平日最後の金曜日が、一週間の中で一番好きだった。仕事が片付いて、休日が始まることへの開放感でいっぱいになる。そして何より、好きな人に会える日だったから。今日もそれに変わりはない。金曜日で、今から向かうそこには彼がいる。ただ、わたしはもうその人からふられていて、できることなら顔を合わせたくはない。それでもそこへ向かうのは、理由があるのだ。地下鉄の駅へ降りていくエスカレーターに乗りながら、スマートフォンに指を滑らせた。メッセージアプリのアイコンをタップして、短い言葉が一言ずつ交わされたトーク画面を眺める。

<金曜、店に来てほしい。早く店閉めて待っとる>

 そのメッセージが届いたのは、おにぎり宮でテイクアウトをして帰った日の夜だった。お風呂に入って、ベッドに潜り込んでから、目覚ましがわりのアラームが設定されていることを確認していたとき、軽快な音と一緒に画面上にポップアップが上がってきたのだ。最初は、誰からのメッセージなのかわからなかった。治くんとは、店に通うようになって何度目かに連絡先を交換していたけれど、今までそれを使うことはなかったからだ。わざわざ彼に連絡をするような話題を見つけることがまず難しかったし、店に行けば顔を見れたし話もできた。彼の方からもメッセージが届くことはなく、見慣れないアイコンが、店ののれんに描かれた「宮」の部分を切り取ったものだと気付いてからも、そのアイコンの横に並ぶ「宮治」の文字をしばらくじっと見つめてしまっていた。トーク画面の一覧だけで読み切れてしまう短いメッセージだというのに、意味を理解するのに時間を要して、何度もそれを読み返した。けれど、明確に「店に来てほしい」と記されたそれに返す言葉を、わたしは中々見つけられずにいたのだ。
 侑くんが大丈夫だと言うから、もう一度店に行ってみようと向かったそこで、治くんはわたしに、どうして店に来なくなったのかと訊いた。まるで、玄関に一人きりで取り残されてしまった子供みたいな顔をしていて、わたしはそれを見て、彼に告白したときのことを思い出したのだ。痛みを堪えているような、自分の方がふられたような顔で、見ていられなくなってすぐに目を逸らした。また、自分の中に薄暗い感情が生まれそうになる。彼にそんな顔をさせるほど傷をつけたのは、紛れもない自分だという優越感と、憤り。
 ――何故かなんて、決まっている。わたしの方が聞きたい。どうして彼は、客の一人にすぎないわたしに、傷をつけさせてくれるのだろう。
 地下鉄に揺られながら、息を吐いた。車内に響き渡る走行音は、地下のトンネルを走る車両の中では一際大きい。自分にも聞こえない溜息を吐き終えて、目を瞑る。これから彼に会うのだと思うと、一週間蓄積した仕事の疲労と相まって、沈み込むような気怠さに身体が重くなった。けれどそれも、結局は自分自身を誤魔化すためのポーズなのだとわかっている。
 治くんのメッセージに、わたしは「わかった」と返事をしたのだ。億劫だとか、顔を合わせたくないだなんて思っていても、彼の言葉を拒むことができない。もう勘違いも期待もしないと決めたはずなのに、どんなに心が重たくなっても、二本の足はたやすく動いて、彼のもとへ向かってしまう。地下鉄を降りて、改札を抜けて、店の明かりが見えるまで、自分の足は迷いなく地面を蹴り、鼓動が逸って、息切れもしていないのに呼吸が浅くなるような。自分の思考と感情が乖離して、なのにそのどちらも彼の姿を探している。どうしようもなく矛盾していて、それでもこれが自分の恋なのだと理解してしまった。
 営業終了の時刻より随分早い時間だというのに、店先に出ている木札は「支度中」になっている。普段より早く店を閉めて待っていると言っていたメッセージのとおり、その店は今、自分のためだけに明かりを灯していて、中にいる彼は自分だけを待っているのだ。そう思うと、足が震えて、今にも座り込んでしまいそうだった。
 くたびれたパンプスを、一歩踏み出す。ソールが地面を叩いて、低く響く音を立てた。その音に促されるように背中を伸ばして、引き戸に手を掛ける。その姿が見えた瞬間に感じた、針を刺すような痛みには気付かない振りをした。

「……なまえちゃん、いらっしゃい」
「うん、こんばんは」

 いつもと同じように、厨房の中から客席の方を向いている治くんは、顔を覗かせたわたしを見て、あからさまに安堵した様子を見せた。彼の言葉に頷いて返事をしながら、もしかしたら、わたしが店に来ない可能性を思って不安になったりしたのだろうかとぼんやりする。そして、慌てて否定した。
 もう、自分と彼の関係性は決まってしまったのだ。行きつけの店の店主と常連客で、それ以外の何かになることを、夢見ることはもうできない。

「……なんか食う? もう店閉めたし、何でも作るで」
「ううん、食べてきたから」

 ここに来たらいつも座っているカウンター席に荷物を置く。席に座ろうかと一瞬逡巡して、やめた。何か用があって店に呼ばれたのだろうけれど、長居する必要はないはずだ。
 だが、わたしを呼びつけたはずの彼は本題に入るどころか、わたしのために料理を振る舞おうとするので、首を横に振って応える。きっと治くんならば何かしら食事を用意しようとするだろうと想像はしていたから、ここに来る前に先に食事を済ませてきたのだ。
 促されるままに彼の親切を受け取ることも、彼が作った食事をとり続けることも、自分に根付いてしまった感情を消し去ってしまうためには、避けなければならないことのはずだ。そうしていつか、この店に来ることはなくなって、店主と常連客の関係ですらなくなって、そうしたらきっと治くんのことも忘れてしまえる。

「……どこ? 他の店?」

 ずっと俯いて彼の表情を見れずにいたせいで、ぽつりと溢された声の低さにハッとした。すでに食事を済ませたと言ったわたしを、治くんの灰色がかった瞳がじっと見つめている。深く被った黒いキャップに一部が隠されていて、それでもその背丈のせいでしかと視線が合う。まっすぐな視線なのに、まるで見下ろされているように感じた。
 どこか居心地が悪くて、その視線から逃げるように目を逸らす。

「会社の近くにイタリアンがあって、お昼とかたまに行くんだ」

 ランチの際は同僚と一緒に行っていたその店に、今日は一人で訪れていた。もう、一人で食事をすることには少しの抵抗もなくなっていて、今後はこうやって金曜の夜を過ごすことになるのだろうと考えながら、味気ない夕食をとったのだ。
 どこで食事するのも何を食べるのも、わたしの自由で誰かに咎められる理由はない。それなのにどうして彼の視線に耐えられないのか、後ろめたく思うのか、考えても答えは出ないままだ。目を逸らした代わりに彼の正面に向けられた耳へ、彼の呟きがこびりついた。

「……なんで」

 喉の奥から絞り出されたような掠れた声に、胸がひしゃげてしまいそうだ。肺が酸素を取り込むことを拒んでいるみたいに、何度呼吸を繰り返してもそこが満たされることはなく、著しく呼吸が浅くなって、苦しくてたまらなくなる。
 彼の「なんで」という言葉を聞くことが辛かった。それを聞くたびに、自分の中に薄暗い感情が積もっていくのだ。自分の唇を噛んでも、当然彼の口が開くのを止めることはできない。聞こえてくる震えた声が、じりじりと熱を帯びていることに気付いて、自分の鼓動が耳元で響いた。

「何でうち来てくれんの。もう飽きてもうた? そっちの店のが美味いん?」
「……違うよ」
「せやったらなんで? パスタ食いたいんやったら俺が作るし、そんなに美味いんやったら一緒に行きたい」

 階段を駆け上がったわけでもないのに、身体中の血液が逆流しているみたいに煩くて、空気が薄い場所にいるみたいに息が苦しい。両手で自分の耳を塞いで、座り込んでしまいたかった。聞こえてくる言葉を、全て嘘だと子供みたいに喚き散らしたくなる。
 ――なんで? そんなの、わたしの方が聞きたい。この店以外で食事をすることを責めるような言葉を選ぶのはどうしてなのか、まるでわたしの方が彼を突き放しているような傷ついた顔をするのはどうしてなのか。自分の常識が通用しない別世界に来てしまったような感覚に目が回りそうだ。交わらないことを知っているのに、それでも大事に抱えていることなんて、わたしにはできない。憤りと、呼吸がままならない苦しさに喉が震えた。

「そんなことできるわけない」
「なんでや」
「……ッだって、」

 喉が震えていたから、声も震えてしまう。腹の底から込み上げてくるものが熱くて、震えた喉では堪えきれない。堪えきれなくて、視界が熱く滲んでいく。

「ふられたのに、どんな顔して会えばいいの」

 あからさまに傷ついた顔なんてできないから、笑うしかなかった。でも何もなかったようには振る舞えないから、笑顔は下手くそで、そんな顔では治くんにはもう会えない。それなのに、「会いたい」と言われているみたいな言葉を彼がくれるから、とっくにふられているくせに、わたしはずっと、この気持ちを捨てられないのだ。
 期待や勘違いも、優越感や憤りも、全てこの感情から生まれてくる。早く消し去ってしまいたいのに、そうできなくさせているのは、紛れもなく治くんその人だ。
 吸い込んだ息が狭い軌道を通って歪な音を立てる。息を止めた。そうしていないと、呼吸が嗚咽になってしまいそうだった。滲んだ視界はぼやけて、治くんの顔も見えない。必死で唇を噛んで泣くのを堪えても、言葉が止められなかった。

「なんで、自分がふった女にそんなふうにできるの」

 こぼれた次の瞬間、声をかき消すくらいの大きな音がした。思い切り足を踏みしめるような、板を叩きつけるような音につられて顔を上げる。治くんが厨房の裏を回って、転がり落ちるように客席側へ駆け寄ってきたのだ。
 いつも被っている黒いキャップは落ちてしまって、キャップに潰されていた髪は少しへたれている。見開かれた瞳はどこか揺れているように見えた。眦が淡く色づいて、真一文字に結ばれた唇は、ぎゅっと噤まれて白くなっている。治くんのいる方を振り向いた拍子に、視界を滲ませていた涙がするりと零れて、その表情はひどくクリアに映った。
 伸びてくる腕は太く、カウンターを隔ていないだけでこんなにも近く感じる。わたしの腕を掴んだ手のひらは、触れると火傷するほどに熱く、引き寄せる力には到底抗えなかった。

「好きや」

 耳殻にぶつかる息が生温かい。治くんの腕の中に閉じ込められながら聞かされた言葉は、直接鼓膜に届いた。両腕の上から拘束されているうえ、ぎゅっと込められている力は呼吸が危うくなるほど力強くて、少しも身動きができない。わたしはその圧迫感と彼の身体の熱、そして何よりもその言葉に、目を白黒させて呼吸を止めた。

「ごめん、ごめんな。ほんまは好きやねん、なまえちゃんが好きや」

 言葉を重ねるたび、身体を締めつける力は強くなっていって、どこまでも上があるように思わせる。そしてそれにつられるみたいに目の奥に溜まる熱が溢れて、またぼろりと大きな粒のしずくが、今度は治くんのTシャツを汚した。
 押さえつけられている頬と胸にぶつかる身体のしなやかな筋肉も、力一杯掴まれた肩を簡単に包み込んでしまえる手のひらも、自分とはまるで違う生きものの形をしていて、お互いの衣服越しでも伝わってくる熱を自覚すると、余計に息が苦しくなる。現実からはどこか遠いところにいるみたいだ。カウンター越しに見ているしかできなかった彼が、隙間を探すのも難しいくらい近くにいて、自分を思う言葉を口にしているなんて。

「……うそ」
「嘘やない」
「だって、ただのお客さんだって言ったのに」

 この息苦しさと熱が現実だとしたって、その言葉は夢でしかないのだ。だらんとぶら下がって力の抜けていた腕をやっとのことで動かす。治くんのTシャツを握って、腕を突っ張ろうと力を込めた。
 彼だって、こうしたはずだ。自分のことを明確に「お客さん」だと言って、突き放した。ただの客にこんな距離が許されるはずはないし、自分だって、許したくはない。自分のことを特別な何かにしてくれない誰かに、簡単に明け渡していい自分なんて、あってはいけないのだ。

「すまん。ひよってもうた。お客さんに手ぇ出したらあかん思て」

 けれど、彼の身体はびくともしない。わたしの抵抗などありもしないもののように呆気なく突き崩して、より一層強い力で抱きしめるのだ。こちらの腕ごと腰と肩に回された彼の腕に引き寄せられて、広く分厚い肩が覆い被さって、このままでは彼に取り込まれてしまうのではないかとすら思う。

「せやけど、なまえちゃんが他の店行ったり、他の男とくっつくんは、もっとあかんねん」

 耳元に頬をすり寄せられるせいで自分と彼の髪が混ざり合った。耳に吹き込まれる掠れた声が、まるで悋気を纏うように熱を帯びるから、もう何が本当で何が嘘なのか、わからなくなる。
 毎週のように訪れて、空腹だけではない何かを満たしてくれるこの店以外に、行きたいところなんかない。眠そうな目尻をほどけさせるように笑って、穏やかな声で自分を呼ぶこの人以外に、会いたい人なんかいないのだ。だから、こんなにも涙が止まらなくて、ずっと傷口が塞がらないでいる。そんなこと、わかりきったことだ。

「……もう俺のこと好きやない? せやったら俺頑張るし、頼むから離れていかんといて」

 それなのに、どうしてこんなにも不安そうな声で、追い縋るような言葉が紡げるのだろう。本当はとんでもなくずる賢い人だったのかと黙って彼の様子を伺うけれど、黙り込むわたしに、彼は「なんか言うて」とわたしの狭い肩口に顔を埋めて、「ほんまに好きや」と呟いて背中を丸めた。
 言葉を重ねられるたびに息が詰まって、高揚してしまう自分を無視できない。彼を好きじゃないのかなんて聞かれたら、答えは決まってしまう。自覚していない分、理解して言っているよりもずっとずっと、宮治という人はずるい男らしかった。

「……好きだよ。そんな簡単に、嫌いになれない」

 ――彼のことを、ずっと好きでいる。出会ってから、一度突き放されて、それでもずっと、好きでいるのだ。
 掴んだままでいた彼のTシャツから、丸くなった背中へそっと手を滑らす。途端に一瞬びくりと跳ねて、触れたその部分はじわりと熱を発した。腕を抱き込まれたままでは、広い背中の半分より上へ手を伝わすことはできなくて、届く範囲のそこをゆっくり撫で下ろす。手を止めたタイミングで、痛いくらいに肩を掴んでいた彼の手からようやく力が抜け、やんわりと引き離し二人の間に隙間を作った。
 やっとのことで酸素が肺に届いて、先ほどまでの息苦しさが嘘のように消える。隙間を埋めるように顔を覗き込んでくる治くんの下がった眉を見て、息苦しさが消えたのは、彼の腕から解放されたことだけが理由ではないと、ぼんやりと理解した。灰色がかった虹彩がすぐ目の前にあって、わたしの心の中をどうにかして見透かそうと揺れている。

「……ほんま?」
「うん」
「ほんまにほんま?」

 一度頷くだけでは信じきれず、子供みたいな問いかけをする様子に少し笑ってしまった。けれど、頷くたびに、自分の中で彼の感情の輪郭が鮮明になっていくようで、なんだかたまらなくなる。もうこぼしきったと思っていた涙が、また溢れそうに目の奥が熱くなった。
 視界が潤むのを見られたくなくて、額を治くんの胸へ押し付けると、息をのむような呻き声が聞こえて、顔を伏せるわたしにずしりと彼の腕が覆い被さる。今度はそっと包み込むように両肩へ回って、そのやわい力と対照的に、激しく脈打つ鼓動を彼の胸元から感じて、それがまた一層涙を溢れさせた。

「……はあ、ほんま、うれしい」

 深い溜息を吐き出してから、ひとりごとのように呟いた治くんの手が、背中からするりと降りて、代わりに俯いていた両頬を支えるように触れる。散々泣いた顔を見せるのは憚られて顎を引くけれど、頬を包む手のひらのあたたかさに抗えない。視線だけ動かして、こちらを覗いている彼と目を合わせる。視線が交わると、その瞳をきゅっと細くして、どこか痛むような顔をするのだ。
 頬を包んでいた手の親指がゆっくりと、用心深く目尻に触れて、擦っていく。流れていった涙が乾いて、目尻を拭われると皮膚が突っ張るような感覚がした。

「泣かしてもうてごめんな」
「ううん、わたしもうれしい」

 無意識に、自分の口元が綻ぶのがわかる。眼球の表面に残っていた涙の膜が、目を細めた拍子につるりとこぼれていった。そのまま彼の手を濡らしたけれど、治くんは手を離さない。目の際に残った水分を、再び親指が注意深く拭い去っていく。わたしはそれを、目を閉じて受け入れた。

「……なまえちゃん、あんな?」

 その指先の動きと同じくらい、慎重で、そっと言葉の輪郭を確かめながら形にしていくような声だった。眼差しがこちらの瞳を捉えて、決して圧は感じさせないのに、逸らすことはできないような。

「……チューしたらあかん?」
「えっ」

 思わずこぼした声はさっきとはまるで違う温度をしていた。これまでの雰囲気は今の一瞬で跡形もなく崩れ去ってしまったけれど、そうさせた張本人はそんなことはまるで意にも介していない顔をして、先ほどまでのやけにぼうっとした表情のままじっとこちらを見つめている。驚いて目を見開いているのはわたしだけだ。
 ちょっと待って、と慌てるわたしを尻目に、治くんは頬に触れていた手を固定してこちらを動けなくするばかりか、自らの顔を寄せるようにして近づいてくる。鼻先をツイと擦りつけて、額をコツンと合わせて言う。

「あかん?」

 至近距離で視線を合わせられて、治くんの様子なんてわかるはずがないのに、彼が小首を傾げてこちらの抵抗をなし崩しにしようとしているのがつぶさにわかった。展開の早さに、目が回ってしまう。
 けれど、治くんと気持ちが通じたのだという高揚感と、熱に浮かされたような眼差しに晒されて、わたしには、なす術もなく目を閉じる道しか残されていなかった。

「もう……ほんま、安心したら止まらへん」

 目を閉じるのと、唇同士が重なるのはほとんど同時だった。カサついたそれが触れて、離れて、すぐにまた重なる。両頬を支えていた手が、背中へ回ってそっと身体を引き寄せた。
 治くんの薄い唇が、身体ごと固まってしまったわたしの下唇を食むような動きをして、思わず肩が跳ねる。すると、ゆるく背中に回っていただけの彼の腕が、再び力を込めてわたしの身体を抱きすくめるものだから、その力強さとより深くなる口付けに心臓が痛かった。触れ合っている唇からはちゅう、と濡れた音がして、離れたら離れたで、彼の口からは熱く湿った息がこぼれる。

「っちょ、ン、待って」

 言葉を吐く隙間も、何なら呼吸をする隙間もないくらい、彼は性急に空白を埋めたがった。苦しいくらい抱きしめられているはずなのに、どうしてか足元がおぼつかなくなる。握っていた彼のTシャツを力一杯引っ張っても、背中を叩いて合図しても、大きく口を開けて食らいつこうとしている彼に効果はないのだ。

「無理やって、ほんま、どないしよ」

 ――もう無理だと思っているのも、どうしたらいいのかわからなくなっているのも、全部全部、わたしの方だ。



「侑くんに連絡しなきゃ」
 そう言ったわたしを、治くんはこれまでとは一転して怪訝そうな目で見つめる。
 あの後、わたしがついに足をふらつかせたことを合図に、ようやく怒涛のようなキスは終わった。椅子に崩れ落ちたわたしに、治くんは顔を真っ青にして謝って、それから温かいお茶を淹れてくれたのだ。どうやら気持ちが通じたことに高揚したのと、わたしがまだ治くんを好きでいたことに安心したのとで、振り切れてしまったらしい。静々とお茶を淹れて持ってきてくれた彼が、しゅんとして「なんやテンション上がってしもて……すんませんでした」と頭を下げるので、今度は彼を元気付けるのに必死になった。
 それから二人でカウンター席に並んでお茶をすすっているうち、はたと侑くんのことを思い出したのだ。こうやって気持ちを交わすことができたのも、治くんから離れようとしていた自分を引き止めて、背中を押してくれた侑くんの存在があったからに他ならない。鞄からスマートフォンを取り出して、侑くんへメッセージを入れようとしたところへ、ずいと治くんが身を乗り出してくる。スマホを操作するわたしの横顔へ、じっと彼の視線が刺さるのを感じた。

「……ツム? なんで?」
「話聞いてもらったし、心配してくれてたから」

 治くんの話を聞くに、先日わたしと侑くんが偶然出くわして、食事がてら話をしたことを侑くん経由で聞いていたらしかった。そのとき侑くんに大丈夫だと背中を押してもらえて、またおにぎり宮に来ることができたのだと言うと、納得のいかない顔を隠さないまでも、侑くんにお礼の連絡をすることを止めようとはしない。何やら二人で色々と話をしたらしく、治くんも多少なりとも感謝している部分があるのだろう。
 だが、メッセージアプリに侑くんの連絡先があることを見つけると、思い立ったように頬を膨らませるのだ。

「ちゅーか、なんで連絡先知っとんの」
「え、この前教えてもらったから……」

 サムゲタンを食べたあの日、帰りがけに侑くんと連絡先を交換した。「また治となんかあったらいつでも連絡してな」と笑っていて、喧嘩ばかりしていたって、やはり本質は唯一無二の兄弟なのだろうなと感じたことを思い出す。だって、侑くんがああやって気を回したり心配したりしてくれるのは、相手がわたしだからではなく、わたしの先に治くんがいるからだ。遠回りな優しさを、治くんが知ることはないのかもしれないけれど、何となく二人ならば、知らずとも理解はしているような気がした。
 それだというのに、治くんはじとりとした視線を向けて、唇を尖らせる。わかりやすいヤキモチに、くすぐったくなって唇が緩んだ。

「……なまえちゃん、侑と仲良くて嫌や」
「嫌って」

 子供みたいな言い分についに声をこぼして笑ってしまう。そんなわたしを軽く睨みつけるようにする彼は、笑いごとではないと不満そうに唇をへの字にした。

「名前呼ぶんもツムが先やったし、デートもしとるやんか」
「デートじゃないよ、ご飯食べただけ」
「……俺が彼氏やのに」

 たった今、そうなったばかりの恋人は、一向にむっすりとした表情を変えようとせず、自分が先を越されたのだという事柄を並べ立てる。たしかに、彼のことを「治くん」と呼ぶようになったのは、侑くんが自分のことをそう呼んでくれと言ったことがきっかけだったし、さらに侑くんとは偶然とはいえ二人で食事をしたけれど、治くんとはおにぎり宮以外で会ったこともない。わたしにとってはただの成り行きと偶然が重なっただけの事柄が、治くんにとっては嫉妬の要因になり得るのだとわかって、どうしてかそれを嬉しいと思ってしまう。なんて、少し薄情だろうか。
 そんなことをぼんやりと考えているわたしの手に、治くんの手が重なって、ぎゅっと握られる。ぼんやりした思考が掻き消えて、握られた手の先にある治くんの顔を見ると、相変わらずじとりとした物言いたげな視線を向けられていた。すぐに、侑くんへのメッセージを打ち込もうと握っていたスマホを放って、手首を返して彼の手を握る。そうしたら、彼の尖っていた唇は簡単に緩んで、眉間のしわがほどけるものだから、わたしはまた、声をこぼして笑ってしまうのだ。

「今度、どこか出かける?」
「……ええの?」
「うん。もちろん」

 頷くと、わたしの手を握った彼の指が、確かめるように指先をなぞる。触れられているのは指先だというのに、それ以外の、心臓の近くがくすぐったい。それまでずっとわたしの様子を見つめていた瞳がほどけるように和らいで、眠くなるくらいに穏やかな声が、やさしく響いてくるのが心地よかった。

「ほんなら、いっぱいうまいもん食いに行こな」

 毎週金曜日以外の日でも、おにぎり宮以外の場所でだって、こうやって手を繋いでいられる。そんな明日が来るのだと思うだけで、途方もない幸福でひたひたになって、身体中が満ち足りて、もうこのまま、溶け落ちてしまいそうだ。

棘ごときみを咀嚼する

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