週明けの月曜日は、あまり仕事にならなかった。会議の合間や、デスクワークでふと手が止まる瞬間に、終業後おにぎり宮へ行くときのことを考えてしまって、今日のわたしはすこぶる仕事の効率が悪かったことだろう。けれど、休み明けの月曜日からバリバリ仕事ができる人なんて自分の周りには少ないし、自分も元々月曜日は休日を引きずってだらだらと仕事をしがちだからあまり変わりはないはずだ。
 普段なら、仕事をこなしているうちにいつの間にか終業時間になっていて、そこから今日中にやらなければならないことを終わらせて、毎日一時間程度は残業をしていることが常だった。でも今日は、定時の三十分前からそわそわして、終業のアナウンスが流れたと同時にパソコンの電源を落としていた。明らかな浮かれっぷりに、自分でも少し呆れる。
 治くんに告白するなら、お店にお客さんがいないタイミングでないといけない。というより、営業時間中にそういう話をするのは良くないだろうから、閉店後に時間をもらって伝えることになるだろう。それなら、定時ダッシュをしてすぐにおにぎり宮に行ったとしても、無駄に店内で待たせてもらうことになるだけだ。だから閉店の三十分前とか、せめて一時間前くらいにお店に向かうべきだとわかっている。こんなに早くに仕事を終わらせたって意味がないのに、気は逸る一方だ。
 定時に仕事を上がったくせに、時間潰しに喫茶店に入ることになる自分のことを改めて客観視すると、いい大人とは思えない浮つきようで恥ずかしい。おにぎり宮に行く前に空腹を満たしてしまわないように、季節限定のフラッペは我慢して、一番小さいサイズのコーヒーを選ぶ。SNSを一通り回ってみたり、動画サイトで好きなアーティストのミュージックビデオを見返してみたりして、時間を潰そうと試みる。小説でも持ってくればよかった、と思うけれど、きっと今読んだ小説なんて、内容が頭に入らなくてもう一度読み直すことになるだろう。開き直って、無為なネットサーフィンにふける。後一時間、いや、四十分したら、おにぎり宮に向かおう。もう半分になってしまったコーヒーが波打つのを横目に、普段よりゆっくりと進んでいくスマートフォンの時計を眺めた。



 夜七時を回った頃におにぎり宮の暖簾をくぐると、お誂え向きといった具合に、店内に客は一人もいなかった。それまでふわふわとしていた心臓が急にどくんと大きい脈を叩いて、息が浅くなったように感じる。

「こんばんは……」

 そのためか、厨房にいる治くんにかける声も何だか小さく、おずおずとしてしまって、あんなに浮かれきっていたくせに今度は緊張しているのかと、正直すぎる自分を彼の前に晒しているのが恥ずかしかった。けれど、治くんはそんなことには気づきもせず、わたしの顔を見て目を丸くして、それからたちまち笑う。また鼓動が大きくなった。

「あ・なまえちゃんやっと来た。もう米なくなってまうで」
「えっ、ごめん。もう終わっちゃった?」
「フッフ、ぎりぎりやな。座ってや、何にする?」

 治くんと話をするために、閉店後に時間をもらわなければと考えすぎていたせいで、お米の残量ぎりぎりでの来店になってしまったらしい。当然といえば当然だけれど、おにぎり宮はその日炊いたお米がなくなった時点で営業は終了する。店に着いたらすでに閉店してしまっていたことも過去に幾度かあった。危なく、せっかく決意した日を逃してしまうところだったと深く息を吐き出す。深呼吸をしても、鼓動は収まらない。
 もしかしたら、わたしが来るのを待っていてくれたんじゃないかなんて、自惚れてしまう自分がいた。常連客が来ると約束していたのだから、そこに特別な意味がないことはわかり切っている。なのに、先週末からこっち、ずっと期待で浮つく自分の心臓は、自分に都合のいい方へ勝手に考えを巡らせていく。

「鮭ハラミと、わさび菜」
「はいよ。今日はこれで店じまいや」

 頷いて、業務用炊飯器の中を確認した治くんは、「先に札だけ下げさせてな」と言って店を出た。おそらくは、店先にある「営業中」の札を下げに行ったのだろう。これで、正真正銘、二人きりだ。この前みたいに侑くんがやってくるようなことがあれば別かもしれないけれど、侑くんが所属しているチームの本拠地は大阪の方らしく、そんなにしょっちゅうやってくるというわけでもないらしいから大丈夫だろう。しょっちゅうではなくとも、月に数度はやってくるのだと苦い顔をして言っていたときの治くんの表情を思い出す。そんな顔をしていても、「大人になってもしゃあない奴やねん」と言っていた声は穏やかで、それを見て、わたしはまた彼を好きになったのだ。
 店先から戻ってきて、注文したおにぎりを出してくれた治くんは、いつもと同じように取り止めもないことを話しながら明日の下ごしらえを始める。包丁が木のまな板を叩く音が心地良くて、その音に合わせて自分の鼓動が脈打つのに気づいたら、もう、こぼれてしまっていた。

「治くん、あのね」

 呼ぶと、キャップの奥から目を合わせてくれる。優しい曲線を描く眉と、下がり気味の目尻が綻ぶのを、ずっと近くで見ていたいと思った。

「なに?」
「……好きです」

 今日一日中あんなに浮かれて、店に入ってからはあんなに緊張していたのに、今は鼓動が遠くに聞こえる。普段わたしが店にやってきたときに見せる顔とは違う、驚いて、息が止まってしまったような表情。いつも眠そうな目をまあるく見開いている治くんへ、もう一度くりかえした。

「治くんが好き」

 治くんは手を止めて、包丁がまな板を叩く音は止んでいた。店内は、糸が張り詰めたような静寂が流れて、それはきっとわたしの緊張と、治くんの驚きが作り上げているものなのだろう。その静寂が、ふつり、と途切れる。治くんの唇が、そっと息を吸い込む音がやけに大きく聞こえた。

「……すまん」

 キャップの奥から覗いていた目が、わたしの視線からスッと外される。カウンターに座って見上げているこちらからは、彼の表情は丸見えだ。眉を少し寄せて、迷うようにうろつく視線と、強張った唇。困っているのが、明白だった。

「……なまえちゃんのことは、ええ子やって思っとるけど、お客さんやし」

 それを聞いて、ほんの一瞬だけ、呼吸が止まってしまうのがわかる。その後も、うまく息ができなくて、まるで酸素の薄いところにいるみたいだった。口の中がカラカラになる。
 わたしのことを、「お客さん」だと言ったことが、何よりの答えだ。わたしは治くんのことを好きになっていたけれど、彼はそうじゃなかった。彼の中で、わたしはずっと、一人の客にすぎなかった。

「ほんまごめん」

 治くんは頭を下げてしまって、完全に表情が見えなくなる。そんなふうに、彼が謝るようなことではないのに、治くんはわたしの反応を待ってか、首を下げたまま動かない。
 少しずつ、息が楽になって、なのに、呼吸をしたくなかった。呼吸をしたら、息が揺れて、喉がひくついて、溢れてしまうような気がしたから。治くんに、ずっとこのまま顔をあげないでいてほしかった。顔を見られたくない。
 恥ずかしい。大人のくせに一日中浮き足立って、早く会いたくて、気が逸ってしまうような自分のこと。距離が縮まって、優しくしてくれたことが、特別のように感じていた。そんなのただの、常連客と店主の距離の話でしかなかったのに。

「……ううん、わたしこそ急に変なこと言ってごめんね。忘れてください」
「……変やないよ」

 何とか声を絞り出すわたしに、治くんはそう言ってくれたけれど、わたしは相槌さえも返すことができなかった。
 変なことだよ。そう言ってしまいたかったけれど、声を上げたら違うものまでこぼれてしまいそうで、できない。客だから良くしてくれただけの彼を、勝手に好きになって、勝手に期待して――勝手に同じ気持ちでいるんじゃないかなんて勘違いをしていた。
 せっかくのおにぎりも、もう味が思い出せない。わさび菜食べるの初めてだったのに、なんてことをぼんやりと考えた。隣の席に置いていた荷物を手に立ち上がる。

「じゃあ、帰るね。ごちそうさまでした」
「っなまえちゃん、」

 店の扉を開けるタイミングで、名前を呼ばれて振り返った。ようやく顔をあげた治くんの表情を見て、思わず目を見張る。痛みを堪えているような、そんな顔だ。まるで、自分の方がふられたみたいな顔をしているものだから、少し笑ってしまった。
 振り返ったわたしの目を見て、治くんは呟くように言う。彼がこんなに小さな声で話すのを聞くのは、初めてだった。

「……また来るよな?」

 言葉と視線で、うかがうように確かめられる。店主として、常連客をなくすのは惜しいもんなあ、と捻くれたことを一瞬考えた。けれど、治くんはそんな人ではないことをわたしは知っている。好きになった人だから、知っているのだ。
 先週末からもうずっと、自分の勝手な恋心に振り回されて情けない。だから、もう振り回されないように、爪が食い込んでしまうくらいぎゅっと拳を握ってから、笑って頷いた。

「……うん、来るよ。またね」

 扉とのれんの先に、笑顔を作るのに失敗したような顔の治くんが見えて、すぐに扉を閉め切って背を向ける。はあ、と吐き出した息が震えていたのは、夜の空気が冷たかったせいではなかった。
 ――ばかだなあ、治くん。ふられた相手がいる店に、行けるわけないのに。

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