あれは夢だったのだろう。そう思うことにした。
ディスプレイ上で提案用の資料に目を通しながら、今週の間ずっと繰り返している言葉を反芻する。もういいんだ、あれは夢だったんだ、と唱え続けるのは、諦められていない証拠に違いなかったが、そうでもしないと命を保てる気がしなかったのだから放っておいてほしい。
あの夜、そしてあの朝を経て、彼女と俺の関係性は一ミリたりとも変わらないまま、一週間が経とうとしている。
「意識してほしくて家に呼んだなんて、ずるいですよね」
たっぷり十秒ほどかけて彼女の言葉を理解した俺の、ほとんど叫び声のような「それって……」という声に重ねられたのは、携帯電話の着信音だった。
けたたましく泣き叫ぶそれの液晶画面には、自分の取引先の病院名が表示されていて、その瞬間俺はこの先の未来を悟ったのだった。
その後、俺は彼女とまともに話すこともなく身支度を整え、休日出勤に明け暮れた。目の前で休日を潰されてゆく俺を見て、気の毒そうに「大変ですね、何か手伝えることありませんか」と気を使ってくれたことはしっかりと覚えている。担当でもない、しかも所属している課も異なる彼女に手伝わせることなどできず、丁重にお断りをして彼女の部屋を出たのだった。
部屋を出る際、彼女に「いってらっしゃい」と言ってもらえたことだけが俺の心を癒したけれど、そもそも、この呼び出しさえなければ何か劇的なことが起こっていたかもしれないのにと、自分の間の悪さをこれ以上ないほどに恨んだ。
それから日曜を挟んでまた地獄のような平日が始まり、あの夜から一週間が経つ。俺はいつものように業務に追われ、元々顔を合わせることも多くないこともあり、彼女と言葉を交わせる隙もなかった。
このまま何もなかったことになるのだろうな、そんな未来がよぎり、あの出来事は夢だ、いい夢だったじゃないかと自分を慰めている。
今週何度目かもわからないため息を吐き出しながら、確認を終えた資料を印刷すべく、「印刷」とボタンを押して、複合機のある場所へ向かった。俺の憂鬱そうな様子を見て、怪訝そうな視線を送ってくる隣の席の後輩を無視する。放っておいてくれ。
神の啓示か。そこには、彼女がいた。
しかし、声を掛ける余裕はなさそうだ。彼女はバタバタと印刷を終えた資料を数え、ファイルと封筒にしまっている。遠くから彼女を呼ぶ上司の声がして、彼女はそれに「はーい、今いきます！」と溌剌な返事をしていた。資料を準備し終えた彼女は、近くにいた俺に気付き、一瞬目を丸くする。目が合って、心臓がばくん、と大きく収縮した。
彼女は小さく笑って、会釈をするだけで通り過ぎてゆく。多分アポイントの時間が差し迫っていて、急いでいるのだ。仕方ない。そう思いながらも落胆は隠せず、彼女がいなくなって開いた複合機の操作をしながら、再びため息を吐き出そうとした。
「観音坂さん！」
声がした。
えっ、と思わず声を出してしまう。振り返ると、バタバタと外出の準備をしていたはずの彼女がそこにいたのだ。コートはボタンも掛けず、資料の入った封筒は鞄に入れずに腕に抱えたまま。
「今日の夜、時間ありますか？」
「え……」
「仕事早く終わるなら、ごはんでもと思って」
夢だ。これは夢だ。頭の中でそう叫び散らす自分の喉の奥から、小さな声で「ぜ、は、ぜひ……」という気味の悪い返事が吐き出されているのが聞こえる。彼女はその返事を聞いて嬉しそうに笑った。うわ、かわいい。
「じゃあ、またあとで」
そう言ってすぐに去っていった彼女のいた場所を、俺はしばらく眺めたままだった。放心状態で今起こった出来事を脳内で繰り返す。すごく急いでいた。上司にも急かされて、一刻も早く出なければならなかったはずなのに、わざわざ俺のいるところまで戻ってきてくれて、食事に誘ってくれた。しかもあんなふうに笑って。
あの朝、告白まがいなことを言ってしまったときの感情が蘇ってくる。膨らんで止まらない期待が、猜疑心と合わさって混乱してゆく感覚。
これは、そうなんじゃないか。そういうことなんじゃないか。でも、俺なんかに。
ぐるぐる、目が回りそうだ。自分の資料の印刷はとっくの昔に終わっていた。
今世紀最高記録と言ってもいい。定時の五分前、俺は本日の業務を完遂し、彼女を待った。隙あらば仕事を振ってこようとする上司や、だるそうに世間話をしようとする同僚にはっきりとノーの返事をし、そのときの俺は決意に満ちていた。必ず彼女にあのときの言葉の真意を聞く。そして自分の気持ちを伝えるのだ。
彼女が業務を終えて身支度を整えたのを見計らっているときも、会社から少し離れた居酒屋に入るときも、その決意は硬く揺るがなかった。
――それなのに。
情けない。俺は情けない男だ。ビールからレモンサワーに変えて三杯目。彼女もハイボールを二杯とレモンサワーを飲んで、眦のあたりがもう赤い。話そうと決めていたことはひとつも話せないまま、飲み始めて数時間が経ってしまっている。
彼女は俺の抱えていることなど当然知るよしもなく、今日の昼間、あのばたついていたときのことを話している。どうやら今日は担当先の役員との面談だったようだ。
「役員と面談のときって本当に大変ですよね」
「ですね……俺もいまだに慣れません」
「資料のレビュー厳しいし、その割にあんまり製品の話しないじゃないですか」
「資料作った時間なんだったんだって思いますよね」
共有の話題など仕事のことしかなく、色気はなかったけれど嫌でも弾んでしまう話題だ。しかし、話題に色気はなくとも、話している人がそうとは限らない。
彼女の話に頷きながら、視線はその表情に釘付けだった。
「……大丈夫ですか、赤いです、顔」
眦から頬にかけてが、じわりと血色ばんでいる。髪の隙間から見える耳の端も、レモンサワーのグラスを持つ指先も、淡く染まっていて、俺は気が気ではない。
悪酔いしてはいないかという心配と、それを覆い隠してしまいそうな下心で、呼吸が浅くなる。
「だいじょうぶです。赤くなりやすくて」
そう言って細くなる瞳は、少し潤んでいるような気もするし、口調はいつもの溌剌したものより緩んでいる。目の前で無防備になってゆく彼女の姿につられるようにして、口が動いていた。
「……あ、の」
声はやはり震えている。
「せ、先週は、ありがとうございました」
「全然。わたしこそ急にすみませんでした」
先週の話題に触れても、彼女は焦ったりすることはなく、むしろそう言って眉を下げた。
「っあ、謝らないで、ください。助かったし、それに」
息が浅くなって、苦しい。ああ、俺も少し酔っているのかもしれない。
「う、うれしかった、です……」
言いながら、視線を落とした。彼女の顔が見れなくて、グラスを持つ彼女の手を見つめてしまう。白くて、指の腹のアルコールで赤くなっている部分がよく映える。磨かれた爪が、店の照明でつるりと光って、触ってみたいだなんて思ってしまった。
「あの、俺、それで」
そこから先が、続かない。「ええと」「あの」と、文章にならない言葉を吐き出すのみだ。耳元で自分の心臓の音が大音量で鳴っているのがわかる。
「観音坂さん」
壊れたロボットのように吐き出される意味のない言葉を遮って、彼女は俺の名前を呼んだ。びくりと、大袈裟に肩が跳ねて、恐る恐る視線を上げるけれど、それが彼女と合うことはなかった。彼女は、先ほどの俺のように、俯いてじっとテーブルの上を見つめている。
「ごめんなさい。この前から、ずるいことばっかりして」
俺が、何を言おうとしているのか察したのだろうか。彼女の「この前」という言葉は、きっとあの日のことを示している。
「家に呼んだり、中途半端なまま、また食事に誘って」
俯いた表情ははっきりと伺えないけれど、あまり明るい表情をしていないことはわかった。声は小さくて、言葉をひとつずつ選びながら話している。少し震えているようにも聞こえて、俺はどうにかその震えを止めてあげたいと気が逸った。
「こんなふうに確かめたり、お酒も、酔っ払わないと勇気が出なくて」
一瞬、息が止まる。
「勇気が出ない」という彼女の言葉に、信じられないくらいに胸が苦しくなる。その意図を、その先を、考えてしまえば、答えはひとつしかないように思える。でも、まだ信じられないのだ。
あの日の、あの言葉の、真意を知りたい。
「お、俺のこと、どう思ってますか」
きみの、気持ちが知りたい。
彼女をずるいと言うなら、俺だってきっとずるい人間だ。俺だって、確かめるようなことを言って、「もしかして」と思えてからでないと言葉にできない。言葉にしてもらわないと、信じられない。
「――俺は、好き、です」
曖昧な言葉じゃ、わからない。信じられない。俺はこれっぽっちも自分に自信がないから、ちゃんとした言葉を貰わなくちゃ、わからないのだ。
ぎゅっと握り締めている自分の拳は、氷のように冷たくて、少し震えている。それでも今度は視線を逸らさない。そっと彼女の視線がこちらを向いて、やわらかくほどけてゆくのを、夢を見るような心地で見つめていた。
「……わたしも、好きです」
――もし、本当に夢だったら、きっとこのまま息を止めて死んでしまうだろうな。
そう、頭の中の、どこか遠いところで思った。
「観音坂さん、次いきましょう」
お互い安心して気が抜けたのか、そこからさらに酒が進んでしまった。すっかり酔っ払った彼女は、眠そうに目を蕩かせて、ぽやぽやした顔を向けている。
はあ、と思わず吐き出した息が随分と熱い。アルコールと、無防備な姿に頭がどうにかなりそうだった。
しかし、待て。ご機嫌な様子の彼女の言うがまま、このまま付き合ってしまってもいいのか。この先は、お互い正体をなくすまで酔って、記憶のない状態で一夜を共にしてしまうのではないか。そんなもったいないことをしていいのか。
終電はまだある。今日は、あの日と違って家に帰れる。彼女を部屋に送って、それでもまだ家に帰ることのできる時間帯だ。酔いと下心と、それから確かな高揚感で、頭の中がぐらぐらと揺れる。
気持ちが通じたのだとしても、その日のうちにどうにかしてしまうのはよくないという真っ当な紳士心。自分の恋人になった彼女の無防備な姿に、辛抱たまらなくなる本能。酔っ払っている彼女に手を出したとわかったとき、どう思われるのだろうかという不安。
「それとも、わたしの部屋きますか」
――知らん、かわいい。いや、待て。でもかわいい。永遠に自分の中で問答が繰り返される。
「う……か、帰り、」
帰りますと、言え。脳はそう命じている。でも、だって、もう、俺の恋人だ。
「……いきます」
――ああ、抗えない。