この歳になるまで、まあ色々あったけれど、やることはあまり変わらない。ダチとつるむ。バイクを走らす。けどさすがに十八にもなってファミレスでお子様ランチを食べるわけにはいかないから、大人しくドリアだのフライドポテトだのをつつきながら、ドリンクバーで時間を消費している。ドリンクバーは、何歳になったってコーラやメロンソーダを選んでも何の文句もつけられないから画期的だ。いくつかの甘い炭酸飲料のボタンを指でなぞったあと、オレは最終的にコーラを選択する。
 ドリンクバーのすぐそばの席で向かい合う男女みたいに、コーヒーやアイスティーを選ぶような大人には、どう足掻いたってなれないだろうな、と思う。もちろん、ドリンクバーで選ぶ飲み物によって大人かどうかが測れるだなんて思ってはいないけれど、前に一度試してみたコーヒーは苦くて飲めたもんじゃなかったし、あれを好んで飲む人間が子どもなのかと言われたら、それは否で、つまりオレはまだ子どもだということになる。べつに大人になりたいわけじゃないから、結局どうだっていい話だ。グラスにコーラが溜まるまでの、ほんの暇つぶし。
 コーヒーとアイスティーを飲んでいる大人の男女の会話が、背中越しに耳に届く。盗み聞きをするつもりはなかったけれど、聞き耳を立てていなくたって、ドリンクバーに立っていれば聞こえてしまうようなボリュームで話をしているのが悪いのだ。優しげな声色で男を宥めようとする女と、そんな女の言葉に耳を貸さず、イライラしている様子を隠さない男。どう比べても、耳に突き刺さりそうなボリュームで話している男の声のほうが耳には届きやすいはずなのに、どうしてだか、その女の柔らかな声がオレの耳にはすんなりと届いた。

「でもやっぱり、もう好きと思えないから、ごめんね」

 そんな言葉が聞こえて、ふたりの状況をようやく察する。ふたりに背中を向けているのをいいことに眉間に力を入れて、べろ、と舌を出した。ファミレスで別れ話すんなよな。
 コーラの泡が落ち着いたところに、ギリギリまでコーラを注ぐようにボタンを二度押しして、グラスを持って自分のテーブル席へ戻ろうとしたところで、ガタン!と音を立てて男のほうが立ち上がった。そして、周りのことなど見もせずに席を立つものだから、スーツを着たその男の肩と、コーラのグラスを持ったオレの肩がすれ違いざまにぶつかってしまったのだ。グラスを取り落としたりはしなかったけれど、肩がぶつかった拍子に、オレのボタンテクニックによりグラスに並々と注がれたコーラが跳ねて、シャツの袖口を濡らす。しかもその男は、ぶつかるだけでは飽き足らず、オレのほうを一瞥したのちに苛立たしげに舌打ちして、一言「前見て歩けよ」と言ってのけたのだ。
 冒頭でも言ったとおり、まあ色々あって十八になった今のオレは暴走族の総長でも何でもないのだけれど、これまでに培われてきた喧嘩早さという名の不良精神は、削ぎ落とされることなく自分の中に残っていて、しかもオレはまだコーヒーも満足に飲めないただのガキなので、その理不尽な言いがかりを大人しく飲み込んでやれるような思考はあいにく持ち合わせていなかった。

「……あ? てめーが見てねェからぶつかってきてンだろうが」

 コーラがこぼれたことも、シャツの袖がコーラでベトベトになったこともべつにどうでもよかったけれど、そっちのほうからぶつかってきておいてその言い草は聞き捨てならないし、何よりそのこちらを舐めきったような視線が気に食わない。こんな、ファミレスで女に振られているような男にくれてやる情けはないのだ。
 通り過ぎようとした男の腕を掴み、小綺麗なスーツの胸元を掴み上げてやろうとしたところで、声が上がる。

「ちょっと! 何してんの」

 それは先程、耳に届いたものと同じ声をしていた。さっきの宥めすかすような柔らかい声色とは違い、慌てたような声だったけれど、その声が瞬く間に近寄ってきて、自分とその男の間に滑り込む。肩より少し長いくらいの髪と、スーツは着ていないにしろ、なんだかシュッとした服装で、オレと男を引き剥がすようにする手は白くて小さかった。
 女が出てくるとか、めんどくせえ。もう一度舌を出してやりたくなる。このふたりが別れたのかまだ付き合ったままなのかは知らないが、こういうのは身内を庇うものだろう。女をどうこうするつもりはないので、どうしたものかと思っていると、その女は予想に反して、オレに背を向けた。

「そっちがこの子にぶつかったんでしょ。子どもに当たらないで」

 背を向けたというより、背中に庇われたのだ。この、まあ色々あって暴走族の総長ではなくなったにしろ、「無敵」だなんだと言われていた自分が。
 ほとんど背丈の変わらない、僅かに目線の下にある女の後頭部を思わずギョッとした目で見てしまう。ただの社会人であろう彼女が、不良界隈の事情に詳しいとは思わないので、自分を知らずにいることや「子ども」呼ばわりすることについてどうこう思うことはない。ただ、一方が自分の知人だからといって、躊躇なく睨み合う男同士の間に入って仲裁をするなんて、自分の周りでは考えられなかったのだ。
 驚いたまま何も言えないでいるうちに、相手の男であり彼女の元彼氏(仮)は、彼女を睨むように見据えたあと、大きく舌打ちをして背中を向ける。そとあとすぐにファミレスのドアが開閉した音楽が鳴ったので、たぶん帰って行ったのだろう。振られて気が立っているのか知らないが、自分の女に舌打ちしたうえに店に置いて帰るなんてどういう了見だ、と苛立ちが募る。しかし置いていかれた当人である彼女は、少しも気にした様子のない表情でこちらを振り返り、傷ついたり怒り狂ったりするどころか、むしろオレを気遣うような素振りまで見せた。

「ごめんね、飲み物かかったよね」
「……べつに、こんなん洗えばヘーキ」

 そんな彼女を前に、オレのほうが不機嫌な態度を取るわけにもいかず、何でもないことのように取り繕ってコーラで濡れた袖をぐるぐると折る。正直なところ、あの男にはオレを見下ろしたことを詫びさせてやらなければ収まりがつかなかったが、大人のお姉さんが眉を下げてこちらの顔を覗き込んで、甲斐甲斐しく様子を伺ってくれる状況に満足してしまったので、その彼女に免じて仕方なく見逃してやることにした。
 こちらを心配そうに見つめる彼女の顔を見ていると、毎朝のように鏡の前で自分の顔と睨み合いをしていた妹のことを思い出す。彼女の睫毛は、エマの太くバサバサとはしたものとは違い、細くくるんとカーブを描いているし、唇は人目を引くようなピンク色じゃなく、イチゴ味のチョコレートみたいな色だ。何だか物珍しいような、目を離してはいけないような気がして、オレはその人のコーヒー色の目をじっくりと見つめた。

「アレ、彼氏?」
「え、ああ……ううん、今別れたから」
「フーン。別れて正解だったな」

 やはりあの男は案の定振られていたらしい。照れくささと気まずさのちょうど中間のような顔をして彼女が眉を下げるので、そう言ってやった。オレは彼女のことを何も知らないし、あの男のことも自分にコーラをぶっかけたうえ文句を垂れたクソ野郎ということしか知らないけれど、あの男にこの人はもったいないと確信にも似た感情を覚える。
 だって、似合わない。周りの奴らがこぞってつけるような鼻を刺す匂いの香水とは違う、花屋の前を通ったときに感じる匂いがする彼女と、すれ違い際にも感じた、男のスーツにこびりつく煙草の匂いは、ひどくアンバランスな気がした。
 別れて正解だなんて知ったような口を利くオレのことを、彼女は丸い目で見つめて、それからゆっくりと視線を和らげる。――今夜、夢に見そうだな、とぼんやりとした頭の中で思った。

「うん、そうかも」

 ぬるくて柔らかい色の唇がいたずらな笑みを浮かべるのを見つめながら、あの男が似合わないなら、じゃあどんな男が彼女の隣に相応しいだろうかなんて、そんな考えたって仕方のないことを考える。でも、オレは彼女のことを何も知らないから、結局その答えが出ることはなかった。
 席に戻っていく彼女に自分も背を向けて、中身の減ったグラスにコーラを注ぎ足すのを忘れたままボックス席に戻る。テーブルには、あれこれやっているうちに配膳されてきていたミックスグリルとアジフライ定食とマルゲリータ、それから怪訝そうな表情でオレを見る刺青の男がいた。背中に「D&D MORTERS」と店の名前がプリントされたつなぎを着たままのケンチンは、オレがシートに座るのを待ってから、テーブルの上に頬杖をついて眉間に皺を寄せる。

「なんか絡まれてなかったか?」
「ウン。でもおねーさんに助けてもらった」
「ハァ? オマエが?」
「な、オレもビビった。かっけーよな」

 ミックスグリルを自分の前に引き寄せて、備え付けのナイフとフォークを手に取る。ミックスグリルは、お子様ランチを頼めなくなったオレにとっての代わりみたいなものだ。鉄板の上に並んだハンバーグとチキンとソーセージを適当に切り分けながら、ドリンクバーでの出来事について話すと、ケンチンは目を丸くする。それはそうだ。オレが誰かに庇われるような人間ではないことを一番知っているのは、この男だろうから。しかも、そのオレを庇った人物というのが、女だというのだから尚更だ。
 ケンチンの当然の反応に同意するように頷きながら、テーブルの真ん中に置いてあるマルゲリータに手を出す。お互いに、ミックスグリルとアジフライ定食では足りない胃袋を満たすにはちょうどいい。ピザカッターでピザを切り分けるのはオレの役目だった。べつにピザを切り分けてやりたいわけじゃないけれど、誰かがピザカッターを使っているのを見ると、なんだか損をした気分になるので、そういうふうになっている。
 おそらく冷凍ピザを解凍しただけの薄い生地にピザカッターをガリガリと擦り付けて、四等分になったところで飽きてピザカッターを放った。四等分になっていれば充分だろう。
 四等分に切り分けたピザを半分に折り畳み、チーズが伸び切った部分にかじりついたところで、視界の端に人影が入り込んでくるのに気付く。耳に、床を叩く踵の音が響いて、それを黙って追っていると、それは自分たちのテーブルの前で止まった。
 見覚えのある彼女は、先程、今夜の夢に出てきてしまいそうなほど目に焼きついた、その人の姿をしている。オレはその姿を、マルゲリータとそれに噛みついた口の間で、チーズが伸びてこぼれ落ちていくのにも構わず、じっと見つめて目を離せないでいた。
 彼女は、そんなオレに視線を合わせて眉を下げ、笑う。

「さっきはごめんね。お詫びにここ払わせてもらっていい?」

 そう言いながら、彼女はテーブルの端に置いてある伝票が刺さった筒を指さした。一瞬、オレもケンチンもぽかんとしてしまったけれど、すぐに理解する。彼女は、先程自分の元彼氏がオレにぶつかってコーラをこぼした挙句に因縁をつけた詫びとして、オレたちの飯代を払うと言っているのだ。
 口から垂れ下がったチーズを急いで口に仕舞い、飲み込もうとする間に、見かねたケンチンが返事をする。

「……え、いいっすよそんな。な、マイキー」
「うん、おねーさん悪くねーし」

 きちんと敬語が使える、ケンチンはすげー奴だ。社会人ってやつになったからだろうか。
 ケンチンの投げかけに、オレはすぐさま頷く。あの男が詫びると言うなら当然のことだと思うだろうけれど、彼女はオレを庇った側だ。どう考えても彼女がオレたちに詫びる理由はない。それに、普段荒くれ者の男たちに囲まれているオレにとって、年上の女と関わることなどそうあることではなく、ああやって甲斐甲斐しく、優しく扱われるのは正直悪くなかった。役得というやつだ。
 だから彼女がそんなことをする必要なんて少しもないというのに、首を横に振るオレたちに、彼女は首をすくめて微笑むのだ。

「わたしが気になっちゃうだけだから。払わせて?」

 そして、彼女はオレたちがそれ以上何か言う前に、テーブルから伝票を奪い取って立ち去っていった。膝下までを隠すシュッとしたスカートから伸びる足が、細い足首で何事もなく歩いていく様子を黙って見送ってしまう。手に持ったままの、齧りかけのマルゲリータがぽとりと皿の上に落ちた。それと同じタイミングで、自分の口から、思わず言葉がこぼれる。

「かっけー……」

 ボックス席から通路側へ身を乗り出して、レジに向かう彼女の姿を目で追った。彼女はこちらの視線に気付くことなく、奥のレジで会計をしている。自分には逆立ちしても出来っこない振る舞いに、相手が女であることも忘れてそう呟くと、ケンチンも「そうだな、大人ってあんな感じなのかもな」と頷いた。オレから見たってかっこいい奴であるケンチンがそう言うのだから、彼女の振る舞いは誰から見てもかっこいいものだったに違いない。
 誰かに何かを奢ったり、逆に奢られたりする行為は、自分の周りでもなくはないことだったけれど、アイスやジュースではなく、ふたり分の食事をまるっきり奢るとなれば話は別だ。オレたちの所持金なんて小遣いやバイト代くらいのもので、働いている奴らだって自由に使える金と言われればそんなに大差はないだろう。それに、金があることとそういう行為ができることは別の話だ。
 いつかは自分たちもそういうふうになっていくのかもしれないけれど、今の自分はそうじゃない。自分みたいなガキじゃない、オトナ。困り顔と笑顔の間みたいな表情がなんだかしっくりきて、いい匂いがして、と思えば男同士の睨み合いに割り入ってオレを庇うような人。
 視線の先で、彼女が会計を終えてファミレスの出入り口に姿を消していくのを見送ってから、意図しないうちに、立ち上がっていた。

「……ケンチンちょっと待ってて」

 背中のほうで、ケンチンのオレを引き止めるような声が聞こえた気がしたけれど、それもすぐに遠くなる。彼女の姿を追ってファミレスの外に出ると、生ぬるい空気が髪を首に張りつかせた。ファミレス前の路地の左右を確認して、その姿が駅に向かう横断歩道の信号待ちをしているのを目に留める。足元のサンダルの下で、小石が擦れる音がした。

「おねーさん、待って」

 駆け寄りながら声をあげる。オレは彼女の名前を知らないから、名前を読んで呼び止めることはできない。なのに、彼女はオレの声に反応して視線を上げ、追ってきたオレを見て目を丸くした。信号待ちをしているその場から躊躇なくこちらへ歩み寄ってきて、首をかしげる。

「どうかした? 何かあった?」

 薄暗い中でも、彼女の柔らかい声は変わらず耳に届いた。けれど、花屋の前を通ったときみたいな匂いは、外気に遮断されて今は感じない。わざわざ店から自分を追いかけてきたオレに、何かあったのかと伺うように見つめるコーヒー色の目を見ていると、息が切れたわけでもないのに、心臓がドクドクと脈打つのがわかる。
 その目を見つめているうち、思ってしまったのだ。あんな男は彼女には似合わない。じゃあどんな男が、彼女の隣に相応しいだろう。――もし、それが自分だったら。そう思ってしまった。 

「オレ、おねーさんの連絡先知りたい」

 視界の端で、彼女が信号待ちをしていたそれが青く点滅しているのが見える。信号に背を向ける彼女がそれに気付くことはなく、オレもそれを彼女に知らせるつもりはない。
 今日は何度か彼女が目を丸くしている表情を目にしたけれど、その目は今までで一番、こぼれそうに見開かれている。すぐに首を縦に振ってもらえるとは思っていない。でも頷くまで、諦める気はなかった。そしてオレの目論見は、うまくいくことが決まっている。
 なぜなら、彼女は困ったような笑い顔で首をすくめるのが似合うオトナで、オレは自分の決めたことを簡単には曲げられないガキだからだ。

 あのあと、彼女の連絡先を登録したケータイを片手にファミレスに戻ったオレは、「一目惚れしたかも。ぜってー彼女にする」と揚々と宣言して、ケンチンの喉にアジフライを詰まらせた。目を白黒させて、「一目惚れ? しかも年上って、オマエ、まじか?」と狼狽えるケンチンは、この長い付き合いの中でも稀に見る焦りっぷりで、オレは首をかしげる。厳密には一目惚れというわけではないのだろうけれど、まあたぶん似たようなものだ。彼女が何歳なのかは聞き損ねたが、いくら年上だと言ったって十個上の兄貴がいた自分にとっては、さして大した問題には思えない。かっこよくて、いい匂いがして、こんな人が自分のそばにいたらどんなふうなのだろうと思った。理由なんてそんなものだ。
 「みょうじなまえ」と電話帳に登録された名前を選んで、「なまえさんと遊びたい。いつ会える?」とメールの文面を作り上げる自分が、どんなに機嫌のいい顔をしているか。鏡を見なくたって簡単に想像がつく。そんなオレの顔を見て、正反対にげんなりとした表情をしているケンチンのことは、気付かないふりをした。

 彼女は、渋々連絡先を交換した際「そんなにすぐ返事できないときもあるからね」と言い含めたけれど、ことあるごとに連絡するオレに、なんやかんや言いながらも付き合ってくれた。オレのわがままに仕方なく付き合う彼女の八の字型をした眉は、いつもオレを調子に乗せる。ただ、ふたりで会うと言っても、やることはもっぱらその日の夕飯を食べにいったり、彼女を家まで送ったりする程度で、どうにか彼女との距離を縮めたいオレにとっては物足りないデートだ。でも、今日こそ何か決定的なことを起こしてやろうと意気込むオレを、ゆるやかに、優しい力で躱していく彼女に、オレの頭はすぐにふわふわしてきて、まあいいかと口を尖らせるだけで終わらせてしまうのが常だった。
 彼女と会うようになってから、すぐに彼女のことを「なまえ」と呼び捨てにするようになったオレのことを、彼女はあの困ったような笑顔で許してくれた。その顔を見ていれば、なまえがオレのことを「男」だと思っていないことなんてすぐにわかった。近くをちょろついている犬か猫か、良くて弟みたいなもんだろう。でもそれと同時に、オレのことを大層可愛がってくれていることも何となく気がついていた。犬か猫か弟のすることだから、可愛いと思うのも当然なのだろうか。オレにはちっとも理解できない。けれど、犬だろうが猫だろうが弟だろうが、彼女をどうにかしたいオレにとって、警戒されずに懐に潜り込める立ち位置が都合がいいことには変わりなかった。だからオレは、なまえの前ではいつも、可愛い年下の男のふりをする。
 そして、その顔のまま彼女に「好き」だと繰り返すのだ。そうすると、困ったような笑い顔が、今度こそ本当に困った表情に変わるので、オレはいつだってその瞬間を心待ちにしている。犬とか猫とか弟とか、「しょうがないな」で済ませられないなまえの「何か」になってみたい。ふわふわした頭と、正反対にドクドクする心臓をひとつの身体に抱えて、オレは今日も、「会いたい」と短いメールを電波の海に放つのだ。

 なまえの勤める会社のビルに面した路上にバイクを停めて、行き交う会社員たちを眺めながら、ガードレールによじ登って彼女が現れるのを待つ。視線の先にあるガラス張りのエントランスの奥から、小走りで現れたその姿を見て、自分の身体が自動的にガードレールからぴょんと飛び上がった。

「なまえ、こっち」

 自動ドアをくぐり抜けてくるなまえにそう呼びかける。きょろきょろとあたりを探していた視線が、オレの声に一瞬だけ目を丸くさせて反応をして、オレの姿を捉えると、瞬く間にやわらかく細くなる。それを見ていると、身体中を静電気が覆ってしまったみたいに、指の先まで痺れが回っていく。その痺れが地面を伝って消えていく間に、彼女は目の前までやってきて、眉を下げた。

「マイキーくん、お待たせ」

 オレは年上の彼女のことを「なまえ」と呼ぶのに、彼女はオレのことを「マイキーくん」と呼ぶ。他にもオレのことをそう呼ぶ奴は山ほどいるし、オレ自身が知らない奴からそうやって呼ばれることもあるくらいだ。でも、なまえの呼ぶ「それ」は、他の奴のものとはまるで違っている。なまえ以外が呼ぶそれには、単に力の上下関係とか、喧嘩が強い奴への尊敬みたいなものが込められているのだろう。けれど、彼女の「それ」にそんなものは感じない。
 なまえに「マイキーくん」と呼ばれたときの心臓の鼓動は、眠りにつくほんの数秒前のうとうとした感覚とか、春の日の突風に吹かれたときの衝撃と、少し似ていた。オレはそれに何の抵抗もできずに、目を細めて、唇を噛んで、耐えるだけだ。なまえの声は眠くなりそうなほど優しいし、眼差しはずっと見ていたいくらいやわらかいのに、オレはその呼び名に、お互いに手を伸ばしても指先がぎりぎり触れ合わないくらいの距離みたいなものを感じて、寂しくなるのだ。多分、猫のことを「ねこちゃん」とか言って呼ぶのと同じなのだろう。
 なまえはオレのことを、彼女の差し出す手をぺろぺろ舐める子猫だと思ってる。本当は、いつその首筋に噛みついてやろうかと機会を窺っているだけの、ただの男なのに。

「今日はちゃんとヘルメット被ってるね」

 そう言って、なまえはオレの頭上にある半キャップのヘルメットに視線をやる。顎下にかかる煩わしいベルトを指で引っ張って弛めながら、唇を突き出して頷いた。

「うん、なまえ怒んだもん」
「当たり前でしょ、危ないよ」

 なまえを初めてバイクで迎えに行ったとき、本来ヘルメットをしっかり固定するためのベルトを限界まで伸ばして、ヘルメットを首の後ろに引っ掛けているだけの姿を見て、彼女はいつもやわらかな声を発する唇でオレを叱ったのだ。今みたいに、「危ないでしょ」ときりりとした目をして言うものだから、オレはしばらく口が利けなくなった。
 もうずっと、当たり前になっていたそんな些細なこと、自分に対して言ってくれる人はそういない。「ヘルメットを被れ」と説教されることも、ガキに言い聞かせるみたいに「危ない」と言われることも、煩わしいはずなのに、それがなまえがオレを「心配」する言葉なのだと思うと、文句を大人しく飲み込むことも嫌ではなくなった。
 今日もまたその言葉を聞いて、口の中がむず痒くなるような感覚がする。それを誤魔化すように視線を落とすと、なまえの足元が目に入った。スカートを履いていることが多い彼女だが、今日は細身で足首が見える丈のパンツを履いている。それに、靴は今まで見たことのない、踵が低くて、足の甲の上をストラップが通っているものだ。
 それをじっと見つめているオレに気付いて、なまえは覗き込むように首を傾げる。

「どうかした?」

 これもまた、初めてなまえをバイクに乗せたときのことだが、彼女はこれまでバイクというものに乗ったことがないらしく、当然どういう格好がバイクに乗るのに適しているのか、ということも知らないらしかった。そのときのなまえは、ふくらはぎくらいの丈の、歩くと足元に布がまとわりつくような、やわらかくとろとろした生地のスカートを履いていて、いざオレの後ろに跨がろうとしたときに初めてその服の弱点に気付いたようだった。
 たしかにバイクに乗るのには適した格好ではなかったけれど、ベージュとピンクの間のようなくすんだ色の、とろんと動くスカートはとても彼女に似合っていたので、オレにとっては大した問題ではなかった。抱えて乗せてやろうか、と尋ねるオレに、なまえは慌てて首を振って、わずかにスカートの裾を引き上げて、何とか後部座席に跨った。バイクを走らせている間も、履いているパンプスが脱げそうで怖い、と言っていたはずだ。
 そのことを思い出して、もう一度今の彼女の服装を見る。細いパンツと、ストラップ付きのパンプス。じわりと、目尻のほうから熱が広がっていくのを感じた。
 ただの偶然かもしれないけれど、あのときのやりとりや今日オレと会うことが、彼女にこの服を選ばせたのかと思うと、口元が弛みそうでどうしようもなくなる。視線を落としたままのオレを、覗き込むようにどうかしたかと尋ねる彼女の視線から逃れるように、半キャップヘルメットのつばを引き下ろした。

「……何でもない。早く飯行こ、オレ腹へった」

 なまえのために新しく買ったクリーム色のヘルメットを手渡して、後ろに乗るように促す。彼女の手がしっかりと自分のブルゾンを掴んでいることを確認して、バイクを走らせた。
 なまえと飯を食うのは、大体ファミレスか、彼女がよく行くという洋食屋だった。小洒落た店をオレが知っているわけはないし、調べたりするのも面倒くさい。なまえもファミレスに文句はないようだし、長居しても文句を言われないからオレにとっては都合が良かった。
 なまえと飯を食うことはもう何度かあったけれど、初めて会ったあのとき以来、彼女に奢ってもらったことはない。ふたりで飯を食った最初のとき、彼女が当然のようにオレの分も払おうとするので、「奢ってほしくて一緒に飯食うわけじゃねーから」と言っておいた。
 最初が最初だったし、オレは年下だしで、一歩間違えば年上の女にたかるヒモ男だと思われてしまう可能性にはさすがのオレでも気付いていたから、それからも自分の飲み食いした分はきちんと支払っている。本当なら、割り勘なんてダセーことをせずに、オレが全額出せたらよかったのだけれど、今のオレには難しい。変なところで無理をして、なまえと会える機会をなくしてしまうほうが、オレには重大だったのだ。

 早々に食い終わったミックスグリルの鉄板をテーブルの端に寄せて、パスタを食べるなまえをじっと見つめる。なまえは海老とモッツァレラチーズの入ったトマトパスタを、スプーンとフォークを使ってきれいに食べとっていた。彼女は、食事をするのが上手だ。食い方が「きれい」なんじゃなく、「上手」。皿の底に溜まったソースをスプーンで掬って、その上でパスタをくるくると巻き取っていく。そのままたっぷりソースが絡んだパスタを口の中に収めて、唇の端に付いたソースを小さな舌が舐めとっていく光景は、何だか少しだけえっちだ。
 どこにでもあるファミレスのパスタは、海老は小さくてトマトソースだってレトルトだろう。なのに、彼女の食べる姿を見ていると、そのパスタだってどこかの名店のシェフが作った一品に見える。オレは彼女のそんな姿から目が離せなくて、もっと、そばに行ってみたいと思ってしまうのだ。

「なまえ、明日休み?」

 視線を彼女に残したまま尋ねると、最後の一口を食べ終えたなまえは、コーヒーの入ったカップへ口を寄せながら頷く。

「うん、土曜だからね」
「じゃあオレ、なまえの家行きたい」

 言ってから、彼女はどういう反応をするだろうか、とその様子を観察する。
 これまで、オレがなまえに会いたいと誘うなかで、彼女の家に行きたいと強請ることはなかった。こうして一緒に飯を食ったり、家まで送り届けたり、今時そんなこと、小学生のガキだってやっているデートだ。オレはもっとなまえに近づいて、あわよくば触れてみたい。彼女はオレのことを犬か猫くらいにしか思っていないだろうし、いつも最後には「しょうがないな」と困ったような顔をしてオレを許す。だから、この我儘だって許されるだろうと思った。そうして、もう戻れないところまでオレを招き入れていることを、気付かせてやりたかった。

「だめ」

 なのに、彼女は困ったような笑い顔をして、首を振った。しょうがないとは、言ってくれない。
 テーブルの上で拳を握って、じっと彼女の八の字型になった眉を睨む。コーヒー色をした目は、変わらず優しい色をしてオレを見ていて、オレにはそれが腹立たしい。オレでは、彼女の中に波を立たせることはできないような気がして、むしゃくしゃするのだ。
 今日も、彼女はドリンクバーでコーヒーを選んで、オレは毒々しい色のメロンソーダ。彼女はオトナで、オレはガキだ。それは今も変わらないし、これからも多分変わることはない。

「……なんで。オレのこと子どもだと思ってんだろ。じゃあいーじゃん」
「だめ。自分のこと好きって言ってくれる男の子、簡単に家にあげたりできないよ」

 明らかに不貞腐れた声を出すオレを、覗き込むようにしてなまえが首を傾げる。そうして続けられた言葉に、オレは呼吸が止まってしまったような錯覚をした。
 彼女の言葉がどういう意味なのか、一瞬理解できなくて、でもすぐにわかったような気がしたのだ。止まっていた呼吸が動き出して、同時に猛烈なスピードで鼓動が駆けていく。

「……それって、オレがなまえになんかすると思ってんの」
「そうじゃないけど、簡単にそういうことするものじゃないでしょ」

 違う。そうじゃなくて、と声をあげてしまいたかった。でも、それよりも急激に込み上げてくる感情が勝って、言葉を飲み込む。
 オレが、彼女をどうにかしてしまいたいただの男だって、気付いて、距離を測っているのだろうか。それとも、無駄な期待をさせないための単なる拒絶なのだろうか。コーヒー色の目は、困っている様子ながらやわらかく目尻を下げて、潤んだイチゴ味のチョコレート色をした唇はそっと弧を描いている。オレの目には、どうしたって拒絶には見えない。――それなら。

「なまえが好き」

 全身が粟立って、込み上げてくる感情を抑えられなくて、呟いていた。拒絶でないのなら、彼女の言葉はきっと自分をきちんと「男」として思ってくれているが故のもので、そう思ったら、もう止まらなかった。
 言葉を吐いて、それを追いかけてくる息は熱い。口の中はカラカラに干上がっている。一瞬驚きに見開かれた彼女の目は、オレの感情とは裏腹に、すぐにやわらかく弛んでいく。

「はい、ありがとう」

 八の字型をした眉で、困った顔をしたなまえは、そうやってオレの言葉を躱そうと身を翻す。いつもなら、なまえが本当に困った顔をしたら、それが身を引く合図で、今日もそうすべきだったのかもしれない。けれど、今のオレにはもう可愛い犬や猫――年下の男のふりをしている余裕なんかない。
 ぎゅっと眉間に力を入れて、彼女の目を睨みつけた。

「それヤダ。オレ告ってんだけど」

 強い視線に、なまえはびくりとして息を呑む。いつも優しく細まる目が戸惑っているように揺れて、やわらかい言葉をつくる唇がぎゅっと噤まれていて、自分の背筋が、震えるのがわかった。けれどその理由が、彼女をほんの少しでも怯えさせたことに対する恐怖なのか、それとも今まで彼女が見せていた余裕のある大人の顔が崩れたことに歓喜したのかは、わからないままだった。
 先程の言葉を発したきり、なまえの目をじっと見つめて視線を外さないオレに耐えきれなくなったのか、彼女は噤んでいた唇をそっと解いて、気まずそうに目線をテーブルの上へ落とす。

「……大人が珍しいからそう思うだけだよ」
「んなわけねぇだろ。なまえより上の兄貴いたっつってんじゃん」
「じゃあ、お兄さんの代わりにしてるとか」
「ちげえし。兄貴にこんな好き好き言わねーよ」

 彼女は、どうあってもオレがなまえを好きだという気持ちに、他の理由をつけたいらしい。彼女をそうさせているのが、オレがガキだからなのか、彼女がオトナだからなのかは知らないけれど、知ったことではないのだ。
 なまえを好きになってしまったことに、理由なんかない。彼女の一番近くに立って、オレだけが彼女に触れることを許される何かになってみたい。犬とか猫とか、可愛い年下の男を見るやわらかいコーヒー色の目に、熱が籠ったらどんな色になるのか知りたかった。
 この感情にどんな理由をつけたら、なまえに信じてもらえるのだろう。懇願も焦燥も、何もかもをまぜこぜにした視線で見つめても、彼女と目は合わないままだ。

「……マイキーくんは寂しいだけだよ。他にいい子がいるから」

 他って、どんな奴?と聞く気にはならなかった。もっと可愛い奴も、もっと歳が近い奴も、そんなのはただの「誰か」であって、オレにとってのなまえに匹敵する存在にはなり得ない。なのに彼女は、そうやって自分から目を逸らそうとするしか、オレの言葉から逃れる方法がないのだろう。
 大人っていうのは、本当に面倒な生き物らしい。ドリンクバーでさえ苦いだけのコーヒーを選んで、いつも困ったような笑い顔でガキの我儘を受け入れて、ただの告白の返事だって、キッパリとは答えてくれない。いつだって事なかれ主義で、年下なんて対象外だと言えばいいのに、そうやって変にはぐらかした答え方をする。
 それがオレみたいなガキをつけあがらせて、期待させて、もう逃げられないところまで追いつめてしまいたくさせるのだ。

「なんでそんなこと言うの」

 テーブルの上に乗っていたなまえの手を、上から押さえつけるようにして握る。彼女はその瞬間肩を跳ねさせて、それからまんまとオレのほうを見た。
 視線が合ってしまえば、もう、離すつもりはなかった。

「好きだよ。なまえが好き。ねえ、好きだってば」
「もうわかったから」

 言葉を重ねて、重ねて、その圧力に負けてなまえが視線を逸らそうとすると、掴んだ手をぎゅっと強く握って、それを許さない。なまえの目が、ぐらぐらと揺れているのが見えて、いい気味だとすら思う。
 今にもお手上げだと言わんばかりの無力な大人が、ガキの我儘に振り回されて、あとはきっと、落ちてくるだけだ。

「わかってねーだろ。あんたのこと、抱きたいって言ってんの」

 掴んだ手は、ファミレスの冷房に晒されて冷たくなって、オレの手で覆い隠せてしまうほど小さい。背丈はあまり変わらないのに、手の大きさはこんなにも違って、肌の色も自分のものよりずっと白かった。そんな些細な差異にさえ心臓がドクドクと脈打って、その音を自分の耳元で感じながら彼女の眼差しを確かめる。
 鬱陶しいほどの告白を受けて、なまえはきっとオレの感情の熱を思い知って、どんなに可愛い顔をしているのだろうと思っていた。しかし、そんなオレの期待を尻目に、彼女はぐらぐら揺れていた目をきょとんと見開いて、思わずと言った具合に、笑ったのだ。

「……んふ」
「……笑ってんじゃねーよ」

 オレの予想では、ここでなまえの顔は真っ赤になるはずだったのだけれど、そううまくは行かないらしい。いいところまで行っていたはずだったのに、最後の部分で外したようだ。耳のほうから熱が広がっていくのがわかる。
 決死の告白を台無しにした年上の女を、じっとりとした目で睨んで、唇を尖らせた。彼女は息をこぼすようにして笑っていて、それでもほんのりと頬を染めたままでいる。この人を相手にして、格好つけるのは無駄なのだろう。格好つけるより、我儘を言って、駄々をこねて、甘えてみせたほうが、彼女にはきっと効果的だ。

「ちゃんと聞けよ」

 一回滑っているし、今だって耳は赤いし、どちらにしろ今更格好なんかつかない。オレはどこまでいってもガキで、コーヒーはいつまで経っても飲めないままだ。だけど、多分それでいい。彼女の連絡先を聞いたときと同じだ。
 彼女が頷くまで、諦める気はない。そしてオレの目論見は、うまくいくことが決まっている。なぜなら、彼女は困ったような笑い顔で首をすくめるのが似合うオトナで、オレは自分の決めたことを簡単には曲げられないガキだから。

「……ね、なまえさん」

 わざと、いつも呼んでいる呼び方に敬称をつけると、弛んでいた口角が一瞬で固まる。握ったままの手からそっと力を抜いて、彼女の指先を持ち上げるように触れた。手入れされた爪はつるりと光っていて、何度かなぞると、跳ねるようにして反応する。
 ここがファミレスで、目の前にテーブルがあって、よかったね。そうじゃなかったら、オレは今この手を引いて、彼女を抱きしめてやることだってできた。けれど、それは彼女のお好みには合わないようだから、我慢しよう。代わりに手を握って、上目遣いでじっと見つめて、可愛い顔をしておねだりをしてあげる。

「オレをあんたの男にして」

 彼女の目がオレを見つめて、その目の中に熱が籠ったときの色を知るのは、彼女の懐に入ってからでも遅くはない。それまでは大人しく、可愛い年下の男のふりをしていることにする。
 だからどうか、オレのここにはっきりと、あんたのものだという印をつけてはくれないだろうか。

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