夕方から夜へ移り変わっていく様子を映した空が、オレンジと灰色と、その間の紫色を織り交ぜた色で染まっていた。見慣れないビル群は、仕事を終えた達成感を倦怠感とごちゃ混ぜにして、よくわからない姿で連れてくる。いつもなら、一週間分の仕事で蓄積した疲れが、明日からの休日を前に軽くなっていくはずなのに、ここ最近は違った。その理由は嫌というほど身に覚えがある。休日のお決まりになっていた一番重要な部分が、ごっそり消えてなくなってしまったからだ。今日は仕事で、新大阪にある客先からそのまま直帰の予定になっていたから、仕事が終わったら有名なパティスリーに行こうかとか、デパートのコスメフロアを見て回ろうかとか、楽しい予定を立てていたのに、いざこの時間になると、思い出してしまう。――いつもなら何の寄り道もせずに、まっすぐおにぎり宮に向かっていたのに。
結局、パティスリーにもデパートにも行く気にはならなくて、客先を出てすぐに地下鉄の駅を目指した。帰りがけに、どこかで食事をして帰ろうか。おにぎり宮に通い始める前に感じていた、一人で飲食店に入ることへの苦手意識は、今はあまり感じない。人は、あまりにも強烈な衝撃を受けると、それ以外に感じていた恐怖心がそれほど大したものではなかったことに気付けるようだ。
地下鉄への入り口を見つけ、そちらの方へ爪先を向ける。すれ違う人や、大通りを走る車両、駅ビルの大型ディスプレイから流れるアナウンスの喧騒に呑まれそうで、早く家に帰りたくなった。そんなとき、耳を塞ぐ代わりに背中を丸めるわたしのことを、喧騒を切り裂くような、でも少し場違いなくらい呑気な声が呼んだのだ。
「あれ! なまえちゃんやん」
振り向いて、一瞬時間が止まってしまったように錯覚した。その姿を見て、ありえない想像をして、目の前の事実に落胆する自分のあまりの勝手さに嫌気が差してしまう。柔らかくくすんだ金髪が風になぶられて、複雑な色合いの空に散っているのがきれいだ。
「侑くん……」
子犬のように駆け寄ってくる彼の方へ爪先を向ける。軽い足取りに見えるのに、あっという間に侑くんはわたしの目の前にやってきた。大きくてごつごつしたスニーカーに、黒い細身のパンツ、バイカラーのマウンテンパーカーを着ている姿は、カジュアルなのにスマートに見えて、鍛えているうえに上背がある人はやはり見栄えがいいと感嘆する。けれど、どうしてもビジネススーツやフォーマルな格好をした人たちばかりのビジネス街には少し浮いているように見えて、でも彼はそんなことは気にも留めていない。彼よりもずっと溶け込んでいるはずなのに、逃げるみたいに背中を丸めてしまうわたしとは違う。
「こっち来ることもあるんやな」
「あ、仕事で……侑くんも、こういうところいるの意外です」
彼の所属するチームの拠点が大阪だということは知っているけれど、確かもう少しだけ郊外の方ではなかったか。首を傾げるわたしに、彼は顎に手を当てて自慢げにニヤリと笑ってみせる。
「今日は広告の打ち合わせやってん。スポーツメーカーのな」
「え、すごい」
「せやろ〜? でっかく載せてもらえるやろうし、楽しみにしといてな!」
なるほど、日本代表選手らしいスケジュールだ。自分には想像もつかない世界に目を瞬かせていると、今度は侑くんの方が首を傾げてこちらをうかがう。
「なんや久々やな。最近あんまサムんとこ行ってないらしいやん」
何ということはない彼の物言いとは反対に、わたしの身体は血の気が引いたようにずんと重くなり、心臓が縮みあがるような心地がした。思わずジャケットの胸元をぎゅっと握ると、その下で脈がものすごい速さで動いているのがわかる。本当に緊迫しているとき、鼓動は胸だけでなく首にある動脈からも伝わってくるのかと場違いな発見をした。
侑くんは、眉間に少しシワを寄せて「あいつ最近機嫌悪うてしゃあないんよ」と溜息を吐く。その言葉を聞いて、罪悪感と――もうひとつ。二つが綯い交ぜになって、それは自分でも見たことのない形の感情をしていた。飲み込むことも、吐き出すこともできなくて、呼吸がおざなりになる。
おにぎり宮には、あの日治くんにふられてしまってからほとんど行っていない。あれからもう三週間以上がたったけれど、いつもみたいに金曜日に店で食事をすることはないし、店に行ったのも、テイクアウトに立ち寄った一度だけ。それだって、あの日治くんに「また来るよな?」と聞かれ頷いたことを嘘にしたくなかっただけだ。今更嘘をついたところで、彼とわたしの関係は何も変わらないのかもしれなかったけれど、治くんとの最後の会話が嘘で終わってしまうのは何だか寂しくて、できなかった。
治くんに何を言うべきなのかも、今まで彼と話すとき何を話題にしていたのかも分からなくなって、会話はほとんどなかった。その日テイクアウトをすることにした理由も、「今週忙しくてちょっと疲れちゃったから」なんて下手な言い訳でしか誤魔化すことができなかった。治くんは明らかに、聞きたいことが山ほどあります、という顔をしていたのに、「そか、無理せんでな」と言った以外に他には何も聞かないでいてくれた。家に帰ってから、テイクアウトしたビニールの中に、注文した以外の――わたしが一番好きないくらのおにぎりが入っていることに気付いて、少しだけ泣いてしまった。
先程の侑くんの言葉を聞いて生まれた、罪悪感と、もうひとつ。その形を目の当たりにして、自分の身体の中がめちゃめちゃになる。
――治くんが不機嫌な理由が、わたしならいいと思う。もうこてんぱんにふられてしまっているというのに、わたしが彼の感情を乱したのかもしれないことに、喜びを感じていたのだ。罪悪感と、優越感を覚える自分自身に幻滅する。治くんに嘘をつきたくないなんて殊勝なことを言っておいて、わたしはただ身勝手で、浅はかなだけだ。
アスファルトを見つめたきり、黙り込んでしまったわたしを、侑くんの瞳が覗き込んでくる。背がずっと高いからか、彼は背中を丸めるだけではなく膝を屈伸させて目線を合わせた。治くんとは少し違う、こちらを観察するような鋭い瞳孔に、後ろめたくなる。思いあがるなと思っているのは、他ならない自分自身だ。
「……元気ないな?」
「そうかな? そんなことないですよ」
淡々と探るような静かな声に、笑顔を貼り付けて首を振った。そんなに露骨だっただろうか。
このまま目を見つめられていたら、きっと全部見透かされてしまう。そう思って視線を外した。そうでなくても、治くんと瓜二つの彼の顔を見ているのは、あまり心臓に良くない。どうしたって、わたしは侑くんを治くんに重ねてしまう。彼らはよく似ているけれど、違う人間であることに変わりはないのだから、どちらかともう片方を比べるなんて良いこととは言えない。そんなふうに、わたしが勝手に抱いている罪悪感など気付きもしない彼は、わたしがそらした視線を無理やりに捕まえて、いいことを思いついたと言わんばかりの表情をする。
「……なまえちゃん暇?」
「……え?」
「こっから仕事? 会社とか戻るん?」
「今日はこのまま直帰ですけど……」
嫌な予感がした。今日は家に帰りたいと早く言うべきだとわかっているのに、垂れ目がちな瞳がパッと見開かれたその顔で見つめられると、曇らせてしまうのが忍びなくて言いたいことを飲み込まざるを得なくなる。
「ほんま! せやったら飯行かん? 侑くんが奢ったろ」
やはりだ。得意げな顔をしているけれど、それとは対照的にわたしは顔を引きつらせてしまう。ふられた人と同じ顔の人と食事をして箸が進むとは思えないし、そもそもふられた人の兄弟と一緒にいるのは気まずい。というか、プロスポーツ選手がそんなに気軽に異性と二人きりで食事に行ってもいいものなのだろうか。侑くんは一切変装らしきものをしていないけれど、地元が本拠地の日本代表なんて紛れもない有名人だ。色んな意味で気が引けて、引きつった頬のままゆるゆると首を振る。
「いやそんな、悪いですし……ていうか、大丈夫なんですか? 女と二人で食事とか」
「俺芸能人やないし、友達と飯くらい行ってもええやんか」
わたしの周りくどい断り文句は、ちょんと唇を突き出した拗ね顔で突っ返された。ぐう、と返す言葉をなくされてしまう。成人済みの大男とは思えない愛らしさに二の句が継げない。普通の人より大きい身体で、割と鋭い眼光をしているくせに、表情が豊かで、会って二度目の相手に「友達」だなんて言える人だ。治くんと話している様子を見ていてもよくわかる。きっと甘え上手な人なんだろう。
侑くんは「ちゅーか敬語やめてや、仲良うしよ」とたちまち拗ね顔を笑顔に変えて、そそくさと隣に並んだ。勝手に食事へ向かう格好を作ってしまう彼をじとりと睨んでみるけれど、人懐こい笑みを向けられたら何も言えなくなってしまう。侑くんの有無を言わせない圧も理由の一つだけれど、やはり治くんとそっくりの顔にそうやって笑顔を見せられたら、首を横に振ることはわたしにはできなかった。
「なまえちゃん何食いたい? サムゲタン好き?」
こちらが頷く前からぽんと背中を押して地下鉄の出入り口とは真逆の方向へ促す彼は、早速今から向かう先のことを話し始める。何を食べたいのか聞いてくるわりに、もう食べるものは決まっているらしい。自分の行きたい方向に物事を進めていく手口が染み付いているみたいにこなれていて、強引さと甘え上手を兼ね備えるとこんなふうになるのかと恐ろしくなった。
サムゲタンが嫌いというわけではないので、頷いておく。侑くんはそれを見て、ニヤリと笑みを深めた。
「むっちゃうまい店あんねん。薬膳やしな、女の子好きやろ?」
続けて、「俺糖質あんまとったらあかんから、もち米少なくしてムネ肉多めにしててな、ヘルシーやで〜」と得意げにする。一概には言えないけれど、「薬膳」と「ヘルシー」という響きが嫌いな女性は確かに少ないのだろう。それに、美味しいものをたくさん食べていそうなイメージのあるプロスポーツ選手が勧める店なら、きっといい店なのだろうという期待感も上がる。ちょうどどこかで食事をして帰ろうかと思っていたところだし、少し気まずいがまあいいか、と重たい脚を上げて、侑くんの半歩後ろをついて歩いた。
侑くんに案内された店は、想像していたよりずっと一般的な韓国料理屋だった。一体どんな高級店に連れて行かれるのか恐々としていたわたしがほっと息をついたのも束の間、店員は彼の顔を見るなり、店の奥にある個室へ案内してくれた。個室がある店を行きつけにしているあたり、やはり有名人なのだと心の中で頷く。簡易な扉で区切られた個室には、四人掛けのテーブルの上にすでにコンロが準備されている。この店に来るまでの道中で、侑くんがどこかに電話をかけている様子だったのはこのためだったようだ。失礼は承知だけれど、案外気が利いている。明日も練習があるからとお酒を飲まないらしい侑くんは烏龍茶を頼んでいて、わたしもそれに倣った。「飲んでもええのに」と首を傾げる彼に、首を振って応える。お酒を飲む気分じゃないのと、やはりふられた人の兄弟の前でお酒に酔うのは憚られた。
飲み物といくつかの前菜が運ばれてきて、それらをつついているとすぐにメインのサムゲタンがやってくる。鉄鍋の白濁したスープの中に、大きな鶏がごろごろと入っていて、鶏の出汁のいいにおいがした。過去に何度か食べたことのあるサムゲタンは、鶏が丸々一羽入っているようなものだったけれど、この店のサムゲタンは少し違って、部位ごとに分けられた鶏肉がごろごろ入っている。そういえば侑くんが、糖質をあまり取らないようにムネ肉を多めにしてもらっていると言っていたっけ。
鍋を運んできた店員は、トングと鉄匙を使って手際よく骨を外して、まるまるとした鶏肉がほろほろと崩れていく。それをじっと見ていると、ぐるりと胃が動くのを感じた。侑くんとの食事に気が引けていると思っていたけれど、案外ふつうにお腹が空いている自分に安堵する。傷ついている自分を自覚することは、より自分を傷つけるということを、わたしはこの数週間で身に染みて感じていた。
そのまま店員はそれぞれの小皿にサムゲタンをよそい、ごゆっくりどうぞと残して部屋を出ていったので、わたしはさっそく食べようと手を合わせた。けれど侑くんは、そうはさせてくれない。
「なまえちゃん、治のことふったんやろ」
店員が個室から出るや否や、侑くんはそんなことを言ってのけたのだ。鉄の箸を取り落として、机の上で高い音を立てて転がる。箸が転がるのをやめても、しばらく言葉が出てこなかった。
「え……」
「あいつダダ漏れやったもんな〜。ほんでふってもて気まずいんやろ?」
どういうことだか分からないが、どうやら侑くんは、治くんがわたしに告白をして、それをわたしが断ったと思っているらしい。事実はまるっきり逆だというのに、どうしてそんな勘違いをしているのか、訳がわからない。言葉を発することができずに呆然としているわたしの前で、侑くんは面白いものを見ているときのような顔をしている。勘違いとはいえ、自分の兄弟がふられた話をそんなふうに楽しげな表情で聞けるものだろうか。わたしにもきょうだいはいるけれど、その感覚は分からない。男同士だからかとも思ったけれど、それもいまいちピンとこなかった。
それはそうと、侑くんの誤解を解いておかなければならない。本当はふった女に、逆にふられたと思われているのは、治くんの名誉を傷つけるだろう。言葉にするのは少し痛かったけれど、本当のことだ。
「……違うよ」
「ん、ちゃうん?」
「ふられたのは、わたしなの」
思ったより、うまく笑えた気がする。力も抜けていて、少し拍子抜けだ。侑くんは、わたしの言葉を聞いてぴたりと動きを止める。ついさっきまでにんまりとしていた口がぽかんと開いて、その次の瞬間にはへの字に結ばれていた。
「……あんのへなちょこ」
ぼそりと呟かれた声は低くて、まるで吐き捨てられるようで今度はこちらの方が驚いてしまう。あんなに面白そうな顔をしていたのに、今はもうその面影はない。不貞腐れたような、心底つまらなそうな表情を少しだけ怖いと思う。
そのまましばらくお互いに黙ったままでいると、沈黙に耐え兼ねたように、侑くんは大きな溜息を吐き出した。眉間のしわは消えて、わたしを見る表情は何故だか申し訳なさそうに眉が下がっている。
「片割れがびびって傷つけてしもてごめんな? 俺がしばいとくし」
びびって、という言葉の意味は分からなかったけれど、謝られた意味はわかった。あの日、わたしの告白を断ったときの治くんも、そうやって謝っていたことを思い出す。「ほんまごめん」と言って、眉と頭を下げていた。そしてわたしも、あの日と同じように、首を振って応える。
「ううん、困らせたのはわたしだから」
侑くんが――治くんが、謝るようなことじゃない。ただわたしが、少し勘違いをして、勝手に期待して、おかしなことを言って彼を困らせただけだ。だからもう勘違いはしない。罪悪感と一緒に、優越感を感じる自分がひどく浅ましいと思うから、これ以上振り回されることも、勘違いも、期待も、しないと決めたのだ。
「困らせてへんよ」
なのに、目の覚めるようなまっすぐな声に、喉の奥がぎゅっとする。どうして? と縋りついてしまいたい。侑くんは眉を下げたまま、まるで小さいこどもを見るような目でわたしを見ていた。ころころと変わる表情と声。どれも治くんとは違うのに、その全てに治くんのことを探してしまう。
侑くんと会うのは二度目で、それもまだ数時間程度しか一緒にいたことのないわたしには、まだまだ彼ら二人のことはわからないことばかりだ。知っているのは双子の兄弟だということと、学生の頃まではずっと二人でバレーボールをしていたことくらいで、どちらがお兄さんでどちらが弟なのかも知らない。けれど、そのときの侑くんはまるで、「お兄さん」みたいな優しい表情をしていた。
「俺、なまえちゃんはわからんけど、治のことやったらちょっとはわかんねん」
目尻が下がって、空気がほどけるような笑い方は、治くんのそれとよく似ている。わたしが最後に見た治くんの顔は、笑顔を作るのに失敗したような表情だった。つい三週間の話だというのに、随分昔のことみたいに思い出す。目の奥に熱が溜まっていくのがわかって、唇を噛んでこらえた。
「やから大丈夫や。また店に顔出したってな」
侑くんの言う「大丈夫」を、わたしは信じきれない。何が大丈夫なのかわからなかった。なのに、重かった身体と散らかりきった胸の中が、ふと軽く、整っていくのを感じる。
テーブルの上で未だ湯気をくゆらせるサムゲタンの器を持ち上げて、侑くんはふう、とその湯気を吹いて散らした。