――分かったよ。思ってたのと違ったとか言わないでね。
 そう言って、やさしい表情をして頷いてくれたときのことを、オレはきっと一生忘れることはない。なまえには、「一生」だなんて大袈裟だと笑われるかもしれないけれど、これは何かの例えでも脚色でもない本当のことだ。ただの事実で、オレにとって何よりも重要な現実。そんな現実が自分の目の前にあるのだと思うと、季節は秋の色が濃くなってきているというのに、あたりが春めいて見えたし、目の前で喧嘩が繰り広げられているわけでもないのに、胃の底が浮き上がるみたいに落ち着かなかった。
 なまえはついに、彼女の「恋人」の称号をオレに与えたのだ。その日、彼女を家に送ったその足でD&D MORTORSを訪ねて、上機嫌で付き合うことになったと報告をしたオレを、ケンチンは白い目で見て、「はしゃぐのはいーけど、あんま我儘言って困らせんなよ」と戒めた。そのときは、「オマエはオレの母ちゃんかよ」と思わず笑い飛ばしたけれど、無論である。恋人になることを許してくれたとはいえ、なまえがオレを未だにガキだと思っていることは明白だ。オレの言葉に頷いたのも、オレのことが好きだからではなく、可愛い年下の男の可愛いお願いを断りきれなかったからに他ならない。だから、めでたく恋人の座を手に入れたオレを前にしても、彼女の態度は付き合う前とそう変わることはなかった。変わらずオレをガキ扱いして、困ったような顔で「しょうがないな」と言ってオレを許す。そして、可愛い顔をしたオレの我儘には、めっぽう弱かった。
 恋人になって変わったことがあるとすれば、彼女の甘やかしに際限がなくなったことだ。これまでは、どんなに甘えた顔で頼んでも頷いてもらえなかったことが、「恋人」という立ち位置を手に入れたことによって許されていく。彼女も、トップスピードで走ろうとするオレに抗う気概を見せようとするのだが、「彼氏なのにダメなの」と唇を尖らせたら、次の瞬間には両手をあげて降参するのだ。そんな状況にオレは、それはそれは浮かれた。仕方のないことだ。彼女の身体を抱きしめて頬擦りをしても怒られないし、じっと目を見つめて訴えたらキスだってできるし、「だめ」と言われていた彼女の部屋に行くこともできる。実にスバラシイことだ。浮かれないでいるほうが難しい。
 そして当然のことながら、オレは健全な十八歳の男なので、彼女と二人きりでそうして身体をくっつけていれば、もうどうしようもなく昂って、それだけでは足りなくなってしまう。オレにとっては当たり前の欲求だ。けれど、未だにオレは彼女にセックスを許してもらったことはない。

 恋人同士になってからまだ日の浅いある日、オレはテレビを眺めているなまえをソファの上に押し倒した。
 そのときなまえは、彼女の部屋のソファに並んで座って、じっと彼女のことを見つめるオレの視線なんて意識することなく、昔のドラマの再放送に釘付けだった。鉄面皮の教師らしき女が、「目覚めなさい」とかよく分からないことを言っている。もっと言ってやってほしい。この人に恋人としての自覚を目覚めさせてくれ。
 テレビを見つめる視線に割り込むようにして顔を覗き込む。見上げるオレの眼差しに、小首を傾げてどうかしたのかとうかがってくるから、そのまま掬い上げるように口を塞いだ。一瞬驚いて固まる身体がゆっくりと弛緩して、彼女に覆い被さるオレの胸元をそっと押し返す手の動きに、余計煽られているみたいに感じる。唇をわずかに離して目を開けると、鼻先でなまえの瞳が瞬いて、気恥ずかしそうに目尻を下げる光景が見えてしまった。あーあ、こんなんすぐ勃ちそう。背筋に込み上げるぞわぞわをぶつけるみたいに飛びついて、座っていたソファに雪崩れこむと、非情にも、組み敷かれた彼女の手がオレの肩を押し返したのだ。

「しないよ」
「……なんで」

 拒絶の言葉に返事をした自分の声が、地獄の底から聞こえてきているみたいに低い音を響かせている。なまえの目に自分の姿が映るほどの距離で、そこにいる自分の顔はとてつもなく恨めしげに歪んでいた。セックスを拒まれる男の顔って、こんなに情けねえのか。実体験で知りたくなかった。

「したいの?」
「してーよ、そりゃ。めちゃくちゃ」

 食い気味に応える。そのまま、なまえの口の中も食ってしまいたかったけれど、我慢をする。オレの身体の下でなまえが髪をバラバラに散らしている姿はただでさえ目に毒なのに、それどころか、彼女は少し眉間に力を入れて、じっとこちらを睨むような仕草をするのだ。その姿に、自分の中にある乱暴な気持ちが身体の中を吹き荒らしていく。自分のこの衝動から逃れようとする彼女に、腹立たしさすら感じた。
 けれど、そのあとなまえが言った言葉に、オレはまんまと白旗を掲げることになるのだ。

「……すぐセックスできるから年上の女と付き合ったんだったら、わたし嫌だよ」

 そう言われては、もう勝ち目はなかった。
 なまえに、自分の前に付き合っていた男がいて、経験がないわけではないことは知っている。何ならその男のことも知っているし、ファミレスでのことを差し引いたとしても実はちょっと殺してやりたい。なまえの中に、自分じゃない他の男の記憶が残っているままだなんて、耐えられそうになかった。だから、すぐにでも自分で上書きして、自分のものにしてしまいたかったのだ。
 けれどそれは、すでに経験があるからいいだろうと侮ることや、身持ちが堅いと疎むこととは違う。腹の底でとぐろを巻いている欲求の波が、少しずつ引いていくのを感じた。
 なまえが、自分が年上であることに引け目を感じているのは分かっている。付き合う前に、オレが散々言われたことだ。年上の女が近くにいないから物珍しいだけじゃないか。彼女の先に兄貴の姿を見ているんじゃないか。そういった疑念は、たぶんまだ彼女の中に残ったままなのだろう。だから、年上の女なら容易に手を出しても許されるなんてことをオレが思っているのでは、と勘繰ってしまうのだ。
 身体中の酸素を吐き出してしまえるほどの、深い溜息を吐く。なまえの顔の両脇に突っ張っていた腕を崩して、そのまま彼女の上にのしかかった。ソファとなまえの身体の隙間に腕を差し込んで、これ以上ないほどの力でぎゅうと抱きしめる。耳のそばで、「うっ」と苦しげに呻く声が聞こえた。

「……ズルだ」
「狡くない」
「ンなこと言われたらできねぇじゃん」

 ソファとなまえの髪に顔を埋めたままで呟くと、拘束されたままの彼女の手が動いて、そっと自分の背中に回るのが分かる。欲望に従順な身体は、そんなことにも反応してしまいそうになるけれど、なまえが「ごめんね」と謝るものだから、たまらず「オレ、やりたいからなまえに好きって言ったわけじゃねーよ」と格好をつけた。自分の身体のほうはすでに準備万端で、その言葉は強がりに他ならないとしたって、本当のことだ。
 もしかしたら、他のことみたいに可愛い顔をしてお願いすれば、なし崩しにセックスにありつけたかもしれない。でも、それはオレの欲しいものじゃない。欲しいけど、我慢してやる。オレ十八歳の男の子なのに、彼女のことを考えて我慢できるなんてマジで偉い。無敵じゃなくて聖人だったのかもしれない。
 わずかに腰を逸らして、彼女の顔を見ながら「いつになったらしてくれんの」と唇を尖らせた。格好つけた割にはそうやってすぐに拗ねた態度をとるオレを見て、なまえはすごく優しい顔をする。ほっとしたみたいな、くすぐったがるような顔だ。その表情が、いつもの大人ぶった困り顔とは違う、ただの女の子みたいな表情だったから、オレはこの敗北を甘んじて受け入れるのだ。「無敵のマイキー」なんて、彼女の前では見る影もない。
 そのままの顔で、なまえはそっと囁くように呟いた。

「マイキーくんが、大人になったらね」

 オレに跨られて、可愛い顔をしてみせるくせに、またそうやってガキ扱いをする。彼女の言う、「大人」の意味がわからない。いくら十八歳のガキだと言ったって、オレは学生じゃないから一応社会人というやつだし、成人した女と付き合ってセックスしたって犯罪になるわけじゃない。セックスが全てじゃないことは分かっているにしても、もし成人するまで待てと言われたら、オレはいつかなまえのことを無理やり襲ってしまうかもしれないのだ。
 しかし、ここでうだうだと駄々を捏ねることこそがガキの証明になる気がして、オレには黙り込むことしか選択肢が残されていなかった。
 オレは、どうしたらあんたに相応しい男になれる?いつになったら、その大人ぶった表情を崩せるだろう。穏やかに下がった目尻に、ただ唇をくっつけるだけのガキみたいなキスをしながら、ぐるぐると唸る燻りを飲み下した。
 正真正銘、オレは彼女の恋人だ。オレの猛攻に押し負けただけだとしても、オレの告白に彼女が頷いてくれたときから、それは二人の間で公然の事実なのだ。なのに、恋人になった今でもずっと、オレはなまえに片思いをしている。セックスができないことが問題じゃない。明確に、オレたちの気持ちには溝があるのだ。オレは彼女とくっついているだけで居ても立ってもいられなくなるのに、なまえはオレに押し倒されていても穏やかな表情のままこちらを宥めすかす。これを溝と言わずに何と言うだろう。
 オレがなまえの気持ちを揺さぶるためにあれこれ画策するのと同じように、彼女にもオレのことで頭の中をいっぱいにしてほしい。犬や猫がじゃれつくのを見るような微笑ましげな顔じゃなく、オレという男に振り回されて、いろんな顔をしている姿を見せてくれるのを、息を潜めて待っているのだ。
 自分たちの間に深く広がる溝を埋めたくて、オレは躍起になる。付き合うまでは、どうにかしてその形を欲しがって、それを手に入れたら、次はひたひたに満たしてほしい。次から次へと溢れて止まらなくなって、オレはもしかしたらいつの日か、この大きく膨らんでいく気持ちを制御できずに、なまえのことを自分の中に覆い隠してしまうかもしれない。そんなふうになるまで、彼女の気持ちがオレに向けられることはないのだろうかと考えるだけで、心臓がぎゅっと痛くなって、切なくなる。
 ――そうなる前に、早く、オレのことを満たしてほしい。腹一杯、溺れるくらい。

 そんな途方もない不安を抱えて、今日もオレは彼女の部屋のソファに転がっていた。
 なまえの部屋は、すごく広いわけでもなく、かといって狭いわけでもない、ちょうどいい広さの部屋だ。玄関から続く廊下にキッチンが備え付けてあって、トイレと風呂が別で、少し狭いが脱衣所もある。その廊下から扉をひとつ隔てた先にあるリビング兼寝室の部屋が、オレと彼女のくつろぎの場だ。なまえと付き合うようになってから、オレは暇さえあればこの部屋に入り浸っていた。
 この部屋は、居心地がいい。大きな南向きの窓のおかげで、日当たりが良くて、心地よい風も吹き込んでくる。ぬくい色の木目と、ベージュとか茶色でまとめられた家具に、白っぽいぴかぴかのフローリング。物があまり多くないから、実際の面積よりも広々として見えて、そして何よりも、ここにはなまえがいる。オレがこの部屋で過ごすことを当たり前みたいに受け入れてくれる彼女がいるから、オレはずっとここにいてもいいとさえ思える。自分のモノクロな色味の、がらんとして冷たいプレハブの部屋とは違う、あったかくて眠くなる部屋。
 飯を食って、寝てしまう前にと風呂に突っ込まれたあと、入れ替わりで風呂に入っているなまえを待つだけの退屈な時間は余計に眠気を誘った。ソファの正面にある壁に、大きな額に入れて飾られている絵をぼうっと見つめる。オレにはその良さは全く分からないが、何の絵なのか聞いたときに「よく分かんないけど、かっこいいでしょ?」と答えたなまえの顔を好きだと思ったことはよく覚えていた。柔らかい手触りのクッションを抱いて、なまえのことを思い返しながら微睡んでいる思考を、突如として間抜けで軽快な音楽が遮断する。
 その音を鳴らしたインターホンの画面には、緑色の帽子を被った男がぼんやりと映っていて、宅配便が届いたらしいことに気がついた。無視したってよかったけれど、代わりに受け取っておけば、風呂から上がったなまえに感謝されるに違いないという打算のもと、渋々身体を起こして宅配員の応対をすることにする。「宅配でーす」という朗らかな声に「ドーゾ」と応えると、インターホンの向こう側がわずかに動揺する気配がした。違和感を覚えながらも、玄関のドアを開けると、そこにはデカデカと「世界の終わり!」と記された表情をした若い男の宅配員がいたのだ。オレに宅配員の知り合いはいないはずだし、顔を見てもやはりその男のことは記憶にない。知りもしない男に気を遣う必要はないので、無言で伝票にサインをしてから荷物を受け取って、さっさと玄関のドアを閉めた。
 初対面の男にあんな反応をされて、どこか引っかかる。トーマンの総長をやっていた頃は、自分の知らない奴からも存在を知られていて、一方的に喧嘩を売られるなんてこともしょっちゅうだったけれど、今は違う。当時のことを知っている奴だろうか。

「おまたせ、上がったよ〜」

 荷物をテーブルの上に置いて、ウンウンと唸りながら考えているうちに、なまえが風呂から上がって部屋に戻ってきた。肩にタオルをかけて、髪はまだ少し湿っている。
 腕を組んで首を傾げるほど考え込んでいたのに、なまえが目の前に戻ってきてしまっては、あの宅配員の男なんてちっぽけなこと、すぐに記憶の彼方へ飛んでいって、消えてしまうのだった。オレは彼女の風呂上がりの肌に擦り寄るのに忙しい。仕方がないのだ。

「暑いよお、マイキーくん離れて」
「やだ。いーにおい」

 なまえがソファに座るや否や、彼女の背中とソファの間に身体を無理やりねじ込んで、後ろから胸の下にぎゅっと腕を回す。漂ってくるシャンプーの匂いをもっと近くで感じたくて、首筋にかけられた邪魔なタオルを引き抜いて、適当に放った。
 いつもは自分より低い体温をしている肌が、風呂上がりのこのときだけは熱く火照る。それとは正反対に濡れて冷えた髪が頬に当たるから、何だかたまらなくなって一層頬を擦り寄せた。オレは、熱いのと冷たいの、その両方が一緒になっているのが好きみたいだ。この前なまえと一緒に行った喫茶店で、熱いデニッシュの上に冷たいソフトクリームが乗ったデザートはものすごくうまかった。自分の胃袋を過信して、「ミニ」じゃないほうのメニューを選んでしまい、その巨大さに彼女と笑いながら分け合ったから、余計にうまいと感じたのかもしれない。
 しがみついたままのオレを好きにさせていたなまえが、テーブルに置いてある段ボールに目を止めるまで、オレは目を瞑ってずっとその熱の温度差を堪能したのだった。

「あれ、なんか来てる」
「ん。さっき宅配来たから、受け取っといた」
「ほんと? ありがとう」

 言いながら、なまえは自分の身体に巻きついたオレの腕を軽く叩く。荷物を確認するために手を離せ、ということなのだろうと気付いたけれど、無視だ。腕の力を強めるオレに、解放されることを早々に諦めたらしいなまえは、腕を目一杯伸ばして段ボールを引き寄せる。前のめりになる彼女の背中にピッタリと身体を沿わせると、その背中の薄っぺらさを実感した。背中に耳を押し付けて、トクトクと脈打つ心臓の音に耳を澄ませる。
 息を潜めてその鼓動に集中していたから、そのあと何気なく続けられた彼女の言葉に、無防備だったオレの心臓は驚くほど急激に収縮した。

「そういえばこの前、お風呂上がって身体拭いてるときに宅配来ちゃって、大変だったなあ」

 他愛ない世間話のようなトーンで紡がれる声とは反対に、オレの身体の中の熱が瞬く間に下がっていくのを感じる。膝の上に引き寄せた段ボールのガムテープを剥がそうと、その端に爪を立てている音を聞きながら、静かに相槌を打った。

「……それどうしたの」

 努めていつもどおりに声を発したつもりだ。けれど、自分の身体はうまく言うことを聞いてはくれなくて、低く呟くような冷え切った声が喉を震わせる。なのに、彼女はそんなことには少しも気付いていないみたいだ。剥がしたガムテープを丸めながら、届いた荷物を開封するのに夢中になって、変わらない口調のまま言葉を続ける。

「インターホンで、五分だけ待てないかお願いして、待ってもらっちゃった」

 その上、ちょっとした失敗に照れ隠しをするみたいに小さくはにかんでみせるものだから、腹の中でとぐろを撒き始めた暗雲は、ついに雷を蓄えて唸り始めた。「――あ?」と思わずこぼしてしまった声を、何事もなかったかのようにすぐに飲み込む。嫌な予感がした。
 届いた荷物は洋服だったらしい。ビニールに包まれた、今の時期には少し早いチョコレート色のセーターを、なまえの手から奪ってテーブルの上へ投げた。そのまま、後ろから抱えていた彼女の身体を反転させつつ、自分も背を起こしてソファに座り直す。なまえのきょとんとした顔をじっと見つめた。その表情には、慌てた様子もこちらをうかがうような様子もなくて、本当に彼女が「他愛ない世間話」をしていることが分かる。
 真顔のオレにじっと覗き込まれて、それを不思議そうに見つめ返す彼女の両手を握りながら、できる限り優しい声色で尋ねた。

「それってその五分後に受け取ったってこと?」
「そりゃそうだよ」
「配達員ってどんな奴? 若い男?」
「え? お兄さんだったけど……」

 その言葉に、ようやく合点がいく。先程の配達員の、あの態度のことだ。
 あの配達員は、たぶん今の彼女の話に出てきた配達員と同じ男なのだろう。以前そうやって無防備な姿を晒した女の部屋に今日は男がいたものだから、ああやって動揺していたのだ。なまえの口ぶりから、彼女とあの男が荷物のやりとり以上の言葉を交わしたり、好意を仄めかされたりしたわけではないことは想像がつく。それでも、自分の中で吹き荒ぶものが、大人しくなってくれるわけではなかった。
 同じ男だ。あの男が彼女に対してどんなことを思ったのか、分からずにはいられない。

「……ムカつく。そんなん、風呂上がりたてで、さっきまでハダカだったってバレてんじゃん」

 なまえは、目を丸く見開いた。その理由が、オレの言った言葉のせいなのか、オレの声が今まで聞いたこともないほど低く、抑揚のないものだったからなのかは分からない。でも、彼女の様子に気付いていても、オレは自分の中から溢れる、火花みたいにバチバチとぶつかって燃える感情を、抑えることができなかった。
 あったかくて眠くなる部屋。外で会うときは見たこともない、襟の伸びたゆるいTシャツ。濡れた髪と、ただの皮膚の色をした唇と、ほんのり熱を蓄えた頬。この部屋で、彼女のそんな姿を見ることが許される男は、自分だけのはずだ。それ以外があっていいはずがない。私服では絶対に着ないような、腿まで晒した丈の短い部屋着を履いているくせに、この様子ではそんなことも気にせず配達員の対応をしたのだろう。玄関のドアの隙間から、どこもかしこも隙だらけの彼女の姿が覗く光景を他の男が目にしたのだと思うと、喉の奥から番犬みたいな唸り声をあげたくなってしまう。
 何よりも腹立たしいのは、オレが心臓をこんなにも荒れ狂わせているというのに、どうにも彼女が腑に落ちない顔をしているということだ。

「でも別に裸見られたわけじゃないし……」
「オレは想像されんのもヤなの!」

 オレだって見たことないのに!と続けると、なまえは困ったように笑う。その顔は好きだけど、今は笑っている場合ではない。握っていた手を引き寄せて、視線を合わせるように覗き込むと、彼女はこちらの強い視線にたじろいで目をうろうろと宙へ彷徨わせる。その様子だって、オレは気に食わない。
 なんでわかんねーんだよ。おかしいだろ、オレの彼女だろ。

「なまえはオレが他の女にオレのカラダ想像されんの嫌じゃねェの?」

 どうか嫌だと言ってほしい。そう、期待を込めた言葉だった。けれど、そんな期待はすぐに淡いものだったと思い知らされることになるのだ。

「うーん、まあ嬉しくはないけど」

 眉を下げて、でも唇は笑っていない。困ったように笑っているのではなく、本当に困らせている。それは、今までどんな喧嘩にだって負けてこなかったオレの頭を、ぐわんと揺らしてしまうような衝撃だった。
 嬉しくはないけど、――けど、べつに嫌というわけじゃない。そういうことだろう。頭を殴りつけられたような衝撃的な言葉を受けて、ぽつりと、思わず吐き出していた。

「……オレばっか好きじゃん」

 自分で言葉にしてから、すぐに気が付く。
 そんなの、当たり前だ。オレが無理やり付き合わせているようなものなのだ。だから、オレばっかりが彼女のことを好きだなんて、わざわざ言葉にしなくたって分かりきっている。そんなの分かってんだよ。
 身体の中が沸騰して、今にも爆発してしまいそうだったけれど、それとは裏腹にオレの頭は静まり返っていた。眉を下げて、優しい声で「そんなことないよ、もう」と困った顔をするなまえのことを、好きだと思う以上に、「どうして」と詰りたくなる。そんなことがないわけがない。彼女自身が、一番分かっているはずだ。なまえとオレの気持ちに、埋めることのできない溝があること。なのに、どうしてそうやって柔らかい目をして、オレにその溝から目を逸らさせようとするのだろう。
 オレの気持ちから目を逸らしているのは、いつだって、あんたのほうなのに。

「オレがどんだけ好きかわかる? なまえに、どこにも行ってほしくないくらい好き」

 つなぎ合わせた両手に力を込める。体温の高いオレとは違って、いつもは冷たいくらいの彼女の手が、今はあたたかい。体温が近いと、触れ合っているその部分の境目がだんだんと曖昧になって、溶け合うような錯覚をする。
 眉を下げて、静かにオレの言葉を聞いているなまえが、みっともなくて重苦しいそれに、軽やかな返事をした。

「どこにもってどこ? 大丈夫、行かないよ」
「ほんとに? どこにもだよ? オレ以外のとこ、どこにも、一生」

 唇は柔らかく綻んでいるけれど、なまえがオレの言葉をきちんと受け止めてくれているのか、オレには分からない。自分以外の居場所を選ばないでほしいという言葉も、それくらい煮詰まった感情であることも、オレにとっては自分の胸を切り開いて、心臓を見せる行為に等しいくらいに重大で、本当のことだ。
 なまえの目の奥、コーヒー色の虹彩と、それよりもっと濃い色をした瞳の中心をじっと見つめて、言い聞かせる。彼女は、その目を細めて、思わず息をこぼしてしまったという具合に、「んふ、一生って」と笑った。

「仕事あるし、どうかなあ」
「……そこは嘘でもいいよって言うとこじゃん」

 自分の無意識に尖った唇が呟く声は、叱られた子どものそれみたいに不貞腐れていて、オレはそんな自分自身のガキくさい言動にも、期待したとおりの反応をしてくれない彼女にも不満が募って、鳩尾のあたりに暗く湿ったもやが立ち込めていくような感覚がする。
 一生このままどこにも行かずに、二人でこうしているなんてできっこないことはさすがのオレでも分かっていた。でも、「それくらい」離れがたいってことだ。彼女はそんなオレの男心というやつを無視して、現実を突きつける。大人って、本当に残酷で厄介だ。
 拗ねきったオレの様子に、なまえはもう一度息をこぼして笑って、おもむろに顔を寄せる。外行きの香水のにおいではなく、ただのシャンプーと彼女の肌のにおいがした。音を立てずに、二人の額がぶつかる。すぐそこで、彼女の瞳がふっくらとした白い瞼に隠されていく様子が、スローモーションのように見えた。
 ――大人って、本当に残酷で厄介だ。

「マイキーくんに嘘はつかないよ」

 残酷で厄介で、でも、かっこよくてキレイだ。
 瞬きもできずに目を凝らした先で、彼女の睫毛が震える。覆われていた瞳がまたすぐに現れて、そのキレイなものが、オレを捉えて柔らかくほどけていくなんて、信じられないものを見ているような心地に襲われた。

「マイキーくんを置いて、他の人のところに行ったりしない。マイキーくんがわたしを好きでいてくれるなら、一生」

 なまえのコーヒー色の目が、優しい色に溶けていく。優しいのに、どこか寂しい色と混ざり合っているようにも見えた。
 彼女をぐるぐる巻きにして、どこにも行かないようにしているのはオレのはずなのに、彼女はいつも、いつか離れていくのはオレのほうだと示唆するような言い方をする。それが不満でたまらない。どうして伝わらないのだろうと喉の奥が苦しくなる。
 オレは一生なまえが好きだよ。決まってるじゃん。好きじゃなくなるわけない。オレの中にはこんなにも確かな気持ちがある。なのに、なまえはそれをあたたかくて柔らかい毛布でくるんで見えなくしてしまうのだ。オレはこの気持ちを、誰よりもなまえに分かってほしいのに、彼女自身が一番それを信じていないように思える。
 その目に見つめられることが、嬉しくてたまらなくて、泣きそうに寂しい。照明の明かりで白く光る首筋に、額を押し当てる。熱と、微かに伝わる血が巡る音を感じて、目を閉じた。

「……なまえのそういうとこ、オレすげーやだ」
「ええ? 傷つくなあ」

 半分笑ったように呟くなまえの声は、柔らかくて、でも崩れたり溶け落ちたりしない確かな形をしている。
 「傷つく」と言いながらぬるい温度をした声が、熱く震えてくれたら。丸くなる自分の背中を、背骨に沿うように撫で下ろしていく彼女の指が、オレを決して離さないと力強く抱きしめてくれたら。そう願わずにはいられないのだ。
 あれもこれも、まだまだ言いたいことはたくさんあって、腹の底に燻るものを消し去ってオレのことを安心させてほしい。でも、ガキの駄々で呆れられてしまうこともおそろしくて、オレは彼女が自分に触れる力の何倍も強い力で、彼女の背に縋りつく。

「……うそ、ごめん。すげー好き」

 オレの感情は、とてつもなくシンプルだ。不満も、我儘も、嫉妬もすべて、ただひとつで言い尽くせてしまう。あんたのことがすごく、好きだ。だから、オレのことも「すごく好き」になってほしいんだよ。

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