に愉快そうに頷いた。九井は、そんなふうに笑い飛ばしてしまうなまえのことも、気に食わない。

「ハイハイ、そうだねぇ。九井みたいに一途な人、見たことないよ」

 ――オマエが女だから、なんだって言うんだ。自分がどんな女と関わりを持とうと、自分の唯一は「あの人」であって、それが他の女に代わることはない。それに何より、いつまでも、頑ななほどに歪まない自分の薄暗い感情を、目を細めて、柔らかい声で肯定してくれるなまえのことを、軽んじられているようでたまらなくなる。
 先に頼んだたこわさの小鉢が空いて、それをテーブルの端に寄せながら、焼き鳥の串が並んだ平皿を中央に寄せるなまえの指先を目で辿る。白い腕が伸びて、肘のあたりで無造作に丸まった袖口。手触りの良さそうな、シフォンのブラウスが雑に捲られていて、なまえのそういうところが気に入っていた。

「おまえになら、イヌピーのことやってもいーよ」

 テーブルに頬杖をついて、重くなる頭を支える。酒が入ると、思考回路が乱れて、口が軽くなっていけない。でも、そうやって普段抑制している様々なものに見ないふりをするのはとても楽で、気分が良かった。九井がそんなふうになるのはなまえの前だけなのだから、許されるはずだ。
 本当なら、こうやって気を許せるはずのもう一人の友人には、もう長いこと会っていない。多分これからも、会うことはないだろう。

「九井、酔うといつもそれ言うけど、誰? イヌピーって」
「……トモダチ」

 ねぎまと砂肝、アスパラ巻と、軟骨。二本ずつ並んでいる焼き鳥を串から外すことなく齧りつく。なまえとはもう何度も一緒に酒を飲んでいるから、レモンサワーが好きなことも、注文する焼き鳥のラインナップだって覚えた。でも、イヌピーの好みは知らないな。自分が居酒屋に行くようになる頃には、もう彼とは顔を合わせなくなっていたから、当然だ。九井は、ぼんやりと考えながら喉の奥にビールを流し込んだ。
 ジョッキを空にする九井を見て、「まだビールでいい?」と尋ねるなまえに、九井は無言で頷く。酒を混ぜると途端にアルコールが全身に回ることを知っているので、無謀なことはしないのだ。席のそばを通った店員に、ビールとレモンサワーを注文したなまえは、目尻を赤くする九井を見て、いたずらに笑った。

「くれるって言うんだったら紹介してよ」

 アルコールに溶かされて揺れる思考で、九井はいつも思う。なまえだったら、イヌピーとどうにかなってもいい。
 そんなこと、自分が許す・許さないの問題ではないことなど分かっていた。けれど九井にとって、彼は他の友人知人とは隔絶された存在なのだ。「あの人」と同じように、自分の中の誰にも触れられたくない場所にしまわれている。ただ、九井自身が、これから先彼にしてやれることはないのだろう。だから、余計にそう思う。
 なまえが、イヌピーのそばにいてくれたら、彼の人生はきっと充実するはずだ。今の自分みたいに。――そんなことを考えることで、満足している。何もできない自分を正当化して、自分の中にはもう何も残っていないのだと、確かめたふりをしているのだ。
 すでに彼と離別した自分が、本当になまえとイヌピーを引き合わせることなんてできやしない。それに、自分でも理由はわからないけれど、そのふたりが笑い合っている姿を想像することが、何故だかできないでいる。自分から言い出したことなのに、おかしな話だ。

「……そうだな、そのうち」
「そのうちね」

 きっと今日の言葉も、なまえの中では酔っ払いの戯言だと忘れ去られていくだろう。それでいいし、そうあってほしいと思う。日々感じる血と脂の生臭さとは違う、安っぽい居酒屋の空気。指先に染み付いた紙幣のインクの匂いを上書きする、焼き鳥の串から移った塩と油を舌先ですくった。
 すると、会話の切れ目を狙いすましたように、なまえのスマートフォンの画面が点灯する。つい反射的に視線をやってしまったそのディスプレイには、緑色のトークアプリの通知が上がっていた。他人とのやり取りを盗み見するほど無粋なつもりはなかったのに、そこに浮かび上がっている単語を見て、九井は思わず声を発していた。

「……動物園?」

 短い文章だったから、その一瞬で全て読み終えてしまった。――動物園、再来週の土曜でいい? 確かにそう書かれている。なまえは、すぐさまスマートフォンを裏返して、もう、と形ばかりのため息を吐いた。

「ちょっと見ないでよ」
「オマエその歳で動物園とか行くのか」
「歳とか関係ないでしょ。動物園は立派なデートスポットだよ」

 不可抗力とはいえ、メッセージを盗み見てしまったことを謝るのも忘れて尋ねると、なまえは少し眉間に皺を寄せて、さも当然と言わんばかりの顔で答える。
 九井は、ついさっきまで自分の頭をひたひたにしていたアルコールが、波が引くように消えていくのを感じた。

「……は、男と?」

 つい、呆気に取られてしまった。イレギュラーなことばかりが引き起こされる仕事の中でだって、発したことのないような自分の素っ頓狂な声に、九井は二重の意味で驚いていた。
 なまえの口から色恋沙汰の話を聞くことはほとんどない。異性の話ですら、働いている会社の上司や同僚の愚痴か、酔った九井が繰り返す「トモダチ」について相槌を打つくらいのものだ。いつまでも叶わなかった初恋を引きずり続ける九井を気遣ってそういう話題を選ばなかったのかどうかは定かではないが、いつだったか恋人の必要性を感じないだなんて色気のないことを言っていたから、てっきり「デート」だなんてイベントは起こり得ないのだろうと勝手に思い込んでいた。
 そこに突然放り込まれた話題に、九井はぽかんと口を開けたまましばらく固まってしまう。純粋な驚きという感情の次に、何かが押し寄せてきそうな予感がしたが、それを頭の中で噛み砕くのを待たず、なまえは言葉を重ねた。

「うん。会社の同期で行きたいんだって」

 聞けば、東京郊外の動物園で、夜の動物園を散策できる期間限定のイベントがあり、そのイベントに会社の同期で行かないかと誘われているらしかった。男女四人で、レンタカーを借りて、べつに色気のない同期の集まりだと、本当に何でもないことを話すときの顔で言うなまえを、じっと見つめてしまう。なまえは追加で注文したつくねに添えられている卵の黄身をいかに無駄にしないかに苦心しているので、九井の視線には気付かない。
 何を言うのが正しいのか、一向に分からなかった。とはいえ、返事をしないわけにはいかず、「へえ。気をつけろよ」なんて、動物園などという平和ボケした行き先に似つかわしくない言葉を返してしまう。思考回路が静止しているような、絡まり合って解けないようなおかしな感覚に耐えきれず、九井は近くを歩いている店員に水を持ってくるよう頼んだ。
 大食らいの九井には、居酒屋のメニューは物足りないものばかりのはずだったのに、これ以上は一口だって入る気がしなくなって、そこからお開きになるまで九井は酒もつまみも一切口にしなかった。
 店を出て、最寄りの駅まで並んで歩き、なまえはJRに乗って、九井はタクシーを拾う。そうやって解散するのがいつもの流れだ。けれどこの日、九井はタクシープールの手前で足を止め、駅に向かって歩いて行くなまえの姿をしばらく眺めていた。当たり前に、彼女は自分の視線に気付いたりしないし、振り返ったりもしない。
 夜になっても、凍えるような風が吹くこともなくなった季節にちょうどいい、薄手のコート。その裾から伸びている丈の長いスカートが、まるで熱帯魚の尾鰭みたいに揺らめいて、なまえの足元にまとわりついている。視界を鮮やかに揺らす尾鰭と、真反対に整然と動くクリーム色のパンプスの爪先。細身の九井よりもずっと小さい足が支える背筋はまっすぐに伸びて、何を見つめるでもない眼差しが伏せられるのを見て、思わず自分の足元に目線を逸らした。
 なまえが、どこにでもいるただの女のひとりに見えてしまうことに、失望する。そして、そのどこにでもいるただの女に、自分の内側が踏み荒らされていくような気がして、そこからは思考を遮断した。
 せっかくのきれいなブラウスを腕まくりする姿、安い酒とつまみ、「九井」と自分を呼ぶ気安い声。動物園。
 なんだか胃の中がひっくり返ったように気分が悪くて、飲み過ぎた、と誰もいないタクシープールで呟く。当然のことだが、それに返る言葉はなかった。



「だってディズニーだぜ。いくら客ったって。なくね?」

 ここは喫茶店でも給湯室でもない。井戸端会議は職場のオフィスでやるものではないはずだが、一般企業とは異なり、就業規則などという括りのないこの組織では、そういった考えが意味をなさないことは九井もよく分かっていた。
 とはいえ、無駄話に更けることができるほど、自分たちは暇を持て余しているわけではない。足で稼いでくるのは下っ端の役目だが、上役はそれをただ待っていればいいような楽な仕事ではないはずだ。周辺組織に注意を払って、おかしな動きをしている部下はいないか目を光らせながら時折は牽制も欠かさない。表側の企業や店の管理だって、幹部と呼ばれる自分たちに課せられた仕事だ。
 だから、自分たち組織の管轄からは外れた、堅気のキャバクラの女に入れ込んでいる話を繁々と聞いている余裕などないというのに。

「べつにフツーじゃね? てかオマエも客だろ」
「だからオレはただの客じゃねえんだって。ほぼカレシみたいな」
「だからそういう営業なんだろうがよ」

 簡易の応接スペースは、その役目を果たした機会より、こうして無駄話の会場になっているのを見ることの方が多い。中央のテーブルを挟んで向かい合う二人の会話は、その会話に参加していない自分でも分かるほど一方通行だ。
 人の話を全く聞かずに、「ほぼカノジョ」の対応に愚痴をこぼしている灰谷竜胆は、うんざりした様子を崩さないまでも、なんだかんだ返事をしてやっている三途春千夜に再三「相談」を繰り返している。相談と言っても、三途の返答は一辺倒だし、竜胆はそれを受け入れることはないので、それは会話の体すらもなしていない。
 灰谷蘭と灰谷竜胆は大層仲の良い兄弟だが、女との付き合いは正反対のようで、女から女へ気まぐれに移ろっていく蘭と違い、竜胆は一人の女にかなり入れ込む質だった。ただ、その女というのは毎回キャバクラや風俗の女で、入れ込んだ女にいいように貢がされては、「彼氏面が鬱陶しい」と言って振られているのが常だ。そしてこの世の終わりとばかりに落ち込んでは、次の週にはまた「好きな女ができた」とはしゃいでいる。何にせよ、あの兄弟の頭がおかしいことに変わりはない。
 九井は竜胆と三途の騒音を聞き流しながら、パソコンのディスプレイ上にあるカレンダーを睨みつけていた。なまえと居酒屋に行った日から一週間が経っても、胃がひっくり返ったような気分の悪さが消えてくれない。それどころか、なまえが会社の同期とやらと動物園の約束をしていたその日が、やけに目につくようになってしまった。そしてついに、気分の悪さと仕事もせず無駄話に精を出す同僚への苛立ちに任せて、指先が動いてしまったのだ。

<来週の土曜、開けて>

 数十分前に送ったメッセージに、既読の文字はまだ付かずにいる。スマートフォンのディスプレイをじっと見つめる自身の行動が自分でも理解できなくて、とはいえなかったことにすることもできない。
 ため息を細く吐き出しながらトークアプリを落とした途端――ディスプレイにポップアップが上がる。一度手放したスマホをすぐに拾い上げて内容を確認し、そして無心で返事をした。

<その日予定あるなあ>
<延期できねぇの?オレそっから二ヶ月くらい暇ねーんだよ>

 なーにが、「暇がない」だ。嘘だ。
 どちらかといえば、なまえに開けろと言った来週の方が予定は詰まっている。九井が管理している企業のひとつで金の流れにきな臭い動きがあり、それを探るために社外取締役として秘書の一人と会うことになっていた。善良な人間の振りをして誰かを騙した顔で、彼女と会うのは何となく気が進まない。そんな今更な罪悪感を抱くだなんて、自分でも馬鹿馬鹿しい思考をしていると気付いている。
 九井の返事から数分間を置いて、手に握ったままのスマートフォンが振動した。ディスプレイに表示されるメッセージに、手のひらがじとりと汗をかくのが分かった。

<分かったよ、しょうがないな>

 吐きそうだ。あの日の、アルコールではない何かがずっと体内に蓄積したまま渦を巻いている。深く息を吸って、そのまま吐き出した。何度かそうやって呼吸をしても、渦の中心にいる元凶は晴れてはいかない。取り返しのつかないことを引き起こしたときみたいに、全身が冷たくなって、頭の中が冴えていく。
 ひっきりなしに続いている竜胆と三途の会話はあまりにくだらなくて、でもどこか他人の話とは思えないような気がして、耳がひとりでに拾い上げるのを止められなかった。

「オレが行くなっつってんのに、大事な客だからしょうがないんだと」
「そりゃテメエのほうが細い客なんだろ。残念だったな」
「だァから、客じゃなくてカレシだって言ってんだろ」
「だから、そういう営業だって言ってんだろォが」

 竜胆が「カノジョ」と呼んでいるその女が、竜胆のことを客の一人としか思っていないことは明白だ。特別な関係を仄めかして金を吸い上げるなんてキャバクラにおける営業手法の最たるものだし、自分たちだってそうやって金を巻き上げるように管轄内の店の女たちには教育している。竜胆本人もいくつか店を持っているくせに、当事者になるとそういった知識は記憶から掻き消えてしまうらしい。
 なまえからのメッセージが返ってきてから、動きを止めてしまったトークアプリのディスプレイを見つめる。なまえは、会社の同僚の誘いを断って、自分と会うことを選択した――いや、違う。九井自身が、なまえにそう選択させたのだ。九井がいつもやっている、大金を動かすような交渉事よりずっと容易で、稚拙な、ただの「我儘」という手段。少しも身を切ることなく、こちらの要求を通したのだ。こんなに美味い取引はない。けれど、そこには何の達成感も、優越感もなかった。
 自分を優先させるように仕向けて、まんまと思いどおりになったというのに、鳩尾が蠢くような気分の悪さは一向に良くならない。意味がわからなかった。会社の同僚なんかより、こちらを優先して当たり前だと思う自分は、キャバクラの女に入れ込む竜胆と同類なのかもしれないと思うと、少し嫌気が指す。

「九井、この色ボケカスどうにかしろ」

 一つも噛み合わない会話に飽きたのか諦めたのか、そこで初めて、三途が九井に話を振った。いよいよ面倒になって、話を切り上げてしまいたいのだろう。目線だけで応接スペースの方を見ると、派手な桃色の髪をだらりとソファの背に投げ出して、青白い顔色をした三途と視線が合った。三途の顔色は、仕事に忙殺されているが故の寝不足のせいでも、竜胆の話にうんざりしているからでもない。オンナか、クスリか、九井にはどちらの方がマシなのか判断することはできなかったが、竜胆も三途も、自分の嗜好を改める気はないのだろうし、九井も別に興味はないので、どうでもよかった。

「金落とすなら、他所の店じゃなくてウチの店にしとけよ」

 九井の言葉を聞いた竜胆が、「ウチの管轄の女なんて、商品にしか見えねーもん」と意義を唱える声には無視をする。竜胆と三途が懲りずに言い合っている声は、もう九井には届いていなかった。
 来週の土曜日。このままだと、フロント企業の秘書と会う日程とバッティングしてしまう。前後の予定を調整するほかない。九井はもう一台のスマートフォンを手に取り、電話をかけるために立ち上がった。なまえとやり取りしていた方の端末は、ディスプレイにメッセージ画面を残したまま、電源を落とす。暗くなった画面には、真っ暗なディスプレイと同じ色をした自分の目が映り込み、じっとこちらを見つめていた。



 その日は酷い一日だった。結局、フロント企業の秘書と面会する日程を変更することはできず、面会を終えた足でなまえと落ち合う予定の居酒屋に向かうことになった。
 秘書との面会自体は、さしたる問題もなく完了した。とあるホテルのプライベートラウンジで小洒落たカクテルを飲み、「社内における最近のトピックスを知りたい」だなんて漠然とした、けれど最もらしい話題で、秘書が担当する役員が懇意にしているいくつかの取引先の情報を抜いた。こんなこと、自分でなくともできることではあったが、社外取締役として名前を残している自分が一番手前で動くことが、最もリスクが低いと九井自身が判断したのだ。
 つつがなく自分のタスクをこなし、あとは現場の人間に裏を取らせて差分を見つければ終わり。酒に弱い九井がカクテルで酔い始める時間にも足らない、瑣末な仕事だった。だが、九井は酷く憔悴した。相手が良くなかった。

「九井、帰る?」

 秘書と別れて、そのまま前と同じ居酒屋にたどり着いたときには、九井の顔色は血色をなくし、普段から目の下にべっとりとこびり付いている隈が、より色濃く影を落としていた。そんな姿で現れた九井の様子になまえは驚いて、落ち合うなり九井に帰宅するよう促した。しかし九井はなまえの言うことを無視して居酒屋へ入店し、挙句次から次へと酒を流し込んで、あっという間に酩酊したのだ。
 ただ座っているだけでは自分の体重を支えるのも難しくなってきたらしい九井は、テーブルの上に両肘をつき、それでもグラスを手放さない。ほとんど何も言葉を発しない九井に、なまえは何度目かも分からなくなった「帰る?」という問いを繰り返す。しかし、返事は変わらない。

「……帰んねぇ」

 呂律の回りがあやしくなって、視線はここにはいないはずの何かを捉えているように虚ろだ。しかし九井は、そんな自分の身体の不調に意識を割ける余裕などなかった。
 ――面会した秘書の女は、ほんの少しだけ「あの人」に似ていた。髪や睫毛の色素が薄いところと、虹彩の色が淡いヒスイみたいな色をしているところ。それから、その口から流れてくる声色が、ピアノみたいに弾むところ。僅かに血の気が引いたけれど、滑り出してくる言葉遣いはこれっぽっちも近しくなかったし、鼻腔に差す香水は、甘ったるいバニラの匂いがして、あの人とは程遠かったから、どうにか表情を崩すことなくその場に居られた。なのに、丁寧に伸ばされて手入れをされた爪の先が、誘うように自分の手の甲をやわい力でなぞったとき、全身に巡る血液が逆流するような不快感に満たされて、もう一秒だってその女を見ていられなかったのだ。
 仕事の話から「先」を促そうとする女の声を遮って、適当な理由をつけてその場を離れた。酷い船酔いを起こしたような、最低の気分だった。

「もうやめときなよ、水飲む?」
「いらねえ、おまえは酒飲め」

 俯きがちな九井の様子を伺うように、なまえが顔を覗き込んでくる。九井は、なまえの濃い茶褐色の目を睨みつけたあと、少しも減らずに氷を溶かしていくばかりの、なまえの分のグラスを彼女の前に引き寄せた。
 帰りたい。今すぐ横になって、今日起こったことをすべて忘れて眠ってしまいたい。そう思うのに、なまえが自分のことを見つめている姿を見ると、何故だかそうできない。リブの入ったサマーニットの袖をいつもみたいに雑に捲り上げて、心配と諦めが半分ずつ混じったような声色が九井の名前を呼ぶ。安い酒は、喉に張り付いた小洒落たカクテルの甘さを洗い流して、なまえは、会社の同僚との約束ではなく自分を選んでここにいた。
 こんな最低な気分で、なまえと会うべきではないと理解していたのだ。でもそうできなかった。もし自分が予定を変更してしまったら、きっとなまえは、同僚たちと夜の動物園だなんて浮かれた場所に行ってしまうと分かっていたから。二週間前の夜、その予定について話していたなまえのことを思い出す。ただの同期の集まりだと言って、それ以外の可能性をひとつも疑っていない姿に、どうしようもなく苛立って、グラスを煽る速度が上がっていく。
 そうだ。あのとき自分は、腹を立てていた。呑気な顔をして、自分とは違う世界を歩こうとする彼女に。

「もう、大丈夫? 九井、眠そうだよ」

 自分の目の前にいる男の中に、今どんな感情が渦巻いているのか、少しだって理解していない顔。
 ――馬鹿か? 同期で動物園とか、大学生かよ。男女二人ずつなんて、オマエが知らないだけでどっちかはオマエに気があるに決まってる。
 あの日から、思考回路が絡まって解けない。「あの人」に似た女と、何も知らない馬鹿ななまえ。ふたつのことが、頭の中でアルコールと混ざり合って、それらが元々どういう形をしていたのか思い出せなくなっていく。身体を支えている自分の腕に、力が入らなくなっていくのが感覚で分かった。水の中にいるみたいに、周りの音が聞こえなくなって、薬でも盛られたような強烈な眠気に目を開けていられない。
 そうして、気絶するようにして眠った先で、夢を見た。

 ――薄暗い場所で、明かりはないのにそこに二人の人間がいることが分かる。一人は自分だ。二本の腕と脚が生えて、この視界を持つ人間。両手で、自分のものではない白く薄い腹を掴み、柔らかい地面に押さえつけながら、熱に浮かされたような、気が触れたような声で、追い縋るみたいにして一心不乱に「あの人」を名前を呼んでいる。そしてもう一人。そこかしこに皺の寄った白い地面の上に投げ出された肢体が、律動に合わせて陸に打ち上げられた魚のように跳ねた。本当なら一度だって見たこともないはずが、鮮明に、精密に目の前でその形を露わにしている。酒を飲んだときの眦と同じように、赤く上気する柔らかな膨らみ。そして晒される喉元を通って、乱雑に散らばる髪は、色素の薄い猫毛とは違う、黒に近い褐色をしていた。自分は確かに、あの人の名前を呼んでいるのに、涙に濡れた瞳の色はヒスイのそれではなく、半分開いたままになった唇から溢れてくる吐息は、ピアノのように弾むあの声色とは違っていた。
 何かが、明らかにおかしいのに、そこにいる自分はちっともその違和感に気付くことなく、ただ夢中でその女を凌辱している。九井が見たのは、「赤音さん、赤音さん」と呟きながら、なまえのことを抱いている自分の夢だった。

 ――引きつけを起こしたみたいに身体が跳ねて、目が覚める。転がり込むようにしてトイレに駆け込み、酒しか入っていない胃から出せるだけの吐瀉物と胃液を吐き出した。今にも爆発しそうな激しい鼓動と、胃が蠢く不快感で全身から冷や汗が流れる。
 居酒屋で眠ってから、夢を見て、飛び起きるまでが一瞬のことのようだった。呼吸が落ち着き、トイレから出た先は自宅の廊下で、自分が自宅へ戻ってきていることをそのとき初めて知る。どうやって戻ってきたのか、一切思い出せない。廊下の壁に手をついて身体を支え、それでも耐えきれず、ずるずるとその場に崩れ落ちた。
 死にたい。心の底から、九井はそう思った。自分の中にある、「あの人」への思いも、なまえへの感情も、全部自分で台無しにした。
 自分の「恋」というものは、あの人の形をしている。九井の中の、絶対に動かない場所で型にはまって、もう一生戻らない。だから、なまえに対して抱くこの感情の形はそれとは違う。自分は、なまえに恋をしない。そう分かっているのに、信じているのに、九井の潜在意識は、なまえを狭くて身勝手な枠の中に詰め込もうとする。そうして、自分にあんな夢を見せる。夢の中の自分を殺してほしかった。
 重たい頭を、緩やかな動きで壁に押し当てる。見慣れた無駄に長い廊下。床の白いタイルが暗く翳っている。あの居酒屋から自宅へ戻るまでの記憶はないが、記憶がなくても戻ってこられるあたり、自分の帰巣本能はきちんと機能しているらしい。警察に突き出されたら終わりの職業のくせに、記憶を無くすまで酩酊するのは愚かに違いなかったが、一緒にいたのがなまえなら、何となく問題はないだろうと思えた。
 なまえは無事に家に帰っただろうか。夢の中とはいえ、侮辱的な行為を働いてしまった彼女のことを、考える。

「――九井?」

 時間が止まってしまったように静まり返った冷たい廊下に、自分を呼ぶ声が落下した。軌道が狭まって、呼吸が危うくなる。不恰好な呼吸音が喉を震わせたところで視線を上げると、リビングへ向かう扉から現れたなまえが、「大丈夫?」と声をかけながら目の前に膝をついた。

「……な、に。何で、おまえ」
「九井、見たことないくらい酔っちゃって、置いて帰れないし、連れて帰ろうとしたらわたしの家は嫌だって言うんだもん」

 浅くため息を吐き出したなまえの唇は、九井の混乱した様子とは不釣り合いに緩やかに笑んでいる。酩酊し、眠りに落ちた九井をここまで運んできたときのことを、何でもないことのように語った。
 心配と諦めが半分ずつ混じったような声色は、居酒屋にいるときと変わらない。目の前の男に、どんな感情が渦巻いているのか知りもしない顔も、何も。

「……オレ、おまえに、」

 再び胃の中が蠢いて、呼吸が浅くなる。なまえがこうやって目の前にいることを夢のようだと思うのと同時に、自分が見ていたはずの夢が頭の中を駆け巡って、錯乱していく。記憶はなく、正常な精神状況ではない自分を、九井は正しく判断できない。――あれは、本当に夢だったのか?
 身勝手な欲望に支配されて、辱めた。力任せに扱って、汚して傷をつけた。なまえとは別の――赤音さんの名前を呼んで、オマエを酷い目に遭わせた。そんな悪夢みたいな出来事が、自分の頭の中ではなく、現実に起こっていたとしたら。
 どんなに呼吸を繰り返しても、肺に酸素が行き渡らない。喉の奥が何かに堰き止められているみたいに苦しかった。

「なにもされてないよ、大丈夫。ね、大丈夫だから」

 激しく上下する肩に、なまえの手が触れる。神経が過敏になって、大袈裟なほどびくりと反応をした。なまえは、動揺する九井に構わず、九井の肩から腕の先までを手のひらでゆっくりと撫で下ろす。何度も、繰り返し、しっかりと包むようにして、腕を摩ってやる。九井の身体は、全身に水を浴びせたように冷たかった。大量のアルコールの摂取と、嘔吐と、酷く錯乱したためか、氷のようだった。だから、特別温度の高くないなまえの体温でも、染み込むように九井の身体へ伝わっていく。あまりにあたたかくて、鈍く痺れるようだと、九井は感じた。
 繰り返し腕を摩りながら、汗や唾液で酷い有様のまま呆然としている九井を、なまえは静かに見つめて笑う。

「してくれてもいいのにさ。九井、泣きそうな顔するんだもん」
「……は? なに……」

 夢を見ているみたいだった。あの悪夢とは違う夢だ。だって、あんな夢を見た自分は、もうこれ以上ないくらいに自分自身に失望したのに。なまえは、そんな九井のことを真っ直ぐに見つめている。

「されてもいいよ。わたし、九井には何されてもいいの」

 ――一途だからね。九井と一緒で。
 その言葉を聞いた瞬間、呼吸が止まった。こめかみに銃口を押し当てて、そのまま引き金を引かれたような衝撃。なまえが使った言葉は、今まで何度だって自分自身が言ったものだった。なまえと会って酒を飲み交わすたび、「あの人」が自分の唯一で、一生何にも代えられない存在であることを、誰よりも彼女に伝えてきたのだ。だから、なまえの発した言葉の意味が、九井にはすぐに分かった。
 分かったけれど、信じられなかった。なまえがこんな嘘や冗談を言う人間でないことを知っているから、余計に。

「……馬鹿かよ、ほんと……馬鹿だろ」

 震える声で、そんな言葉しか出てこない。
 自分はいつもそうだ。九井は思う。頭の中では分かっていることが、うまく理解できない。自分にはもう失くすものなんてないはずなのに、ありもしない「それ」しか自分にはないのだ思うと、身動きができなくなる。
 分かってる。分かっているのだ。なまえが自分にとって、ほかと比べられないところにいる存在であること。その場所が、「あの人」のいるところと限りなく近い場所だということ。けれど、それを受け入れてしまっては、その瞬間に自分の足元は音を立てて崩れて、底のない穴の中に落ちていってしまいそうで、おそろしい。もう失くすものなんてないのに、落ちる先なんてないのに、自分にはまだなまえがいると思うと、足が震える。

「めちゃくちゃだ、全部。おまえのせいだ」

 傷なんてひとつも付いていないというのに、口の中は血の味がした。喉が切れて、そこから溢れる血を吐き出したような言葉だった。なまえの手の熱が自分の身体をあたためている。きっとなまえの目は、自分に何をされたっていいと言ったときと同じように、真っ直ぐに自分のことを見つめているのだと確かめなくとも理解できる。それでも、九井は彼女の目を見ることができない。
 今まで、全部うまくやってきた。あの人も、あいつも、すべて失くしたから、代わりにほかのことは何でも思うとおりになった。金は自分の思い描いたままに回り、自分をいいように利用しようとするような連中は消え去って、自分は人生の勝ち馬に乗ったのだ。
 なのに、オマエだけがまだそこにいる。オマエがいるから、またオレはすべてをひっくり返される。
 自分のことを省みることなく、勝手な言葉でなまえを責め立てる九井に、なまえが口にする言葉はあまりに穏やかだ。九井には理解ができない。

「大丈夫。何も変わんないよ、考えなくていいから」
「……ちがう、違えよ、そんなんじゃだめだろ」
「駄目じゃないよ。ね、ほら水飲んで、今日は寝よう」

 子どもの駄々のように、意味の通らない否定だけを繰り返す九井の髪をそっと撫で下ろしながら、なまえは静かな声色で「大丈夫」と言い続ける。冷たい廊下の床が、足から身体を冷やしていっても、九井の思考が冷えていくことはなかった。神様なんて、ひと時でも信じたことはなかったが、懺悔をしているような気分だった。
 ――オレだけは、オマエをそんなふうにしちゃいけないのに、そんなふうに思う資格なんてないのに、オマエに許されていると思うと、何かを大事に抱えていてもいいのかもしれないと思える。オレには赤音さんもイヌピーもいなくて、もう手放すものなんてないのに、オマエが、そうやって笑って頷いてみせるからだ。
 悪夢を見て飛び起きて、眠気なんて吹き飛んでしまったはずだった。けれど、しっかりと自分の手を握って寝室まで手を引いて、眠るように促すなまえの声を聞いていると、嘘みたいな眠気が襲ってくる。どうしてもその温度を手放し難くて、その夜は二人で抱き合って眠った。もうあの夢は見なかった。



 とてつもなく長い時間、眠っていたような気がした。頭が空っぽで、正確な時間経過を把握することができない。目を開けると、寝室はカーテンが開け放たれ、レースカーテン越しに白い朝日が差し込んでいた。普段は自宅に帰れないことが多く、帰れたとしても朝方に活動していることなどほとんどないため、自分でカーテンを開け閉めした記憶がない。カーテンを開けたのは、きっと彼女だろう。身体を起こしたまましばらくぼうっとしてからサイドチェストの上の時計を見ると、朝の八時を少し越えたくらいの時間を示していた。時間を忘れたように眠りこけていたと思っていたが、そうでもないようだ。あんなに酩酊したうえに酷く取り乱していたというのに、嘘のように頭の中は静かだった。いつもなら、どれだけ眠ったって、地の底まで埋まってしまいそうな身体の重さは消えやしないのに。
 何を思うでもなく、日差しを受けて白く光るレースカーテンの波を眺めてる九井の耳に、寝室のドアをノックする音が入り込んだ。返事をしないでいると、静かにドアが開いて、なまえが顔を覗かせる。九井が目を覚ましたとき、昨晩一緒に眠ったはずの彼女が横たわっていた場所はもう冷たくなっていた。朝も早いというのに、起きてシャワーでも浴びていたのだろう。やけにスッキリした顔で、目を覚ました九井に笑みを向ける。
 九井は、つい数時間前に、なまえに言われた言葉を思い出していた。

「おはよう。二日酔いは? 大丈夫?」
「……ああ」

 頷いて、絞り出した声は少しだけ嗄れていた。なまえは九井が頷いたのを見て僅かに目を細める。それから、コーヒーを入れたいから、戸棚を開けてもいいか、と首を傾けた。九井は首を縦に振る。
 顔を覗かせるだけで寝室に足を踏み入れようとしないなまえを、酷く遠くに感じた。抱えたことのない感覚が不可解で、思考を巡らせるとすぐに答えは出る。昨夜、蹲り立ち上がれない九井の肩を撫ぜて、眠るときは彼女の腕の中で抱かれていたのだ。それが今は、息遣いも、熱も感じない。手を伸ばしても、きっと指先だって触れられないだろう。

「なまえ」

 コーヒーを入れるからと、寝室のドアを閉めようと背を向けるなまえを、名前を呼んで引き留めた。声は、力の抜け切った自分から発せられているとは思えないほどくっきりとした音階で響き、なまえは振り返る。

「なまえ、オレ」

 もう一度、名前を呼んだ。何を言うのか、自分でも予想できなかった。頭で考えるよりも先に言葉が口をついて出てくるなんて、九井には思いも寄らないことだ。けれど、水が湧くように身体の奥からせり上がってくる衝動を、止めるものはなかった。胸も、喉も、どこにも引っ掛かることなく、息を吐き出すように、溢れる。

「……好きな人がいる。一生、ずっとだ」
「知ってるよ」

 なまえの目は、九井がこれまでに見た中で一番、優しい色をしていた。白く光る朝日よりも眩しくて、目を開けていられないと思った。けれど、一瞬だって見逃したくはない。昨晩彼女の目を見られずにいたことが、嘘のように惜しくなった。
 柔らかく目を細めたなまえは、次にいたずらに唇を吊り上げる。軽快な口調で彩られる言葉は、以前と「何も変わらない」気安い声をしていた。

「で、わたしには『イヌピー』くれるんでしょ?」

 他ならない九井自身が、これまで何度も口にしてきた言葉だ。――なまえだったら、イヌピーとどうにかなってもいい。なまえが、イヌピーのそばにいてくれたら、彼の人生はきっと充実するはずだ。今の自分みたいに。
 そう考えていたことは事実で、そしてようやく理解した。二人が笑い合っている姿が想像できない理由も、呑気な顔で自分とは違う世界を歩む彼女の姿に苛立った理由も。
 息を吸う。喉は微かにひりついていた。アルコールに焼かれたせいか、込み上げる熱に当てられたのかは分からない。

「やんねえよ」

 なまえが目を丸くして、息を止めた。九井の言っていることに、頭が追いついていないのだろう。それでもいい。今は、分からなくてもいい。九井はもう一度、先ほどよりも深く、息を吸った。
 「あの人」が、自分の唯一だった。あの人のためならなんだってできた。あのときの自分を正当化するために、九井は今も息をしている。それは、これから先もきっとずっと変わらない。
 けれど、そんな自分にももたらされるものはある。こんなにも自分を掻き乱すものが、ここにあるのだ。

「あいつには、やんねーよ」

 この恋を、自分は一生この身体の中に留めておく。だから、どうかおまえに、殺してほしい。

あのアケビを食って殺して

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