三ツ谷は、センスのいい店をよく知っている。デザイナーという職業がそうさせるのかはわからないけれど、彼について行くと、いつも自分ではたどり着けないような、思わぬものを発見するのだ。
今日の店は、創作和食居酒屋だった。入口が岩の洞窟みたいな作りになっていて、そこをくぐるとき思わず「うわあ」と間抜けな声をあげて、三ツ谷に「うるせえよ」と笑われてしまった。
三ツ谷とは、仕事先で知り合った。イベント会社に勤めているわたしの上司が懇意にしていたアトリエで、三ツ谷はそこのトップデザイナーに弟子入りしていたのだ。わたしがイベントの担当としてそのアトリエに通っていたときに、彼がメインで応対してくれたことが出会いだった。そのイベント後の打ち上げで意気投合して、それからしばらくして三ツ谷はそのアトリエから独立した。そこから先も、友人としての付き合いは続いて、たまにこうして二人で食事をすることがある。
いつもどおり、お酒を交えながらお互いの近況報告をしていた。三ツ谷と話すのは、ほとんどが仕事の話だ。職場の愚痴と、新しい仕事の報告。会えばいつもそんな話ばかりしているから、わたしは仕事以外の、プライベートの三ツ谷のことはよく知らない。知っているのはアトリエでの修行時代と、その前に服飾の専門学校に通っていたことくらいだ。たぶん、三ツ谷のほうもわたし自身のことで知っていることなんて、ごく僅かだっただろう。
だから、その三ツ谷と食事をしているときに、自分のスマホに頻繁に連絡を寄越してくる自分の元恋人に、「面倒」以上の苛立ちが募る。三ツ谷の前では仕事をしている自分しか見せていないから、その彼といるときにそうやって泥臭い現実を目の前に突きつけられると、なんだか座りが悪いような、気恥ずかしいような、そんな気がしてくるのだ。
「な、すげー連絡来てるけど」
テーブルの上で大量のメッセージの受信を知らせるディスプレイを見て、三ツ谷が指を差す。スマホはサイレントモードにしてあったけれど、メッセージを受信するたびにディスプレイが点灯するから、目に付いたのだろう。二杯目のビールを飲みながら、まだ顔色を変えない三ツ谷の視線からそれを逃したくて、そっとスマホを裏返した。
「あー、いいの、無視して」
「なに? 誰?」
「……元カレ」
今日三ツ谷と合流する直前、以前付き合っていた彼氏から連絡が来た。別れてから一切連絡を取っていなかったから何かと思ったけれど、なんでも、わたしと別れたあとに付き合った女の子と破局したらしい。それで心が弱っているのか、元恋人に慰められようと連絡してきたのだ。わたしはそんなことにこれっぽっちも興味が沸かなかったし、そもそも三ツ谷と合流するところだったから、一・二言ほどメッセージを送ってそれ以降は無視している。
しかし、失恋のショックで周りが見えなくなっているらしいその男は、こちらが無視していることなど意に介していないようで、一方的にメッセージを送り続けてきているのだ。そんなどうでもいいことを三ツ谷に知られるのは気が引けたけれど、無意味に嘘をつくのも違う気がして、連絡をしてきている相手が元恋人だということをぼそりと呟いた。
三ツ谷は、その小さな声をしっかりと捉えて、一瞬目を丸くする。垂れ目がちの瞳が、見開かれてからまた細くなっていく様子に、なんだか後ろめたさを感じた。そんなふうに思う必要はないはずなのに、じっと見つめられると、視線を逸さずにはいられなくなる。
「……へえ、より戻すの?」
「違う。なんか彼女と別れたらしくて連絡来るだけ。寂しいんじゃない」
「ふーん」
「もうこの話やめよ、つまんない」
やっぱり、仕事のことしか話していなかった人にこういう話をするのは気恥ずかしい。仕事で繋がった大人同士のさっぱりした友好関係に、おかしな歪みが生まれてしまいそうで、早くこの話題を切り上げたかった。
けれど、それを許さなかったのは、彼のほうだったのだ。
「なんで。オレは知りたいけど」
いつも温厚で気遣い屋の彼には珍しい、抑揚のない声がこぼれる。その声の温度に、わたしの心臓はぎくりと震え上がった。どうしてかは、よくわからない。知らない声色に単純に驚いただけなのか、何かを予見して身体が警告を発したのか。それを判断することはできなかったけれど、様子を伺うようにそろそろと視線を合わせたわたしに、三ツ谷は目尻を下げ、口角を吊り上げた完璧な笑みを返した。
「……なんで」
「気になるから」
「……べつに、面白くないよ。三ツ谷に気にしてもらうようなことじゃないから」
「……そう?」
「そう」
「……オレ、あんまりオマエの昔のことって知らないし、聞いてみたいんだけど」
何とかして今の話題から話を逸らそうとするわたしに反して、三ツ谷は思いのほか食い下がってくる。本当に、珍しい。三ツ谷は仕事で出会ったときから人当たりが良くて、気さくで、人のことをよく見ている男だった。だからこそ、人が避けたがっている話題を深追いすることはないし、何ならそれとなくそういう話題から話を逸らしてくれる手腕さえ持っている。なのに、今日はまるで真逆だ。
わたしがあの手この手で迂回しようとしている腕を掴んで、その垂れ目と完璧な笑顔でじっと見つめて逃してくれない。そんな彼を見たことがなかったから、わたしはどうすることもできず、ただその視線に耐えるだけだ。
昔の、三ツ谷に話したことのないわたしのことが知りたいだなんて言葉は、そんなわたしを今にも突き崩そうとしている。おかしい。妙な心臓の鼓動が身体中に響いて、いますぐ逃げ出してしまいたい。
「……わたしだって昔の三ツ谷のこととかよく知らないし」
もう、反撃するしか手はなかった。
三ツ谷は昔のわたしのことを知らないと言うけれど、同じようにわたしだって、三ツ谷のことで知っていることは少ない。そう言って、手慰みに目の前にある三分の一ほど残ったハイボールを一気に飲み干した。氷で冷たく冷やされたアルコールが身体を流れていって、目が覚めるような、ぼんやりするような、曖昧な心地だった。
なくなったハイボールのお代わりと三ツ谷の緑茶ハイを注文して、それらが運ばれてきたところで、一緒にメニューを覗き込んでいた三ツ谷の目が不意にこちらを向く。反撃をした手前、今度目を逸らしたら負けだと思って、じっと睨みつけるように視線を残した。なのに、三ツ谷は面白いものを見つけたような顔をして、ニヤリと笑う。
「じゃあ教えてやろっか」
「……なに?」
「オレ実は昔ヤンキーでさ」
そして、そんな突飛な話を始めるのだ。
いま目の前にいる彼と、彼の言った単語が結びつかず混乱する。似合わないと言うより、三ツ谷の口から「ヤンキー」という言葉が出てくることすら、意外なような気がした。わたしが知っている三ツ谷は、目の下に隈を作りながらデザイン画を書いて、さまざまな布生地に囲まれて目を輝かせるような人だ。そんな人がヤンキーだったなんて、信じられるはずがない。
「……うそお」
「ホント。中坊のときはバイク乗り回して喧嘩ばっかしてたよ」
先程までの攻防なんてすっかり頭から抜け落ちて、間抜けな声をあげるわたしに、三ツ谷は思い出話をするようにして話してくれた。喧嘩って、殴り合いの喧嘩?いつも針と布生地ばかり触っている三ツ谷の手が、人を殴り飛ばしていたというのだろうか。ていうか、中学生でバイクって無免許ってこと?
頭の中にいろんな疑問符が浮かんで、でもまず何を聞いていいのかわからず、ただ目を白黒させる。けれど、彼の口ぶりから察するに、三ツ谷が過去に不良だったことは紛れもない事実なのだろう。そうだとわかっても、聞きたいことがあまりに多すぎて、すぐにそれを飲み込むことができないのだ。
「服飾の専門行ってたような男が?」
「ハハ、そう。トップク……あ、特攻服な。それ作ったり刺繍とかしてた」
「ええ……ちょっと見たい」
「今度見せるよ。あ、刺繍じゃねーけど見せれるのあるよ」
三ツ谷はそう言って、テーブルに身を乗り出す。そして、わたしにもそうするように、手でおいでおいでとジェスチャーをするから、そのとおりに身体を寄せて、テーブル越しに彼に近づいた。
「なに?」
「入れ墨」
小声で呟かれて、一瞬だけ思考が停止する。声を落とすようなことなのか定かではなかったけれど、三ツ谷が内緒話のようなトーンで話すものだから、それを聞いたわたしも、そのことが他の誰にも知られてはいけないことのように感じていた。
「……え?」
「だから、入れ墨」
彼の声が小さくて聞こえなかったわけではないのに、聞き返してしまう。それをわかっているのか、三ツ谷は再度言い含めるようにして同じ言葉を繰り返した。
視界には、三ツ谷の顔しか見えないのに、それ以外の何か別な情報を探さねばとまじまじとその表情を見つめてしまう。この柔らかな表情を浮かべている人の身体のどこかに、過去に施した消えない紋様が描かれているのかと思うと、心臓がざわめいて、止まらなかった。
「見る?」
三ツ谷がわたしを見つめたまま、小さく首をかしげる。好奇心と、それを簡単に覆い尽くして飲み込んでしまえそうなくらいの、彼のことを知りたい、という気持ちに勝つことはできなくて、わたしは声も出さずにその言葉に頷いていた。
彼は、わたしが頷くのを見て、目を細める。何だか、とても大切なものを見つめるような視線だと思った。虹彩の色が深くなって、どこか熱を感じさせる圧がある。それを向けられているのが自分だということには、気付かないふりをした。
不意に三ツ谷が顔を背けて、自分の右側の側頭部をこちらへ向ける。「ほら」と言って、横髪を手櫛でかきあげてこめかみの辺りを見るように言うので、まさかと思ってそこを見つめると、髪の生え際に何かの模様が刻まれているのがわかった。
「うわ……ほんとだなんかいる」
「だろ」
その全貌を見ることはできないけれど、確かに残る、黒い染料で彼の皮膚に直接刻まれた紋様。見てはいけないものを見ている気がして、でもしっかりと覚えていたくて、心臓の鼓動が駆け足になっていく。しばらくそれを見つめていると、三ツ谷が自分の髪を抑えていた手を離して、その入れ墨は髪に隠されて見えなくなった。一瞬だけ、シャンプーとワックスの匂いが混ざったような、甘い匂いがした。
三ツ谷が顔の向きを戻して、そのままの距離で視線がかち合う。垂れ目がちの瞳が、長いまつ毛に囲われているのがよく見えた。呼吸が止まって、それと同じだけ、時間まで止まってしまったような錯覚をする。先程までと同じ目をして、三ツ谷がわたしを見つめていた。視線を介して、その目の中にこもる熱が伝わってきてしまいそうで、離れようと慌てて身を引く。
けれど、先程わたしが話題を変えようとしたときと同じように、三ツ谷はそれを許さなかった。
「……さっきさあ」
自分の視界の外で、手を何かに掴まれている感覚。テーブルに乗り上げている手のひらを、そっと覆うようにして熱いものが触れている。それは決して強い力ではなかったのに、その手のひらの下でわたしは指一本だって動かすことができなかった。
浅い呼吸を繰り返すわたしのことなどお構いなしに、三ツ谷は言葉を続けた。せっかく彼の過去の話に話題が移っていたのに、彼はまたわたしの過去の話を引き摺り出そうとする。緩やかな力で、穏やかな声色で、そこにわたしを拘束するだけの強硬さは感じられないというのに、わたしはその力に逆らえなくて、声に囚われて、熱に溶かされていく。
「元カレの話。面白くないって言ったじゃん」
「……うん」
「あれ、オレも面白くねえよ」
重ねられているだけだった手が、意思を持ってわたしの手のひらをきゅっと握った。自分の手のひらと同じで、心臓さえも掴まれたみたいに、息が苦しくなる。
三ツ谷の言葉の意味を理解しようとして、でもそうしてしまったら、もう今いる場所には戻って来れないような、未知への恐怖があった。けれど、眼前に差し出された熱に逆らえるほど、慎ましくもない。口の中が干上がって、言葉をうまく紡ぐことができないわたしに畳み掛けるように、三ツ谷は重ねて言った。
「オマエが元カレと連絡とって、言い寄られんじゃねーかと思ったら、面白くない」
そこまで言って、三ツ谷は口を閉じる。何を答えればいいのか頭の中で思考が散乱して、目の前が暗転してしまいそうだ。彼が、わたしと元恋人が連絡を取り合っていることに不満を感じているのだと理解したけれど、そこで話を終えられてしまっては、どうしたらいいかわからない。彼のその言葉に、わたしへの好意が滲んでいるのは明らかなのに、そこから先を求めてこない彼に焦れったさが募る。
あれだけ性急に、津波のように押し寄せてきたくせに、最後の一歩をこちらに委ねてしまえる彼の余裕さが何だか腹立たしかった。お酒のせいではない熱が身体中に充満して、こちらは今にも爆発してしまいそうだというのに、視線を逸らさない三ツ谷は、まなざしにしっかりと熱を残して、でも口元には緩やかな笑みを浮かべている。
――そんなふうに、余裕の顔で口説かれて、タダで転げ落ちていってしまうなんて、わたしだって面白くない。
「……元カレからの連絡、今から会いたいって言われてたんだけど」
「……うん」
デタラメだ。元恋人からの連絡は、最初の一・二言以外は全部無視しているし、いま溜まっているメッセージにだって返事をするつもりはない。ただ、今の今まで余裕そうに細くなっていた三ツ谷の目が、わたしが元恋人からかけられていると偽った言葉を知って、僅かに暗く剣呑になる。その様子を見て、背筋が震えそうに自分が昂ってしまうのがわかった。
嘘をついて、三ツ谷のことを揺さぶろうとするなんて、自分にこんな側面があったことを初めて知る。彼といると、いつもわたしは自分ではたどり着けないような、思わぬものを発見するのだ。
それもこれも、余裕な顔で思わせぶりなことを言うくせに、決定的なことを言ってくれない三ツ谷が悪い。そう自分の中で言い訳をして、最後の一言を呟いた。
「好きな人と飲んでるから、無理って言ったよ」
――元恋人から「会いたい」と言われていることも、それを「無理」と跳ね除けたことも嘘だけれど、「好きな人と飲んでる」のは本当だから、許してね。
三ツ谷はわたしの言葉を、ぽかんとした表情で聞いていて、目を丸くしたまま固まってしまった。大して酔ってもいないはずなのに、彼のまなじりにはその一瞬でさっと赤色が差して、片耳にだけピアスをつけた耳の端まで染まっていく。
「…………あ、そう」
三ツ谷にしては珍しい、答えに窮したような反応。これまで自分のほうが優位に立って、最後の一押しを待ってそわそわするわたしを見て楽しんでいたはずだったのに、わたしが思いのほか果敢に挑んできたものだから、虚をつかれてしまったのだろう。三ツ谷に一泡吹かせられたこと、そして三ツ谷の赤い顔と言い淀む声に、わたしは思わず声をあげて笑ってしまった。
三ツ谷はそんなわたしの笑い声を背負って、背中を丸めてテーブルに肘をついたまま手で顔を覆う。その指の隙間から、赤く染まった肌と、睨みつけるような視線が突き刺さった。
「あークソ、かっこつけさせろよ」
悪態をついて、溜息を吐いているのに、三ツ谷の口元はうっすらと笑っている。噛み殺すことのできない笑みが浮かんでしまっている三ツ谷に、わたしはもう一度、「好き」と告げる準備をした。
元不良の凄みと睨みは、わたしの想像よりもずっと可愛いものだったみたいだ。