平日最後の金曜日が、一週間の中で一番好きだ。仕事が片付いて、休日が始まることへの開放感でいっぱいになる。同僚とお酒を飲みに行ってもいいし、家で夜更かしをするのもいい。土日休みが待っていることへの充足感は、何をするにもハードルを低くする。けれど最近は、決まったお店に行ってのんびりすることに決めていた。会社から自宅への乗り換え駅。その駅から歩いて数分のところに、そのおにぎり屋はあった。

「こんばんは」
「なまえちゃんや、いらっしゃい」

 のれんを潜ると、この土地特有の柔らかいイントネーションが自分を呼ぶ。こぢんまりとした店内に、大きな存在感を放つ人だ。店名の刺繍の入ったキャップを被って、おにぎりのワンポイントマークが入ったTシャツを着ている宮さんは、若くして店主としてこの店を営んでいる。夜七時を過ぎた店内に人はまばらで、わたしは空いているカウンターの一席に座った。
 金曜日の夜は、居酒屋やレストランに行く人が多いのか、おにぎりをメインにするこの店の客入りはあまり多くない。代わりに、平日の昼間はテイクアウトのお客さんで大賑わいらしいし、他の曜日に訪れたときは満席のときもあった。さすがはテレビにも紹介された人気店だ。けれどわたしは、店主の宮さんに向かって大きな声では言えないけれど、少し人が少ないくらいののんびりできる空気が気に入っていて、この店に来るのはほとんどが金曜日だった。最近は毎週のように訪れている。

「今日はなんにする? まだいくら残っとるよ」
「ほんと? やった。じゃあいくらとごましおにします。お味噌汁とセットで」
「はいはい。ちょっと待ってな」

 宮さんは注文を聞いて、すぐに準備に取りかかる。おにぎりの木枠を用意して、炊飯器の大きな蓋を開くと、こちらまでお米の炊けるいい匂いが届いた。腹ぺこだったお腹が、いっそう空腹を訴えてくる。
 仕事の配属がこちらに決まったとき、なんとなくアウェーな雰囲気を感じて、一人でご飯を食べに行くのが苦手になった。居酒屋で一人でお酒を飲む勇気はないし、小洒落たレストランに一人で入るのも落ち着かない。一人で入れる喫茶店は、夜に空腹を満たすのには不向きだ。そんなときに、同僚に人気のおにぎり屋があると教えられたのだ。最初に行ったのはその同僚と、外出する用事から会社に戻りがてら、店に立ち寄れるタイミングがあったお昼どきだった。そのときはすでにちらほらとテイクアウトの行列ができていたのを覚えている。食べてみると少し大きめのおにぎりはボリューミーで具だくさんで、わたしは大満足した。
 おにぎり屋なら、ひとりでさくっと食べて帰れるし、食べすぎることもないし、何より乗り換え駅が最寄りで自宅に帰りがてら寄ることができる。そう思って通い始めると、四度目あたりで店主の宮さんに声をかけられたのだ。

「オネーサン最近よお来てくれはりますね。ありがとうございます」

 びっくりして、おかしな返事をしてしまったような記憶があるけれど、宮さんは得意げな顔をして、「俺のおにぎり美味いやろ。ゆっくりしてってください」と言ったのだ。それからすぐに、名前を教え合って、年もほぼ変わらないだろうと敬語が消える。さらに店に通ううちに、友人と呼んでもいいくらいには打ち解けられた。それから、金曜日の夜はここへ来ることがわたしの中の決まり事のようになっていったのだ。

「ほい、おまちどお」

 四角い平皿におにぎりが二つ。それからきゅうりの漬物が添えられて目の前へ置かれた。すぐにお味噌汁の入ったお椀もやってくる。「熱いで」と一言残してくれる宮さんに手を合わせて、いただきますと唱えてからごましおのおにぎりにかぶりついた。いつもながら、お米をおにぎりにしただけでこんなに美味しくしてしまう宮さんは、本当にいい料理人だと素人くさい感想を抱く。だって、おにぎりくらい誰でも握れそうなものだけれど、家で自分で握ってみたものとは全然違うのだ。そんな伝えるのも失礼になりそうなくらいの当たり前なことを言えるわけはなくて、代わりにわたしはいつもいつも、同じことしか言うことができない。

「おいしい」
「せやろ」

 いつもと同じ感想で、なにも特別なことは言えないのに、宮さんはわたしの代わり映えのない感想を聞いて、いつだって嬉しそうにしてくれる。そんな顔を見ていたら、ここへやってくる理由が、おいしいおにぎりを食べるためだけではなくなってしまうのも、仕方のないことだ。
 おにぎりとお味噌汁をゆっくり食べているうち、店内の客はわたしひとりになってしまう。店の閉店は夜八時なので、七時を過ぎると大体こんな感じだ。わたしは仕事を終えるのがこの辺りになることが多いから、よく知っている。そうしたら宮さんは徐々に厨房の片付けと明日の準備を始めて、そのとき店に客がわたしだけだったりすると、作業ついでにわたしの話し相手にもなってくれるのだ。仕事のことや上司の愚痴、おにぎり宮にやってくる面白いお客さんの話。今日もそうなのだろうと、宮さんが振り返るのを待っていると、店の扉が一切の遠慮なしに大きな音を立てて開かれた。

「サム〜、なんか食わしてえ」

 店の中に入るなり、まるで高校生が自宅に帰って母親に夕食をねだるようなことを言う男性から、わたしは視線を外せなくなる。宮さんと同じくらい背が高く、もしかしたら体格は宮さんよりもいいかもしれない。それどころか、その人は宮さんとほとんど同じ顔をしていた。違うのは、柔らかい金色にくすんだその髪色くらいだ。
 まじまじと見つめてしまうわたしに気づくことなく、宮さんとその人はテンポのいい会話を繰り広げていく。

「来るなら先言うとけや。ほんで営業中に来んな。おまえん家やないんやぞ」
「すまんて。腹減って死にそうなんやもん」

 いつも聞いているものよりも、少し粗雑な宮さんの言葉遣いに、親密な間柄だということが伺えた。というより、親密どころではないのだろう。瓜二つの顔、気安い言葉遣い、それを目の当たりにして、ああこの人が、と納得した。

「ツム、外『支度中』にしてきたか?」
「してきたわ。もう閉店やしええやろ」

 会話を続ける二人を交互に見比べていると、そんなわたしに気づいて、宮さんは申し訳なさそうに眉を下げて溜息する。宮さんに瓜二つの男性への邪険な態度を隠さないところが、二人の関係を物語っていた。

「すまんな、うるさくしてもうて。すぐ帰らすしゆっくりしてってな」
「うん、大丈夫だから気にしないで」

 ゆるりと首を振って答えると、途端にその人は目を輝かせる。そしてわたしの隣のカウンター席にガタンと腰を下ろした。店にはわたしたちしかおらず、席は選び放題なのに、わざわざ隣の席を選ぶ彼に思わず瞠目する。

「え! なんや仲良しやん。オネーサンよく来んの?」
「ツム絡むなや。大人しくしとけ」
「他に誰もおらんしええやんか! な?」

 宮さんが嗜めるけれど、そんなことは気にも留めない様子の彼に、わたしはたやすく押し切られてしまう。断られるなんて思ってもいないような笑顔に、思わず頷いた。

「え、はい、わたしは別に……」
「ほらあ! な、俺のこと知っとる?」
「相手せんでええよ」

 そう言われても、目の前でじっと自分のことを見つめてくる相手を無視なんてできない。それも、宮さんの兄弟だというなら尚更だ。

「し、知ってます。宮さんの双子の……日本代表なんですよね?」

 バレーボール日本代表選手の宮侑。宮さんの双子の兄弟だ。これだけそっくりなら、間違いではないだろう。
 店に通い始めて少し経った頃、宮さんの身長を見て、何かスポーツをやっていた経験があるのかと聞いたことがある。宮さんは、「高校までバレーやっとってん。全国にも行ったで」と教えてくれた。そしてそのときに、彼の双子の兄弟がバレーボールのプロ選手で、日本代表であることを知らされたのだ。わたしは、宮さんの兄弟がプロのスポーツ選手であることや日本代表であることよりまず、彼らが双子だということに驚いて、「えっ、双子。一卵性ですか?」と聞いてしまったことを覚えている。宮さんはそれを聞いて、「そっちかい」と笑っていた。
 それはそうと、本当にそっくりだ。人生で生まれて始めて一卵性の双子を目にしたけれど、ここまでそっくりになるものなのだなあと感心する。その視線を見返すように、自分を知っているかと見つめてくるその人に慌てて頷いた。それから、「ごめんなさい、バレーあんまり詳しくなくて」と恐縮すると、彼はからからと笑う。

「ええよええよ。宮侑いいます〜。侑くんて呼んでな」
「え、いやそんな、宮選手で……」
「宮なんて治とおんなしやん。侑くんでええよ」

 出会って数分で、この人懐こさである。関西弁のなせる技なのか、彼の人柄なのか、急激な距離の詰め方でもこちらを気後れさせない雰囲気に圧倒された。にっこりと笑っていながら、否と言わせない押しの強さがあって、わたしはつい丸め込まれてしまう。

「……じゃあ、侑くん……」
「おん、オネーサンは? 何ちゃん?」
「あ、みょうじなまえです」
「なまえちゃんな。関西の人やないやんな? OLさんなん? 遅くまで大変やなあ」

 怒涛だ。侑くんの質問にぎこちなく答えつつも少し気圧されている。宮さんと侑くんは、顔はこんなにそっくりなのに、雰囲気や性格は少し違うように思える。当然といえば当然だけれど、双子で生まれて一緒に育ってきたとはいえ、まるっきり同じというわけではないのだろう。宮さんは、侑くんと比べると表情の変化が見えづらくて、いつも少し眠そうな目をしているけれど、穏やかで、空気がほどけるような笑顔をする人だ。あれやこれやと話す侑くんを見ながら、わたしは宮さんのことを考えてしまっていることに気づく。
 わかりやすい自分の思考に、ひとりでに照れ臭くなってぎゅっと唇を噛み締めたそのとき、いつもならのんびりとして柔らかな宮さんの声が、ぴんと糸を張ったように響いた。

「侑」

 そう言って短く侑くんを呼ぶ宮さんの顔は、普段と少し違う。表情の変化が見えづらいというより、表情をなくしているような様子で、一瞬驚いて息をのんだ。

「俺の店で客にちょっかい出すなや。包んだから上で食うか家帰れ」

 カウンターに、おにぎりがいくつか入っているであろうビニール袋を乗せてそう言う。宮さんの視線は侑くんへ向かっていて、わたしに向けられているわけではないのに、その鋭さに思わず肩を竦ませてしまった。そんなわたしとは対照的に、侑くんは宮さんの視線に晒されても臆する様子すら見せず、何なら少し笑っている。ちっとも笑えるような雰囲気ではないのに、やはり双子というのは、外野にはわからない繋がりがあるということなのだろうか。

「……ほぉん」
「……何や」

 顎を上げながら頬杖をついて、侑くんはまるで煽るような含み笑いをする。そして宮さんはその視線を見下して答えた。同じ顔がまったく違う表情をして睨み合っているのは不思議な感覚で、でも恐ろしいことに変わりはない。
 少し沈黙が続いて、わたしが気まずさを感じ始めた頃、侑くんがビニール袋を手に、ガタンと音を立てて席を立った。

「なーんもないわ。ほな、サムが怖いから帰ろ」

 あんな雰囲気を醸し出していたとは思えないくらい上機嫌な顔をして、侑くんはひらりと手を振る。「なまえちゃんまたな〜」と朗らかに挨拶をされて、つられるように手を振り返した。引き戸がピシャリと閉まった後、店内は不自然なほどに静かになってしまって、いかに侑くんが嵐のようだったかを示している。なんとなく一息つけたような気分になって、ほう、と息を吐くと、それをかき消すくらいの大きな溜息が宮さんから聞こえた。振り向くと、厨房に両腕をついて、頭を下げるようにしてぐったりしている。
 わたしの視線に気づいた宮さんは、先ほど侑くんと睨み合っていたときとはまったく違う表情をして、眉を下げるように笑った。

「……喧しいやろ、すまんな」
「ううん、人懐っこいひとだね」
「……たちが悪いねん」

 いつもと同じ、柔らかい雰囲気に戻った宮さんを見て安心したのも束の間。侑くんのことを振り返ると、たちまち宮さんはぶっすりと不貞腐れたような、拗ねるような表情をして見せる。普段見ることのない子どもっぽい表情がかわいくて、心臓がきゅっとなるのを感じた。店の客と接している様子を兄弟に見られるのが気まずいとか、兄弟の会話を客に見せたことが気恥ずかしいとか、そういうものなのかもしれない。わたしだって、実家の家族と話しているのを同僚に見られたり、仕事の電話をしているところを友人に見られたりするのは何となく恥ずかしかったりする。きっとそれと同じなのだろう。

「……なまえちゃん」

 唇をへの字にしたまま口を噤んでいた宮さんが、口を開いた。改まって名前を呼ばれるから、思わず姿勢を正してその視線に応える。いつも眠そうな灰色がかった瞳は、今は何かはっきりとした意志を持っているみたいに揺らめいていて、視線を外せなくなった。

「なに?」
「……侑のこと、名前で呼んどったやろ」
「う、うん。呼んでって言われたから」

 見上げているのはこちらなのに、覗き込まれているような、窺われているような心地がして落ち着かない。出会って数分で「侑くん」と呼ぶことになってしまった兄弟について、何か言うことがあるらしい。もしかしてやっぱりなれなれしかっただろうか。あんなふうに人懐こくても日本代表選手なのだし、ファンもきっと大勢いる。そんな人に気安い態度をとってしまったのは良くなかったかもしれない。
 宮さんが次の言葉をびくびくしながら待つ。侑くんにはもう会えなくても構わないから、この店に来るなとか、そういうことは言わないでほしい。

「せやったら、俺のことも治て呼んで」
「……ん?」

 思っていたこととは、違う言葉が聞こえた。まじまじと見つめてしまった宮さんは、まなじりをほんの少しだけ赤くして、ぶすっとした表情のまま続ける。

「おかしいやろ。今日初めて会うた侑が『侑くん』で、何で俺が『宮さん』やねん」

 つまり、宮さんのことも、侑くんと同じように呼んでほしいということだろうか。わたしはしばし、言葉を失う。
 宮さんのことは、出会って少しして名前を教え合ったときからずっと「宮さん」と呼んできた。別に意識して名字で呼んでいたつもりはなく、出会ってわずかな人のことを名前で呼ぶ習慣がわたしにはなかったというだけのことだ。それから特に呼び方を変えるきっかけも必要性もなく、敬語が外れてもわたしは彼を「宮さん」と呼び続けた。一方宮さんは、名前を教えたその日からわたしのことを「なまえちゃん」と呼んだけれど、何となく関西の人は距離感が近いイメージがあったし、他の常連客のことだって名前やあだ名で呼んでいることが多かったから、特に気にしていなかった。宮さんだって、わたしの呼び方を気にするような素振りなんて見せなかったはずだ。それなのに。
 じわじわと、熱が迫り上がってくるような心地がした。今にも妙な声をあげそうになって、それを必死で堪える。緩んでしまいそうな頬を精一杯引き締めて、普段通りを装って頷いた。心臓が口から出てきてしまいそうにうるさい。

「……それじゃあ、治くんって呼んでもいい?」
「……ん、ありがとお」

 震えそうな声を隠して言葉にした彼の名前に、柔らかくほどけるような眼差しが応える。――そんな表情を見せられて、ときめかずにいられるわけがない。どうして、侑くんと張り合うように名前で呼ばせてくれるの? どうして、そんな嬉しそうな顔で笑ってくれるの? いくつもの疑問が頭の中で泡のように浮かんで、弾ける。それと同時に、みぞおちの辺りでむくむくと膨れ上がっていくものに、見ない振りなんてできなかった。
 こんなの、どうしたって期待してしまうよ。歯を見せていたずらに笑う治くんに、ずっと胸の真ん中をくすぐられっぱなしだ。

「じゃあ、ごちそうさまでした」
「おん、いつもありがとう」

 それから店を出るまでの少しの間、まともな会話はできなかった。というより、あまり会話の内容の記憶がない。夢を見ているみたいに頭がふわふわして、自分が浮ついていたことしか覚えていない。そんな夢見心地のまま、店の引戸を開けて帰ろうとしたとき、治くんに名前を呼ばれて引き止められる。振り向いて彼の顔を見たら、余計に夢から帰ってこられそうになかった。

「……次いつ来るん?」
「……また来週、月曜日に来るね」

 そんな約束、いつもはしない。この店には毎週金曜日と、それ以外は不定期に訪れていて、次はいつ来るなんて示し合わせたことはなかった。治くんの問いに、本当ならもう明日にでも会いに行きたいと言いたかったのを堪えて、返事をする。明日と明後日は、ゆっくり寝て、お風呂に浸かって、心の準備をしよう。
 ――月曜日、治くんに告白する。大人になってもうずいぶん時間が経つのに、まるで学生みたいなことを考えた。そんな自分が恥ずかしいのに、膨れ上がる期待で何も見えなくなる。何も、見えていなかった。

焦がれ焦がされる日々

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