その場所は、今まで一度も見たことのない場所なのに、オレはなぜかここを知っている気がした。
 湿った風が首筋を撫でて、空気は埃の匂いがする。崩れた天井の向こう側からグレーの空が押し寄せてきて、息が止まりそうだ。足元は、おびただしい数のスクラップが山積みで、地面の色が見えないほどに埋め尽くされている。
 おかしな光景だ。自分の見ている景色の中にに、自分がいる。その場に立っているのは、たしかに自分自身だ。ならば、その人物をこうして外側から眺めているオレは、はたして何者なのだろう。
 わからないことが、もうふたつ。ひとつは、その自分らしき男が、全く身に覚えのない姿をしていること。削り落とされたように痩せた身体、生白い頸に、見覚えのある龍の刺青。黒く染まった髪が耳の位置で切り揃えられて、湿った風に晒されている。俯いている顔を覆う髪の隙間から、この世の何ひとつとして映していないような、まっさらな瞳が覗いていた。そんな自分の姿を見た記憶がないのに、その男は紛れもなく「自分」だったのだ。
 そしてふたつめ。山積みにされたスクラップの上で、力なく跪く自分の足元に横たわっている女がいた。その女の顔を見て、自分はこの光景をただ映すだけの「目」しか持たないはずなのに、思わず息が止まるほどに動揺する。
 大量のスクラップが投棄されたその場所に、そのスクラップのうちのひとつであるかのように、彼女は転がっていた。長い髪は乱れ、小汚いスクラップの上に散らばって、無感情な顔で彼女を見下ろすオレを見つめる瞳は、酷く虚ろな色をしている。

「マイキー」

 彼女の血色のない唇が震えた。か細く、掠れて、それでもはっきりとオレのことを呼んでいる。これまでに聞いたことのない、寂寞とした声だった。オレはその声に応えるように手を差し伸べて、晒された白い首筋に触れる。彼女の首は、普段頭を支えているとは思えないほど頼りなくて、オレの両手で簡単に覆いつくせてしまった。――嘘だと思った。
 彼女の喉の上で重なった両手が、絞るようにして力を込める。身体を前のめりにして、全身の体重を乗せると、彼女の身体が水から打ち上げられた魚のように跳ねた。苦しげな呻き声が、廃墟に反響する。
 オレは、自分自身であるはずのその男を、止めることができなかった。オレは彼女の首を絞める自分と、抗うことなく苦しむ彼女を見る「目」しか持たず、彼女の首から男の手を退かすことも、目を濁らせていく彼女の名前を呼ぶこともできなかったのだ。
 自分と瓜ふたつの顔をした男は、彼女が苦しみに喘いでいることなど少しも意に介さず、静かな目をしていた。

「マイキー」

 また、彼女が呼んだ。もう、何を言っているのか判別できないほど潰れた声をしていたけれど、それが自分の名前であることはわかった。見ていられなくて、「目」を瞑ってしまいたかった。けれど、できない。その光景を映すだけの「自分」は、ただ無感情に、そして何かに駆られるように、自分の手で彼女の命を枯らしていく様を目に焼き付けていた。
 両手の手のひらから、その中にあったものの力が抜けていくのを感じる。叩きつけるように脈打っていた鼓動が、今はもうない。ぬくもりだけはまだ僅かに感じられたけれど、それ以外の何もかもが、この肉体からはなくなってしまったことがわかった。痣だらけになった首筋からようやく手を離して、喉から、鎖骨の間を通って、胸の中心までを指で辿る。
 もう動くことのない、彼女の開き切った瞳孔を見つめて、その男は呟いた。

「これでよかったんだ」

 ――壊してしまえば、なかったことになる。



 引きつけを起こしたように、身体が跳ね上がった。すぐにまたマットレスに沈んで、短く荒い呼吸を繰り返す。水を欲して、舌を垂れて息をする犬のようだった。重い何かがのしかかって肺が圧迫されているみたいに、酸素を取り込む動作がうまくできない。全身がじっとりと汗をかいていて、酷く不快だった。
 視界に広がるのは、真っ暗な、見慣れたワンルーム。リネンのソファと、木目調のテーブル、彼女のものと一緒に、自分の上着がかかったハンガーラック。自分の部屋とは異なる、物の多い部屋だ。あの寂れた廃墟とは似ても似つかない光景に、深く息を吐き出す。
 どんなに大きな喧嘩のあとだって感じたことのない重苦しい身体を、引き摺るようにして起き上がった。まとわりついた熱が冷めなくて、切れた息が戻らない。視界の端に、自分に背中を向けているなまえが、まるで死んだように横たわっているのが見えた。
 肩に触れようと、そっと差し伸ばした手が震えている。一度、ぎゅっと拳を握ってほどくと震えは消えていた。なまえの首筋で鼓動が脈打って、その脈が消えていく感触が、まだ自分の手に残っているような、嫌な錯覚をする。それを振り払って、背を向けたなまえの肩を掴み、優しくこちら側へ引き倒した。
 その勢いのまま、ころんと傾いたなまえは、安らかな寝顔で息をしている。すっかり寝入っていて、身体を動かしたくらいでは起きる様子を見せない。緩んだシャツの襟元から覗く胸はゆったりと上下していて、呼吸をしていることは明らかなのに、オレはどうしても心許なくて、確かめずにはいられなかった。
 仰向けになって眠っているなまえに覆い被さって、そっとその胸元に頬を寄せる。体重をかけすぎないように、慎重に。自分の息を潜めると、代わりに彼女の呼吸を感じた。緩やかな心臓の音がして、あたたかくて、いい匂いがする。長い長い階段を駆け上がったあとみたいに早くなっていた自分の鼓動が、徐々に彼女のそれと合わさって、ようやく呼吸が整っていくのがわかった。

「……んん」

 頭の上から、くぐもった声がする。なまえの声を聞いて、思わず腹の底から吐き出された息は、生ぬるく湿っていた。彼女は、わずかに身じろぎするだけで目を開けることはなく、彼女がしっかり呼吸をしていることを確かめて安心したオレは、すぐにもっと別の反応を欲しがってしまう。次は、目を開けて、その視界にオレを映して、オレのことを呼んでほしい。

「……なまえ」

 喉を震わせて吐き出した声は掠れている。夢の中では一度も呼べなかった名前を呼べたことに安堵するが、なまえが目を開けてくれなければ、意味はなかった。気を抜くとフラッシュバックが襲ってきそうで、おそろしくなる。彼女の顔にかかった髪を指でそっと避けて、露わになったこめかみに静かに唇をくっつけた。

「……なまえ、起きて」

 早くその目を開けて、オレを呼んでくれなければ、夢も現実も何も変わらない。夢の中の、埃まみれの廃墟の中で、スクラップの上に転がる抜け殻になった姿が、瞼の裏で明滅していた。あれを今すぐにでも消してほしい。なまえの髪に指を通したまま、耳元で名前を呼び続ける。
 眠っているところにしつこく名前を呼ばれて、煩わしそうに眉をしかめる仕草に、心底ほっとした。

「……マイキー?」

 ほとんど閉じられているのと変わらないくらい、薄く目を開けたなまえが、寝起きでカラカラな声をこぼす。何を言っているか判別できないほど掠れた声をしていたけれど、それが自分の名前であることはわかった。
 夜中に起こされて、目を開けたら男に覆い被さられているなんて、嬉しいことではないだろう。反射的に声を上げても仕方ない。けれどなまえは、オレを突き放すこともせず、まだ半分夢の中にいるみたいにぼんやりと目を瞬かせた。その目は、夢に見た濁った色とは似ても似つかない、カーテンの隙間から入り込む月の明かりを集めた、光の色をしている。

「どうしたの、起きた?」
「……何でもない」

 その目に見つめられて、出てきた言葉はあまりにも拙い。夜中にこんなふうに隣で眠る女に跨って、何度も名前を呼んで起こして、何でもないわけがないのだ。けれど、そのときのオレは、彼女の問いに返せる答えを持っていなかった。――おまえを殺してしまう夢を見ただなんて、そんなこと、言えるはずがない。
 そのまま彼女の視線から逃れて、薄っぺらくて狭い肩口に顔を埋めた。シャンプーとか、ボディソープとか、色んな匂いが混ざり合って、その奥には彼女の熱の匂いがして、たまらない気持ちになる。なまえは、そんなオレの髪を掬いあげて、柔らかい声をして笑うのだ。

「うそ。すごい汗かいてる」

 言葉の通り、汗で少し重たくなった髪を、彼女はちっとも嫌がることなく梳いてくれる。汗が冷えて、髪の間を冷たい風が通った。それ以上に、彼女の指と声が心地よくて、離れていってほしくない。

「嫌な夢見た?」

 その言葉に、瞑った瞼の裏であの夢が反芻される。
 あの夢は彼女の言葉どおり、嫌な夢に違いなかった。悪夢というものを形にしたら、ああいう輪郭をしているのだろうとすら思う。そんな完成された悪夢だった。頸を撫でる風の湿度も、空気の埃っぽさも、手の中で脈打つ血流も、しっかりと五感で感じ取っていた。だから、わからなくなる。あれは、本当に夢だったのか?
 背筋が震えてしまいそうで、背中を丸めてそれに耐えた。悪夢に怯えて震えているなんて、ガキみたいだ。

「……うん。夢、見た」

 消えてなくなりそうな声だったけれど、彼女はそれをしっかりと捉えて、丸くなったオレの背を手のひらでそっと辿った。腕が伸びる限界まで背中を下って、それから背骨に沿って撫で上げて、また下る。それを何度か繰り返したあと、腕が疲れたのかオレの許可なく手を止めるものだから、オレは自分の鼻先をなまえの首筋に擦り寄せて不満を露わにする。なまえは何がおかしいのか、それともくすぐったいのか、くすくすと笑った。

「起きる? 水持ってこようか」
「いい。動くなよ」

 けれど、なまえはその意図に気付かず、それどころかここから離れようとする。身体を起こそうとする彼女を引き止めて、薄い腹に両腕を回して拘束した。そのまま横になると、なまえは溜息混じりの息を吐いて、オレの頭を抱えるようにして腕を回す。そして今度は背中でなく、汗で湿った髪を何度も何度も梳いた。
 思わず、叫び出したくなる。あの夢を、いつか自分自身が現実にしてしまうのではないかと、怖くてたまらないのだ。オレは、なまえを脅かす何もかもから彼女を守りたくて、全てのおそろしいものから遠ざけて、そんなものは存在しないどこかで彼女に息をしていてほしいと思う。そしてそれと同時に、そうやって彼女を害する「何か」に怯えるのは、他でもない自分の中に、その「何か」が存在している証明なのではないかとおそろしくなるのだ。それほどに、その「何か」は確かな輪郭をしてオレに冷たい悪夢を見せる。
 じっとりと汗をかくような寝苦しい夜。抱き寄せたなまえの身体は、生きて動いているのだから当然熱を放って、暑くてたまらないはずなのに、その熱を感じていなければ、もう自分はどこかに沈んで、帰ってこられないような気がした。
 彼女の胸に顔を埋めてベッドに転がったまま、何も言わなくなったオレの髪に、地肌から指をくぐらせて、オレの恐れていることなど知りもしないなまえは呆れたような溜息を吐く。

「……そうしてて暑くないの」
「暑い。エアコンつけて」
「えーもう、離れたらいいのに」
「やだ。エアコン」

 彼女の腹に巻きつけていた腕に力を込めてぐずると、再び溜息を吐いて、オレの頭を通り越してベッドのヘッドボードに置かれているエアコンのリモコンに手を伸ばした。
 季節はようやく梅雨が明けた頃で、まだ夜にエアコンをつけたまま寝るには早い。とはいえ彼女は、オレがいないと窓を開けたまま寝ようとするから、そんなことをするくらいならエアコンをつけろといつも口うるさく言っている。オレが誰かに口うるさくするなんて、後にも先にも、なまえくらいのものだ。きっと、仲間たちに知られたら「らしくない」と笑われる。でも、それでいい。わがままで彼女を困らせたり、たまにはオレのほうが口うるさくしたりして、それがずっと続くのなら、らしくなくても、似合わなくても、なんだっていいのだ。

「……もう、しょうがないな」

 言葉とは裏腹の柔らかい声色が、頭のてっぺんから足の先まで、響いて、満たされていく。微かな電子音がして、それを合図にエアコンから冷たく乾いた風が吹き込んで、汗で湿った背中を冷やした。
 リモコンから手を離したなまえは、再びオレの髪を撫でつける。そして彼女の胸元に沈めたオレの額に、そっと力を込めた。その力を受けて少し顔を上げると、寝乱れて前も後ろもぐしゃぐしゃになった髪を手のひらが優しくかき上げて、露わになった額へ、小さい子どもにするみたいな戯れのようなキスを落とすのだ。

「ほら、これでいい?」

 すぐそばで、なまえが笑っているのがわかる。暗闇に慣れた目は、その瞳が柔らかく細くなっていくのをしっかりと捉えていた。何も、言葉が見つからなくて、代わりに別のものが込み上げてきそうになる。
 オレはエアコンをつけてほしいと言っただけで、キスをしてほしいなんて言っていないのに、キスまでがオレのわがままの範疇みたいな顔で笑うのだから、たまらない。彼女はオレがどんな夢を見て、何を思っているのかなんて知りもしないはずなのに、こうやって何もかも見透かしたような顔をして笑う。今のお遊びのようなキスが、オレをどれだけかき乱して、どれだけ安堵させるのか、彼女は知っているのだろうか。
 込み上げるものを隠すように、喉に力を込めて、たった一言だけ絞り出した。

「……うん」

 ――これで、よかったんだ。
 頭の中をよぎった声は、どこかで聞いたような、オレのよく知る声をしていた。けれど、それをどこで聞いたのか、もう思い出せない。
 けたたましく鳴っていた鼓動が大人しくなって、あんな夢を見て飛び起きたのが嘘みたいに眠くなる。なまえの胸に抱かれていると、この世の全てから守られているような気持ちになって、頭がぼーっとする。悪い夢も、おそろしい自分自身からも、何もかもから遠ざけられて、この穏やかな心臓の音を聞いていられればそれでいいと思えるのだ。
 オレが彼女を守りたいのに、笑える。彼女を底知れぬ何かから守りたいと震えるオレは、この細くて頼りない腕の中で、守られていた。

その悪夢は氷砂糖の味がする

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