地下道へ向かう階段を叩くヒールの音が、狭い地下空間に反響する。自分が発している音なのに酷く耳障りで、奥歯を噛み締めた。そうしていないと、今にも震えそうな喉の奥から、別のものが溢れてしまいそうだったから。
 鞄のサイドポケットから取り出したスマホのメッセージアプリに指を滑らせて、トーク画面の一覧から選び出したその人の名前の横にある受話器マークをタップする。発信音が幾度も繰り返されるのを、無心で聞いていた。
 世間は金曜日のゴールデンタイムだけれど、一般企業とは若干業態の異なる職場に勤める彼が、世間と同じくしているかは不明だ。いつもなら、いきなり電話をかけるようなことはしないのだけれど、今日は普段とは状況が違う。さらに数度の発信音を経て、「もしもし?」と聞こえてきた声にかける言葉は、想像を絶する理不尽であった。

「……いまどこ?」

 ふてくされている。高校、大学を卒業し、社会人になって数年が経過しようとしているというのに、自分の口から発せられる声は、もはや小学生のふてくされたそれだ。もしもし、の返答もなく、一方的に居場所を問いただされた電話口の向こうの人物は、こちらの様子に驚いたのか、一拍無言を挟んでから応える。

「え、家帰ってきたとこだけど」

 たしかに、電話口から外の喧騒は聞こえてこない。申し訳程度にテレビの雑音が入り込んでくるのみだ。舌打ちをしそうになるが、それは相手があまりにも気の毒なので、心の中で発するに留める。まだ仕事をしている、もしくは飲み会や食事を終えたあとだったなら、これから飲み直しに付き合わせようと思っていたのだ。それが帰宅したあとだというのだから、さすがに再び外に出てくるよう言いつけるのは忍びない。思惑が外れて落胆する。しかし、今の自分は思惑が外れたところで大人しく引き下がれるような状況ではないのだ。相手には悪いが、飲み直さないという選択肢はない。

「しょうがないな。今から行くから、泊めて」
「ハ? しょうがないの意味がわかんないんですけど?」
「いいからもう後でね。切るよ」

 こちらの発言を一切飲み込みきれていない相手を尻目に、一方的に会話を終える。スマホを耳から離して、通話を切断するまでの間に、「ちょっと〜? 聞いてる?」と聞こえてくるのに気付いたけれど、その声には応えることなく、赤いばつ印を押して通話は途絶えた。
 電話をしている間にたどり着いた改札にそのままスマホをかざして、自分の最寄り駅とは違う路線のホームへつま先を向ける。何度も行ったことのある、電話口の相手――黒尾鉄朗の自宅があるジェイアール線。
 自分の言動が、理不尽ここに極まれり、であることは重々承知している。けれど、今日くらいはそれも許されるはずだ。わたしのほうが、ずっと、ずっと、理不尽な目に遭ったのだから。



 黒尾鉄朗とは、高校三年のときに同じクラスになった同級生だ。大学受験をするくせに、受験ギリギリまで部活をやって、バレーボール部の部長として全国大会へ出場したらしい。「らしい」というのは、その当時のわたしは自分の受験勉強に必死で、母校のバレー部がどんな結果を残しているかを気にしていられる余裕がなく、人づてにその話を聞いたからだ。今でもそれを言うと、黒尾には「ハクジョーモノ」とニヤつかれる。
 彼は、その経験と持ち前の口の上手さで、わたしが死ぬほど勉強して入った大学に、小論文と面接で合格した。わたしが受験勉強をやっていた代わりに、黒尾は部活で成果を出したというだけの話で、それについてどうこう言うつもりはない。ただ、奇しくも同じ大学に進学することになったわたしと黒尾は、高校ではたいして言葉を交わすことはなかったのに、大学入学からこれまでの間で、こうして自宅へ足を踏み入れられるような友人関係へ落ち着くに至ったのだ。
 黒尾の最寄駅から彼の住むマンションへ向かう道中、コンビニに寄ってしこたま買い物をする。つまみは申し訳程度で、ほとんどがお酒だ。飲みきれなければ黒尾にあげてしまえばいいし、彼はお酒を選り好みするタイプではないから何が残っても大丈夫だろう。ビニールの持ち手が引きちぎれそうな重みの袋を何度も持ち替えながらマンションにたどり着いて、部屋の前のインターフォンを押す。間を置かずにドアの奥から足音がして、見慣れた顔がその隙間から除いた。

「まじで来たのね」
「行くって言ったでしょ。指取れそうだから早く入れて」

 言うが早いか、黒尾はわたしの手から買い物袋を奪い、部屋へ上がるよう促す。大学でサークル活動としてバレーを続けていたとはいえ、高校で部活をやめて以来、本格的な運動をしなくなったと言っていたくせに、買い物袋を軽々と持ち上げる腕は自分よりずっと太く、たくましい。それをわざわざ言及することはないけれど、「ありがとう」と言うと「こちらこそ、買い物ありがとう」と返してくれる。こういうところが、異性である彼と変わらず友人を続けていられる所以だ。
 買ってきたお酒を冷蔵庫に詰めて、つまみをテーブルに広げてまずはビールで乾杯する。普段そこまで好んでビールを飲むわけではないのに、勢いに任せて一気に煽り、二度三度と喉を鳴らした。あとからやってくる苦味と一緒に、込み上げてくるいろんなものを飲み下す。その様子をじっと見ていた黒尾は、たいして飲みもしていないビール缶をすぐにテーブルに置いて、背中側にあるベッドに寄りかかった。

「で、なに。どしたの」

 本題に入るのが早すぎる。そう言いたかったけれど、ここまで相当のわがままを無理やり通してきた手前、黒尾の問いかけに答えないわけにはいかない。黒尾と斜め隣の、テレビに面したソファを背もたれにしながら、手に持ったままの缶をくるくると回す。浮かんできた雫を指でなぞって、無為な動作で心の準備をするだけの時間を埋めた。

「……浮気された。別れた」
「……ウワ〜」

 またしても、ふてくされた声が出る。一方で黒尾は、若干引き気味に半笑いを浮かべ、それを誤魔化すようにテーブルに置いたばかりのビールを口元へ傾けた。驚くわけでも、腹を立てるわけでもない黒尾を尻目に、ここにたどり着くまでの道中で一時的に落ち着きつつあった怒りが再びふつふつと沸き上がってくる。
 黒尾に連絡をする直前まで、わたしは恋人と食事をしていた。珍しく向こうから、お互い仕事を終えたあとに外で食事をしないかと誘われたのだ。恋人からの珍しい誘いと、一週間と少し振りに会えることに、わたしは少なからず胸を弾ませていた。けれど、浮き足立った足取りでたどり着いたレストランでその人は、わたしに向かって「ほかに好きな人ができたから別れたい」と言ったのだ。
 彼と会うために、仕事中とは違うコーラルレッドのリップをわざわざ塗り直した唇が、引き攣って固まったのを感じた。血の気が引いて、逆に冷静になっていくのがわかる。努めて落ち着いた声で相槌を打つと、円満に破局できる気配を察知したのか、彼はわたしの質問に快く答えてくれた。安堵で弛緩した口は、本当のことを語りはじめる。彼がわたしと別れたい理由は、「ほかに好きな人ができた」からではなかったのだ。
 よくある話だ。新卒で今の会社に入社して、脇目も振らず業務に打ち込んできたけれど、入社から数年が経ち、仕事を覚え、いくらか余裕が出たところで、新人社員の教育を任される。若くて初々しい女の子が、自分を慕ってきてくれたら、そのうえ告白なんてされようものなら、付き合って数年経つ恋人の価値なんて暴落してしまうものなのだろう。ふたりきりで食事に行って、酒に飲まれて、告白されて擦り寄られたら、もうあとのことは聞かなくてもわかる。
 つまり彼は、「その後輩の女を好きになったからわたしと別れたい」のではなく、「後輩の女と付き合うことになったから別れたい」と言ったのだ。
 わたしはその話を黙ったまま一通り聞いたあと、「わかった。別れよう」と言葉少なに頷いて、そのまま席を立った。嫌だと追い縋る気にはなれなかったし、一刻も早くその場を離れたかったから。しっかりと自分の飲食代を置いて、笑顔を残す。心の中でその後輩の女に、今すぐ社会人になりたてのその曇った目を覚ませと呼びかけ、目の前の男には、彼女の前で上司にしこたま叱られたうえで即効で幻滅されてふられてしまえ、と呪いをかけておいた。
 ビールの空き缶を無心で眺めながら、淡々と抑揚のないトーンで呟き続けるわたしの話を、黒尾は茶々を入れることなく静かに聞いていた。自分が言葉を止めると、見てもいないスポーツニュースが流れ続けるだけで、沈黙よりも余計に虚しさが募る。

「もうやだ。男とか。どうせ黒尾も若くてかわいい子とワンチャンあったら、彼女がいてもまあいいかなとか思うんでしょ」
「失敬だな。俺は浮気とかしません〜、おまえの元カレと一緒にしないでもらえます?」

 こちらの心理状況を鑑みない言葉が突き刺さって、二の句が継げなくなって唇を噛み締めた。テーブルに並んだふたつの空き缶を拾い、黒尾は次のお酒を取りに冷蔵庫へ向かう。その広い背中を睨みつけたままでいると、わたしの好きなレモンサワーを持って戻ってきた黒尾は、その視線を受けて少し困ったような顔をした。
 ――わかってる。今のは、黒尾を蔑むようなことを言ったわたしが悪い。どうせ、なんて言ったけれど、黒尾は浮気をするような男じゃない。わたしが選んだ男が、浮気をするようなクソヤローだったというだけの話だ。わたしが、そんなクソヤローを好きでいた馬鹿な女だったというだけの話なのだ。

「……ばかみたい」

 あんな男のために、死んでも泣きたくなかったのに、ひとりでに声は震えてしまう。勝手に視界が滲んでいくのを、黒尾には見られたくなかった。プルタブを開けもしないまま、両手に握ったレモンサワーが、だんだんと汗をかいていく。手のひらが冷たく痺れて、代わりに目の奥に熱が溜まって離れてくれない。自分が泣いていることに、気付きたくなかった。
 恋人にほかの女に乗り換えられて惨めだとか、くだらない男に時間を費やしてしまってもったいないとか、考えることは吐き捨てるほどにあるけれど、それらが涙としてあらわれてしまうことが、心底悔しい。

「ずっと、ちゃんと好きだったわたしのほうが、ばかみたい」
「……んなことねーよ」

 両手に持ったままのレモンサワーが、手の中から引き抜かれていった。黒尾は奪ったそれのプルタブに人差し指を引っ掛けて、開ける。炭酸の抜ける音がした。

「その男が馬鹿だったに決まってんだろ」

 言いながら、黒尾はまっすぐにこちらを見て、プルタブを開けたレモンサワーを再びわたしへ返す。レモンサワーは、黒尾の手の熱で、わずかにぬるくなっていた。
 二秒間だけ唇を噛んで、それからすぐに缶を傾ける。レモンサワーと一緒になって、涙声も、泣き言も、飲み込んでしまいたかった。アルコールと、黒尾の言葉が身体中を巡っていく。たった一言なのに、その言葉は、今にもふらついて転んでしまいそうなわたしの手を、しっかりと繋いで踏み止まらせてくれたような安心感があった。
 嫌な音がして、ざわついていた心臓が、一定のリズムを刻み始める。レモンサワーをもう一口流し込むと、なんだか急に酔いが回ってきたような気がした。

「……黒尾って、モテそう」
「あれ、褒められてる?」
「褒めてはないです」
「えー残念」

 低い声で話していた先程までから一転して、肩をすくめ飄々とした態度を取る黒尾の様子にどこかほっとする。そんな黒尾に続くように、自分も軽口を叩いて、笑ってみせた。涙が伝っていたそこは、笑うと少し皮膚がつっぱる感覚がする。こちらを見て、唇を弓形にする黒尾の考えていることは、いつも通りわからなかった。
 黒尾は、典型的な「モテそう」な男だ。背が高くて、運動ができて、誰にでも分け隔てがないから自然と人が集まってくる。高校の頃のことはよく知らないけれど、全国大会に出場した運動部の部長なのだから注目されないはずがないだろうし、大学に入ってからは、常に彼女を絶やさないような壮絶なモテ方はしていなくとも、それなりに彼女がいたりいなかったりしていた。短所を挙げるとすれば、なんとなく胡散臭さが漂う雰囲気をしているところだろうか。とはいえ、異性だからと無理に構えず、スマートに女性と付き合える男性は意外と稀で、「黒尾くんて実はいいよね」と思っている子がちらほらいるような男だった。
 そんな黒尾について、わたし自身は「黒尾ってモテるんだな」以上のことを考えたことはなかったけれど、恋人に浮気をされて別れた今では、見方が少し変わってしまう。

「モテる人は彼氏にしたくない。心配になる」

 スマートで、気遣いのできる黒尾は恋人として優良物件なのだろう。けれど、それは自分以外のほかの女の子からもそう見えるということだ。今の、けちょんけちょんに心を踏みつけられたわたしには、そんな男は危険物件以外の何者にも見えない。
 口を尖らせながらそう言うと、黒尾は一瞬瞠目して、しかし次の瞬間には目を三日月型に細めて、こちらを覗き込むみたいにして首を傾げた。その仕草に、ぎくりと身体が固まる。

「ふーん? 俺、彼女のこと不安にさせない主義ですよ?」
「……うそ」

 自分でも意識しないうちに、声が小さくなるのがわかった。何に戸惑っているのか、自分でもよくわからない。黒尾が今みたいに、わざとらしく敬語を使うことはよくあることだけれど、今のはいつもと違う気がした。
 声が小さくなって、代わりに別のものが大きく聞こえてくる。それに気付くのがおそろしくて、わざと剣呑な声を出した。じっと、睨めつけるような視線も合わせて。

「わざとドキドキさせる人、信用できない」
「それって、今ドキドキしてるってこと?」

 しかし、黒尾にそれは効果がないらしい。細くなった眼差しのまま、唇は弧を描いたまま、黒尾はわたしから目を離さない。また、心臓で嫌な音がしている。さっきまでの音とは、少し違う。
 黒尾は、わたしが例の男と付き合い始めた頃から、時々こういう嫌な冗談を言うようになった。恋人ができたと報告したときは、「よかったな」と言われたし、いろんな相談にも乗ってくれていたから、ただの気まぐれくらいにしか思っていなかった。けれど、今は状況が違うのだ。わたしは浮気をされて、恋人とは別れて、涙を流す程度には、弱りきっている。そんなときに、そうやって揺さぶられるようなことを言う意味を考えられない人じゃないはずなのに。

「……黒尾のそういうとこ、嫌」
「ごめんて」

 たまらなくなって視線を逸らすと、息を零すような笑い声で返事をされて、頭の中がめちゃくちゃになりそうだった。いつもと同じ表情で、いつもと同じ声。ただ、わたしを見つめている視線だけが、普段とは違う温度で突き刺さってくる。視線を突き刺して、言葉を注ぎ込むことを、黒尾はやめない。

「でも、彼女のこと不安にさせない主義なのはほんと。めちゃくちゃ優しくするし、浮気もしない」

 黒尾が、これっぽっちも特別なことじゃありません、と言わんばかりの顔をして、当たり前に言葉を続けるから、わたしはそれから逃れる術もなく、逃れようとすることすら間違いなんじゃないかと思えてくる。
 そうやって、わたし相手に言葉を尽くすのはなぜなのか、その視線の意味は何なのか、そんなことばかり考えさせられて、自分の傷の痛みが和らいでいくように錯覚してしまうのだ。

「まあ、ちょっと意地悪したり、好きな子振り向かすために狡いことしたりはするかもだけど」

 八の字になった眉に、緩く開いた唇に、足元をぐらぐらと揺すぶられる。さっきは、崩れそうなわたしの手を取って、しっかりと地面に立たせてくれる言葉だったのに。
 ただ一方で、わたしを突き崩すようなことを言いながらも、黒尾が今日、わたしに何か――たとえば、抱きしめたりキスをしたりするようなことは絶対にないとわかっていた。どうしてだろうか、そんな確信がある。恋人と別れたばかりの手頃な女を前にして、何かを仄めかすようなことを言ったりしても、仮に寂しさに萎れたわたしが、自ら彼のそばに擦り寄るようなことがあっても、絶対に、黒尾はわたしに触らない。慰めるように頭を撫でることも、わたしの涙を拭うこともしないだろう。ただずっと、優しい目でわたしのことを見つめているだけだ。
 きっとこのあと、わたしはこの部屋のベッドにひとり寝かされて、黒尾はソファで眠るのだろう。そして明日の朝、黒尾は今夜のことなど何もなかったかのように、わたしに「おはよう」と言うのだ。わたしはそれを、黒尾の優しさだと理解すればいいのか、わからないでいる。
 いつもと違う目をする黒尾にのまれて、すっかり黙り込んでしまったわたしをまっすぐに見つめている眼差し。そこにはたしかに、熱が浮かんでいるというのに。

「……まあね、待ちますよ」

 ひどく静かで、溜息と一緒に吐き出されるようなゆるやかな声に、身動きが取れない。指の先すら触れ合っていないのに、身体の輪郭が熱を帯びて、痺れそうだった。
 今、自分の中に穴があいていて、その干からびた場所に、水を注がれているのだとわかる。乾ききって痛いくらいだったから、その水が染み込んで、満たされたように錯覚しているのだ。もしも、その穴が塞がって潤いを取り戻したとして、黒尾が水を与えるのをやめてしまったら、わたしはそのときどう思うのだろう。何を感じているのだろう。
 黒く澄んだ猫の瞳の、さらに暗い色をした瞳孔が鋭く尖っていく様子から、目が離せない。

「俺、待つの得意だから」

 彼は、ずっと待っている。わたしが待てなくなったら、そのときは。

恋、眈々

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