マンションの部屋の前で左手首につけた腕時計を見ると、午後七時を十分ほど超えたところだった。繁忙期を過ぎて幾分落ち着いたせいか、ここ最近はこのくらいの時間に帰れることが多くなってきている。残業は少ないに越したことはないし、帰るのが遅いと小言を言われずに済むから足取りも軽い。日の短くなりつつある空を見ながら、なまえは自分よりいくつも年下の、小言の主を思い返した。帰るのが遅いとか、暗くなると危ないとか、こちらを気遣う台詞をどんな心配した顔で言うのかと思ったら、不機嫌と真顔の間のような、何とも言えない顔をして言うのだから笑ってしまう。
 この部屋に越してきたときと比べて、若干捻り辛くなったドアノブを引く。鍵が開いていたうえ、キッチンが併設された細い廊下の奥から部屋の明かりがもれていて一瞬ひやりとしたが、狭い玄関にお行儀よく並んだ、大きなカーキのショートブーツにそっと胸をなでおろした。クロックスのサンダルと、つま先部分にスタッズのついたバレエシューズは当然なまえのものなので、それらとは一回りも二回りも大きさの違うブーツは、この空間の中で幾分か浮いている。それでも、少しくたびれたそれが当たり前のように並んでいるのを見るだけで、なまえは胸がくすぐったくなるような気分を覚えるのだ。仕事用のパンプスを、ブーツに寄り添わせるように脱ぎ揃えて、リビングへ向かう足取りは思った以上に軽かった。

「ただいま、恵くん来てたの」

 キッチンとリビングを隔てるドアを開けて声をかけると、勝手知ったる様子でソファに座っていた少年が視線を寄越す。その視線も、「おかえり」と向けられる声も、よく言えば落ち着いていて、悪く言えばそっけない。いつも通りの様子に、なまえは嬉しくなって鞄と上着を適当にその辺へ放り、そそくさと恵の隣へ腰掛けた。恵はというと、そんな様子のなまえを見て溜息を吐く。

「上着くらいかけたらどうですか」
「いいの、あとで」

 テレビも付けずにソファに収まっていた恵は、自分の膝にしなだれかかるように横たわっているそれの毛並みを撫でていた。大きな手が、細い胴体を覆うように触れて、そっと辿る。小さくあたたかなその身体の下に、テレビのリモコンが下敷きになっているのを見て、なまえは喉の奥から込み上げる息を堪えることができなくなった。たしかに、心地良さそうに寝転んでいる身体を退かして、リモコンを引きずり出すのは憚られる。
 なまえは目を細めて、恵と、恵の膝の上で我が物顔をしている一匹の黒猫を見つめた。

「遊んでもらえてよかったね、アオ」
「相変わらず野性捨ててますね、この猫」

 褒め言葉とは程遠い言葉を発しながらも、恵がその毛並みを撫でつける手つきは慎重で優しい。猫は、恵の手を当然のように享受し、細い腹を呼吸に合わせて膨らませては萎ませている。手足を投げ出し、腹を晒す姿は、恵の言うとおり「野生を捨てている」に等しかったが、恵の瞳に差しているのは穏やかな色だけだった。なまえは、自分には注がれない恵の眼差しをひどくいとおしいと思う。彼が、自分と恵と、猫一匹のこの空間でそんな眼差しをしていてくれる。ただそれだけのことを、ひどくかけがえのないことのように感じるのだ。どうしてかは、自分でもよくわからない。
 その黒猫の名前は、「アオ」と言った。黒猫なのにどうして「青」なのか。この部屋で初めて猫を恵に合わせたときに訊かれたことだ。猫の毛並みは、冬の夜空よりも深い闇色をしていて、光を受けると青く艶めくのだ。黒い毛並みより、ルチルの色をした瞳より、その毛艶の色が好きだった。だから、「アオ」。恵はそれを聞いて、「ふうん」と目を細めただけだったけれど、それからきちんと猫のことを「アオ」と呼んだ。
 猫をじっと見つめたまま、一定のリズムで手を動かす恵を見つめる。億劫がりも、飽きもしない恵は、何も言わないがたぶん動物が好きなのだろう。猫もまた、恵のことを気に入っているらしく、飼い主のなまえと同じかもしくはそれ以上に恵に懐いていた。

「かわいいでしょ。恵くんにそっくり」

 そう言うと、恵はようやく視線を猫からなまえへと移す。怪訝そうに顰められた眉間には、明らかな不満が記されていた。なまえはそれを見ても、蓄えた笑みを消さない。その視線は、喉をくすぐって、おやつをあげたら、すぐに和らぐことを知っているからだ。そんなところも、アオと恵はそっくりだった。

「猫と一緒にするのやめてもらっていいですか」

 唇を尖らせて睨みつけてくる恵の前髪を指先で撫でた。そのまま顰められた眉間をなぞって、その場所に軽いキスをする。それだけで、恵は露出した形の良い耳をさっと赤く染めて口籠るものだから、かわいくて、たまらなくなるのだ。
 寮生活をしているから、人懐こい捨て猫を連れて帰ることができないのだと途方に暮れていた年下の男の子。偶然そこに出くわして、偶然ペット可のマンションに住んでいて、偶然猫が好きだった自分が、猫だけではなく、その男の子のことまで大切になってしまってから、同じように熱を孕んだ視線を向けられていることに気付いた。まだ高校生だという恵と自分は、世間の常識には当てはまらなくて、二人の関係に明確な名前はない。けれど、なまえは恵以外の誰かに目移りをすることはないし、おそらく、恵もそうだ。そうあって欲しいと思っている。
 ――ただの高校生だというわりには、秘密主義の恵の心の内は、わからないけれど。

「ね、そういえば、高校生の文化祭とかそういうのもうすぐなんじゃない?」

 わざとらしく話を切り替えて、わざとらしく明るい声を出した。自分が学生だった頃と同じように、自宅のそばにある高校を始め、ほとんどの学校がイベントごとで賑やかになる季節。だから、恵の通っている高校も同じだろうとそう言った。
 恵は、学内で声をかけられるのは嫌がるかもしれないけれど、それでも「高校生」をしている恵の姿を見てみたい。なまえの言葉に、それまでずっと猫を撫でていた恵の手が、初めてぴたりと止まる。恵のそんな様子に気付いて、それでもなまえは言葉を続けた。

「わたし今度こそ見に行っても」
「駄目だ。来るな」

 しかし、なまえの声は、細い糸をピンと張り詰めたような冷たい声に遮られる。とりつく島のない、頑なに強ばった声だ。なまえはその声を聞いて、寂しさが波のように押し寄せてきて、代わりに身体の熱が静かに引いていくのを感じる。恵に撫でることを辞められた猫は、不満げにひと鳴きして、ソファから降りてしまった。
 いつもそうだ。恵は、自分の通っている高校のことを決して話さない。友達について話してくれることはあるけれど、それ以外はまるで水面を撫でるようにうっすらとしか触れられず、知らされない。なまえは、恵がどの高校に通っていて、部活は何で、普段会えない間は何をしているのかも、知らなかった。

「……どうして?」
「どうしても。それ以上言うならもう会わない」

 働いている自分と同じくらい忙しくしている恵に、部活やアルバイトをしているのかと聞いたとき、「まあ、そうですね」と濁されたことが最初の違和感だった。曖昧に頷いた恵に、部活の大会があるなら見に行きたいと言っても、アルバイト先を教えて欲しいと言っても、恵がそれを教えてくれることはなかった。食い下がれば今のように、「もう会わない」と脅しのようなことを言って突き放される。
 街で彼と同年代くらいの学生たちが着ているものとは少し趣向の異なる、珍しいデザインの学生服。どんなに調べても、どの高校のものなのか知ることはできなかった。寮で暮らしていることは知っていても、それがどこにあるのかは知らない。最寄り駅も、どの路線を使ってこの部屋へやってくるのかも、なまえは知らないのだ。恵と会うのはほとんどがこの部屋で、ごくたまにしか外では会わないし、この部屋からどこへ帰っていくのかもわからない。知りたくても、恵と会えなくなると思うと次の言葉は出て来なくなった。恵は、いつものように何も言えなくなってしまったなまえを見て、泣きそうに顔を歪める。

「……どうでもいいだろ、そんなの」

 恵が、なまえの腕を掴んで、そっと引き寄せた。猫を撫でているときと同じように、そっと、慎重に力を込める。背中に回った手のひらから熱が染み込んで、なまえには、その熱が偽りのものだとは思えなかった。

「ここに、いてくれ」

 ついさっき、突き放す言葉を吐いたばかりの唇が、なまえを繋ぎ止める言葉を形づくる。そして言葉だけでなくその腕も、なまえの手が恵の背に回ったのがわかると、息苦しくなるほどの力で縋りつくのだ。
 なまえは、引き裂けそうなほどの痛みを感じていた。恵のことを、大切に思っている。恋人だと約束したわけでもなければ、約束することも憚られるような関係だとしても、それでも恵が、自分と猫のいるこの部屋で過ごしてくれる時間がたまらなく大切だった。けれど、自分のことを何も話してはくれない恵に、「好き」だと告げることはできない。「ここにいて」と腕の中に閉じ込めたきり、何も言わなくなった恵の肩に額を押し当てたまま、目を閉じた。

 ――数日前のことだ。街中で、恵を見かけた。恵は、同じ学生服を着た、おそらくクラスメイトであろう男の子と一緒にいた。さらにそこへ、ダークスーツを着た男性がやってきて、何やら言葉を交わした後、三人は黒いセダンに乗り込んでどこかへ向かってしまったのだ。高校生がふたり、黒づくめの大人と慣れ親しんだ様子で言葉を交わしている様子は、明らかにアンバランスで、異様な光景だった。

 ニャア、と甘えた声をあげて猫が鳴く。寄り添っているふたりを見て、猫は何を思ったかふたりとソファの隙間に身体を滑り込ませた。小さくあたたかい身体がすり寄って、普段ならば、恵の手は猫の背を撫でようと伸びていくのに、今日はなまえのことを抱きしめたままでいる。しっかりと力を込めたまま、離れなかった。
 恵の体温を確かめるように、手のひらを背骨に沿って撫で下ろす。しなやかな筋肉で覆われた、けれどまだ成長を続ける幼い身体。紛れもない大人である自分が、こうして好意をもって触れることも本当なら許されない。恵は、守られなければならないはずのただの子供だ。
 なまえは、街中で見た光景を恵に話すことはない。じっと息を潜めて、部活だとか、テストだとか、そういうありふれていて当たり前の日常が、いつか恵の口から紡がれることを、この腕の中でただ待ち焦がれるだけだ。

帰るべき水底

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