命懸けの仕事なんかしていなくたって、人は簡単に、今にも死にそうな状況になれる。わたしみたいなただの会社員でも、毎朝満員電車に詰め込まれて、日々変わる上司のご機嫌を伺いながら仕事をして、業務にミスやトラブルでも起これば、すぐに一週間くらいドブに捨てられるのだ。そうやって、無為な時間を過ごして、追い討ちみたいにその状況を責められて、ただでさえ分からない「働く意味」を、より無価値にされていく。
 きっと、やりがいを持って働いている人や、本当に命を懸けた仕事をしている人には口が裂けても言えない弱音を、自宅のドアを潜るまで吐き出さないように、無心で両足を動かしていた。終電間際の電車からホームに降りて、週末の浮き足立った人並みをうざったく思いながら駅を離れ、自宅マンションの姿が視界に入ってようやく少しだけ肩の力が抜ける。
 けれど、マンションの壁に寄りかかった人影を見て、抜けていった力が、ひとりでにため息に変わるのが分かった。

「馬鹿かよ」

 マンションの前で突っ立っている怪しげな人物は、わたしを視界に捉えるとすぐに顔をしかめ面にして言う。おかしい。この一週間、理不尽な上司の無茶振りにも負けず、他部署のミスの尻拭いに奔走しながら真面目に働いたわたしにかけられるべき言葉じゃない。しかもこの男の子は、会社の人間でもなければ友人と呼ぶのも憚られる、それくらいの関係性だというのに。

「……わたし、今そういうのに乗っかってあげられる余裕ないよ」

 会社を出てからしばらくぶりに発した言葉は、自分が思った以上に沈んでいた。彼は、その声を聞いて整った眉をピクリと跳ね上げて、さらに眉間の皺を深める。自分よりいくつも年下の男の子にそんな目で見られるのは、かなり侘しいを通りこして遺憾だ。わたしは彼自身に何か迷惑をかけた記憶なんてないのだから。けれど、今言った言葉と、低く沈んだ声のとおり、自分はもう肉体――というより精神的に疲れ果てて、彼の憎まれ口に付き合う余裕はない。けれど、彼の言葉が和らぐことはなかった。

「そういうのって何ですか。純粋に罵ってんだよ」

 伏黒くんは、弱りきったわたしの姿を見て、余計に口調を尖らせる。わたしにとって彼は、突如としてできた口うるさい弟みたいな存在だ。帰る時間が遅くなるのは危ない、明るい道を通って帰れ、酒を飲んで帰ってくるなんてとんでもない、と言って、まるで母親みたいに世話を焼く。
 戸惑っていたのは最初だけで、最近はもう「はいはい」と受け流すことも上手くなっていた。けれど、今日はそんな余力もない。項垂れて、彼の姿から目を逸らすようにして息を吐いた。

「意味がわかんないんだけど……何に怒ってるの」

 ――話は変わるが、わたしの姉は、呪術師の補助監督という仕事をしている。よくは知らない。幽霊や怨霊みたいなものに関するトラブルを対処する「呪術師」という人たちの、サポートをする仕事らしい。わたしは、「それ」が見えるから、姉から仕事の話を聞いているけれど、父や母は「見える人」ではないので、家族の中で姉の職業を知っているのはわたしだけだ。そして、伏黒くんは姉が仕事上のサポートをする呪術師のひとりなのだそうだ。姉が彼と仕事をしているときに偶然出くわしたことをきっかけに知り合った。そのときは、自己紹介程度の話をしただけだったけれど、後日になって彼とわたしは再会したのだ。

 その日は雨が降っていて、わたしは社用車で帰宅しているところだった。次の日、朝から隣県にある支店へ行く予定のついでに、製品サンプルの搬入を頼まれたため、慣れない車のハンドルを握っていたのだ。車通りの少ない道のりの途中で、閉店した店の軒下で立ち尽くす黒い人影を見た。珍しいシルエットの学生服、四方へ尖っていたであろう髪が萎れていて、雨に濡れているのが分かった。その姿が、以前知り合った彼だと認識した次の瞬間には、わたしは彼が雨宿りをしている店の軒下近くへ車を止め、声をかけていたのだ。

「こんにちは。ええと、突然声かけてごめん」

 夜というだけではない、雨雲が立ち込めて薄暗い中、車から高校生に声をかけるだなんて、不審者に思われても仕方がないと自覚はあった。けれど、彼はわたしと目が合うとすぐにこちらのことを思い出してくれたようで、不審な目で見られることはなかった。

「……みょうじさんの、妹の」
「そうそう。よかった、覚えててくれて。それより、どうしたの?」

 この場所は、車通りも少なければ人通りも少ない。駅からもかなり距離のある場所だし、彼が好んでここに佇んでいるとは思えなかった。聞けば、彼がここにいるのは「呪術師」の任務のためで、任務が完了したのはいいけれど、帰る手段がなく途方に暮れていたのだそうだ。彼ら呪術師の送迎をするのも、姉のような補助監督の役目のひとつのようだけれど、今日は人手が足りず、もうしばらくここで迎えを待たなければならないらしい。

「……あの、迷惑じゃなければ、送って行こうか?」
「え、でも、もう遅いですし、迷惑かけられません」
「わたしは大丈夫。それに、こんな遅くに危ないよ。濡れてるし、風邪ひいちゃう」

 窓から吹き込んでくる雨に目を細めながら手招きをすると、伏黒くんは目を丸くする。そのまましばらく返事もなく立ち尽くしていた彼は、わたしが雨の中運転席から出ようとすると、慌てて助手席に回り込み、車内へ乗り込んだ。シート濡らしてすみません、と謝るので、社用車だから気にしないで、と笑った。支社間の移動と急な納品に使う程度の雑な扱いをしている車で、シートが濡れたところでどうということはない。本当のことだ。それを聞くと、彼は少しだけ頬を緩めた。
 伏黒くんの住んでいる学校の寮は東京の郊外にあるらしく、カーナビにその住所を入れると、一時間ほどで着くと女性の声をした自動音声が告げた。ちょうど自宅の方向と同じだ。回り道にはならないことを教えると、彼は安心したように背中をシートに預ける。

「寒くない? 暖房効くまでちょっとかかるから、待ってね」
「……はい、大丈夫です」

 車を走らせながら、カーラジオの電源を入れた。たった一度顔を合わせただけとはいえ、知り合いの子が雨の中帰る手段もなく待ちぼうけしているのを放っておけなかっただけの行動だったけれど、当然のように弾む会話なんてできない。ヒットチャートをひたすら繰り返し流すだけのラジオが、何とか無言の時間の間を持たせていた。

「……あの、ありがとうございます」

 よく知らないアーティストの曲の隙間で、伏黒くんがそっと呟く。曲と曲の間の無音の瞬間だったから、その声はまるで空間に浮かびあがっているみたいに鮮明に聞こえた。

「えっ、ああ、全然。むしろ無理やり送ったみたいでごめんね、先生たちに怒られないかな」
「こんなことで怒る人いないんで、大丈夫です。……そうじゃなくて」

 伏黒くんの声は静かだ。穏やかで、耳障りがよくて、自分よりいくつも年下の男の子の声とは思えない。自分が高校生だったとき、彼のような落ち着いた同級生がいただろうか。ハンドルを握っていて助手席の方へ視線をやることはできないから、想像するしかないけれど、きっとその声と同様、落ち着いた様子でそこにいるんだろう。いつまでもそわそわしてしまっている自分より、ずっとしっかりした性格だと想像がつく。
 そう思った矢先のことだ。彼の声が先ほどとは異なり、少し言いづらそうに揺れたので、おや、と思う。カーラジオから流れる音楽に邪魔されてしまいそうで、わたしはじっと耳を凝らした。

「……遅くなると危ないとか、風邪ひくとか、そういう普通の心配されるの、久々だったんで。なんか、びっくりして」

 それは、想像もしえない言葉だった。高校生が、人通りの少ない場所で夜遅くにひとりでいたら危ないし、そのうえ雨に濡れていたら心配もする。わたしには、当然のことに思える。もしそれが見ず知らずの人であっても、もしかしたら今日みたいに声をかけてしまうかもしれない。そうされたことを驚きに捉えてしまうという伏黒くんの言葉に、わたしは普段彼がどんな環境に身を置いているのかを想像する。いくら考えても想定しきれないような、「普通じゃない」状況なのだろうということだけが、想像がついた。
 どう返事をするべきか迷って、少し時間を置いてからこっそりと息を吐く。ただ想像することしかできないわたしが、何を言ったって意味のないことだ。こんな子供が、ごく普通の心配をされることに慣れていない現実を悲しいと思っても、それをわたしが慰めるのはきっと失礼なことだろう。彼が今の状況に置かれている理由も知らないわたしには、その是非を判断する資格はない。

「私は、お姉ちゃんとか伏黒くんがどんなことしてるのかよく知らないけど、何してても一緒だよ。普通に、元気にしててほしいだけ」

 だから、わたしはわたしの価値観で思うことを伝えることしかできない。つまらなくて薄っぺらい、そこらへんにいくらでもいる「普通」の大人の言葉で。

「そうじゃなかったら、心配になるのは当たり前でしょ」

 それきり、伏黒くんは何も話さなかった。わたしも話題を見つけられなくて、ずっと黙っていた。カーラジオの音楽と、時折聞こえるカーナビの音声だけが狭い車内を満たすだけだったけれど、なぜかもう気まずくは感じなかった。
 ただでさえ車通りの少なかった道のおかげで、車はカーナビが予測していた一時間も要することなく目的地にたどり着いた。彼がここでいいと言った場所から、まだ道のりは続くようだったけれど、この先は関係者以外は入ることのできない敷地らしく、それを聞いて大人しく食い下がることにする。

「……あの、」

 彼が助手席のドアを開けると同時に、呟く。雨は上がっていて、車内に外気の音が滑り込んできても、その声ははっきりと届いた。雨上がりの僅かに雲の切れた夜空の下で、その空みたいな色をした目がじっとわたしを見つめているのがわかる。

「みょうじさんの、名前、と、連絡先、聞いていいですか」

 ――それが、きっかけだったように思う。何かが彼の琴線に触れたのか、単に懐かれただけなのかは知らないけれど、伏黒くんはそれから時折わたしに連絡を寄越すようになって、しばらくすると今日みたいに口うるさく世話を焼き始めた。一緒に暮らしている姉にそのことを話すと、瞠目したあと、気まずそうに「今度からどんな顔して会ったらいいのか困る」と笑われて、わたしだって困ってるんですけど、と愚痴をこぼしておいた。
 そして、こうして家にやってくるのももう数度目だ。任務から帰る途中だから寄っただけだと言ってすぐに帰ることもあるし、仕方なく部屋に入れたこともある。高校生を夜に部屋にあげるのは流石にいかがなものかと思っているのだけれど、「せっかくここまで来たのに帰すんですか」と詰められては罪悪感が勝ってしまうのだ。勝手に来ているのだから、「せっかく」も何もない。なのに、どうしてかわたしは伏黒くんのあの目に逆らえないでいた。
 そして、彼が家へやってくるのは、姉が仕事の都合で帰ってこない日と決まっている。もちろんそういう日に必ずやってくるわけではないけれど、示し合わせたように、彼はわたしがひとりで家にいる日にやってくるのだ。
 今日もそうだった。今夜は姉がいないと分かっていたから、思う存分鬱憤に浸れると思っていた。自分より大変な仕事をしている人のいる前で、辛い・苦しいとは言いづらいから。――それなのに。

「……何で、こんな遅くに、そんな疲れて帰ってくるんですか」

 どうして、ひとりにしてくれないんだろう。
 マンション前では苛立つように顔を顰めていた伏黒くんは、部屋に入った途端、倒れるようにソファに沈み込んで動かなくなったわたしに、そんな詮のない質問をする。何で、なんてわたしだって知りたいし、わたしだってこんな目には遭いたくない。でも、そんなことを彼に言っても、それこそ詮ないことだ。

「仕事してればそういうこともあるよ」

 こんなこと言いたくもないけれど、これが全てだった。普通に仕事をしていれば、失敗もするし、面倒に巻き込まれることもある。それでも、その失敗や面倒が、姉や伏黒くんのように自分や他人の命に繋がるわけではないのだから、わたしは恵まれている。彼らを不幸だなんて言うつもりはない。でも、彼らの前で吐くべきではない弱音があることは、分かっているつもりだ。

「それに、伏黒くんみたいに危ない仕事じゃないんだから、大したことないよ」

 そう言って笑うと、彼はその整った顔を、また険しくする。いくら年下と言えど、造形のきれいな人の顔が歪むと、迫力は増すものだ。吐き捨てるようにして、大きく一度舌打ちをされて、思わず背筋がびくりと震える。
 伏黒くんは、ソファの傍に立って、わたしを見下ろしていた。照明が彼の姿を縁取って、顔に影を作っている。それでも、酷く傷ついたような顔をしているのは、俯いていても下から見上げるわたしからはよく見えた。

「あんたが言ったんだろ」

 強く噤んでいた唇が、ゆっくりと、自分を落ち着かせるように息を吐きながら開いて、そこから溢れてくる声は、湿った、今にも震えて崩れそうなかたちをしている。

「俺はあんたに、普通に、元気にしててほしくて、そうじゃないかもって思ったら心配なだけです」

 俯いて立ち尽くす彼の姿は、いつかの、雨の中でそうしていたときのそれと重なって見えた。けれど、視線をあげて、わたしを捉えて細くなるその目は、ただ戸惑っていたあのときの色とは違う。

「俺が普通じゃない仕事してるとか、ガキだからとか、そういう理由で心配しなくていいとか思ってんなら、怒りますから」

 いつも口うるさく世話を焼いて、怒っているだけだと思っていた。でもそれは、彼なりの心配だったらしい。わたしは、悔しそうに顔を歪める彼の姿を、ぽかんとして眺めているだけだった。そんなわたしを、伏黒くんは性急に追い立てる。伏せた睫毛の先にある瞳が、何よりも雄弁だった。

「……そんな死にそうな顔してんの、知らないでいたくねぇんだよ」

 ――わかんねぇのかよ。喉から搾り出される呟きに、耳鳴りがする。
 深い紺色の、真夜中みたいな色の目が、そんなふうに熱を持つことに気付いてはいけなかった。それに気付いてしまったら、彼を突き離せないでいることも、その目に逆らえないことも、何もかもに気がついてしまうから。

真夜中は私たちの楽園として

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