わたしが「自由」を知ったのは、彼と再会したときだった。大学を卒業して、就職に合わせて一人暮らしを始めた。給料で好きなものを食べて、買って、友人と気兼ねなく過ごした。その頃は、自由などなかった。わたしには、囚われるものなど何もなかったから、自ずとそこから解放される自由もなかったのだ。
 それが変わったのは、仕事を始めて一年が経とうとした頃。目の前に、中学と高校の頃の恋人が現れた。高校に入ってすぐ、一方的に別れを切り出されたきり、姿を消した恋人が、あの頃と違う姿と表情で、わたしの前に現れたのだ。
 そしてわたしは、生まれて初めて「自由」を手に入れた。それから数年が経った今も、わたしは変わらず「自由」の中にいる。

 18時48分。仕事を終えて、会社の最寄駅で友人と落ち会う。今日は朝からずっと雨が降っていて、これから夜中にかけて雨足は弱まっていくらしい。傘同士がぶつからない距離を保ちながら、19時01分、予約していたダイニングバーへ入った。席に案内され、向かい合わせの席へお互い腰を下ろしたところで、友人が「ほんとに久しぶり、全然予定合わないんだもん。そんなに忙しいの?」と笑うので、その笑顔にならって、ひとつ頷いておいた。
 予定は、これからもきっと合わない。今日だって、予定が合ったわけじゃない。これは、彼には秘密だから。次彼女に会うのは、いつになるだろうか。数ヶ月後か、数年後。もしかしたら、今日が最後になるかもしれない。その懸念が杞憂では終わらないことを、頭のどこかでわかっている自分のことが、少しおそろしい。
 彼女はシャンディガフ、わたしはスパークリングワインを注文したところで、テーブルの下で手早くスマートフォンを操作した。一件のメッセージは吸い込まれるように、彼の元へ飛んでいく。

<偶然友達と会ったから食事してきます。女の子だし、すぐに帰るから心配しないで>

 19時13分。メッセージを飛ばして、既読の印が付かないことをしばらく確認してから、テーブルの上にスマートフォンを伏せて置いた。半分本当で、半分は嘘だ。食事をする友人が女性であることと、食事をしてすぐに帰る予定だということは本当のこと。ただ、メッセージの冒頭、「偶然」友人と会ったということは全くの出鱈目だ。今日の食事は、以前から彼女と日程を決めて、行きたい店もあらかじめ予約をして決行された。彼女にだって、嘘をついている。仕事が忙しくて予定が合わないだなんて、嘘っぱちだ。今の会社に勤めるようになってから、残業などたったの一度もしたことがないし、わたしに「予定」なんて存在しない。仕事を終えて、まっすぐに帰宅し、ただ部屋で呼吸をしている。それがわたしの生活の全てだ。
 彼女に自分の現状を話すつもりは毛頭ない。彼女は、わたしの有様にも嘘にもただ無知で、友人としてだけ在ってくれればそれでよかった。けれど、彼は違う。わざわざ「偶然」だなんて嘘をついて、こうやって彼の言いつけを破っている自分の姿に、迫り来るような感情を覚える。罪悪感でもない、開放感でもない、これは、何なのだろう。
 わたしみたいな女がいくら小手先で誤魔化そうとしても、結局意味がないことはわかっていた。わかっているのに、わたしは時折こうやって「彼」の言いつけを破るのだ。そうすることでしか自分の中の均衡を保つことができないと無意識下で悟っているのか、それとも他の何かがあるのか、その理由は、終ぞわからないままでいる。
 
 21時13分。彼にメッセージを送って、きっかり二時間後、スマートフォンが震えた。彼からの連絡を決して見逃すことのないよう、設定されたLEDライトが点滅する。すぐさま伏せていたスマートフォンを裏返すと、画面には短いメッセージがひとつ浮かんでいた。二時間前にわたしが送ったメッセージへ続く返答は、これひとつだ。

<店の前にいる。すぐ出てこい>

 そのメッセージを確かめて、わたしはすぐに、自分の分の会計をテーブルに置き、彼女に謝罪をする。急用が入ってすぐに会社に戻らねばならないこと、また改めて埋め合わせをすること。全て、嘘だった。
 21時19分。店を出ると、店に来る前より雨足は弱まり、それでも傘をささねばならない程度の雨は降っていた。店先からわずかに離れたところに、黒いセダンが路上駐車され、ハザードランプが点滅している。そしてその車のそばに、傘をさして佇んでいる男がひとりいた。
 細い肢体を、黒色の衣服が包み隠しているが、その髪も、頬も、皮膚も、繁華街のネオンライトが透過してしまいそうなほどに白い。彼の周りの景色は、ネオンが激しく瞬いて、雨で濡れた地面もそれを受けて眩しく明滅している。それなのに、夜の闇に飲まれそうな彼の姿が、雨の街には浮かび上がって見えた。
 彼は、ビニール傘をさして近寄っていくわたしの存在に気づき、長い前髪の向こうから、暗澹とした瞳を覗かせ、呟く。

「満足したか」

 雨音にも、街の喧騒にもかき消されることなく、彼――佐野万次郎の声はわたしの傘の中へ届いた。彼のその視線を受けて、わたしは、確かに傘をさしているはずなのに、自分の全身が雨に打たれている薄ら寒い錯覚を起こしながら頷く。

「……うん」

 頷いたあと、返事はなかった。そのまま万次郎と一緒に、駐車されているスモーク張りのセダンに乗り込み、セダンは夜の東京を泳ぎはじめるのだ。車と車の間を悠々と抜けて、首都高を超え、わたし――否、彼の部屋があるマンションへは三十分かそこらで到着する。
 その間、車内に会話はひとつもなかった。彼はわたしにあれ以上の言葉をかけることなく、わたしも息を潜めて後部座席の隅に身を寄せる。運転手をしている彼の部下は、目の覚めるような桃色の髪が印象的な男だった。時折、万次郎が家に帰れない日々が続く際に、わたしの様子を見にくる人間のうちの一人で、値踏みをするような視線でこちらのことを観察するため、わたしはこの人のことが少し苦手だ。しかし、今日は彼の上司である万次郎がそばにいるからか、その視線を感じることもなく、粗暴な態度も今は見せない。
 22時09分。三人がいる車内には一切の沈黙が流れたまま、車は天空を裂くように伸びているビルの地下駐車場に滑り込んでいった。ここから先、時計はもうない。

 エレベーターが目的の階へ到着したのち、部下の彼は部屋に入ることなくわたしたち二人の前から去った。部屋には、わたしの万次郎の二人きりになる。二人で住むには十分すぎるほどに広く、二人で使うには大きすぎる家具があるだけの部屋だ。
 玄関のドアが閉まった瞬間、凄まじい衝撃と痛みが、わたしの右肩を貫く。あまりにも突然で、わたしは声も出せなかった。彼は、まだ靴も脱いでいないわたしの腕を強かに握り、引き寄せる。もう片方の肩にかけていた鞄が呆気なく落下し、重たい音を立てた。
 その細い腕のどこに、こんな力が眠っているのだろう。わたしは不思議でたまらなくなる。ひとりの女を引きずるようにして廊下を進み、寝室にある巨大なベッドに向かって、まるでぬいぐるみでも放り投げるようにしてわたしを引き倒した。強く握り締められたまま、上質なマットレスの上に押さえつけられた手首は、きっと明日には痣になっているだろう。わたしは、自分の痛みよりも、明日になってその痣を認めたときの彼のことを思う。今わたしの感じている痛み以上に、また、彼の心は傷つくのだろうか。

「……なまえ、今日のはなに?」

 彼の声は、いつも変わらない。抑揚のない、熱くも冷たくもない、無機質な声だ。引き倒されたわたしに跨るようにしてベッドに乗り上げた彼は、片方の手を押さえつけたまま、もう片方の手でわたしの顎を掴み固定する。わたしが、彼から視線を逸らすことのないように、彼を偽ることのないように、力任せに縛りつけるのだ。

「オレに黙って、ほかの人間と約束なんかして、オレへの当てつけのつもりじゃねぇよな」
「……そんなつもりはないよ」

 真っ直ぐに、彼を視界に捉えたまま言葉を吐く。嘘ではなかった。彼に黙って、そして「偶然」だなんて出鱈目を言って彼以外の人間と共に過ごすことは、彼への不満を示すためではないのだ。わたしが彼に不満を抱くなんてことは、きっとこの世界が終わってしまうときで、起こり得ないことだろう。
 店で彼に送ったメッセージには、確かに「偶然」と書かれていたはずなのに、彼は当たり前のようにそれが「約束」だったことを知っている。それが示す意味に気付かないわけがなかったけれど、だからと言ってそれにわたしが何か言うべきこともなかった。
 ただ、わたしは「自由」を得たくて、だからこの悪い口は、彼の望まない言葉を吐いてしまう。

「マイキー、友達と食事に行きたいって言ったら、許してくれた?」

 柳眉がわずかに歪んで、暗い瞳の中に渦を巻く憎悪が見えた。それを見ていると、震えるのだ。自分が今まで、「自由」の中にいたのだと思い知らされて、身体の底から震えてしまう。
 噤んでいた彼の口が薄ら開いたのを視界が捉えた瞬間、首元に鋭い痛みが走った。歯を立てて、故意に傷跡を残そうとする力に、全身が強ばる。歯形のついたその部分を、生ぬるい弾力がなぞっていく感覚がして、そしてすぐに「許さない」と声が聞こえた。彼の腹の底から吐き出された、湿った声。

「オマエは、勘違いしてる。連絡手段を与えて、仕事をさせて、一般人と同じように生活できてる意味が、なんでわからない?」

 淡々として、静かで、どことなく甘やかすような色さえある。けれど、一切の拒絶を許さない声だ。わたしはその声を聞きながら、目を瞑った。
 誰とどんな連絡を取り合ったのか筒抜けの連絡手段と、彼の組織の息がかかった企業での労働。たしかにわたしが望んで、わたしが与えられている自由。ただ、それを「一般人と同じように」と数える彼の感覚は、きっともう破綻してしまっているのだ。そして、同じように、わたしも。
 ジャケットとブラウスを無理やり剥ぎ取られて、スカートの下を這っている手が、ストッキングを引き千切ったのがわかる。彼しか見ることのできないわたしの身体は、付けられたばかりの鬱血痕や消えかけの歯形が散りばめられて、醜い姿をしているのだろう。なのに、彼は性急に新しいしるしを付けたがる。追われているのだ。
 彼の後ろに人々は連なるし、彼の後ろ姿は人々を惹きつけてやまない。それでも彼は、何者かに追われているかのように、わたしのことを暴いて、どこにも行けないように縛りつける。

「オレが、そうさせてるからだ。オレが許しているから、オマエはそうやっていられる」

 縛りつけて、わたしに選択肢など与えない。それなのに、そうやって蹂躙する彼から、わたしはいつも違う言葉が聞こえてきてならないのだ。痣が残るほど強く握った手が、「行かないで」と叫んで、底の見えない瞳が、「許して」と泣いている。わたしはその姿に、ずっと昔、ただの学生でただの恋人だった、「わたしのマイキー」の顔が重なって、いとおしくて、たまらなかった。
 されるがままのわたしが、時折苦しげに息を吐くと、怯えるような目をしてゆっくりと力を緩めてくれること。いとおしさに流してしまう涙を、苦しみからのものと信じて疑わない彼が、傷口に触れるようにそっとキスをしてくれること。柔らかな金色だった髪が、月の光みたいな色に変わっても、猫の目みたいな瞳に、重たい影が滲んでも、彼の中には、「マイキー」がいる。それをわかっているから、わたしは何もおそろしくなかった。

「わたし、マイキーには何されたっていいんだよ」

 長い前髪を潜るようにして、彼の頬にてのひらを寄せる。視界の端に映る自分の手首には、もう痣が出来てしまっていて、明日は彼に気付かれないように長袖を着ようと思った。
 彼の頬は、汗で濡れて手に吸いつくようで、ずっとこのまま見つめ合っていたくなる。けれど、彼は違うらしい。わたしの言葉を聞いて、息を呑んだ彼は、目を大きく見開いて、すぐにぎゅっと瞑った。ひくついた喉から溢れる声が、今にも泣きそうに、わたしの耳に縋りついていた。

「……オマエを、こんなふうにしたかったわけじゃない」

 こんなふうって、どんなふうだろうか。彼の影のない生活を送ることを許されなくても、こうして一方的なセックスをされても、文句のひとつもなく受け入れてしまうことだろうか。それとも、「自由」を得たいだなんて嘯いて、彼に囚われたがることだろうか。わからない。それでも彼が、わたしを手離しはしないことだけは、わかっていた。彼が、わたしを抱いたその夜だけは、健やかに眠れることを知っているから。
 けれどわたしが、そんな彼を救うことはない。囚われて、縛られて、満たされてしまった。あの頃の、「わたしのマイキー」だった彼に、わたしはずっと恋をしてるからだ。彼に恋をしているばかりに、わたしはこれから先もずっと、彼が心の底で本当に望んでいる言葉をかけてあげられないのだろう。彼と一緒に、ただこの街の夜に流れて、沈んでいくだけだ。

夜を削ぐ

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