彼の周りにある、他のどんなものも見えなくなってしまうくらい、彼のことが好きだった。彼が世界の中にいると、カメラのピントから外れたみたいに、彼以外のものは薄ぼんやりとしたフィルターがかかってしまう。丸いレンズに遮られた先の、垂れ下がった目尻に触れてみたかった。脱色された髪に差されたライトブルーを、いつだって探していた。奔放な兄に振り回されながらも楽しそうに立ち回る彼の、その世界の中にわたしを入れて欲しかった。
 彼ら兄弟とどうにかして繋がりを持ちたがる女の子は、この東京中にいくらでもいる。芸能人を見るような目で追いかけている子、遊び相手になりたい子、そしてわたしのように、彼らの恋人になりたい女の子。彼女たちは、熱意の差はあれど等しく彼ら灰谷兄弟の取り巻きとなって、六本木中を駆け回るのだ。彼らがよく訪れるナイトクラブ、彼らの友人が経営しているバー。彼らの周りに集う有象無象の中から自分だけが抜け出したくて、情報を駆使し外見を飾って、今か今かと、彼らの目に留まるときを待っている。
 わたし自身も、例に違わずその有象無象の一人だった。不良なんて身近にはいないし、殴り合いの喧嘩だってフィクションの中のものだと思っていた。けれど、その人のことを初めて見たとき、中学の頃好きだった先輩も、去年ハマっていたアイドルも、何もかもを飛び越えてわたしの世界を塗り替えられた感覚がしたのを覚えている。
 友達に頼み込んで、踊れもしないのにナイトクラブに通ったし、親に隠れてお酒だって飲んだ。自分には似合わないとわかっている服装も、メイクも、すべて、彼――灰谷竜胆の世界に存在したい、そんな願いのためだった。

 六本木交差点から一本、二本と入った路地に面した雑居ビル。カラオケと外貨両替店の間に挟まれたそこは、無数のバーラウンジやナイトクラブが存在する六本木の中で、規模としては小さめで、それでいて洗練されたナイトクラブだった。灰谷兄弟がよく訪れる場所のうちのひとつがここで、今日もわたしは彼がこの場所に現れることを期待して、フロアの隅でジンジャーエールを啜る。耳が壊れそうな音量のクラブミュージックにも、もう慣れた。時折、男性客に声をかけられることもあるけれど、そのあしらい方も覚えてしまった。
 「竜胆くんに会いに来ているから」と答えたときの男には二種類いる。一つは、灰谷兄弟の取り巻きとわかった瞬間に興味をなくす男で、もう一つは自分が灰谷兄弟と会わせてやると嘯く男だ。けれど、そう言って本当に灰谷兄弟と引き合わせてくれることはないに等しい。彼らはそこらに転がっているような有象無象とはつるまない。それは女もそうだし、男だってそうだ。だからわたしがそういった男たちに着いていくこともない。
 男性経験が豊富とは間違っても言えないのに、こうやって意味のないことばかり蓄えていく。ただフラフラと彼らの足跡を追っていくだけでは、有象無象から抜け出すことはできないとわかっているのに、それ以外にどうしたらいいのかわからなかった。今日もわたしは、七色のミラーボールの光と人混みが混じり合うのを眺めるだけで、そこに完全に溶け切ってしまうことも、分離することもできないでいる。
 ――だから、夢だと信じて疑わなかった。

「な〜にしてんの」

 大音量のクラブミュージックのせいで、すぐ横にその人が立っていることに気付かなかった。壁に寄りかかっていた背が、左耳に感じた声と息に驚いて跳ね上がる。慌ててそちらを見ると、自分の背丈を追い越して、さらに覆い被さりそうなほど背の高い男がそこに立っていた。
 細長くしなやかな体躯を隠すオーバーサイズのシャツと、一度見たら二度と忘れない特徴的なカラーリングをした三つ編み。首筋からは、わずかにバニラの匂いがした。

「オネーサン、竜胆の追っかけだよなァ? 見たことある」

 はっとして、すぐにあたりを見回す。灰谷兄弟は、比較的二人で一緒に行動していることが多い。取り巻きの中で共有される目撃情報も、二人がセットであることがほとんどだった。だから、彼がいるのなら彼の弟であるあの人がここに来ているかもしれない。そう思ってしばらく目をこらしても、見つかるのはこちらをジロジロ見ている女性客ばかりで、わたしの探す彼の姿はなかった。
 思わず落胆して肩を落とすと、すぐ横にいたその人が身体を折り畳むようにして息を吐く。どうやら笑っているらしかった。彼が声をかけてきたのに、それを無視して他の人を探すような動作をするなんて、失礼だったに違いない。すぐに「ごめんなさい」と謝ると、彼は折り畳んだ身体を起こしながら、身体ごとこちらを向いて、壁に寄りかかった。
 見下ろしてくる瞳は、ミラーボールに反射する光のせいで、代わる代わる色を変えている。

「オレのことわかる?」

 淡い色をした唇が緩やかな弧を描いた。それと同じ速度で細くなっていく視線にじっくりと見つめられて、ここから逃げ出したいのに、目を離すことが許されていないようにぴくりとも身体が動かない。そのわずかな間、自分の頭の中だけが目まぐるしく駆け回っていた。分からないわけがない。わたしたちが毎夜この六本木を徘徊するのは、この人たちに出会うためなのだ。「灰谷兄弟」の兄――灰谷蘭が、今までに経験したことのない距離で、他の誰でもない、わたしのことを認識している。
 彼の言葉に応えるために息を吸った。喉の奥まで、スパイシーなバニラの香りが届いて、膝の内側が震える。

「……は、灰谷さん」

 震えてはいないまでも、大音量で音楽のかかった空間ではたとえ真横にいたとしても聞き取れない程度の声しか発することができなかった。けれど、それが自分の名前だったからなのか、わたしの声を聞き取ったらしい彼は、またその長い体躯を折り畳むようにして腹を抱える。

「灰谷さんて。オレらのことそんな呼び方する奴いねーわ、ウケる」

 彼が笑っているのに、わたしは少しも笑える気がしなかった。アハアハと息を吸っては吐いている蘭の様子を恐る恐る観察しながら、どういった振る舞いをすれば正解なのか、答えのない問いに頭を巡らせることしかできない。
 一通り笑って気が済んだのか、蘭は満足げな顔をしてこちらを覗き込んでくる。

「竜胆待ってんの?」
「っは、はい」

 「竜胆」という自分が会いたいと願ってやまない人の名前を聞かされて、心臓が跳ねたのが分かった。その名前は、取り巻きたちの間でこれまでに何度も聞いてきたし、自分でだって発してきたけれど、目の前の彼が口にするその名前には、他の人のそれとは違う確かな存在感があった。そしてその存在感は、どうしようもなく、わたしの心臓を高鳴らせる。あの人が、すぐそこにいるような、そんな気分だった。
 火照る頬を冷やそうと、ジンジャーエールのグラスを持ち替えて、グラスで冷えた手を頬に添える。すると蘭はその持ち替えたグラスをわたしの手から奪い、勝手に一口飲んで「ジュースじゃん」と呟いた。そして、そのグラスをわたしに返すことのないまま、またその視線がこちらを捉える。

「名前なに?」
「……なまえです」
「あ? 聞こえねェ」

 今度は、聞こえなかったようだ。肩がギリギリ触れ合わないくらいの、ただでさえ近い距離が、蘭によってあっという間になくなってしまう。彼は覆い被さるようにして身体を寄せ、わたしの口元に耳を近づけた。カラーライトが四方を照らして、ミラーボールが反射する光をわたしから遮るように目の前に立つ蘭の姿に、一瞬呼吸を忘れる。
 それまで、フロアに乱反射する光のせいでそれ自身の色を判別することのできなかった彼の瞳が、すぐそこで瞬いていた。わずかに伏せられた瞼の先で、鋭利に伸びる睫毛の長さまでもが見て取れる。彼自身の影に塗りつぶされてもなお、その瞳の紫色は、色濃く発光していた。

「っなまえ、です」

 繰り返した声は上擦って、酷く情けない。蘭はその声を聞いて、先程腹を抱えたときとは対照的に、息を乱すことなく口元だけで笑んだ。そしてそのまま、手元のグラスへ向いていた瞳がゆっくりと動いて、わたしを捉える。

「なまえ?」

 息が、できなくなってしまいそうだった。彼はただわたしの名前を確かめただけだと分かっているのに、その瞳に見つめられて、甘ったるい低音に耳を震わせられて、分からなくなる。喉が震えるせいでうまく声が出せなくて、顎を引いて頷いた。蘭の唇が弓形に歪む。

「フーン、なまえちゃんね」

 そう言いながら、彼がそっと身体を起こして距離を取ったので、それでようやく酸素を取り込むことができた。再び壁に寄りかかりながら、とろりと下がる目尻に見惚れてしまう。蘭の、というより、わたしは蘭の眼差しを介して、竜胆のそれを思った。兄弟二人の目元は、眉の形が違うため印象が異なっているように思えるけれど、その目の形は実はよく似ている。緩やかに下がった目尻に、長い睫毛を蓄えて、宝石よりも果実に近い甘やかな色合い。
 きっと今目の前にある蘭の目と同じように、竜胆の瞳も輝くのだろう。そう思って、わたしはじっとその目を見つめて視線を外せなくなるのだ。

「こんなウルセーとこより、あっちで話さね? 竜胆呼んだげるよ?」

 カラーライトが蘭の白い肌の上を滑っていく。大音量のクラブミュージックは、変わらず鼓膜を震わせているのに、蘭の声はその音にも周りの喧騒にも隔たれることなく届いた。竜胆に会わせてやるという言葉は、わたしをはじめ彼らの取り巻きを丸め込もうとする男たちの使う文句と同じだ。けれど、それを告げるその人が灰谷蘭であるというだけで、懐疑的な口約束が、もう次の瞬間には訪れる出来事のように思えてしまう。
 彼の言葉は、わたしの心臓を苦しいまでに高鳴らせるのには十分だった。自分と竜胆を会わせてくれる。それを、他でもない彼が言うのだ。わたしは、自分以外の誰かにどこかから糸で操られているみたいに、二度、頭を縦に振った。蘭はその人形のような挙動を酷く楽しげに見つめて、果実のような色の瞳を、今にも蜜が滴ってしまいそうに蕩けさせる。そして、寄りかかっていた壁とわたしの背中の隙間に、するりと長い腕を滑り込ませ、促した。
 蘭の言う「あっち」の意味は分からなかったけれど、促されるままに足を動かす。人がひしめき合うフロアから続く、緩いカーブを描いた階段を上がって一枚の扉を隔てた先まで行くと、そこはカウンター席やソファ席が並ぶVIPルームだった。フロアにかかっているクラブミュージックは、扉を隔てたせいでわずかに遠く感じ、青いフロアライトで浮かび上がる薄暗い空間は、自分がまるで水の中にいるような心地にさせる。蘭は、そのVIPルームを迷わず横切って、さらにその奥にある個室のドアを開けた。
 個室の中には、部屋のほとんどのスペースを占める半円形の大きなソファが置かれ、その前の部屋と同じように青いフロアライトが焚かれている。中央にあるテーブルには、ボトルクーラーに差された数本のボトルとグラスセットが用意され、天井からはガラス玉が幾重にも連なる形のシャンデリアが下がって、薄暗い部屋の中にわずかに光を反射させていた。
 そこで、蘭はソファの上にわたしを手招いて、自ら酒を注いでわたしをもてなした。未成年であったわたしは、もちろんお酒を飲み慣れているはずもないのに、蘭が用意していた甘いシャンパンは、彼の手で注がれてグラスを手渡されると、甘くて揮発するだけの飲み物に変わったように、次々と喉奥へ流しこめてしまう。わたしがそうすると、彼は酷く嬉しそうな顔をして笑うのだ。わたしはその顔を見て、足元が地面から離れていってしまうような、浮ついた心地になる。アルコールに酔っているのとは違うと思った。あの灰谷蘭が目の前にいて、こんな部屋に招かれて、そしてこれから、恋焦がれたあの人が現れるというのだ。こんなふうに、酩酊した気分になっても、きっとおかしくない。
 いくらか会話をした頃、たいして時間も経っていないというのに痺れを切らしてしまったわたしは、ついに蘭に切り出した。蘭は、艶のある白い皮張りのソファの背を撫でるようにして、わたしの背中の方へ腕を伸ばしながらうっそりと微笑む。

「あ、あの、灰谷さん」
「ん〜? なに?」
「……竜胆くんは」

 彼の名前を口にすると、背もたれに乗せているのとは逆側の手で、携帯電話を取り出し何事か操作した。オーバーサイズのシャツの長い袖がめくれて覗いた手首に、何かの紋様が刻まれているのが見える。携帯電話の画面を確かめ終えた蘭が腕を下ろすと、その紋様もまた袖の下に消えていった。
 蘭は、じっとそこを見つめるわたしの視界に入り込むようにして身を屈める。もうすっかり、膝が触れ合って離れない位置まで、近づいてしまっていた。

「もうちょいで来んじゃね? つーか、オレと話してんのに竜胆のことばっか」

 蜜が滴り落ちそうに熟れた色の瞳が、ゆっくりと細くなっていく光景から、目を離すことができない。

「オレにももっと興味持ってよ。オレとお話しすんの楽しいっしょ?」

 そう言って、蘭は首を傾げる。その動作に沿うように彼の頭から垂れ下がっている三つ編みが揺れて、まるでそこから放たれているように、またあのスパイシーなバニラの香りがした。隣に立って話していたときよりも、ずっと近くにその香りを感じて、香りは鼻腔から、肺にまで到達する。肺の中が、蘭のその匂いでいっぱいになって、酸素不足に陥ってしまったみたいに目眩がした。

「ン? 楽しーよな?」
「……は、い」
「ンフフ、いい子」

 幼い子どもを褒めるような口ぶりで、蘭はわたしを褒めそやす。返事ができたくらいで「いい子」だなんて、揶揄われているのが明白だ。それなのに、わたしはそんなことも分からない愚かな女に成り下がってしまったらしい。その声で耳をくすぐられると、全身が粟立って、頭の中がぼんやりと霞がかっていく。
 そんなわたしを満足げに見つめて、蘭は自分の膝の上に肘をついて頬杖をした。

「なまえちゃんのことさ〜、竜胆知ってたよ」

 彼が、そう言ったときの感動を、誰が言い表せるだろう。蘭の声は、今までと何ら変わらない、柔和で少し気怠げなものだったけれど、わたしにはそれが福音のように聞こえた。ずっと憧れてやまなかった、追いかけ続けた人が、自分のことを認識してくれている。竜胆の瞳に映ったわけでも、言葉を交わしたわけでもないのに、それだけでわたしは今までの自分の思いが報われたように感じていた。思わずこぼした「ほんとですか」という声も、震えを隠せていない。それくらい、どうしようもないほど、嬉しかったのだ。
 ――だから、そのあとすぐに崖から突き落とされたって、その衝撃に気付くことができなかった。

「ウン。でぇ、竜胆に聞いたら、いいって」
「……え?」
「だからァ、なまえちゃんのこともらっていい? って聞いたら、いいんだって」

 蘭は、何も変わらなかった。声色も、表情も、やさしげに細くなった瞳の色も、これまでと何ひとつ変わることなく、そう言った。わたしは、彼の言葉についていくことができなかった。
 言葉の意味を理解する猶予を与えられる間も無く、蘭は話し続ける。

「オレちゃあんと竜胆に聞いたよ? 『来る?』って」

 まるで言い訳をするみたいな口調だ。大きな目を見開いて、穏やかなカーブを描いていた眉を下げて、子どもみたいな顔をしている。けれど、彼が形作る現実は、夢見心地で酩酊しているわたしにとっては、理解できないものだったのだ。

「でも、竜胆はべつになまえちゃんとは会いたくねェんだって」

 だから、オレがもらっとこうかなって。
 そう言いながら、蘭はソファの背に乗せていた腕をおろして、その先にあったわたしの肩にそっと触れた。そして、次の瞬間には彼の胸に頬を埋めていた。肩先を包み込むようにしていた手が、引き寄せるように力を込めたのか、それともわたし自身が自ら彼の胸に寄りかかったのか、それは分からない。ただ、わたしはそのときの自分の身体の中が、滅茶苦茶に切り刻まれて血だらけになっていたことだけは、分かっていた。
 そんなわたしの耳元で、蘭のやわらかい声がそっと呟く。視線の先のテーブルの上で、薄いピンク色をしたシャンパンが、グラスの中で細かい泡を立てているのが見えた。

「カワイソ。でも、オレはなまえちゃんみたいな女の子スキ」

 そう言って、蘭はそのまま流れるように、わたしの唇を塞いだのだ。最初は、唇の表面に消しゴムをくっつけられたような、ペッタリとしたキスだった。それに驚いているうちに、ソファの上に転がされる。見上げた天井には、煌びやかなシャンデリアが光を吸収して瞬いているはずなのに、わたしの視界にはそれが見えない。豪奢なシャンデリアも、フロアライトで青く浮かび上がる部屋も、すべてを遮る蘭の瞳が三日月のように細くなる様子を見ていた。
 ソファの上に抱え上げられた脚の上を冷たい掌が登って、スカートの中に侵入する。暴かれた胸元に口を寄せる蘭の三つ編みが、首の上へかかって、まるでロープで巻かれているみたいに感じた。
 蘭は、彼の唇と指に刺激されて従順に反応するわたしを、たまらなく愛おしそうに、それでいて嘲るように笑って見つめている。繰り返されるキスは、最初とはまるっきり違い、舌を擦り合わせて酸素を奪うもので、必死で息をするわたしの頭は、酸素と一緒に取り込まれるバニラの匂いで、脳味噌までひたひたにされていた。

「なまえちゃん、竜胆のこと好きなんじゃねーの?」

 唇で啄まれて、指で翻弄される間、蘭は何度も竜胆のことを口にした。そしてわたしが、その言葉に頷いて、竜胆のことが好きなのだと泣くと、これ以上ないほど愉悦に濡れた顔をする。恍惚に目を蕩けさせて、その蜜の色を濃くするのだ。もうすっかり熟れて、腐ってしまう直前の果実の色。
 そして、その身体に纏っているバニラの香りも、より濃密に立ち昇っていた。フロアで初めて話をしたときも、この部屋に入ってすぐのときも、ここまでの香りは感じられなかったのに、今はこんなにも強い香りを発している。その香りは、彼の身体が今までよりずっと熱く放熱していることを明確に知らしめていて、身体がバラバラになってしまいそうだった。
 ――おかしい、おかしいよ。わたしは、この人を好きなんじゃないのに。

「竜胆のこと好きなのに、オレに触られてこんなふうになっちゃうんだァ」

 身体が熱く、今にも崩れ落ちそうにぐずぐずになっているのは、蘭だけではなかった。薄暗い影に塗り潰されながらも、煌々と発光する蘭の瞳に晒されて、彼よりもずっと、わたしのほうがどろどろに乱されてしまっている。
 蘭の目には、わたしに欲情しているような熱はない。ましてや、わたしへの好意なんてわずかでも感じられない。ただ、自分の弟のことを好きだという女が、愚かに踊らされて自分の手の中に落ちてくるさまに、興奮を覚えているだけだ。
 わたしはそのことを、頭のどこかでは分かっているのに、そんな理性はすぐ眼前に迫った快楽の前で、今にも消えようとしている。

「ちが、違う、わたし、竜胆くんが」
「え〜? でも、すげぇカワイー顔してンよ?」

 自分の目尻から、滲み出た涙が伝っていくのを感じた。でもそれが、好きではない男に身体を蹂躙されることへの恐怖なのか、その男に与えられる刺激に打ち震えて溢れるものなのか、今のわたしには判断することができない。
 判断能力が著しく低下したわたしの耳元を、蘭の生温い舌が這って、気持ちがいいのだと言い聞かせられると、身体の奥から震えがやってきて止まらないのだ。
 蘭が身体を起こして、じっくりとわたしの顔を見つめる。火照って汗ばんだ頬を覆い隠せるほどの大きな掌が包み込んで、果実の蜜を思わせる虹彩がこれ以上ないほどに蕩けた。

「オレのこと好き〜って顔してる」

 わたしは、それまで確かに竜胆のものだった。竜胆のために悪いことを覚えて、竜胆のために息をしていた。けれど、蜜色の瞳とバニラの香りに飲み込まれゆく今のわたしは、どうしようもないほど、灰谷蘭のものだったのだ。

花一匁

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